傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~ 作:パワーポイント・レンジャー
夜明け前の滑走路には、重苦しい湿気とジェット燃料の匂いが立ち込めていた。
ハイデルン傭兵部隊の隠蔽滑走路に駐機しているのは、デ・ハビランド・カナダDHC-6、通称ツイン・オッター。
ただし、その機体に民間機の面影はない。マットブラックの耐熱迷彩塗装が施され、エンジンの排熱を抑える特殊なフェアリングが装着されたそれは、空飛ぶ霊柩車のように見えた。
「おいおい、こいつは年代物だぜ。本当に飛ぶのか?」
ハビエルが翼の下で呆れたような声を上げた。
「文句を言うな。この短距離離着陸性能がなければ、コロンビアの未舗装のジャングルには降りられん」
ラルフ大佐がAKMアサルトライフルを肩に担ぎながら、タラップを蹴り上げるようにして乗り込んでいく。
「それに、中身は最新だ」
クラークは、最後に機体を見上げてから乗り込んだ。
機内は狭く、天井にはむき出しの配線とダクトが走り、予備の増設燃料タンクが座席スペースの半分を圧迫していた。
コックピットの計器類は軍用グレードの暗視ゴーグル対応照明に変更され、不気味な緑色の光を放っている。
クラークに与えられた席は、コックピットの隔壁すぐ後ろ、特設された通信士席だった。目の前には暗号化通信システムと衛星ナビゲーションのモニターが鎮座し、背中には冷たい燃料タンクの金属壁が押し付けられている。
これぞ空飛ぶ火薬庫だ。一発でも被弾すれば、全員が消し炭になる。
「全員、ベルトを締めろ。舌を噛みたくなかったらな」
パイロットのマティアス中尉が、ドイツ語訛りの英語で告げた。
プロペラが回転を始め、機体が身震いする。
クラークはヘッドセットを装着し、計器のチェックに入った。
「通信回線、クリア。GPS同期完了。いつでも行けます」
「了解。行くぞ」
機体が滑走を始め、ふわりと地面を離れた。
眼下にはブラジルの密林が黒い絨毯のように広がっている。これから向かうのは、そのさらに奥、コロンビア国境の空白地帯だ。
水平飛行に入ると、機内の緊張がわずかに緩んだ。
エンジンの轟音が会話を遮るため、隊員たちは身振り手振りでコミュニケーションを取っている。
ハビエルが親指を立ててウィンクをしてきた。口の動きで『バンコク』と言っているのがわかる。
――まだ言ってるのか、あの馬鹿は……。
クラークは苦笑し、首を振った。
ハビエルの隣では、カズヤが腕を組み、目を閉じて瞑想しているようだった。彼の膝の上には、手入れの行き届いた愛用のナイフが置かれている。
ラルフは一番奥の席で、帽子を目深に被り、すでに眠っているように見えた。この男の神経の図太さは装甲車並みだ。
クラークはモニターに視線を戻した。
画面上の小さな光点が、国境線を示す赤いラインを越えようとしている。
「現在、コロンビア領空へ侵入」
クラークがマイクに向かって報告する。
「了解。ここからは低空飛行でレーダーを掻い潜る。揺れるぞ」
マティアスの操縦桿さばきと共に、機体が高度を下げた。樹冠を舐めるような超低空飛行。窓の外を、緑色の壁が高速で流れていく。
順調だった。あまりにも順調すぎた。
クラークがそう感じた瞬間だった。乾いた破裂音がヘッドセットの中で弾け、鼓膜を刺激した。
「ぐっ……!」
クラークはとっさにヘッドセットを外した。次の瞬間、目の前の通信コンソールから青白い火花が散った。
「何だ!?」
クラークは思わず身を引いた。その瞬間、コンソールの内部からシューッという音と共に、白煙が猛烈な勢いで噴き出した。
「火災発生! 通信機が燃えている!」
クラークが叫ぶ。
煙は瞬く間に狭い機内に充満し、ゴムとプラスチックが焼ける強烈な悪臭が鼻をつく。
「くそっ! 消火器だ! 早くしろ!」
ラルフの怒号が響く。
だが、火の回りは異様に速かった。
通信機のパネルが溶け落ち、その奥にある主要な電源ケーブルへと炎が這い上がっていく。まるで生き物のように、正確に、致命的な部位へと。
「
マティアスが悲鳴に近い声を上げた。
「トリムが効かない! 昇降舵が反応しないぞ!」
機体がガクリと頭を下げた。
内臓が浮き上がるような浮遊感。それはすぐに強烈な荷重へと変わる。
「手動に切り替える! ケーブルを引け!」
マティアスが必死にレバーを操作するが、機体は独楽のようにきりもみ回転を始めた。
遠心力で身体がシートに押し付けられる。視界が回転し、煙で何も見えない。
「衝撃に備えろ!」
誰かの叫び声。それがラルフのものか、ハビエルのものか、クラークには判別できなかった。
窓の外に迫る緑色の壁。
――トラヴィス。
死の瞬間に脳裏をよぎったのは、親友の名前だった。
また守れなかった。また何もできないまま終わるのか。
轟音。
金属が引き裂かれる甲高い音。
そして、世界は唐突に暗転した。
目覚めは、痛みではなく、静寂によってもたらされた。
「ううっ……」
クラークは重い瞼を開けた。
視界がぼやけている。額から温かい液体が流れて、目に入りそうになるのを手で拭った。血だ。
身体を動かしてみる。痛みはあるが、骨は折れていないようだ。奇跡的だった。
クラークはシートベルトを外し、よろめきながら立ち上がった。
機体は無惨な姿を晒していた。胴体部分は真っ二つに折れ、後部機体はどこかへ消え失せている。クラークがいた前方は、巨木になぎ倒されるようにして地面に激突していた。
断裂した配線から火花が散っている。燃料の匂いが鼻をつく。爆発していないのが不思議なくらいだ。
「マティアス!」
クラークはコックピットへ這い進んだ。
パイロット席のマティアスは、操縦桿を握りしめたまま動かなかった。
フロントガラスを突き破った太い枝が、彼の胸を貫通していた。即死だ。
「くそっ……」
クラークは振り返り、客室部分を見た。
「ハビエル……カズ……」
名前を呼ぶ声が震えた。
座席の残骸の中に、二人の姿があった。
ハビエルは、ひしゃげた機体のフレームに挟まれていた。いつも陽気な冗談を飛ばしていたその口からは、どす黒い血が溢れ、目は見開かれたまま虚空を見つめている。
カズは、さらに悲惨だった。シートベルトの強烈な圧迫痕と共に、首があらぬ方向に曲がっていた。あの鋭い手刀を繰り出す手も、今はただの冷たい肉塊の一部でしかない。
「うっ……」
強烈な吐き気が込み上げてきた。
クラークは膝をつき、胃の中のものをぶちまけた。
酸っぱい胃液の味と、鉄錆のような血の匂い。脳裏に、カンダハルの光景がフラッシュバックする。
『情報で守る』と誓った親友トラヴィスの、原形を留めない遺体。
そして今、またしても自分の目の前で、仲間たちが肉塊に変わってしまった。
「あ……ああ……」
震えが止まらない。俺だけが生き残った。何の役にも立たない俺だけが、なぜ……。
――しっかりしろ、クラーク・スティル!
内なる声が叱咤した。
ここは敵地だ。感傷に浸っている場合ではない。生き残ったのなら、生き残った者の義務を果たせ。
クラークは顔を上げ、涙と鼻水で汚れた顔を袖で拭った。
……そうだ、大佐はどうした?
クラークは機内を見回した。
一番奥にあったはずのラルフの席は、衝撃で根本から引きちぎられ、機外へと放り出されていた。だが、そこに遺体はない。
「大佐?」
周囲を探したが、ラルフの姿は見当たらなかった。生きているのだろうか?
「大佐! ラルフ大佐!」
クラークは叫んだ。だが、返ってくるのはジャングルのざわめきだけだった。
先に外へ出て、周囲の警戒に当たっているのかもしれない。
クラークは機体の床に転がっているAKMと、予備のマガジンを回収した。そして墜落現場を離れ、鬱蒼とした緑の地獄へと足を踏み出した。
ジャングルは息苦しいほどの生命力に満ちていた。
頭上を覆う巨大な樹冠が日光を遮り、昼間だというのに薄暗い。腐葉土の匂いと、むせ返るような湿気がクラークの肺を満たす。
「大佐……どこへ行ったんですか」
クラークは銃を構え、慎重に歩を進める。
鳥たちの甲高い鳴き声が嘲笑うように響く。時折、どこか遠くから肉食獣らしき低い唸り声が聞こえてきた。
クラークの神経は極限まで張り詰めていた。情報将校として画面上の敵と戦うことには慣れていても、ジャングルでの孤独なサバイバルは専門外だ。
シダ植物の葉が擦れる音一つで、心臓が跳ね上がる。
誰かに見られている――そんな強迫観念がクラークを襲った。木の陰から、葉の隙間から、無数の目が自分を品定めしているような感覚。
「ハビエルなら、こんな場所でも笑って歩いたんだろうな」
ふと、そんな独り言が漏れた。
「カズなら、気配を消して悠々と進んだだろう」
だが、彼らはもういない。いるのは、デスクワーク上がりの
三十分ほど周囲を探索したが、ラルフの痕跡は見つからなかった。
足跡も、血痕もない。まるで蒸発してしまったかのようだ。
機体が空中で分解した時に、もっと手前で放り出されたのだろうか?
不安が焦燥感へと変わる。一人では任務遂行どころか、生還すら危うい。
クラークは一度、墜落現場に戻ることにした。機体に残っているサバイバルキットや無線機――あの焼け焦げた鉄屑が使い物になればだが――を回収し、態勢を立て直すべきだ。
自分の足跡を頼りに、もと来た道を戻る。
やがて木々の隙間から黒煙が見えてきた。ツイン・オッターの残骸だ。
「……!」
クラークは足を止めた。
誰かいる。
機体の残骸のそばに、人影があった。
特徴的なバンダナ、逞しい背中、そして使い込まれたコンバットベスト。
「大佐!」
安堵で膝が抜けそうになった。生きていた。やはりあの男は不死身だったのだ。
クラークは茂みをかき分け、駆け寄った。
「大佐、ご無事でしたか! 探しましたよ」
ラルフは機体の内部、ちょうどクラークが座っていた通信士席のあたりを覗き込んでいた。
クラークの声が聞こえているはずなのに、彼はすぐには振り返らなかった。
微動だにせず、何かを凝視している。
「……大佐?」
クラークは歩調を緩めた。何かがおかしい。
ラルフが覗き込んでいるのは、黒焦げになった通信コンソールだ。
火花が散り、すべてが始まった場所。
ラルフの手が、焼けただれた配線の一部を掴んでいるのが見えた。
「……クラーク」
低く、地を這うような声だった。
ラルフがゆっくりと振り返る。
「ああ、無事だったか」
言葉とは裏腹に、その声音には一片の温かみもなかった。
そして、完全にこちらを向いたラルフの表情を見た瞬間、クラークの足が凍りついた。
憎悪。
純粋で、煮えたぎるような殺意。
ラルフの青い瞳は、敵を見る目つきでクラークを射抜いていた。
「た、大佐……?」
クラークが後ずさりしようとした瞬間、ラルフが素早い動作でAKMを構えた。
黒い銃口が、正確にクラークの眉間に向けられる。
「動くな」
「な……何をするんですか、大佐! 俺です、クラークです!」
クラークは両手を挙げ、叫んだ。
墜落のショックで錯乱しているのか? 頭を打ったのか?
だが、ラルフの目は正気だった。正気そのものの冷徹さで、クラークを「標的」として認識していた。
「ああ、知ってるとも。クラーク・ウェリントン」
ラルフは忌々しげに名前を吐き捨てた。クラークが捨てたはずの苗字を。
「元情報将校。エリート。そして……この墜落を仕組んだ
「な……何を言って……」
「とぼけるな!」
ラルフの怒号がジャングルに響き渡り、鳥たちが一斉に飛び立った。
「俺は見たぞ。あの通信機、ただのショートじゃねえ。配線が人為的に細工されていた。時限式の発火装置だ。そして、そこに座っていたのは誰だ? 一番怪しい動きができたのは誰だ?」
クラークは愕然とした。
「待ってください! 俺じゃありません! 俺も危うく死ぬところだったんですよ!?」
「スパイなら脱出の手順も用意していただろうさ。現にお前は無傷だ。他の仲間はどうなった? マティアスは? ハビエルは? カズは?」
ラルフが一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「あいつらは死んだ。お前が殺したんだ」
「違います! 信じてください!」
「黙れ!」
カチャリ、とセーフティを外す音が、クラークの耳には死刑執行の合図のように聞こえた。
ラルフの指がトリガーにかかる。
「俺は最初からお前を信用していなかった。貴様……スパイだな?」
誤解だ。完璧な誤解だ。
だが、状況証拠はあまりにも揃いすぎている。焼け焦げた通信機、唯一の生存者である元情報将校。そしてラルフの根深い不信感。
弁解の言葉が見つからない。言葉を紡ぐよりも早く、銃弾が放たれるだろう。
――こんな終わり方があるか……。
親友との誓いを果たすためにここに来た。新しい仲間と共に戦うはずだった。
だが、その仲間は死んだ。そして今、上官の手によって殺されようとしている。
ジャングルの湿った風がクラークの頬を撫でる。銃口の向こうにあるラルフの瞳には、一切の迷いがなかった。
「地獄で詫びてこい」
ラルフが引き金を絞る。
クラークの視界が、銃口の闇一点に収束していった。