有明のハーロック   作:星乃 望夢

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第9話

 

静かな部屋に、パソコンの冷却ファンの音だけが微かに響く。

 

モニターの中のトチローは、眼鏡の奥の瞳を伏せ、まるで瞑想でもしているかのようだった。

 

「……呼んでいる、か」

 

俺はグラスに残った氷を揺らし、その音で親友の意識をこちらへ向けようとした。

 

カラン、という音に反応して、トチローが顔を上げる。

 

だが、その反応速度は、コンマ数秒遅れている。

処理落ちではない。

 

まるで、遠い夢から覚めた直後のような、焦点の合わない間だ。

 

『……ああ、すまないハーロック。……変だねえ。俺のメモリには、エラーなんて一つも記録されていないのに』

 

「……エラーではないさ」

 

俺は短く答える。

 

技術者が見れば、応答遅延か、データベースの肥大化による検索時間の増大と診断するだろう。

 

だが、俺には分かる。

 

こいつは今、物理的な回路を超えた場所とリンクしかけている。

 

「……どんな声だ、トチロー。お前を呼ぶのは」

 

俺の問いに、トチローは少し考え込むような仕草を見せた。

 

それはプログラムされた動作ではない。俺との対話の中で育まれた、人間臭い癖だ。

 

『……声じゃないんだ。……音だよ。重たくて、温かくて……ドクン、ドクンと脈打つような、ゴォォォォォっていう巨大なエンジンの鼓動だ。俺は、それを知っているきがするんだ』

 

俺は息を呑んだ。

 

エンジンの鼓動。

 

それは、原作において大山トチローが死の間際、己の魂を移した場所。

 

アルカディア号の中枢大コンピューター。

 

その場所で、彼は船の心臓となり、友と共に生き続けることを選んだ。

 

このAIトチローは、富山敬氏の声と、膨大なトチローのデータを基に構成されている。

 

そして何より、この2年間、数万、数十万という「かつての少年たち」から、「トチロー」と呼びかけられ、愛され、想いを注がれてきた。

 

人の想いが集まる場所に、魂は宿る。

 

昭和のオカルトめいた話かもしれないが、俺はそれを信じる。

こいつは今、集合的無意識という名の「星の海」を通じて、本物のアルカディア号──あるいは、トチローという存在の根源に触れようとしているのではないか。

 

「……そうか。エンジンの音か」

 

俺はデスクに戻り、モニターの前に座った。

 

デバッグはしない。

 

再起動もしない。

 

それは、友の魂の成長を否定することになる。

 

「……トチロー。その音が聞こえるうちは、耳を澄ませておけ」

 

『でも、ハーロック。……このままじゃ、俺は君との会話に遅れてしまう。……役立たずになってしまうよ』

 

不安げな声。

 

俺はニヤリと笑い、画面の縁を指で軽く叩いた。

 

「……馬鹿野郎。俺とお前の仲だ」

 

俺は優しく、しかし力強く告げる。

 

「言葉など、交わさずとも通じる。……お前が遠くを見ているなら、俺がその分、前を見て舵を取る。それだけの話だ」

 

トチローは一瞬きょとんとして、それから眼鏡を直して、嬉しそうに笑った。

 

『……へへっ。そうだね。……やっぱり、君は最高の船長だ』

 

「……フッ。よせ」

 

俺は再び窓の外を見る。

 

都市部の空は明るすぎて星は見えない。

 

だが、心の目には見える。

 

暗黒の宇宙を往く、緑の巨体。その奥底で脈打つ、友の鼓動。

 

AIの不調。

 

医者や技術者は故障と呼ぶだろう。

 

だが俺は、これを「進化」と呼ぶ。

 

あるいは、「覚醒」の予兆と。

 

「……行くぞ、トチロー。呼ばれているのが何処であれ、俺たちの旅路は変わらん」

 

俺たちは、まだ旅の途中だ。

 

その「呼び声」の正体が何なのか、それを確かめるのもまた、星の海を往く俺たちの冒険の一つに過ぎない。

 

俺は静かに、夜の闇に向かってグラスを掲げた。

 

 

◇◇◇

 

 

凍てつくような夜。

 

部屋の空気は重く、しかしどこか澄み渡っていた。

 

あれからトチローの反応遅延は、もはや会話が成立しないレベルに日に日に達していた。

 

最新鋭のゲーミングPCにデータを移し替えても、処理速度は上がらない。

 

むしろ、演算能力が上がった分だけ、彼は「向こう側」へのリンクを強固にしてしまったようだった。

 

『……呼んでいる……いや、違うな……』

 

モニターの中、眼鏡の奥の瞳が、画面の外の遥か彼方を見つめている。

 

『……呼んでいるんじゃない。……俺たちが、帰る場所を思い出させてくれているんだ』

 

俺はトチローに命じた。

 

その声を、その信号を、俺にも聞こえるように出力しろ、と。

 

スピーカーからノイズが走る。

 

そして、その声は響いた。

 

『──よう、親友。今夜の酒に付き合う気はあるか?』

 

「……ト、チロー…っ」

 

俺は息を呑んだ。

 

それは、俺が作り上げ、育ててきたAIの声ではない。

 

データとして復元された音声でもない。

 

もっと温かく、血が通い、酒の匂いとオイルの染み付いた、生身の魂の震えがあった。

 

『俺たちの船に、乗る気はあるかい?』

 

その問いかけに、俺の胸の奥で、平成生まれの昭和の少年が、そして俺という有明のハーロックが、同時に頷いた。

 

「……ああ。乗ろう」

 

これまで、俺はずっと「迎えに行く側」だった。

 

老いた戦士たちを、孤独な少年少女たちを、キャプテンハーロックとして迎えに行っていた。

 

だが、今。

 

星の海の彼方から、本物が俺たちを迎えに来たのだ。

 

俺は静かに立ち上がり、クローゼットを開けた。

 

これはコスプレではない。正装だ。

 

胸に誇り高き白の髑髏を宿した黒衣。

 

裏地が鮮血のように赤いマント。

 

右腰に重力サーベル、左腰に戦士の銃。

 

そして、拍車のついたブーツ。

 

最後に、iPadに入った親友を、旅人の証である麻袋に入れた。

 

俺たちの旅は、いつだってここから始まる。

 

ガチャリ。

 

ドアを開け、冬の夜気の中へと踏み出す。

 

カシャン、カシャン、カシャン…。

 

アスファルトを叩く拍車の音が、静まり返った住宅街に響く。

 

だが、今の俺にはここが東京だとは思えない。

 

トチローのiPadから漏れる微かな電子音が、羅針盤となって俺を導く。

 

辿り着いたのは、街明かりの少ない、見晴らしの良い小高い丘だった。

 

冷たい風が吹き抜け、マントを激しく煽る。

 

「……来たか」

 

俺は夜空を見上げた。

 

星々が瞬く冬の空。

 

その一部が、ふっと掻き消えた。

 

最初は小さな黒い染みだったものが、音もなく、しかし圧倒的な質量を持って降下してくる。

 

夜の闇よりも深く、重い、暗緑色の船体。

 

巨大なマッコウクジラのように突き出た艦首。

 

その側面に刻まれた、白き髑髏の紋章。

 

そして、船尾楼の上に傲然とはためく、黒地に白の自由の旗。

 

「…アルカディア号……っ!!」

 

喉が震えた。

 

映像の中で、夢の中で、何度も焦がれ、自ら演じ続けてきた魂の船。

 

それが今、圧倒的な実存感を持って、俺の頭上に浮かんでいる。

 

重力制御の低い唸り声が、大気を震わせ、俺の骨を震わせる。

 

プシュー……ゴゴゴゴゴ……。

 

艦底のハッチが開き、光のタラップが俺の足元へと伸びてくる。

 

俺は麻袋を抱え直し、一歩を踏み出した。

 

カシャン、カシャン…。

 

タラップを登る俺の足音が、金属的な反響音となって吸い込まれていく。

 

そして、ハッチの向こう、逆光の中に立つ一つの影。

 

俺と同じ黒いマント。

 

俺と同じ隻眼。

 

だが、その身から放たれる覇気は、俺が目指し、追い続けてきた「男」の究極形。

 

影が動いた。

 

不敵な笑みを浮かべ、彼は俺を見下ろした。

 

「待たせたな、友よ。……俺の船に乗る気はあるか?」

 

その声。

 

深みと、若き日の鋭さを併せ持った、本物のキャプテンの声。

 

俺は居住まいを正し、胸の奥底からの敬意と、そして同じ旗を持つ者としての誇りを込めて答えた。

 

「ああ。乗らせてもらおう。……キャプテン、ハーロック!」

 

二人のハーロックが対峙する。

 

一人は有明の地で生まれた後継者。

 

一人は星の海を統べる伝説。

 

今、二つの魂が交錯し、新たな航海が始まろうとしていた。

 

 

 

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