傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~ 作:パワーポイント・レンジャー
その刹那、風が動いた。
ラルフの背後にある、鬱蒼としたシダの茂みが不自然に揺れた。風向きとは逆の揺れ。そして緑の葉の隙間から覗く、冷ややかな黒い筒先。
――敵だ!
思考よりも先に、生存本能が肉体を突き動かす。クラークはその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
同時に、腰のホルスターからグロック17を引き抜く。狙いはラルフではない。その背後の死神だ。
ラルフの目が驚愕に見開かれるのと同時に、クラークはトリガーを絞った。
9ミリパラベラム弾がラルフの脇をすり抜け、茂みの中へと吸い込まれる。
「ぐあっ!」
くぐもった男の呻き声。
ラルフの反応は神速だった。クラークの銃から放たれた弾丸が飛んでいった方向へ旋回しながら、AKMをフルオートで叩き込む。
激しい銃声がジャングルを震わせ、茂みが細切れにちぎれ飛び、赤い血飛沫が舞う。
どさり、と重量物が倒れる鈍い音がした。
静寂が戻った。
硝煙の匂いが、腐葉土の匂いを塗り替えていく。
クラークは地面に膝をついたまま荒い息を吐いた。銃口からは細い煙が立ち上っている。
ラルフが油断なく残心を示しながら茂みに近づき、軍用ブーツのつま先で中を確かめる。
「……死んでるな」
ラルフがかき分けた茂みの隙間から、迷彩服を着た男の死体が見えた。胸を赤く染め、虚ろな目で空を見上げている。おそらく研究施設の警備兵だろう。
クラークの弾丸が敵兵の肩を砕き、ラルフの弾丸が息の根を止めたのだ。
ラルフがゆっくりと振り返った。
その瞳からは、先ほどまでの燃えるような憎悪は消えていた。だが警戒心が消えたわけではない。探るような、冷徹な指揮官の目がそこにあった。
「……俺を撃つチャンスだったはずだ。スパイならな」
ラルフが低い声で言った。
クラークはグロックをホルスターに戻し、ゆっくりと立ち上がった。
「俺はスパイじゃありません。それに、ここであなたを殺せば、俺もこのジャングルで野垂れ死ぬだけです。損益分岐点を計算した結果ですよ」
憎まれ口を叩くことで、震えそうになる膝を叱咤する。
ラルフは鼻を鳴らし、AKMの安全装置をかけ直した。
「敵兵に発見されたようだ。銃声を聞きつけて仲間が集まってくる。一刻の猶予もない。行くぞ」
「……了解」
謝罪も感謝の言葉もない。だが、銃口が向けられていないことが、今のクラークにとっては十分な休戦協定だった。
二人は緑の地獄へと足を踏み入れた。
ラルフが先頭を行き、クラークが背後を警戒する。
ジャングルは敵意に満ちていた。足元の泥濘は体力を奪い、頭上の樹冠はGPSの電波を遮断する。そして何より、見えない敵の気配が常に肌を刺す。
数十分後、前を行くラルフが拳を上げ、停止の合図を送った。
前方の木立の陰に二つの人影。斥候だ。
「右はお前、左は俺だ。同時にやるぞ」
ラルフの囁きにクラークは頷き、AKMを構えた。
二人の銃声がほぼ同時に重なり、兵士たちが音もなく崩れ落ちた。
クラークたちは素早く死体に駆け寄る。ラルフが慣れた手つきで死体のポケットを探り、予備のマガジンと手榴弾を抜き取っていく。そしてクラークを見た。
「何をしている? 突っ立ってないで回収しろ」
クラークは立ち尽くしていた。
足元の兵士はまだ若い。自分と同じくらいの歳だろう。
死後硬直も始まっていない、温かい死体。そのベルトポーチには、AKM用の弾倉と、数発の9ミリ弾が入っている。それを奪えというのか。
「……士官学校では、戦死者の尊厳を冒してはならないと教わりました。略奪行為は軍法会議ものです」
クラークの言葉に、ラルフは呆れたように吐き捨てる。
「ここは教室じゃねえ。戦場だ。それに、俺たちは正規軍じゃなく傭兵だ」
ラルフは死体の胸倉を掴み、乱暴に装備を剥ぎ取ってクラークに投げつけた。
「いいか、坊ちゃん。綺麗事で腹は膨れねえし、弾も補充できねえ。こいつらはお前を殺すつもりで弾を持ってきたんだ。だったら、それを有効活用してやるのが、せめてもの供養ってもんだ」
「……」
「生き延びたければやれ。泥を啜るのが嫌なら、最初から来るんじゃなかったな」
ラルフは冷ややかな口調で言い放ちながら、死体から奪い取った予備のマガジンをポケットに突っ込んだ。
……そうだ。ここで高潔さを守って死ぬことに何の意味がある? 生き残って、任務を遂行してこそ、親友との誓いは果たされるんだ。
クラークは唇を噛み、屈み込んだ。
死体の感触。生々しい血の温もり。吐き気が喉元まで込み上げたが、それを強引に飲み込んだ。
震える手でポーチを開け、弾倉を抜き取る。死人の所有物を自分のものにする。それは、クラーク・ウェリントンという紳士が死に、クラーク・スティルという傭兵が完全に生まれた瞬間だった。
「……確保しました」
「上出来だ。行くぞ」
それから数時間、二人はジャングルを彷徨った。
ラルフの戦闘能力は異常だった。気配を殺して接近し、ナイフ一本で敵を無力化する。あるいは、わざと音を立てて敵を誘導し、待ち伏せて殲滅する。
その動きは野獣のように荒々しく見えて、実は極めて計算高い
クラークも必死に食らいついた。
敵の位置を予測し、ラルフの死角をカバーする。奪った弾薬で敵を撃ち、また奪う。そのサイクルを繰り返すうちに、罪悪感は摩耗し、代わりに非情な効率性が身についていった。
そして視界が開けた。
「……行き止まりか」
二人の前には、濁った水をたたえた大河が横たわっていた。
川幅は広く、対岸は霞んで見えるほど遠い。流れは速く、泳いで渡るのは自殺行為だ。
さらに悪いことに、中洲と対岸には監視塔が設置され、重機関銃を構えた兵士たちが目を光らせている。
「正面突破は不可能ですね。蜂の巣にされます」
クラークが双眼鏡で確認しながら言った。
「迂回するには時間が足りねえな。夜まで待てば赤外線センサーの餌食だ。さて、どうするか」
ラルフが忌々しげに舌打ちをした時だった。
「大佐、あれは……」
クラークが指差した先。川沿いの鬱蒼としたマングローブの林の中に、人工的なカモフラージュネットが張られているのが見える。その隙間から金属質の光沢が覗いていた。
「ヘリか……?」
二人は慎重に接近した。
そこには、小型のヘリコプターが一機、隠されるように駐機されていた。
周囲には見張りの兵士が二人。タバコを吸いながら談笑している。
ラルフが双眼鏡で機体を確認する。
「ベル206……いや、それをベースにした改造機か。研究施設の幹部用の脱出手段かもしれんな」
ラルフは双眼鏡を下ろし、クラークを見た。
「おい、クラーク。ヘリの操縦はできるか?」
「えっ?」
「イエスかノーで答えろ。マティアスはもういねえんだ」
クラークは一瞬ためらった後、答えた。
「……はい。民間ヘリなら」
「そうか。よし、俺が奴らを掃除してくる。お前はここで待機してろ」
ラルフはAKMをその場に置き、コンバットナイフを抜いた。
「援護は?」
「いらん。音を立てるなよ」
言い残すと、ラルフは影のようにマングローブの根元へと滑り込んでいった。
巨体に似合わない静寂な動き。水面すら揺らさないその潜入技術に、クラークは息を呑んだ。
戦車を殴り壊すだけが能じゃない。この男は、殺しのプロフェッショナルなのだ。
一人の兵士が、ふと背後の気配に気づいて振り返ろうとした。
その瞬間、ラルフが水面から飛び出した。濡れた腕が兵士の首に巻きつき、声帯を押し潰す。ボキリ、という乾いた音がして、兵士が崩れ落ちる。
もう一人の兵士が驚いて銃を構えようとするが、遅すぎた。
ラルフが投げたナイフが、兵士の喉元に深々と突き刺さる。悲鳴を上げる間もなく、二人の見張りは排除された。
ラルフが木陰のクラークに向かって手招きした。
クラークはラルフのAKMを拾い上げ、身を低くして駆け寄った。
「鮮やかな手際ですね」
「お前の操縦もお手並み拝見といこうか。墜落させるなよ」
二人は、死体が首に下げているIDカードを奪い取った。研究施設の認証キーだろう。これがあれば、正面から堂々と潜入できる可能性がある。
クラークはそのIDカードを素早く首に下げた。それからヘリコプターのキャノピーを開け、操縦席に滑り込んだ。
計器類を確認する。
「燃料は満タン、バッテリー正常。軍用の暗号化無線と、後付けのミサイルジャマーが搭載されています。やはり改造機ですね」
「飛べるか?」
助手席に座ったラルフがシートベルトを締めながら尋ねる。
「ええ。俺が操縦したことのある機体より少し古臭いですが、基本構造は同じです」
クラークはメインスイッチを入れ、スターターを押した。
キュルルル……というモーター音に続き、頭上のローターが回転を始める。
激しい風切り音が周囲の草木をなぎ倒す。この音で敵に気づかれるのは時間の問題だ。
「急げ! 見つかったぞ!」
ラルフが叫ぶと同時に、対岸の監視塔から赤い曳光弾が飛んできた。
クラークは歯を食いしばり、コレクティブを引き上げた。機体が軽く浮き、腹に一瞬だけ重みが乗る。
サイクリックを前へ。機体は水面すれすれを滑るように加速した。
対岸からの銃撃。弾丸が水を叩く。
クラークは低すぎる高度を必死に抑え込み、銃撃圏を抜けた瞬間に機首を起こした。
計器が警告を吐く。だが針は限界を越えない。機体は軋みながらも大空へと舞い上がった。
眼下に広がるジャングルは、上空から見ればただの緑色の海だった。
クラークが操る改造ヘリコプターは、その海原を切り裂くように飛翔していた。
「悪くねえ腕だ。金持ちのボンボンにしちゃあな」
ラルフが窓の外を流れる景色を見下ろしながら言った。
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
クラークは計器盤の数値をチェックしながら答えた。
手汗が操縦桿を濡らす。実戦でのフライトは初めてだ。しかも、いつ対空ミサイルが飛んでくるかわからない敵地の上空で。
高校時代の優雅な遊覧飛行とは訳が違う。だが、不思議と恐怖は薄かった。隣に座るこの男の不敵な態度が伝染しているのかもしれない。
「十一時の方向。あれか」
ラルフの声に、クラークは視線を向けた。
川の上流、切り立った崖に囲まれた盆地の中に、その施設はあった。
表向きは廃墟となった工場跡地。だが上空から見れば、不自然に整備された道路と、巨大な換気ダクトが口を開けているのがわかる。
「間違いありません。ハイデルン総帥が示した座標と一致します」
「地下への入り口は?」
「メインゲートは厳重に警備されています。対空砲も見えますね。あそこに突っ込めば、着陸する前にスクラップですよ」
「裏口を探せ。ネズミの穴があるはずだ」
クラークは機体を旋回させ、施設の外周を偵察した。
崖の中腹に、輸送用の搬入口らしきプラットホームが見えた。警備は手薄だ。
「あそこなら降りられそうです。大型貨物用のエレベーターがあります」
「よし、行け。強引に着けるぞ」
「了解」
クラークは機首を向け、降下を開始した。
その時、コックピットのアラームが鳴り響いた。
『LOCK ON』の赤い文字が点滅する。
「レーダー照射! 狙われています!」
「かわして突っ込め!」
地上から白い煙の尾を引いて、携帯式地対空ミサイルが迫ってくる。クラークは反射的に機体を横滑りさせ、フレアを射出した。
まばゆい光の球が空中に散らばり、ミサイルがそれに吸い寄せられて爆発する。衝撃波で機体が激しく揺さぶられたが、制御は失っていない。
「いいぞクラーク、その調子だ! お前の腕を存分に見せつけてやれ!」
ラルフの口から初めて惜しみない称賛の言葉が飛び出した。
クラークの口元に微かな笑みが浮かぶ。
「了解! しっかり捕まっててくださいよ、大佐!」
再び発射されたミサイルをかわし、ヘリは煙の中を突破してプラットホームへと強行着陸した。
スキッドがコンクリートを削り、火花を散らして停止する。
「降りろ! 敵が来るぞ!」
ローターがまだ回っている中、二人は機体から飛び出した。
案の定、警備兵たちが慌てて駆けつけてくる。
「お出迎えだ!」
ラルフがAKMを腰だめに構え、咆哮と共に撃ち始めた。
クラークもAKMを構え、正確な射撃で敵の頭数を減らしていく。もはや躊躇いはない。奪った弾丸が敵の肉体を貫く。それは罪ではなく、生存のための手続きだった。
敵を排除した後、二人は貨物エレベーターの操作盤の前に立った。
ラルフがカードリーダーにIDカードを通すと、緑色のランプが点灯し、重厚な扉が音を立てて開いた。
そこから漂ってきたのは、ジャングルの腐敗臭とは異なる、薬品と冷たい金属の匂いだった。
「ここからが本番だ」
ラルフが新しいマガジンを装填し、チャージングハンドルを引く。
「人体兵器のデータ奪取、および施設の破壊。派手にいこうぜ」
「ええ。それに、ハビエルたちの弔い合戦も……ですね」
クラークが言うと、ラルフは一瞬だけ足を止め、振り返らずに言った。
「……ああ。借りは返してもらう」
エレベーターが降下を始める。暗闇の底で待ち受けるものは、科学の生み出した悪魔か、それとも狂気か。
クラーク・スティルは、かつての自分の殻を完全に脱ぎ捨て、戦士としての覚悟を瞳に宿し、その深淵へと降りていった。