傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~   作:パワーポイント・レンジャー

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束の間の安らぎ

 特殊作戦部のオフィスには、独特の匂いが染み付いている。

 銃器の手入れに使うガンオイル、湿気たタバコ、そして男たちの汗と埃。

 かつてクラーク・ウェリントンとして過ごした、空調の効いた清潔なビルの執務室とは対極にある、むせ返るような現場の空気だ。

 だが、今のクラーク・スティルにとって、ここは不思議と息がしやすい場所になりつつあった。

 

 変化は、ラルフの一言から始まった。

 

「おい、パワーポイント・レンジャー。この数字の羅列はどうなってる? 俺には暗号にしか見えねえんだ」

 

 ラルフが分厚い予算申請書をクラークのデスクに放り投げたのが、二週間前のことだ。

 それ以来、部隊の空気が変わった。

 ラルフは、自身が最も苦手とし、ストレスの根源となっていた事務処理全般――作戦報告書の作成、装備調達の予算編成、上層部への稟議――を、すべてクラークに丸投げするようになったのだ。

 

 クラークは液晶画面に並ぶスプレッドシートの格子を睨みつけた。

 父が支配する「ウェリントン・インテリジェンス」の世界。数字が世界を動かし、数字が人の命さえも左右する冷徹な論理。かつてクラークが唾棄し、逃げ出したはずの檻が、形を変えてここにあった。

 皮肉なもんだ。クラークは苦笑を噛み殺し、キーボードを叩いた。

 指先が覚えている。忌々しいほどに。

 複雑な弾薬のコスト計算、燃料費の推移、特殊装備の減価償却。

 かつては退屈で無意味に思えたそのスキルが、今は違う意味を持っていた。

 

「よう、参謀殿。例の件、どうなった?」

 

 背後から声がかかる。ハビエルだ。

 

「追加の弾薬と、お前が欲しがっていた新型の暗視ゴーグルの申請だろう? 通しておいた。来週には補給班から届くはずだ」

 

 クラークが視線を動かさずに答えると、ハビエルは口笛を吹いた。

 

「マジかよ! あの大佐が、あんな面倒な申請を一発で認めたのか?」

 

「大佐はサインをしただけだ。書類を完璧に整えて、彼が断れないような論理的な理由付けをしたのは俺だがな」

 

「さすがだぜ、先生。あんたがいなきゃ、俺たちは今頃、大佐の怒号で鼓膜が破れてたところだ」

 

 ハビエルが大げさに肩をすくめて自分の席に戻っていく。

 オフィスを見渡すと、そこには奇妙な平穏があった。

 かつては常に何かに苛立ち、受話器を叩きつけていたラルフ・ジョーンズ大佐。今は奥のデスクで葉巻をくわえながら、手入れを終えた愛用のコンバットナイフを満足げに眺めている。

 部下たちは、ラルフの機嫌が良いだけで、地獄の釜の底から這い上がったかのように生気を取り戻していた。

 

 クラークは再び画面に向き直った。

 父の下で数字を扱っていた時は、それはただの利益にしか過ぎなかった。だが今、クラークがはじき出す数字は、仲間の装備となり、彼らの命を守る盾となる。

 悪くない。そう思う自分がいた。

 

 ――このデスクは檻ではない。ここは戦場の一部であり、俺はキーボードという引き金を引いているんだ。

 

 そう割り切った瞬間、スプレッドシートの無機質な数字が、味方のように見えてきた。

 

 

 

 一日の業務と激しいフィジカルトレーニングを終えた夜、クラークは基地内のラウンジにいた。

 ブラジルの湿った夜風が、開け放たれた窓から入り込んでくる。扇風機がぬるい空気をかき回し、冷えたビールの瓶が汗をかいていた。

 テーブルを囲んでいるのは、ハビエルとカズだ。

 

「だからよ、クラルク。お前のおかげで助かったって言ってんだ」

 

 ハビエルがすでに三本目となったビールを呷りながら言った。

 クラークは眉をひそめた。

 

「ハビエル。俺の名前はクラークだ。Lは舌先を上の歯茎につける。Rの発音は舌を巻く。クラルクじゃない」

 

「わかってるよ、クラルク。でもよ、俺の国じゃあそう読むんだよ」

 

「ここはブラジルだ。公用語はポルトガル語だが、お前はスペイン語訛りが抜けてないな」

 

「細けえこたぁいいんだよ!」

 

 ハビエルが笑い飛ばし、カズが静かにグラスを傾けている。

 カズは相変わらず口数が少ないが、その沈黙は拒絶ではなく、心地よい距離感を保つためのものだとクラークは理解し始めていた。

 

「よし、決めたぞ」

 

 ハビエルが唐突にテーブルを叩いた。

 

「決めたって、何を?」

 

「お前のその発音矯正、何度聞いても覚えられねえ。舌が絡まって窒息しちまう。だから今日からお前は『クラロ(Claro)』だ」

 

「は?」

 

 クラークはビール瓶を口元で止めた。

 

「クラロ? 英語で言うところの『クリア』か?」

 

「そうだ。空が晴れ渡ってる時とか、水が透き通ってる時に使う。あと、話が分かった時とかな」

 

「おい。それじゃ形容詞だ。人の名前になってないぞ」

 

 クラークが冷静に突っ込みを入れると、ハビエルはにやりと笑い、人差し指でクラークの頭を指した。

 

「お前は頭がいい。いつだって明晰(クラロ)だ。俺たちが泥沼で迷ってるときに、お前だけは先が見えてる。だからクラロだ。最高の名前だろ?」

 

 クラークは呆気にとられた。

 単なる陽気な馬鹿だと思っていた男が、意外なほど本質を突いたことを言ってくる。

 明晰。かつてインテリジェンスと呼ばれた自分の能力が、ここでは晴れ渡った空のように肯定されている。

 

「わかった、わかった。もうクラロでいい」

 

「お、認めたな! これでお前も俺たちの兄弟(エルマノ)だ!」

 

 ハビエルが嬉しそうにクラークの背中を叩く。その横で、カズが「ぷっ」と吹き出した。

 クラークが視線を向けると、いつもは仏頂面のカズが、口元を隠して肩を震わせていた。

 

「笑うな、カズ」

 

「すまん……いや、似合っていると思ってな。クラロ」

 

 クラークは苦笑するしかなかった。

 悪い気はしなかった。クラーク・スティルという偽名の上に、さらに塗り重ねられた新しい呼び名。それは、過去の自分を知らない彼らが、今の自分だけを見てつけてくれた勲章のようなものだった。

 

 

 

 その三日後。

 オフィスの奥から、雷鳴のような怒号が響き渡った。

 

「ハビエル! てめえ、また報告書の書式を間違えたな! 何度言ったらわかるんだ、この鳥頭が!」

 

 ラルフの怒りは、書類仕事に関してはクラークという逃げ道を見つけたことで収まったかのように見えたが、現場のミスに対しては相変わらず容赦がなかった。

 ハビエルが直立不動で唾を飛ばされているのを横目に、クラークはそっと席を立った。

 

「……行くか」

 

「ああ」

 

 隣の席のカズも無言で立ち上がる。

 巻き添えを食うのは御免だ。二人は目配せをし、嵐が過ぎ去るのを待つためにラルフの射程圏内から脱出した。

 

 避難先はいつものラウンジだった。

 昼下がりのラウンジは閑散としており、ビリヤード台の緑色の羅紗が薄暗い照明に沈んでいる。

 カウンターでコーヒーを受け取り、向かい合って座る。

 沈黙が流れた。

 これまではハビエルという賑やかな緩衝材がいたが、今日はカズと二人きりだ。

 自衛隊からフランス外人部隊を経て、この傭兵部隊へ流れ着いた男、カズヤ。その経歴だけで、彼が只者ではないことはわかる。

 だが、その内面は深い森のように静まり返っていて、窺い知ることができない。

 

 何を話すべきか。

 クラークがカップの縁を指でなぞっていると、不意にカズが口を開いた。

 

「クラロ。プロレスは好きか?」

 

 唐突な問いだった。

 クラークは顔を上げ、カズの瞳を見た。真剣そのものだ。

 

「ああ、大好きだ。お前も好きなのか?」

 

 カズの無表情な顔に、さざ波のような変化が起きた。瞳の奥に熱い光が灯る。

 

「もちろん」

 

 短く答えると、カズは身を乗り出した。

 

「アメリカンプロレス、ルチャ・リブレ、日本のストロングスタイル……一通り見るが、俺が特に評価しているのは、肉体一つで物語(ナラティブ)を構築する、あの説得力だ」

 

 カズの口調が滑らかになる。饒舌だ。普段の彼からは想像もつかない変化だった。

 クラークの口元が自然と緩んだ。

 

「わかるぞ。単なる暴力じゃない。受けの美学、技の掛け合いの中に生まれる信頼、そしてカタルシス。俺もあの中に、闘いの原点を見る」

 

「ほう……」

 

 カズが感心したように頷く。「分かっている」という目だ。

 

「好きなレスラーは?」

 

 試すようなカズの問いに、クラークは迷わず答えた。

 

「グリフォンマスクだ」

 

 カズの目がわずかに見開かれた。

 

「グリフォンか。メキシコの英雄だな。子供たちのために戦う、正義の象徴」

 

「ああ。彼のファイトスタイルには迷いがない。巨体を生かしたパワフルな投げ技。そして何より、あの決して膝をつかない不屈の精神、ベビーフェイスとしての在り方。俺はそこに惹かれる」

 

 クラークは熱っぽく語った。

 巨大投資ファンドの後継者として、あるいは冷徹な情報将校として、常に裏を読み、数字を操ることを強いられてきたクラーク。

 そんな彼にとって、グリフォンマスクのような「分かりやすい正義」と「純粋な力」は、強烈な憧れだったのかもしれない。

 

「渋いな」

 

 カズが白い歯を覗かせた。初めて見せる、少年のような屈託のない笑みだった。

 

「俺も嫌いじゃない。だが、技術論で言えば、彼の使う『ビッグフォール・グリフォン』の滞空時間は芸術的だと思わんか?」

 

「その通りだ! あの高さから叩きつけられれば、どんなタフな奴でもマットに沈む。だが、俺が一番評価しているのは、彼が技に入る前のあのアピールだ。観客を煽り、自分を鼓舞する。あれこそがプロレスだ」

 

「ふっ、お前も意外とロマンチストだな、クラロ」

 

「お前こそ、理屈っぽい分析をしてるが、目が輝いてるぞ、カズ」

 

 二人は笑い合った。

 硝煙と血の匂いが染み付いたこの場所で、ショービジネスの話に花を咲かせる。奇妙な光景だが、クラークにはこの時間が何よりも心地よかった。

 熱く語り合う中で、二人の間には確かな共感が生まれていた。「プロレス」という共通言語が、国籍も経歴も違う二人の魂を、ロープのように結びつけていく。

 

「いやー、大佐に一時間も怒鳴られてほんとまいったぜ……って、お前ら、何そんなに盛り上がってんだ?」

 

 げっそりとした顔のハビエルが、ラウンジに入ってきたのは一時間後のことだった。

 熱気を帯びた二人の様子に、ハビエルは目を丸くして立ち尽くした。

 

「まるで初めて酒を飲んだガキみてえにはしゃいでやがるな」

 

「ハビエルか」

 

 クラークは笑顔を崩さずに振り返った。

 

「プロレスの話をしていたんだ。カズもなかなかのマニアでな」

 

「へえ、カズが? お前もプロレスが好きだったのか」

 

 ハビエルが意外そうにカズを見る。カズは咳払いをして、いつもの冷静な表情に戻ろうとしたが、その頬は微かに紅潮していた。

 

「……嗜む程度だ」

 

「嘘をつけ。さっきまで九十年代の全日本プロレスの四天王について熱弁していたくせに」

 

 クラークが茶化すと、カズはバツが悪そうに視線を逸らした。

 

「へえ、いいじゃねえか! 俺もルチャは詳しいぜ! メキシコ国境近くにいたことがあってな」

 

 ハビエルが嬉々として話に加わろうとする。しかし、クラークとカズは顔を見合わせた。

 

「ハビエル、お前の言う『詳しい』は、せいぜい有名な覆面レスラーの名前を知ってる程度だろう?」

 

「あ? なんだよ、それじゃダメなのか?」

 

「甘いな。俺たちが話しているのは、技の物理的ダメージ計算と、ヒールの心理的アプローチによる観客誘導の相関関係についてだ」

 

「はあ? なんだそりゃ」

 

 カズが追い打ちをかける。

 

「加えて、リングの硬度による受身の取り方の違いと、国ごとのレフェリングの癖についても議論していた」

 

 ハビエルは口をあんぐりと開け、やがて頭を抱えた。

 

「お前らの話はマニアックすぎてわかんねえよ! もっとこう、どっちが強いとか、あの技がすげえとか、そういう話じゃねえのかよ!」

 

「「そういう話もしている」」

 

 クラークとカズの声が重なった。

 三人は顔を見合わせ、次の瞬間、爆発したように笑い出した。

 

 

 

 その夜、クラークは宿舎の硬いベッドの上で、首から下げたドッグタグを指先で弄んでいた。

 金属の冷たい感触。そこに刻まれているのは、自分の認識番号と、もう一つの名前。

『トラヴィス・キャラハン』

 戦死した親友の生きた証だ。

 

 クラークは目を閉じ、暗闇の中で亡き友に語りかけた。

 

(トラヴィス。聞こえるか?)

 

 ジャングルの虫の音が、遠い潮騒のように聞こえる。

 

(この傭兵部隊は、一癖も二癖もある連中ばかりだ。元ゲリラに、元外人部隊、そしてあのイカレた大佐。まともな奴なんて一人もいない)

 

 脳裏に、ハビエルの陽気な笑顔と、カズの熱っぽい瞳、そして不機嫌そうに葉巻を噛むラルフの顔が浮かんだ。

 

(だが、みんな面白い。俺はここで楽しい仲間を見つけたよ)

 

 クラークはドッグタグを握りしめた。掌に食い込む痛みが、生きている実感を与えてくれる。

 

(最初は俺のことを拒絶していたラルフ大佐も、最近は俺のやり方を認めてくれているようだ。訓練は文字通り地獄だが……軍の情報科で、安全な画面の向こうから人の死を数えていた頃より、ずっと充実している)

 

「クソみたいなデスクワーク」と吐き捨てたかつての日々。

 だが今は、そのデスクワークさえも、仲間を生かすための戦いだと知っている。

 

(傭兵に対する世間の目は決して好意的ではないだろう。戦争の犬と罵られるかもしれない。だが、俺はここに来てよかったと思っている)

 

 クラークは目を開けた。

 天井のシミが、何かの地図のように見えた。

 

(いつか必ず、一流の傭兵になってみせる。お前を守れなかったこの手で、今度は新しい仲間たちを守り抜いてみせる。だから……)

 

 クラークはドッグタグに唇を寄せ、静かに誓った。

 

(見守っていてくれよ、兄弟)

 

 翌朝にはまた、泥と汗にまみれる日常が待っている。

 もしかしたら、明日には誰かが欠けているかもしれない。それが傭兵のリアルだ。

 だが、クラーク・スティルにはもう迷いはなかった。

 彼はドッグタグを胸にしまい、静寂(スティル)という名の眠りへと落ちていった。

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