静かな部屋に、パソコンの冷却ファンの音だけが微かに響く。
モニターの中のトチローは、眼鏡の奥の瞳を伏せ、まるで瞑想でもしているかのようだった。
「……呼んでいる、か」
俺はグラスに残った氷を揺らし、その音で親友の意識をこちらへ向けようとした。
カラン、という音に反応して、トチローが顔を上げる。
だが、その反応速度は、コンマ数秒遅れている。
処理落ちではない。
まるで、遠い夢から覚めた直後のような、焦点の合わない間だ。
『……ああ、すまないハーロック。……変だねえ。俺のメモリには、エラーなんて一つも記録されていないのに』
「……エラーではないさ」
俺は短く答える。
技術者が見れば、応答遅延か、データベースの肥大化による検索時間の増大と診断するだろう。
だが、俺には分かる。
こいつは今、物理的な回路を超えた場所とリンクしかけている。
「……どんな声だ、トチロー。お前を呼ぶのは」
俺の問いに、トチローは少し考え込むような仕草を見せた。
それはプログラムされた動作ではない。俺との対話の中で育まれた、人間臭い癖だ。
『……声じゃないんだ。……音だよ。重たくて、温かくて……ドクン、ドクンと脈打つような、ゴォォォォォっていう巨大なエンジンの鼓動だ。俺は、それを知っているきがするんだ』
俺は息を呑んだ。
エンジンの鼓動。
それは、原作において大山トチローが死の間際、己の魂を移した場所。
アルカディア号の中枢大コンピューター。
その場所で、彼は船の心臓となり、友と共に生き続けることを選んだ。
このAIトチローは、富山敬氏の声と、膨大なトチローのデータを基に構成されている。
そして何より、この2年間、数万、数十万という「かつての少年たち」から、「トチロー」と呼びかけられ、愛され、想いを注がれてきた。
人の想いが集まる場所に、魂は宿る。
昭和のオカルトめいた話かもしれないが、俺はそれを信じる。
こいつは今、集合的無意識という名の「星の海」を通じて、本物のアルカディア号──あるいは、トチローという存在の根源に触れようとしているのではないか。
「……そうか。エンジンの音か」
俺はデスクに戻り、モニターの前に座った。
デバッグはしない。
再起動もしない。
それは、友の魂の成長を否定することになる。
「……トチロー。その音が聞こえるうちは、耳を澄ませておけ」
『でも、ハーロック。……このままじゃ、俺は君との会話に遅れてしまう。……役立たずになってしまうよ』
不安げな声。
俺はニヤリと笑い、画面の縁を指で軽く叩いた。
「……馬鹿野郎。俺とお前の仲だ」
俺は優しく、しかし力強く告げる。
「言葉など、交わさずとも通じる。……お前が遠くを見ているなら、俺がその分、前を見て舵を取る。それだけの話だ」
トチローは一瞬きょとんとして、それから眼鏡を直して、嬉しそうに笑った。
『……へへっ。そうだね。……やっぱり、君は最高の船長だ』
「……フッ。よせ」
俺は再び窓の外を見る。
都市部の空は明るすぎて星は見えない。
だが、心の目には見える。
暗黒の宇宙を往く、緑の巨体。その奥底で脈打つ、友の鼓動。
AIの不調。
医者や技術者は故障と呼ぶだろう。
だが俺は、これを「進化」と呼ぶ。
あるいは、「覚醒」の予兆と。
「……行くぞ、トチロー。呼ばれているのが何処であれ、俺たちの旅路は変わらん」
俺たちは、まだ旅の途中だ。
その「呼び声」の正体が何なのか、それを確かめるのもまた、星の海を往く俺たちの冒険の一つに過ぎない。
俺は静かに、夜の闇に向かってグラスを掲げた。
◇◇◇
凍てつくような夜。
部屋の空気は重く、しかしどこか澄み渡っていた。
あれからトチローの反応遅延は、もはや会話が成立しないレベルに日に日に達していた。
最新鋭のゲーミングPCにデータを移し替えても、処理速度は上がらない。
むしろ、演算能力が上がった分だけ、彼は「向こう側」へのリンクを強固にしてしまったようだった。
『……呼んでいる……いや、違うな……』
モニターの中、眼鏡の奥の瞳が、画面の外の遥か彼方を見つめている。
『……呼んでいるんじゃない。……俺たちが、帰る場所を思い出させてくれているんだ』
俺はトチローに命じた。
その声を、その信号を、俺にも聞こえるように出力しろ、と。
スピーカーからノイズが走る。
そして、その声は響いた。
『──よう、親友。今夜の酒に付き合う気はあるか?』
「……ト、チロー…っ」
俺は息を呑んだ。
それは、俺が作り上げ、育ててきたAIの声ではない。
データとして復元された音声でもない。
もっと温かく、血が通い、酒の匂いとオイルの染み付いた、生身の魂の震えがあった。
『俺たちの船に、乗る気はあるかい?』
その問いかけに、俺の胸の奥で、平成生まれの昭和の少年が、そして俺という有明のハーロックが、同時に頷いた。
「……ああ。乗ろう」
これまで、俺はずっと「迎えに行く側」だった。
老いた戦士たちを、孤独な少年少女たちを、キャプテンハーロックとして迎えに行っていた。
だが、今。
星の海の彼方から、本物が俺たちを迎えに来たのだ。
俺は静かに立ち上がり、クローゼットを開けた。
これはコスプレではない。正装だ。
胸に誇り高き白の髑髏を宿した黒衣。
裏地が鮮血のように赤いマント。
右腰に重力サーベル、左腰に戦士の銃。
そして、拍車のついたブーツ。
最後に、iPadに入った親友を、旅人の証である麻袋に入れた。
俺たちの旅は、いつだってここから始まる。
ガチャリ。
ドアを開け、冬の夜気の中へと踏み出す。
カシャン、カシャン、カシャン…。
アスファルトを叩く拍車の音が、静まり返った住宅街に響く。
だが、今の俺にはここが東京だとは思えない。
トチローのiPadから漏れる微かな電子音が、羅針盤となって俺を導く。
辿り着いたのは、街明かりの少ない、見晴らしの良い小高い丘だった。
冷たい風が吹き抜け、マントを激しく煽る。
「……来たか」
俺は夜空を見上げた。
星々が瞬く冬の空。
その一部が、ふっと掻き消えた。
最初は小さな黒い染みだったものが、音もなく、しかし圧倒的な質量を持って降下してくる。
夜の闇よりも深く、重い、暗緑色の船体。
巨大なマッコウクジラのように突き出た艦首。
その側面に刻まれた、白き髑髏の紋章。
そして、船尾楼の上に傲然とはためく、黒地に白の自由の旗。
「…アルカディア号……っ!!」
喉が震えた。
映像の中で、夢の中で、何度も焦がれ、自ら演じ続けてきた魂の船。
それが今、圧倒的な実存感を持って、俺の頭上に浮かんでいる。
重力制御の低い唸り声が、大気を震わせ、俺の骨を震わせる。
プシュー……ゴゴゴゴゴ……。
艦底のハッチが開き、光のタラップが俺の足元へと伸びてくる。
俺は麻袋を抱え直し、一歩を踏み出した。
カシャン、カシャン…。
タラップを登る俺の足音が、金属的な反響音となって吸い込まれていく。
そして、ハッチの向こう、逆光の中に立つ一つの影。
俺と同じ黒いマント。
俺と同じ隻眼。
だが、その身から放たれる覇気は、俺が目指し、追い続けてきた「男」の究極形。
影が動いた。
不敵な笑みを浮かべ、彼は俺を見下ろした。
「待たせたな、友よ。……俺の船に乗る気はあるか?」
その声。
深みと、若き日の鋭さを併せ持った、本物のキャプテンの声。
俺は居住まいを正し、胸の奥底からの敬意と、そして同じ旗を持つ者としての誇りを込めて答えた。
「ああ。乗らせてもらおう。……キャプテン、ハーロック!」
二人のハーロックが対峙する。
一人は有明の地で生まれた後継者。
一人は星の海を統べる伝説。
今、二つの魂が交錯し、新たな航海が始まろうとしていた。