傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~ 作:パワーポイント・レンジャー
回転翼が空気を切り裂く音が、断末魔のように不規則なリズムを刻んでいた。
燃料計の針が赤いラインの底を舐めている。限界だった。
「大佐、オートローテーションに入ります。衝撃に備えてください」
「任せるぜ、クラーク」
隣席のラルフが不敵な笑みを浮かべた。
そこにかつてのような侮蔑と不信の色はない。あるのは、死線を共に潜り抜けた者だけが共有する、乾いた連帯感だけだった。
眼下には緑の地獄が広がっていた。
コロンビアとブラジルの国境付近、地図上の空白地帯。アマゾンの密林は、落ちてくる獲物を待ち構える巨大な捕食者の口のように、黒々とした闇を湛えている。
クラークは機体を傾け、蛇行する川のほとり、わずかに開けた砂礫の岸辺を目がけてヘリを滑り込ませる。
スキッドが地面を削り、泥と砂利を巻き上げながら、機体は激しい振動と共に停止した。
エンジンをカットすると、世界から音が消えた。
いや、違う。人工的な轟音が消えた瞬間、濃密な湿気と共に、ジャングルの鼓動――無数の蟲の羽音、鳥の鋭い鳴き声、風が木々を揺らすざわめき――が、圧倒的な質量を持って押し寄せてきたのだ。
二人は無言で機体を降りた。
夕闇が迫っている。太陽は密林の彼方に沈みかけ、空は血のような赤からどす黒い紫へと変色しつつあった。
「ここから基地までは、ざっと五百キロってところか」
ラルフが軍用ブーツで砂利を踏みしめながら、空を見上げて呟いた。
「徒歩での帰還は絶望的ですね。今の装備と食料では、三日も持たないでしょう」
クラークは感情を殺した声で現状を分析した。数字と論理で状況を固定しなければ、精神が崩壊しそうだった。
背嚢の中にあるのは、水筒とわずかなレーション、サバイバルナイフ。そして手には弾薬の尽きかけたAKM、ホルスターにはグロック。それだけだ。
だが、クラークの脳裏を支配しているのは、自身の生存確率ではなかった。
瞼を閉じれば、あの光景が焼き付いている。
爆炎に包まれる研究施設。培養装置の中に浮かぶ子供たち。そして最後に目が合った、栗色の髪の少女。
彼女を見捨てた。
トラヴィスを救えなかったあの日と同じように、またしても無力な傍観者として背を向けたのだ。
「ぼーっとしてる暇があったら手を動かせ、クラーク」
ラルフの太い声が、クラークを現実に引き戻した。
「日が暮れる。ジャングルの夜は、お前がいたエアコンの効いたオフィスとはわけが違うぞ。寝床を探そう」
ラルフは手近な枯れ木をマチェットで払いながら、森の奥へと歩き出した。その背中は、どんな絶望的な状況でも揺らぐことがない岩塊のようだった。
クラークは黙ってそれに続いた。今は、この男の生存本能に従うしかない。
川岸から少し入った岩場に、手頃な洞窟を見つけた。入り口は狭いが、奥行きがあり、雨風をしのぐには十分だった。
二人は手分けして流木や枯れ枝を集め、洞窟の入り口で火を熾した。
揺らめく炎が、洞窟内の岩肌と、二人の煤けた顔を照らし出す。
ラルフは背嚢からレーションを取り出すと、一つをクラークに放り投げた。
「食え。味がどうこう言ってる場合じゃねえぞ」
封を開けると、味気ない固形物が現れた。以前なら顔をしかめていただろうが、今はそれを機械的に咀嚼し、胃袋に流し込む。エネルギーに変えなければ死ぬ。単純な等式だ。
食べ終えると、ラルフはAKMを膝に乗せ、洞窟の入り口に胡座をかいた。
「俺が先に見張る。お前は寝ておけ。日付が変わる頃に起こす」
「……了解」
クラークは岩肌に背を預け、目を閉じた。
体は鉛のように重い。だが、意識は冴え渡り、眠気など微塵も訪れなかった。
静寂が訪れると、死者たちの声が聞こえてくる気がした。
――クラロ、アミーゴ!
陽気なハビエルの声。墜落した機体の中で、ひしゃげた鉄塊に押し潰されていた彼の亡骸。
――プロレスの話の続きは、地獄でしよう。
カズの静かな声。常に冷静だった彼もまた、非業の死を遂げた。
そして、あの少女。
彼女は今頃、瓦礫の下で冷たくなっているのか。それとも、業火に焼かれたのか。
『全員死ぬか、俺たちだけが生き残るか』
ラルフの言葉が呪いのようにリフレインする。それは正しい判断だった。論理的にも、軍事的にも、一点の曇りもなく正しかった。
だが、正しいことが魂を救うわけではない。
クラークは暗闇の中で、自分の手が血に濡れている幻覚を見た。洗っても落ちない、裏切りと罪悪の血だ。冷徹な仮面の下で、クラークの精神は悲鳴を上げていた。
「……寝付けねえか」
焚き火の方から、低い声がした。
クラークは目を開けた。炎の向こうで、ラルフが背中を向けたまま座っている。
「ええ。ジャングルの音が、少しうるさくて」
「嘘をつけ」
ラルフは鼻で笑った。
「あのガキのことか」
図星だった。クラークは沈黙で肯定した。
ラルフは手元の小枝をポキリと折り、火の中にくべた。
「俺たちは英雄じゃねえ。ただの掃除屋だ。拾える命と、拾えねえ命がある。それを選別するのが、生き残った俺たちの仕事だ」
「わかっています。頭では」
「なら、心臓にも言い聞かせろ。引きずってたら、次はてめえが死ぬ番だ」
乱暴な言葉だったが、そこには奇妙な優しさが含まれていた。
ラルフもまた、数え切れないほどの仲間と、救えなかった民間人の死体の上を歩いてきた男だ。
彼の背中が語っている。忘れろとは言わない、ただ背負って歩け、と。
時間が過ぎ、交代の時刻が来た。
ラルフは横になると、数秒もしないうちに規則正しい寝息を立て始めた。この神経の太さは、もはや才能と言うべきだろう。
クラークは焚き火の前に座り、AKMを抱えた。
火を絶やさないように薪をくべる。爆ぜる音だけが友だった。
闇の奥から、獣の低い唸り声が聞こえてきた。おそらくジャガーだ。食物連鎖の頂点に立つ捕食者の気配。
だが、クラークは恐怖を感じなかった。人間が作り出す悪意や、組織が強いる冷酷な決断に比べれば、ただ食うために襲ってくる獣など純粋ですらある。
クラークは夜の闇を見つめ続けた。
かつてのエリート情報将校クラーク・ウェリントンは、あの研究施設で死んだ。今ここにいるのは、罪を背負い、泥水を啜ってでも生き延びようとする一匹の傭兵、クラーク・スティルだ。
夜明けまで、彼は亡霊たちと対話し続けた。
闇に包まれたジャングルに、かすかな光が差し込んできた。
湿った空気が肺を満たす。
ラルフは起きるなり、大きく伸びをして首を鳴らした。
「よし、生き延びたな。だが、本当の地獄はこれからだ」
レーションは昨夜で底をついた。ここからは、アマゾンの恵みを奪い取る生活が始まる。
「釣り竿を作るぞ。お前、ナイフは使えるか?」
「人並みには」
「なら、そこの藪から蔓を集めてこい。俺は仕掛けを作る」
ラルフの指揮の下、サバイバル生活が始まった。
士官学校では、ジャングルでの生存訓練も受けたはずだった。マニュアルも読んだ。
だが、ラルフの技術は教科書通りではない。それは経験と勘、そして野性的な直感に裏打ちされた、生きた技術だった。
木の枝としなる蔓、そして安全ピンを加工した釣り針。ラルフの手にかかれば、ゴミ同然の素材が一級の道具に変わる。
川面に釣り糸を垂らして数分もしないうちに、ラルフの竿がしなった。
「かかった! 見ろ、でかいぞ!」
水面を割って現れたのは、金銀の鱗を持つ大きな魚だった。タンバキーだ。
ラルフは子供のようにはしゃぎながら、魚を岸に引き上げた。
「へえ、大佐もそんな顔ができるんですね」
クラークが軽口を叩くと、ラルフはにやりと笑った。
「食い物が絡めば別だ。さあ、捌くぞ。内臓は捨てるなよ、次の餌にするからな」
その日の夕食は、タンバキーの塩焼きだった。
淡白だが脂の乗った白身は、空っぽの胃袋に染み渡るような旨味を持っていた。
「悪くないですね」
クラークは素直に認めた。
「だろ? こいつの骨でスープを取ればもっと最高なんだがな」
ラルフは骨までしゃぶり尽くす勢いで食らいついている。
食事をしている間だけは、死者の幻影が薄れた。生きるという行為の力強さが、死の匂いを一時的に遠ざけてくれるようだった。
数日が過ぎ、AKMの弾薬を使っての狩りが始まった。
ターゲットはカピバラだ。クラークは、水辺で日向ぼっこをしている巨大なネズミに銃口を向けた。
「いいか、狙うなら頭だ。一発で仕留めないと、水に逃げられて沈んじまう」
ラルフの指導を受け、クラークは慎重に照準を合わせた。
引き金を絞る。乾いた銃声と共に、カピバラが崩れ落ちた。
解体作業は血生臭い仕事だった。だが、不思議と嫌悪感はなかった。これは殺戮ではない。生命の循環だ。
焚き火で焼かれたカピバラの肉を前に、クラークは少し躊躇した。
「……本当に食えるんですか、これ。巨大なネズミですよ」
「ネズミの肉の中じゃ、唯一こいつだけが美味いんだ。騙されたと思って食ってみろ」
ラルフに促され、恐る恐る口に運ぶ。
……意外だった。
「豚肉に似てますね。癖がない。柔らかい」
「言ったろ? アマゾンの御馳走だ」
ラルフは満足げに頷いた。
だが、弾薬は有限だ。二週間も経つと、AKMもグロックも沈黙した。
そこでラルフが作り出したのは、弓矢だった。強靭な木材を削り出し、蔓を弦にした原始的な武器。
ラルフの適応能力は異常だった。彼は現代兵器を失っても、何ひとつ戦闘力が落ちていないように見えた。むしろ、この野蛮な環境を楽しんですらいる。
「次はリスだ」
ラルフは木の上を指差した。そして弓を引き絞り、呑気に木の実を食べている大型のリスに向けて矢を放った。リスは矢に射抜かれ、地面に落ちてきた。
哀れにも食材となったリスを焼きながら、ラルフはまたしても美食家のような講釈を垂れる。
「リスの肉は、木の実の風味と甘みがあって美味いぞ」
クラークは焼き上がったリスの肉をかじった。
確かに、微かな甘みがある。木の実の香ばしさと、野性味溢れる肉の味が混ざり合い、独特の風味が口の中に広がった。
「これは……ラムと鴨の中間、といったところですね。弾力のある肉ですが、ナッツのような香りと甘みが口いっぱいに広がって……とにかく美味いです」
クラークが評すると、ラルフは大声で笑った。
「お前、食レポの才能があるな! インテリ辞めてグルメ記者にでもなれよ」
クラークもつられて小さく笑った。こんな状況で笑えるなど、思いもしなかった。
ラルフ・ジョーンズという男は、太陽のような男だ。その熱量が、クラークの凍りついた心を少しずつ溶かし、生きるためのエネルギーを注ぎ込んでいた。
ジャングルの時間は、文明社会のそれとは異なる速度で流れていた。
湿気で腐り落ちる倒木。急速に成長する蔦。生と死が秒単位で入れ替わるこの世界で、クラークとラルフもまた風景の一部となりつつあった。
研究施設を脱出してから、すでに二週間が経過していた。
クラークの金髪は汚れ、無精髭が顎を覆っている。かつての洗練されたエリート将校の面影は見る影もなかった。
迷彩柄の戦闘服は破れ、泥と煤にまみれている。だが、その瞳には以前にはなかった、鋭く野太い光が宿っていた。
ラルフもまた顎鬚をたくわえ、より一層、野性味を増していた。彼が手製の弓を持って森に立つ姿は、現代の兵士というよりは太古の狩人のようだった。
「よう、クラロ。今日は大漁だ」
ラルフが川から戻ってきた。その手には、色鮮やかなレオパードキャットが数匹ぶら下がっている。
「ハビエルがつけてくれた愛称ですね。……悪くない響きだ」
クラークは火の番をしながら短く応じた。ハビエルの陽気な笑顔を思い出し、胸が温かくなる。
「ああ、あいつは見る目があったってことだ。お前は確かに『
ラルフは魚をナイフで手際よく捌きながら言った。
「俺は最初、お前のことをただのパワーポイント・レンジャーだと思ってたがな。事務屋が戦場で何ができるんだって」
「否定はしませんよ。実際、俺は戦場を数字でしか見ていなかった」
クラークは枯れ木を折って火にくべた。パチパチという音が、二人の間の沈黙を埋める。
「だが、お前は逃げなかった。あの研究施設でも、そしてこのくそったれなジャングルでもな。……背中を預けるに値する男だ」
ラルフは視線を魚に向けたまま、ぼそりと言った。
クラークの手が止まった。
伝説の傭兵、ラルフ・ジョーンズからの承認。それは、どんな勲章よりも重みのある言葉だった。
「……光栄ですね。あなたにそう言ってもらえるとは」
クラークは皮肉っぽく返そうとしたが、声が少し震えたのを自覚した。
二人は焼けた魚を黙々と食べた。レオパードキャットの白身は脂が乗っていて、焦げた皮の苦味すら美味だった。
生きている。その実感が、胃袋から全身へと広がっていく。
仲間を失い、少女を見捨て、それでも自分たちは泥水を啜って生き延びた。その罪悪感は消えない。だが、ラルフと共に過ごしたこの二週間が、クラークに一つの確信を与えていた。
生き残った者には、義務がある。それは、死んでいった者たちの分まで強く、図太く、命を燃やし続けることだ。
その時だった。
遠くから、微かな異音が聞こえてきた。
鳥の鳴き声ではない。風の音でもない。規則的な低周波の振動音。
クラークとラルフは同時に顔を見合わせる。次の瞬間には焚き火に砂をかけ、身を低くして藪の中に飛び込んでいた。
二週間で培われた阿吽の呼吸だった。
「ヘリだ」
ラルフが鋭く囁く。
「一機じゃない。二機……いや、三機か」
音は急速に近づいてくる。
敵の追撃部隊か? 研究施設の組織が、口封じのためにこの広大なジャングルをしらみつぶしに探しているのか?
ラルフは弓矢を構え、クラークは最後のマガジンが装填されたグロックを握りしめた。弾は残り三発。
頭上の木々が激しく揺れ、強烈なダウンウォッシュがジャングルの天蓋を叩く。
機影が見えた。
黒塗りのボディ。機体側面に描かれた、特徴的な蜥蜴のエンブレム。
クラークの目が大きく見開かれた。
「……大佐、あれは!」
「ああ、見間違えるはずがねえ!」
ラルフが弓を下ろし、藪から飛び出した。
彼は大きく両手を振り、空に向かって叫んだ。
「おーい! ここだ! 迎えが遅えぞ、この野郎!!」
それは、ハイデルン傭兵部隊の捜索救難ヘリだった。
上空でホバリングする機体から、ロープが投下される。降下してきたのは、完全武装した味方の兵士たちだった。
彼らがラルフとクラークの生存を確認し、サムズアップを送る。
クラークは全身の力が抜けるのを感じた。緊張の糸が切れ、膝から崩れ落ちそうになるのを、精神力で押し留める。
救助隊員が駆け寄ってくる。
「生存者発見! ジョーンズ大佐、スティル少尉! ご無事ですか!」
「無事に見えるか? 腹が減って死にそうだ。基地に帰ったらステーキを三人前用意しておけ!」
ラルフは隊員の肩を叩き、豪快に笑った。
クラークもまた、ゆっくりと立ち上がった。ヘリコプターの爆音が、今は安らぎの音に聞こえる。
ラルフが振り返り、クラークに手を差し出した。
「行くぞ、クラーク。俺たちの戦争はまだ終わってねえ」
クラークは、その大きく分厚い手を握り返した。
「ええ、行きましょう。大佐」
ロープで機体に引き上げられる最中、クラークは眼下のジャングルを見下ろした。
緑の樹海が、小さくなっていく。
二週間を過ごしたあの場所。そこには、エリート将校だった「クラーク・ウェリントン」の抜け殻が置き去りにされているはずだ。
そして今、ヘリに乗っているのは、本物の傭兵「クラーク・スティル」。
彼は胸元のドッグタグを――トラヴィスの形見を――服の上から強く握りしめた。
風が、彼の伸びた金髪を激しくかき乱した。その表情は、以前よりも遥かに力強く、前を見据えていた。