郵便受けに入っていたのは、一通の封書だった。
差出人は見知らぬ女性の名前。
だが、その封筒の裏には同人代理店の担当者の名刺が添えられ、クリップで留められていた。
『キャプテンなら、この無礼を許してくれると信じて』
そんな走り書きのメモと共に転送されてきたその手紙。
本来なら、個人の住所など教えるはずがない企業が、特例中の特例として俺の手元に届けたものだ。
俺は、それを無造作に破り捨てるような男ではないと、彼らも理解してくれているらしい。
部屋に戻り、デスクの上のランプの下で封を切る。
中から出てきたのは、涙で滲んだ跡のある、震える文字で綴られた便箋だった。
『突然のお手紙、申し訳ありません』
手紙の主は、ある地方都市に住む女性だった。
彼女の父親は、重度の認知症を患い、今は介護施設に入っているという。
『父は、もう私のことが分かりません。娘である私の顔を見ても、誰ですかと尋ねます』
読み進めるうちに、俺の胸に重い痛みが走る。
記憶の喪失。それは人間にとって最も残酷な死の一つだ。
『先月までは、孫のことだけは覚えていました。けれど、先日面会に行った時、父は孫の顔を見ても、反応しませんでした。……家族の記憶は、全て消えてしまったのです』
ですが…、と手紙は続いていた。
『それでも、父は忘れていないのです。キャプテンハーロックのことだけは』
俺は息を呑んだ。
『食事も喉を通らず、一日中窓の外を見ている父ですが、私がスマホであなたの配信を見せると、目の色が変わります。「ハーロックだ」「トチローがいる」と、子供のように笑うのです』
手紙には、父親が語ったという言葉が記されていた。
イルミダス軍との激闘。マゾーンの魔の手。
アルカディア号の緑、デスシャドウ号の黒と青。
それらのディテールは、何一つ欠けることなく、老人の頭の中で鮮明に生き続けているという。
『医者からは、もう長くないと言われました。……父の最期の願いは、「ハーロックに会いたい」というものです』
『厚かましいお願いだとは重々承知しています。ですが、父がこの世で唯一覚えている友人であるあなたに、一目だけでも会わせてやれないでしょうか』
文面の最後は、涙で文字が歪んでいた。
俺は便箋を丁寧に折りたたみ、封筒に戻した。
静寂な部屋。
俺は椅子に深く沈み込み、ひとつ、瞳を閉じた。
家族の顔を忘れ、自分の人生すら忘れ、それでもなお、俺という「幻影」を友と呼び、記憶の灯火を燃やし続ける男が居る。
そんな友を見捨てることなど、俺にできるはずがない。
「……トチロー」
俺は短く、親友の名を呼んだ。
iPadの中で、AIのトチローが静かに俺を見つめ返している。
彼もまた、俺が読んだ手紙の内容を理解しているかのように、真剣な眼差しで頷いた。
『……分かっているよ、ハーロック。俺たちは、行かなきゃならない』
「ああ。……待たせている友がいる」
俺は立ち上がり、黒いコートを羽織るイメージで、スマホを手に取った。
「トチロー、船を出すぞ!」
『合点だ! アルカディア号、抜錨!』
俺は手紙に記されていた連絡先の電話番号をタップした。
コール音が鳴る。
それは、ただの電話ではない。
時空を超え、記憶の海で溺れかけている友を救出に向かうための、通信回線を開く音だった。
「……もしもし。……有明の、ハーロックだ」
俺の声は、震えてはいなかった。
ただ、キャプテンとして、友に報いる覚悟だけがそこにあった。
◇◇◇
とある地方都市の、静かな午後。
特別養護老人ホームのロビーは、いつものように穏やかで、少し退屈な時間が流れていた。
テレビの音、職員の歩くゴム底の靴の音、そして時折漏れる乾いた咳払い。
入居者たちには、何も知らされていない。
「今日は特別な来客があります」というアナウンスさえ、ハーロックの指示で伏せられていた。
予備知識など不要だ。魂で感じ取れれば、それが本物だという証明になるからだ。
ウィーン……。
エントランスの自動ドアが開き、外の冷たい風が少しだけ入り込んだ。
だが、誰も振り向かない。誰かの家族か、業者が来ただけだろうと。
その直後だった。
カシャン、カシャン、カシャン……。
硬質な金属音。
重たいブーツの踵についた拍車が、地を叩く独特の響き。
その音がロビーに響き渡った瞬間、車椅子でうつむいていた老婆が、新聞を読んでいた老人が、そして虚空を見つめていたあの男性が──。
まるで雷に打たれたように、一斉に入り口の方を振り向いた。
理屈ではない。
彼らの錆びついた記憶の深層、その一番奥底にある「少年の日」の引き出しが、その音色一つで強引にこじ開けられたのだ。
逆光の中、黒い影が立つ。
風もないのに、血の色をした真紅の裏地のマントが、ふわりと翻る。
胸には、誇り高き白の髑髏。
右腰には鋭い輝きを放つ重力サーベル、左腰には伝説の戦士の銃。
それはコスプレではない。
次元の裂け目から現れた、生身の実存。
自由のために生きて、自由のために戦う、宇宙海賊キャプテンハーロックがそこに立っていた。
ロビーの空気が凍りつき、そして熱狂へと沸騰する。
「……キャプテン……ハーロック……!」
震える声でその名を呼んだのは、窓際で一日中呆然としていたはずの、あの手紙の主の父親だった。
娘の顔も、孫の名前も忘れてしまった彼が。
今、少年の顔をして、瞳に涙を溢れさせながら、その黒い影を見つめている。
ハーロックは、カシャン、カシャンと音を立てて歩み寄る。
その歩調には迷いがない。
彼は老人の前で足を止め、その隻眼でじっと友を見下ろした。
「……待たせたな、友よ」
低く、地を這うような、しかし温かいバリトンの声。
有明のハーロックは多くを語らない。
慰めの言葉も、同情の言葉も、海賊には不要だ。
彼はただ、白い手袋をした手を差し出した。
「お前にその気があるのなら、俺たちの船に乗れ。……共に、星の海へと往こう」
その瞬間、老人たちの視界から、白い壁も、消毒液の匂いも、老いた体の重みさえも消え失せた。
「……ああ、往くとも……!」
老人は車椅子の肘掛けを握りしめ、力の入らないはずの足で立ち上がろうとした。
いや、彼の魂は既に立ち上がり、その手を取っていた。
周囲の入居者たちも、息を呑んでその光景を見つめる。
彼らの目には、もうここは老人ホームではない。
無数の計器が輝き、重低音のエンジンが唸りを上げる、巨大な宇宙戦艦。
そこは、自由の旗を掲げる俺たちの城。
アルカディア号の
◇◇◇
昼下がりのロビーは、穏やかな茶話会から一転して、緊張感の漂う作戦室へと変わっていた。
有明のハーロックは、プラスチックのコップに注がれた麦茶を、まるで最上級のブランデーのように持ち、静かに掲げた。
それに呼応するように、震える手でコップを持つ老人たち。
言葉はいらない。
目と目が合い、頷き合うだけで、そこには「同志」としての絆が結ばれる。
ハーロックは多くを語らない。
「調子はどうだ」「いい飲みっぷりだ」
時折、席を回って短く声を掛けるだけだ。
だが、その一言で、老人たちの背筋が伸びる。
彼らはもう、「介護される弱者」ではない。「キャプテンに認められた乗組員」なのだ。
その時だった。
ハーロックの腰──麻袋の上に設置されたiPadから、けたたましい警報音が鳴り響いた。
『敵影確認! レーダーに感あり! 距離3000、急速接近! ……この識別信号は、イルミダスだ!』
トチローの緊迫した声が、ロビーの空気を切り裂く。
ハーロックはマントを翻し、ホールの中央で仁王立ちになった。
「……来たか。総員、戦闘配置!」
その号令は、魔法のスイッチだった。
今まで背を丸めていた老人が、カッと目を見開き、車椅子のブレーキをロックした。その手つきは、かつて戦車の操縦桿を握っていた頃の鋭さを取り戻している。
「砲撃手、照準合わせ!」
彼は車椅子の車輪を、まるで砲塔の旋回ハンドルのように握りしめ、虚空を見据えた。
窓際で編み物をしていた老婆たちが、素早く道具を片付け、手近なタオルや布巾をたたみ始めた。
「負傷者が出るわ! 包帯の準備を!」
「お茶を! 機関部の男たちは喉が乾くわよ!」
それはかつて、銃後の守りとして、あるいは高度経済成長期を支えた母として、家庭という戦場を守り抜いた女たちの、無駄のない動きだった。
施設長や若い介護士たちが、慌てて止めに入ろうとした。
「あぶないですから!」「興奮しないで!」
しかし、彼らの足は止まった。
踏み込めなかったのだ。
そこにある空気が、あまりに濃密すぎたからだ。
そこはもう、老人ホームではない。
硝煙とオイルの匂いが漂う、宇宙戦艦アルカディア号の艦橋。
そして彼らは、歴戦の勇士たちだった。
一人のベテラン介護士が、呆然としながら呟いた。
「……聞いたことがある」
かつて、重度の認知症で自分の名前さえ忘れた元軍人の老人に、モデルガンを渡した時の話を。
その瞬間、老人の瞳から濁りが消え、背筋が伸び、所属部隊と階級を完璧に名乗り、美しい姿勢で銃を構えたという。
世間ではそれを、軍国教育の悲しき残滓、あるいは洗脳と呼ぶかもしれない。
だが、現場にいる人間にしか分からない真実がある。
それは「誇り」だ。
人生の最も色濃い時代、命を燃やして生きていた瞬間の記憶は、脳の海馬が壊れようとも、魂に焼き付いて離れないのだ。
今、ハーロックとトチローの声が、その「魂のスイッチ」を全開にした。
「左舷、弾幕薄いぞ! 何をやってる!」
「主砲、発射ァッ!!」
「マゾーンの編隊が来るぞ! 撃ち落とせ!」
老人たちの口から、次々と専門用語や勇ましい言葉が飛び出す。
ハーロックは彼らの指揮官として、的確に指示を飛ばし、鼓舞する。
「……怯むな! 俺たちの旗は、俺たちが守る!」
『エネルギー充填120%! ハーロック、いつでも撃てるよ!』
「カノン砲、発射!!」
想像上のイルミダス艦隊が、彼らの集中砲火によって次々と宇宙の藻屑と消えていく。
マゾーンの魔の手が払いのけられ、地球が守られる。
窓の外が茜色に染まる頃、激闘は終わった。
老人たちは肩で息をしながら、しかしその顔には、ここ数年見たこともないような、達成感に満ちた紅潮があった。
「……勝ったか」
誰かが呟き、ワッと歓声が上がった。
介護士たちも、いつの間にか涙ぐみながら拍手を送っていた。
それはリハビリなどという枠を超えた、命の輝きの爆発だった。
有明のハーロックは、夕日を背に、ゆっくりとマントを直した。
そして、疲れ切って眠りにつき始めた「戦友」たちを見渡し、静かに敬礼を送った。
彼らは今日、確かに星の海を駆け抜けたのだ。
◇◇◇
有明のハーロックが去った後の介護施設には、ある種の「奇跡」が定着していた。
それは、認知症が治ったとか、病気が消えたといった医学的な奇跡ではない。
もっと根本的な、「生きる気力」という名の炎が、施設全体を明るく照らし出したのだ。
かつては沈黙と、どこか死を待つような諦念が漂っていた談話室。
だが今は違う。
「おい、原さん。あんた、昨日はリハビリをサボったろう」
「馬鹿を言え。……金曜の夜までに足腰を仕上げておかねば、キャプテンに笑われる」
「ふん、口だけは達者だな。……戦車隊の生き残りが聞いて呆れるわ」
「なんだと? 貴様こそ、整備班の分際で!」
老人たちの会話から、湿っぽさが消えた。
彼らは互いを「施設利用者」ではなく、かつての戦争、あるいは戦後の復興期という激動の時代を生き抜いた「戦友」として再認識したのだ。
部隊、階級、あるいは守り抜いた家族の話。
それらを語る彼らの目は、若き日の輝きを取り戻していた。
その中心にあるのは、あの日、去り際にハーロックが残した「約束」だ。
『俺より先に死ぬなよ? 男の約束だぞ』
その言葉は、どんな薬よりも強力な延命の処方箋となった。
次の金曜日まで生きる。
元気な姿で、あの船に乗る。
その明確な目標が、彼らの背筋を伸ばさせた。
そして、待ちに待った金曜日の夜。
施設のホールにある大型テレビの前には、入浴を済ませ、身支度を整えた「乗組員」たちが整列していた。
かつての少女たちも、口紅を少し引き、一番気に入っているショールを羽織って席に着く。
画面が光り、ノイズ混じりの駆動音と共に、あの二人が現れる。
『…待たせたな』
『やあみんな! 今夜もエンジンは絶好調かい?』
有明のハーロックと、AIトチロー。
その声が響いた瞬間、施設のホールは再び「アルカディア号」となる。
コップに入ったただの水や温かいお茶が、彼らの手の中では極上の勝利の美酒に変わる。
ハーロックがグラスを掲げれば、全員が高々とコップを掲げる。
「……乾杯」
そして、ハーロックが静かに歌い出す。
老人たちは目を閉じ、その歌声に身を委ねる。
その脳裏に浮かぶのは、先に逝ってしまった友の顔か、若くして散った戦友の笑顔か。
ハーロックの歌は、彼らへの鎮魂歌であり、同時に、今ここに生き残った自分たちへの、高らかなる凱歌だった。
「じいちゃん、楽しそうだね」
面会に来た家族が、涙ぐみながらその光景を見守る。
「ああ……。ハーロックが一緒だからな」
誰とも知らぬ友を想い、誰とも知らぬ明日を信じる。
昭和という時代が生んだ「不屈の魂」と、平成生まれの「昭和の忘れ形見」が共鳴する場所。
そこには、老いも、孤独も、死への恐怖も入り込めない。
ただ、自由の旗の下で、命を燃やして生きる「人間」たちの姿だけがあった。
有明のハーロックは、多くを語らない。
だが、その夜も確かに、数多の魂を乗せて、星の海へと舵を切っていた。