傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~ 作:パワーポイント・レンジャー
クラーク・ウェリントン
世界有数の巨大投資ファンド「ウェリントン・インテリジェンス」のCEOの御曹司。クールな性格だが、親友に対しては熱い想いを抱いている。金の亡者である父と、社交界の虚飾にまみれた母を嫌い、陸軍士官学校に入校した。歩兵将校を目指している。
トラヴィス・キャラハン
クラークの親友。テキサス出身。陽気で人好きのする性格。クラークと同じく歩兵将校を目指している。
呪われた運命
ハドソン川から吹き付ける秋風は、早くも冬の気配を纏い始めていた。
ニューヨーク州ウェストポイント、米国陸軍士官学校。重厚なゴシック様式の校舎は、鉛色の空に溶け込むように聳え立っている。
ここには二種類の色しかない。石造りの建物の灰色と、士官候補生たちが身に纏う制服の灰色だ。
「おいクラーク、本当にそれで提出したのか?」
グラント・ホールの喧騒の中、親友のトラヴィスがプラスチックのカップに入ったコーヒーを揺らしながら尋ねてきた。湯気の向こうにある彼の顔は、子供のように屈託がない。
クラークは冷めかけたコーヒーを一息に飲み干し、硬い椅子に深く座り直した。
「ああ、もちろん。第一希望は歩兵、第二も歩兵。第三でようやく機甲科だ」
「潔いねえ。まさに
トラヴィスは口笛を吹く真似をして、にやりと笑った。
「俺は必ず戦闘指揮官になる。そのために地獄のような訓練に耐えてきたんだ。トラヴィス、お前の希望は?」
「俺も同じだ」
「そうか。これで来年の春には、二人揃ってフォート・ベニングで泥にまみれてるってわけだ」
豊かな緑に囲まれたフォート・ベニング。クラークは、その基地でトラヴィスと共に歩兵将校の基礎訓練に励む光景を思い描いた。
この時期、四年生の話題は
成績順位と個人の希望、そして陸軍の需要。この三つの要素が複雑に絡み合い、卒業後の彼らの人生を決定づけるのだ。
「で、下位の希望はどうしたんだ? まさか空白ってわけじゃないだろう」
トラヴィスの問いに、クラークは微かに口角を上げた。それは自信というより、計算高い賭博師の笑みだった。
「輸送科、需品科、それから人事だ」
「は? お前、成績トップクラスのくせに、なんでそんな……」
「『毒除け』さ」
クラークは声を潜めて続けた。
「俺の数学と情報科学の成績を見れば、教官たちが何を考えるか分かるだろう? 俺をエアコンの効いた部屋に閉じ込めて、一日中、暗号解読やデータ分析をさせたがるはずだ」
クラークの脳裏に、マンハッタンの摩天楼にある父のオフィスがよぎった。
ウェリントン・インテリジェンス――世界有数の巨大投資ファンド。数字と利益だけが支配する、無機質なガラスの塔。あそこに戻らないために、あのような人間にならないために、ここへ来たのだ。
「だから、あえて専門性が全く異なる後方支援職を下位に書いた。俺がそこを希望していると見せかければ、あるいは
「なるほどな。お前のその頭脳を、現場指揮のために使いたいってわけか」
トラヴィスは納得したように頷き、最後の一口を飲み干した。
「ま、お前がどこの部隊に行こうが、俺たちは最前線で会えるさ。ブランチ・ナイトが楽しみだな」
「ああ、そうだな」
クラークは窓の外へ視線をやった。色づいた枯葉が、風に巻かれて無力に舞っている。
彼は信じて疑わなかった。自分の優秀な成績は、自分の望む未来を掴み取るための武器になると。
それが自分の首を絞める鎖になるとは微塵も考えずに。
クリスマス休暇を迎える前日の夜、運命のブランチ・ナイトが開催された。
千人以上の士官候補生がひしめくアイゼンハワー・ホールは、普段の厳粛な式典とは異なり、抑制の効かない興奮と熱気、そして微かな恐怖が混じり合った独特の匂いに満ちていた。
ステージ上では陸軍高官がスピーチをしているが、誰も聞いていないようだ。
クラークは、隣に座るトラヴィスの膝が小刻みに震えていることに気づいた。普段は豪胆な親友も、この瞬間ばかりはただの二十過ぎの若造だった。
「くそっ、早くしてくれ。口から心臓が飛び出しそうだ」
トラヴィスが呻くように囁いた。
クラークは深く息を吸い、自分の脈拍を落ち着かせようとした。
――大丈夫だ。俺はやるべきことはやった。成績は学年トップ五位以内。希望も戦略的に出した。陸軍が論理的な組織であるならば、俺を歩兵にするはずだ。俺の頭脳は、最前線でこそ活きる。
やがて各中隊の戦術士官たちが、黄金色の大きな封筒を抱えて通路を歩き始めた。この中に、士官候補生たちの今後数年、あるいは一生の運命が記されている。
自分の名前が呼ばれ、クラークは立ち上がって封筒を受け取った。
ずしりとした重み。上質な紙の手触り。席に戻り、トラヴィスと視線を合わせた。
「準備はいいか、兄弟」
トラヴィスが引きつった笑みを浮かべる。
「ああ。地獄で会おう」
クラークも強がって見せた。
壇上の合図で会場中の照明が少し落ち、ドラムロールが鳴り響く。そしてファンファーレと共に、司会者の声が轟いた。
「――開封!」
千枚の厚紙が一斉に破られる音は、さながら雷鳴のようだった。
クラークは指を滑らせ、封筒の口を開けた。中の書類を取り出す。視線が紙面を走る。
自分の名前。認識番号。そして配属兵科の欄。そこには、簡潔な二単語が印字されていた。
Military Intelligence
クラークの思考が停止する。時が止まったような気がした。
視界の端で、トラヴィスが跳び上がったのが見えた。
「イェアアア!
トラヴィスがクラークの肩を乱暴に揺さぶり、自分の書類を突きつけてきた。そこには確かに「Infantry」の文字があった。
クラークはゆっくりと顔を上げた。周囲では歓声が爆発し、抱き合う者、ガッツポーズをする者、泣き崩れる者が入り乱れている。
だが、クラークの耳には、それらの音が水中で聞くようにくぐもって聞こえた。キーンという甲高い耳鳴りだけが響いている。
「……おい、クラーク。お前はどこだ?」
興奮していたトラヴィスが急に声のトーンを落とした。
彼はクラークの手にある書類を覗き込み、そして凍りついた。
「情報、科……? なんでだ? お前、希望出してなかっただろう?」
クラークは乾いた唇を舐めた。声が出ない。喉の奥に鉛の塊が詰まったようだ。
――俺が情報科? 一日中パソコンの画面を睨み、薄暗い部屋で衛星写真の解析や通信傍受の記録を漁るだけの、オタクの集まりに?
なぜだ……配属希望には「Military Intelligence」の二単語は書かなかったし、一年前には情報科からのスカウトをはっきりと断ったというのに……。
「クラーク……」
トラヴィスの顔から血の気が引いていった。何とも言えない気まずそうな表情でクラークを見つめている。
「おい、気にするなよ。情報科だって重要だ。ほら、ジェームズ・ボンドみたいでカッコいいじゃないか。なぁ?」
慰めの言葉が、これほど残酷に響くとは思わなかった。
クラークは書類を握りしめた。指の関節が白くなるほど強く。紙がくしゃりと歪な音を立てた。
「……ああ。気にしてないさ」
ようやく絞り出した声は、クラーク自身も驚くほど低く、掠れていた。
視界が赤く滲む。怒り、屈辱。俺の成績が、俺の努力が、全て裏目に出たというのか。
壇上で満足げに頷く将校たちの顔が、マンハッタンのビルボードで微笑む父の顔と重なって見えた。
クラークは湧き上がる嘔吐感をこらえ、周囲の狂騒の中、一人、深淵へと沈んでいった。
翌朝、クラークはアカデミック・ビルディングの一室にいた。
磨き上げられたマホガニーの机の向こうには、陸軍情報科の少佐と准尉が座っている。
窓の外では、まだ興奮の冷めやらぬ四年生たちが雪合戦に興じているのが見えたが、この部屋だけは真空のように静まり返っていた。
「座りたまえ、ミスター・ウェリントン」
少佐が手元のファイルに視線を落としたまま言った。
そのファイルが、クラークのこれまでの人生の全て――成績、適性検査、教官評価――を網羅したものであることは明白だった。
「単刀直入に伺います、少佐」
クラークは椅子の背には寄りかからず、直立不動の姿勢のまま切り出した。
「私の成績順位は学年で三位です。歩兵科の定員には十分な余裕があったはずです。なぜ、第十希望ですらない情報科に割り当てられたのですか?」
少佐はゆっくりと顔を上げ、氷のように冷徹な瞳でクラークを見据えた。
「君は誤解しているようだ。今回の配属は、コンピュータによる自動割り当ての結果ではない。私が人事局に直接働きかけ、君を引き抜いたのだ」
クラークは息を呑んだ。
「引き抜いた……? しかし、私は三年生の時の面談で、はっきりと申し上げたはずです。私は戦闘指揮官を志望していると」
「覚えているよ。君は『現場の泥にまみれたい』と言っていたな」
少佐は薄く笑い、話を続けた。
「だが、軍隊とは投資だ。莫大なコストをかけて育成した資産を、最も効率的に運用する義務がある。君の数学的思考力、暗号理論への適性、そして情報処理能力は、ウェストポイントの過去十年の中でも傑出している」
少佐の隣に座っている准尉が、モバイルパソコンの画面をクラークに向けた。そこには複雑なグラフと数値が並んでいる。
「君の頭脳は、国家レベルの戦略資産だ。それを小隊長として最前線に送り込み、流れ弾一発で失うリスクを、陸軍が許容すると思うか?」
クラークは拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
「つまり……私が優秀すぎたから、歩兵将校にはなれないと言うのですか?」
「その通りだ。優秀な競走馬に荷車は引かせない。君の戦場は塹壕ではない。機密区画の中だ。君が望もうが望むまいが、君の才能が君の運命を決めたのだよ」
反論の言葉は喉元まで出かかっていたが、クラークはそれを飲み込んだ。「軍の都合」という絶対的な論理の前では、個人の感情など塵に等しいことを悟ったからだ。
「……了解しました」
部屋を出たクラークは、廊下の冷たい壁に頭を押し付けた。
皮肉な話だ。誰よりも努力し、誰よりも高い成績を修めたのは、自分の運命を自分でコントロールするためだった。
だが、その努力こそが、彼を最も忌み嫌う場所へと追いやる鎖となったのだ。
十二月のマンハッタンは、きらびやかな嘘で塗り固められていた。
クラークは、グランド・セントラル駅からタクシーに乗り込み、アッパー・イースト・サイドの実家へ戻った。彼を出迎えたのは、うやうやしいが心のこもっていないドアマンの挨拶と、静寂だけだった。
ペントハウスの重い扉を開ける。広大なリビングには、天井まで届く巨大なクリスマスツリーが飾られていた。プロのデコレーターが飾り付けた完璧な造形だが、そこには家族の思い出の欠片もない。
クラークは自室に入り、コートを脱ぎ捨てた。
机の上には、予期した通り、二つの包みが置かれていた。一つは父から、もう一つは母から。どちらも現在、ヨーロッパかどこかの別荘にいるはずだ。
箱に触れることすらしなかった。どうせ中身は、五万ドルもするスイス製の腕時計や、新進気鋭のアーティストが作った奇妙なオブジェだろう。
それらは高価ではあるが、価値はない。息子が何を欲しているか、今どんな苦悩の中にいるかなど、彼らは想像さえしない。
「……くそっ」
クラークは机の椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がった。ここには空気が無い。窒息しそうだ。
彼は逃げるように部屋を出て、エレベーターに飛び乗った。
マンハッタンの街をあてもなく歩く。凍てつく風が頬を刺すが、コートの襟を立てる気にもなれない。
セントラルパークに足を踏み入れると、そこは幸福の展示場だった。
スケートリンクで歓声を上げる子供たち、ホットチョコレートを分け合う恋人たち。
ベンチの向こうで、若い父親が幼い娘を肩車していた。娘が父親の帽子を奪って笑い、父親も大げさに困った顔をして見せる。母親がそれを愛おしそうに見つめている。
クラークは立ち止まり、その光景を網膜に焼き付けた。
……俺には、あんな記憶は一秒たりとも存在しない。
俺が欲しかったのは、勲章でも名誉でもない。ただ、トラヴィスのような仲間たちと共に、泥の中で背中を預け合い、疑似的な「家族」を作ることだったのかもしれない。
だが、それすらも奪われた。
いたたまれなくなり、クラークは公園を背にして、光の洪水の方へと足を向けた。
タイムズスクエア。世界で最も騒がしく、最も明るい交差点。
観光客の波をかき分け、巨大なビルの谷間に立つ。無数のLEDスクリーンが、絶え間なく人々の消費意欲を煽り立てている。
ふと、頭上の巨大なビルボードの広告が切り替わった。
黒い背景に、洗練された金のラインが走る。
――Wellington Intelligence――
父が経営する、世界有数の投資ファンドの広告だった。
マンハッタンの夜空を支配するかのように、その社名が輝いている。続いて、聞き飽きたキャッチコピーが流れてきた。
『信頼という絆で結ばれた、真のパートナーシップが未来を築く』
「……はっ」
クラークの口から、白い呼気と共に乾いた笑いが漏れた。
――信頼? パートナーシップ? 自分の息子と目を見て話すことさえできなかった男が、世界に向かって「信頼」を説くとは……。
そして、その息子は
父の会社と同じ名を冠した兵科。
数字。データ。分析。報告書。
クラークが軽蔑し、背を向けたはずの世界が、巨大な口を開けて彼を待ち受けていた。
ビルボードに映し出された父の会社のロゴが、まるでクラークを見下ろして嘲笑っているように明滅する。
「お前は結局、こちらの側の人間なのだ」と告げているかのように。
喧騒の中で、クラークは一人、立ち尽くしていた。
寒さはもう感じなかった。ただ、逃れられない血と運命の冷たさだけが、心の奥底まで染み渡っていた。