傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~   作:パワーポイント・レンジャー

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荒野の檻

 五月下旬、ウェストポイントのミッチー・スタジアムの上空は、残酷なほどに澄み渡っていた。

 伝統的な灰色の制服を纏った約一千名の卒業生たちが、一斉に帽子を放り投げる。空を埋め尽くす白い帽子は、さながら平和を祝う鳩の群れのようだった。

 だが、クラークの目には、ただ重力に従って落下する布切れにしか映らなかった。

 

「やったな、クラーク! ついに終わったぞ! いや、始まりか!」

 

 隣で叫んだトラヴィスが、クラークの肩を強引に抱き寄せる。彼の輝く瞳には、歩兵小隊長として最前線に立つ未来への希望しか映っていないのだろう。

 クラークは唇の端だけで笑いを作り、友の背中を叩き返した。

 

 その日、クラークの肩には少尉の階級章――金色の延べ棒(ゴールド・バー)――が輝いた。

 だが彼にとってそれは、名誉ある徽章ではなく、逃れられない運命を象徴する、重たい金色の足枷だった。

 

 学士号授与、任官式。周囲が歓喜と涙に包まれる中、クラークの心臓だけが冷たい音を立てて鼓動していた。

 自分の意思とは無関係に決定された、陸軍情報科への配属。父の支配する「ウェリントン・インテリジェンス」と同じ、情報の檻。

 これから始まるのは、泥と汗にまみれる熱い戦場ではなく、空調の効いた部屋で数字と記号を弄ぶ、冷徹な日々だ。

 

 

 

 束の間の猶予期間、クラークはマンハッタンに戻っていた。

 街は初夏の日差しに溢れ、人々の活気で満ちている。だが、クラークの世界には灰色のフィルターがかかっていた。

 

 そんな中で行われた、トラヴィスと彼の婚約者エリーの結婚式。それは皮肉なほどに温かく、美しかった。

 教会に響く賛美歌。純白のドレスに身を包んだエリーは、素朴な愛らしさを湛え、トラヴィスを見上げていた。

 トラヴィスもまた、彼女を守り抜くという決意に満ちた顔をしている。二人の間にあるのは、計算も損得もない、純粋な信頼と愛情だった。

 

 ――ああ、これが「幸福」というものか。

 

 クラークは参列席の端で、シャンパングラスの泡を見つめながら思った。

 自分は一生、あの場所には行けないだろう。温かい家庭を知らずに育った自分が、誰かとあのような信頼関係を築けるとは到底思えなかった。

 

 その夜、クラークは恋人のヴィクトリアを呼び出した。場所はアッパー・イースト・サイドにある彼女の行きつけのレストランだ。

 キャンドルの灯りが揺れる個室で、クラークは淡々と別れを告げた。

 

「……別れる? どういうこと?」

 

 ヴィクトリアは、磨き上げられたカトラリーのように鋭い視線を向けた。

 彼女はマンハッタンの社交界に咲く華であり、プライドの塊だ。クラークとの結婚は、家柄も釣り合い、将来有望な将校というアクセサリーを手に入れる完璧なシナリオだったはずだ。

 

「俺は君を幸せにできない。任地は辺鄙な場所ばかりになるし、君が望むような社交生活は提供できない」

 

「そんなの言い訳よ! 私がどれだけ待っていたと思ってるの? 卒業したらすぐに結婚できるって、パパにもママにも言っちゃったのよ!」

 

 ヴィクトリアの声が裏返り、感情のダムが決壊した。

 彼女は泣き崩れ、テーブルクロスを握りしめた。美しい顔が歪み、マスカラが涙で滲んでいく。

 

「私に恥をかかせるつもり!? 信じられない、最低よ!」

 

 彼女は泣きわめき、クラークを罵った。その醜悪な姿を目の当たりにして、クラークの心は急速に冷却されていった。

 彼女の嘆きは、クラークを失う悲しみによるものではない。自分のプライドが傷つけられたことと、自分のシナリオが狂ったことへの怒りだ。

 感情を制御できず、ヒステリックに喚き散らす彼女の姿は、クラークが最も苦手とする非論理的な存在そのものだった。

 同時に、こうも思った。彼女の激情を受け止めきれない自分こそが、やはり欠陥品なのだと。

 

「すまない。だが、もう決めたことだ」

 

 クラークはそれ以上何も言わず、勘定を済ませて席を立った。背後で何かが割れる音がしたが、振り返らなかった。

 重荷がひとつ下りた。これで誰にも気兼ねなく、孤独な檻へ向かえる。

 

 

 

 引っ越しの準備は簡素なものだった。もともと執着のある私物は少ない。

 荷物を詰め込んだシルバーのトヨタ・カムリのエンジンをかける。マンハッタンの摩天楼が、バックミラーの中で小さくなっていく。

 目指すはアリゾナ州、フォート・ワチュカ。アメリカ陸軍情報教育研究センターが置かれた、軍事情報の総本山である。

 東海岸から南西部の国境地帯へ。約二千四百マイル、三泊四日の大陸横断ドライブが始まった。

 

 最初の二日は、まだよかった。緑豊かな丘陵地帯や、見慣れた都市の風景が続いたからだ。

 しかし、ミズーリ川を越え、オクラホマを抜け、テキサスの広大な平原に入ると、風景から色彩が失われていった。緑が消え、赤茶けた土と、乾いた岩肌が視界を支配し始める。

 

 四日目。アリゾナ州に入ると、風景は一変した。

 南下するにつれて標高が上がり、見渡す限りの乾いた黄金色の草原が広がっている。ここに来るまでは、フェニックス周辺のような典型的な砂漠――巨大な柱サボテンが並ぶ荒涼とした風景を想像していたので、意外だった。

 

 エアコンを最強にしても、窓ガラス越しにじりじりと焼けるような日差しが肌を刺す。地平線まで続くのは、棘のある低木と、熱に揺らぐアスファルトの一本道だけ。

 カーステレオから流れるラジオは、時折ノイズ混じりのスペイン語放送に切り替わる。メキシコ国境が近い証拠だ。

 

 ――よりによって、こんな地の果てか……。

 

 クラークはハンドルを握りながら、深いため息をついた。

 

 シエラビスタの街に入ると、遠くに巨大な岩の塊のようなワチュカ山脈が見えてきた。

 フォート・ワチュカのゲートを通過すると、綺麗に整備されているが、どこか無機質な基地の風景が広がっていた。建物はすべて、荒野に溶け込むようなベージュ色や赤茶色で統一されている。

 受入処理センターに入ると、冷房が効きすぎていて肌寒かった。

 行政手続きは淡々と進んだ。書類を提出し、更新されたIDカードを受け取る。写真の中の自分は、数日前の自分よりも少しだけ目が死んでいるように見えた。

 

「独身士官宿舎はあちらです、少尉」

 

 事務的な口調の職員に案内されたのは、基地の隅にある無機質な集合住宅だった。

 駐車場にカムリを停め、エンジンを切る。静寂が耳に痛い。

 荷物を部屋に運び込む。ベッド、机、小さなクローゼット。生活に必要な最低限の家具だけが置かれた部屋は、独房のように殺風景だった。

 窓の外には、茶褐色の険しい山肌が壁のように聳え立っているだけだ。

 

 荷解きもそこそこに、クラークは情報教育研究センターへと向かった。配属先となる情報士官基礎課程の訓練部隊に到着報告をするためだ。

 廊下ですれ違う将校や下士官たちは、皆一様に眼鏡をかけ、知的な雰囲気を漂わせているが、どこか血の通っていない冷たさを感じさせた。

 歩兵科の連中が持つような熱気や、粗野なエネルギーはここにはない。

 

「ウェリントン少尉、到着しました」

 

「ご苦労。明日からさっそく講義が始まる。0800までに指定の大講義室へ入れ」

 

 自己紹介、スケジュールの確認、規律の説明。すべてが効率的で無駄がない。最後に、必要な装備品リストを渡され、クラークは早々に部屋に戻った。

 ベッドに横たわると、天井のシミが目についた。

 

 スマートフォンを取り出す。トラヴィスからは「落ち着いたら連絡をくれ」とメッセージが入っていた。

 そして父からは「家名を傷つけぬよう、立派にやれよ」とのメッセージ。

 クラークはため息をつきながら、父からのメッセージを削除した。

 

 スマートフォンを放り出し、目を閉じる。

 恐ろしいほど静かだ。虫の声すらしない。ただ、遠くで空調の室外機が低い唸り声を上げているだけだ。

 ここには何もない。あるのは、膨大なデータと、それを処理するための閉塞感だけ。明日から始まる、情報の檻での生活を思うと、胃のあたりが重く沈んだ。

 

 

 

 翌朝、アリゾナの太陽は容赦がなかった。カーテンの隙間から差し込む光が、レーザーのように鋭く室内を焼き尽くす。

 クラークは軍服に袖を通し、鏡の前で襟を正した。金色の少尉階級章が照明の下で冷たく光る。

 指定された大講義室に入ると、ひんやりとした空気に包まれた。

 階段状になっている教室には、すでに数名の新任少尉たちが座っていた。クラークは目立たず、かつ全体が見渡せそうな中段の席を選んで座った。

 

 しばらくすると、六十名ほどの少尉たちが集まった。見回して気づくのは、女性の多さだ。男女比は半々といったところか。

 士官学校では、女子の士官候補生は二割程度しかいなかった。泥にまみれて行軍し、重い機関銃を担ぐ歩兵や機甲科とは違い、知的能力が最優先される情報科は、女性士官にとってキャリアを築きやすい人気の兵科なのだ。

 彼女たちの表情は明るく、これから始まる専門教育への期待に満ちているように見えた。

 最前列に陣取り、ノートパソコンを開いて準備万端の者もいる。

 クラークは頬杖をつき、冷めた目でそれを見ていた。彼らにとってここは希望の入り口かもしれないが、自分にとっては敗北者が送られる収容所だ。

 

「諸君、ようこそフォート・ワチュカへ」

 

 教官が入室し、講義が始まった。

 スクリーンに投影されるのは、複雑な組織図や情報の分類コード、分析の方法論。

 

「情報とは何か。それは単なるデータではない。指揮官が決断を下すための確信である」

 

 教官の言葉は正論だが、クラークの心には響かない。こうして情報教育の基礎課程が始まった。

 それはクラークが予想していた通り――いや、それ以上に退屈で、精神を摩耗させる日々だった。

 Indicators、OODA Loop、HUMINT、SIGINT、INTSUM……朝から夕方まで、窓のない講義室に缶詰になり、膨大な専門用語と略語を脳に叩き込む。

 演習といえば、机の上で地図を広げ、仮想敵国の部隊配置を分析し、脅威評価レポートを作成することばかりだ。

 

「ウェリントン少尉、この衛星画像から読み取れる敵の意図は?」

 

「敵戦車部隊は河川渡河を意図して集結中。橋梁の強度が不足しているため、工兵による架橋作業を待機していると推測されます」

 

「正解だ。よく細部まで見ている」

 

 クラークは優秀だった。皮肉なほどに。数字のパターン認識、論理的推論、空間把握能力。どれをとってもトップクラスの成績を叩き出した。

 教官たちは彼を称賛し、同僚たちは彼を頼った。

 

「ねえクラーク、ここの分析どうすればいいの?」

 

「ウェリントン、お前のレポートの書き方、手本にさせてくれよ」

 

 だが、評価されればされるほど、クラークの心は乾いていった。

 自分の得意なことが、自分のやりたいことではないという絶望。この才能こそが、自分を戦場から遠ざけ、この荒野の教室に縛り付けている元凶なのだ。

 

 休日は逃げるようにカムリを走らせた。

 だが、どこへ行っても広がるのは乾いた風が吹き抜ける荒野だけだ。棘だらけの低木が墓標のように点在している。

 かつて銀山で栄えたトゥームストーンやビスビーを訪れても、観光地化された西部の歴史は空虚に感じられた。

 

 空はどこまでも高く、青い。だがその青さは、心を癒やす水のような青ではなく、すべてを焼き尽くす炎の青だった。

 この閉塞感。世界から切り離され、荒野と情報の中に閉じ込められた感覚。

 四ヶ月間、クラークはこの情報の檻の中で、ただひたすらに耐え続けた。自分が自分でなくなるような、緩やかな窒息感と共に。

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