傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~   作:パワーポイント・レンジャー

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【文中のスラング解説】
(1) パワーポイント・レンジャー
パワーポイントの操作に長け、見栄えの良い資料を作ることで評価を得ようとする、司令部勤務の将校やスタッフのこと。
「実戦のスキルは無いくせに、スライド作成のスキルだけは超一流だな」という冷ややかな嘲笑が含まれる。

(2) フォビット
前線基地を意味するFOB (Forward Operating Base) と、『ロード・オブ・ザ・リング』の Hobbit (ホビット:洞窟や家の中にこもる種族) を組み合わせた造語。
危険なパトロールや戦闘任務に就かず、冷暖房の効いた基地内で事務仕事や生活支援を行う人員を指す。


手厳しい洗礼

 三ヶ月。それは永遠にも似た時間だったが、振り返れば一瞬の火花のようでもあった。

 ブラジルの湿った雨季が終わり、空気が幾分か軽くなった頃、クラークは地獄の淵から這い上がった。生き残ったのは、二人だけだった。

 入隊テストを通過した四人のうち、過酷な訓練の過程で二人が脱落した。一人は熱帯病に倒れ、もう一人はハイデルンの課す戦術訓練の重圧に精神を病んで去っていった。

 残ったのは、東欧出身の寡黙な男(05番)と、クラーク(09番)だけだった。

 

「以上をもって、基礎訓練課程を修了とする」

 

 夕暮れの練兵場に、ハイデルンの声が静かに響く。クラークは直立不動の姿勢でその言葉を聞いた。

 身体中の筋肉が悲鳴を上げ、皮膚は無数の擦り傷と虫刺されで覆われている。体重は入隊時より五キロ落ちたが、その分、鋼のような筋肉が全身を鎧のように覆っていた。

 M4カービンを持つ腕にも、もはや迷いはない。AKの反動も、泥沼での格闘も、すべて肉体が記憶している。

 

「本日より、お前たちは訓練生(カデット)ではない。ハイデルン傭兵部隊の正規戦闘員だ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、クラークの胸の奥で、小さく、しかし熱い火種が爆ぜた。

 表情筋一つ動かさず、彼は正面を見据え続けた。歓声を上げることも、ガッツポーズを取ることもしない。それはプロフェッショナルとして相応しくない振る舞いだからだ。

 だが、肋骨の下で心臓が高鳴っている。

 

 ――トラヴィス。俺はついに手に入れたぞ。ただ情報を右から左へ流すだけの管ではない、自らの手で運命を切り開くための剣を。

 

 この三ヶ月の苦痛は、情報将校としての無力な自分を殺し、戦士として生まれ変わるための儀式だったのだ。

 クラークは、汗と泥にまみれた自分の拳を、心の中で強く握りしめた。

 

 

 

 解散後、クラークだけが本部のミーティングルームに呼び出された。

 空調の効いた室内は、外の熱帯気候とは隔絶された冷涼な空気に満ちていた。壁には世界地図と、いくつかの戦況モニターがあるだけの簡素な部屋だ。

 ハイデルンはデスクに座り、書類に目を通していた。訓練時の戦闘服ではなく、パリッとしたシャツ姿だ。その姿からは、荒々しい傭兵の長というよりも、企業の冷徹なCEOのような知性が漂っていた。

 

「座りたまえ」

 

「失礼します、教官」

 

 クラークは椅子に腰を下ろした。

 ハイデルンは書類を置き、隻眼でクラークを見据えた。

 

「正式採用に伴い、待遇について話しておく。お前の階級は少尉待遇とする」

 

「少尉、ですか」

 

 かつての階級と同じだ。だが、その重みは全く違う。

 

「不満か? 我が部隊において、階級はあくまで給与体系と指揮系統を明確にするための便宜的なものだ。戦場においては、二等兵であろうが大佐であろうが、命の重さは平等だ。弾丸は階級章を避けては通らない」

 

 ハイデルンは指を組んだ。

 

「だが、組織として動く以上、そこには規律が必要だ。我が部隊は師団規模だ。実質的には正規軍と変わらない厳格な上下関係が存在する。お前には部隊長としての適性も見込んでいるが、まずはチームの一員として実績を積んでもらう」

 

「了解しました。不満はありません」

 

「よろしい。さて、ここからが本題だ」

 

 ハイデルンは少し声を落とした。

 

「クラーク。お前はここで、本名を名乗らないほうがよい」

 

「本名を?」

 

「そうだ。この世界では、名前は標的であり、注目は弱点となる。お前の『ウェリントン』という苗字……それは、あまりにも目立ちすぎる派手な広告塔だ」

 

 クラークは息を呑んだ。

 ウェリントン・インテリジェンス。世界的な巨大投資ファンド。その御曹司が傭兵になったと知れれば、誘拐や脅迫のリスクが生じる。あるいは、企業の敵対勢力がクラークを狙うかもしれない。

 

「ええ、仰る通りです、教官。しかし、私は何と名乗れば……」

 

「お前に新しい苗字を与えよう。『スティル』だ」

 

 ハイデルンは、まるで用意していたかのように即答した。

 

「スティル……」

 

 口の中で転がしてみる。短く、硬質な響き。

 

「お前は静かな男だ。『静けさ(スティル)』。それがここではお前の最大の資産だ。お前の以前の苗字は静かではない。金と権力の匂いがする、騒がしいものだ。その騒がしさは、それを妬む男たちによってお前を殺させるだろう」

 

 ハイデルンは立ち上がり、窓の外のジャングルを眺めた。

 

「お前は注目を集める遺産を背負っている。だが、クラーク・スティルは何者でもない。何者でもないことが、この世界では安全なのだよ」

 

 クラークはハイデルンの横顔を見つめた。

 その言葉選び。「資産(アセット)」、「遺産(レガシー)」。ただの荒くれ者の傭兵が使う言葉ではない。洗練された語彙と、独特の比喩表現。

 ハイデルンは振り返り、言葉を続けた。

 

「お前の『ウェリントン』という苗字は、世界で最も豪華なテーブルの席を買った。だが、このテーブルでは、今日稼いだものだけを尊重する。お前の父親の金も、家族の歴史も、ここでは無用の荷物だ。それらは、お前の首にかかる懸賞金を引き上げるだけだ」

 

 ――この男も、そうなのか。

 

 クラークの脳裏に、ある確信が走った。

 豪華なテーブル、血筋という名の「席」――この言い回しは、それを持っていた人間にしかできない。持たざる者の僻みではなく、持てる者の虚しさを知っている響きだ。

 

 ハイデルンという男もまた、かつてはどこかの名家の人間であり、何らかの理由でその「席」を捨て、この修羅の道を選んだのではないか。

 だからこそ、クラークの中に燻る「家への反発」と「独立への渇望」を見抜き、スカウトしたのかもしれない。

 親近感、というと失礼かもしれないが、奇妙な連帯感をクラークは感じた。

 この教官は、自分の同類であり、そして遥か先を行く到達点なのだ。

 

「……気に入りました。スティル。静寂。今の私には、何よりも相応しい苗字です」

 

 クラークは静かに言った。

 

「そうか。では、今この瞬間から、ウェリントン家の息子は消滅した。ここには、ただの傭兵、クラーク・スティルがいるだけだ」

 

 ハイデルンが初めて、微かに口角を上げて笑った気がした。クラークもまた、憑き物が落ちたような顔で頷いた。

 父の呪縛、情報将校としての過去。それらをウェリントンの名と共に捨て去る。生まれ変わったのだ。

 

「ついて来たまえ、少尉。配属先へ案内する」

 

「はい、教官」

 

 クラーク・スティル少尉は、力強い足取りでハイデルンの後を追った。

 

 

 

 基地の最深部にある区画。そこは、一般の傭兵たちが立ち入ることを許されないエリアだった。

 重厚なセキュリティゲートを抜け、ハイデルンと共に廊下を歩く。すれ違う兵士たちは、ハイデルンの姿を見ると即座に壁際に寄り、最敬礼を送る。その視線には恐怖に近い畏敬が混じっていた。

 

 一つのドアの前で、ハイデルンが足を止めた。

 黒いプレートに、金色の文字で『SPECIAL OPERATIONS DIVISION』と刻まれている。

 

「ここが私の直轄部隊だ」

 

「特殊作戦部……」

 

 クラークは喉を鳴らした。

 選抜試験をクリアしたばかりの新入りがいきなり、総帥直轄の特殊部隊?

 あまりに飛躍しすぎている。期待されているのは光栄だが、同時に強烈なプレッシャーがのしかかる。自分はまだ、一度も実戦で銃を撃ったことがないのだ。

 

「入るぞ」

 

 ハイデルンがドアを開けた。

 むっとした熱気と、男臭い匂いが鼻をつく。ガンオイル、タバコ、そして濃密なテストステロンの気配。

 雑然としたデスクには銃器のパーツが散らばり、壁には作戦地図やピンナップガールが貼られている。オフィスというよりは、部室に近い雰囲気だ。

 すでに数人の男たちがたむろしている。ナイフの手入れをしている者、プロテインを飲んでいる者、ポーカーに興じている者。

 彼らの視線が、一斉にクラークに注がれた。その視線は鋭く、獲物を品定めする肉食獣のそれだった。

 

「注目!」

 

 部屋の奥から太い声が轟いた。全員が反射的に立ち上がり、姿勢を正す。

 声の主がゆっくりとこちらへ歩いてくる。その男に、クラークは見覚えがあった。入隊テストの日に、屋外訓練場で新兵たちを怒鳴りつけていた、あの大男だ。

 近くで見ると、その威圧感は倍増していた。身長はクラークと同じくらいだが、横幅が違う。岩のような筋肉が盛り上がり、袖をまくり上げた腕には無数の古傷が刻まれている。

 頭には迷彩柄の赤いバンダナ。日焼けした精悍な顔には、自信と野性が同居していた。

 

「お疲れ様です、教官! 視察ですか?」

 

 男はハイデルンに対し、敬意を払いながらも物怖じしない口調で話しかけた。

 

「いや、新入り(ルーキー)を連れてきた。お前のチームに入れる」

 

 ハイデルンは一歩下がり、クラークを前に出した。

 

「新しく入隊した、クラーク・スティル少尉だ。基礎訓練をトップクラスで通過した。今日から特殊作戦部の第一小隊に配属する」

 

 男の視線がクラークに向けられた。青い瞳が、クラークを頭のてっぺんからつま先まで値踏みするように舐め回す。

 

「へえ……こいつが例の生き残りか」

 

 男はニッと白い歯を見せて笑った。その笑顔は、意外なほど陽気でフレンドリーだった。

 

「いいガタイしてんじゃねえか。目つきも悪くねえ。俺はラルフ・ジョーンズ大佐だ。ま、ここでは階級なんて飾りだがな。よろしく頼むぜ、クラーク」

 

 ラルフと名乗った男は、大きな手を差し出してきた。

 クラークは安堵した。見た目は厳ついが、話せば気さくな人物のようだ。これならやっていけるかもしれない。

 

「光栄です、大佐。クラーク・スティルです」

 

 クラークは手を握り返した。万力のような握力だった。

 ラルフは手を離すと、興味深そうに尋ねてきた。

 

「で、前職は? 動きを見た感じじゃ、グリーンベレーかレンジャー上がりか? それとも海兵隊か?」

 

「アメリカ陸軍です。第四歩兵師団所属でした」

 

「ほう、アイビー・ディビジョンか。名門だな。で、職種は? 歩兵か?」

 

 クラークは一瞬ためらったが、正直に答えた。

 

「いえ……情報科です」

 

 空気が凍りついた。

 ラルフの笑顔が、消えた。

 まるでスイッチを切ったように、その表情から陽気さが失われ、代わりに冷ややかな侮蔑の色が浮かび上がった。

 

「……あァ? 今なんて言った?」

 

「情報将校でした。カンダハルで、情報分析を担当していました」

 

 ラルフは鼻を鳴らし、わざとらしく天井を仰いだ。

 

「おいおい、冗談だろ教官。情報将校だと?」

 

 ラルフは再びクラークに向き直った。今度は、敵を見る目だった。

 

「デスクワークばっかしてきたパワーポイント・レンジャーに、特殊部隊の任務の何ができるってんだ? 俺たちの部隊はな、フォビットの巣穴じゃねえんだよ!」

 

 罵声が飛んできた。クラークは顔を強張らせた。

 

「私も基礎訓練はクリアしました。戦う準備はできています」

 

「訓練と実戦は違うんだよ、お坊ちゃん!」

 

 ラルフが一歩踏み出し、クラークの胸ぐらを突き飛ばすように小突いた。

 

「お前ら情報屋(インテル)のことはよく知ってるぜ。安全なコンテナの中でコーヒーを啜りながら、適当な憶測で俺たちを死地に送り込む。地図上の記号と、生身の兵士の区別もつかねえ連中だ」

 

「私は、そんなつもりで仕事をしてきたわけでは――」

 

「結果は同じだ!」

 

 ラルフの怒号がオフィスを揺らした。それは単なる偏見ではなく、過去に情報科のミスで仲間を失った経験がある者の、生々しい憎悪だった。

 

「お前の情報が、ここで誰を救えるんだ? データと現実は違う。ここは鉛玉が飛び交う場所なんだよ! 俺たちは、お前の推測(ゲス)一つで命を賭けるわけにはいかねえんだ」

 

 クラークは反論できなかった。それは、彼自身がカンダハルで痛感し、自らを呪った言葉そのものだったからだ。

 情報だけでは守れない。だからここに来た。だが、現場の叩き上げであるラルフにとって、クラークの経歴は無能の証明書でしかなかったのだろう。

 

「いいか、スノッブ野郎。ここはお友達のために情報を流す『士官学校ごっこ』の場じゃねえ。失敗は即、命と金に直結する。お前の優秀さ(インテリジェンス)なんか、ここでは役立たずのゴミだ!」

 

 ラルフは唾を吐き捨てるように言い放つと、ハイデルンに向き直った。

 

「教官、悪いが俺はこいつを認めませんよ。俺の背中を預けられるのは、泥の味を知ってる奴だけだ。こんな青二才、足手まといになるだけだ」

 

「判断は任せる。だが、部下を使いこなすのも指揮官の度量だぞ」

 

 ハイデルンは静かに言った。

 ラルフは「チッ」と舌打ちをし、クラークを睨みつけた。

 

「せいぜい死なねえようにしがみついてろよ、元情報屋さんよ。俺たちの邪魔だけはすんな」

 

 ラルフは不機嫌そうに肩を怒らせ、オフィスを出ていった。

 ドアが乱暴に閉まる音が響く。オフィスには重苦しい空気が沈殿していた。

 周囲の傭兵たちがクラークを見ている。その視線に、もはや好奇心はない。あるのは「邪魔者が来た」という冷たい拒絶と、「どれくらいで死ぬか賭けようぜ」という嘲笑だった。

 

「……手厳しい洗礼だな」

 

 ハイデルンが言った。

 

「ラルフは元デルタフォースだ。現場での経験は誰よりも豊富だが、それゆえに情報科に対する不信感も根深い。お前が彼に認められるには、言葉ではなく、結果で示すしかない」

 

「……わかっています」

 

 クラークは拳を握りしめた。歓迎されていないことは明白だ。ここには味方はいない。

 だが、それでいい。仲良しごっこをしに来たわけではない。

 他の傭兵たちもぞろぞろとオフィスを出ていく。すれ違いざま、巨漢の傭兵がクラークの肩にわざと体をぶつけてきた。

 

「へっ、パワーポイント・レンジャーか。戦場で小便漏らすなよ、エリート様」

 

 下卑た笑い声を残し、男たちは去っていった。

 

 一人残されたクラークは、自分のデスクになるであろう無機質な机を見つめた。

 ここが、新しい戦場だ。敵は外だけではない。身内からの信頼も勝ち取らなければならない。

 クラーク・スティル――その新しい名前の重みを噛み締めながら、彼は深く息を吐き出した。

 

 ――孤独には慣れている。やってやる。必ず、彼らに俺を認めさせてやる。

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