傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~   作:パワーポイント・レンジャー

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帰還

 ブラジルの奥地に潜むハイデルン傭兵部隊の基地。その最奥にある総帥執務室の空気は、ジャングルの湿気とは無縁の、研ぎ澄まされた刃物のように冷たく乾燥していた。

 重厚なマホガニーのデスクの向こうに、その男は座っていた。

 ハイデルン。この武装集団を統べる総帥。

 右目を覆う黒い眼帯、そして感情を一切読み取らせない青い瞳が、生還した二人の男を射抜いている。

 

「報告は聞いた。生還ご苦労だった」

 

 ハイデルンの声は低く、そして重い。それは労いの言葉であったが、同時に次の死地へと赴くための楔のようにも響いた。

 

「任務の第一目標であるデータ奪取および施設の破壊は達成された。だが、代償は小さくなかったようだな」

 

「へっ、とんだピクニックでしたよ」

 

 隣に立つラルフが悪態をついた。その顔には無精髭が残り、疲労の色は濃いが、瞳の力強さは失われていない。

 

「優秀な仲間を三人失いました。……私の責任です」

 

 クラークは直立不動の姿勢で言った。言葉の端に隠しきれない苦渋が滲む。

 ハイデルンは片方の眉をわずかに動かし、クラークを見据えた。

 

「責任を感じる必要はない。彼らは契約を全うしただけだ。そしてお前もまた、極限状況下で指揮官を補佐し、生還を果たした。その功績は評価に値する」

 

 ハイデルンは手元の書類にサインをし、それをクラークの方へ滑らせた。

 

「本日付けで、クラーク・スティル少尉を中尉に昇進させる。辞令だ」

 

 クラークはその紙切れを見下ろした。

 中尉。階級が一つ上がった。だが、その昇進は何の重みも持たなかった。肩に乗っているのは階級章の重さではなく、ジャングルに置いてきた三つの魂と、見捨てた少女の幻影の重さだけだったからだ。

 

「……拝命いたします、総帥」

 

「一週間のデブリーフィングの後、一ヶ月の休暇を与える。体を休めろ。以上だ」

 

 執務室を出ると、基地の廊下は無機質な蛍光灯に照らされていた。

 空調の低い唸り音が耳鳴りのように響く。

 

「中尉、か。出世街道まっしぐらだな、元エリート様」

 

 ラルフが歩きながらにやりと笑った。そこには皮肉ではなく、戦友としての軽いからかいが含まれていた。

 

「給料が上がるなら悪くありませんね。もっとも、使う暇があればの話ですが」

 

「違いねえ。ま、とりあえずは仕事だ。残務処理が終わるまでが遠足だからな」

 

 特殊作戦部のオフィスに戻ると、クラークは自身のデスクに向かった。

 ここには、まだ主の帰りを待つかのように、ハビエルの使いかけのマグカップや、カズが読んでいたフランス語のペーパーバックが置かれたままになっている。

 クラークはそれらから視線を外し、パソコンの電源を入れた。

 任務報告書の作成。かつて情報将校として何千回と繰り返してきた事務作業だ。

 キーボードを叩く指は滑らかだった。

 

『侵入経路:南西ルート』

『交戦状況:敵警備兵約一個小隊と接触』

『損耗:ハビエル軍曹、カズヤ曹長、マティアス中尉、戦死』

 

 無機質なフォントがモニターを埋めていく。事実だけを羅列する。感情は排除する。それがレポートの鉄則だ。

 だが、指先が止まる瞬間があった。

 

『施設破壊状況:地下研究区画を全壊』

 

 その一行を打つとき、脳裏にあの光景がフラッシュバックした。

 培養液の中の子供たち。そして、無垢な瞳でこちらを見ていた、栗色の髪の少女。

 彼女のことは報告書には書けない。「民間人の犠牲」という統計上の数字に含まれるだけだ。クラークは奥歯を噛み締め、エンターキーを強く叩いた。

 

 数時間後、完成した報告書をプリントアウトし、ラルフのデスクへ持っていった。

 ラルフは足をデスクに投げ出し、葉巻をくゆらせていたが、報告書を受け取ると一瞥して頷いた。

 

「完璧だな。さすが元情報科の事務屋だ、隙がねえ」

 

 ラルフは報告書を放り投げると、デスクの引き出しから分厚い封筒を取り出し、クラークに突きつけた。

 

「さて、次は一番きつい仕事だ。クラーク、お前の出番だぞ」

 

「これは?」

 

「戦死通知書と、遺族への手紙だ。俺は文章を書くのが苦手でな。それに、これに関しては俺よりお前の方が適任だ」

 

 クラークは封筒の中身を確認した。ハビエル、カズ、マティアスの人事ファイル。そこには彼らの本名と、緊急連絡先――家族の住所が記されている。

 

「俺はあいつらのロッカーを片付けてくる。所持品の処分だ。お前は、あいつらがどう生きて、どう死んだか、家族に嘘をついてやれ」

 

「嘘を、ですか」

 

「『勇敢に戦って死んだ』。それだけでいい。間違っても『無惨な肉塊になった』とか『墜落死だ』なんて書くんじゃねえぞ。それが残された者への慈悲ってもんだ」

 

 ラルフは椅子から立ち上がると、黒いゴミ袋を手に取った。

 

「終わったら郵便窓口に出しておけ。俺は外の焼却場にいる」

 

 そう言い残し、ラルフはオフィスを出ていった。その背中は、戦場での頼もしさとは違う、ある種の哀愁を帯びていた。

 

 クラークは一人、静まり返ったオフィスに取り残された。

 手紙を書く。それは銃を撃つよりも遥かに神経を削る作業だった。

 まずはマティアス。彼は若いパイロットだった。故郷の母親へ、彼がいかに優れた操縦技術で仲間を救ったか、その最期がどれほど英雄的だったかを、定型文に少しの彩りを加えて記した。

 

 次にハビエル。

 本名、カルロス・エストラーダ・サンチェス。

 クラークはペンの先を紙の上で止めた。

 ただの定型文では終わらせたくなかった。あの陽気な男は、クラークを「クラロ」と呼び、この異質な部隊に居場所を作ってくれた恩人だ。

 クラークはペンを走らせた。

 

『エストラーダ・サンチェス軍曹は、部隊の太陽でした。彼の明るさが、過酷な戦場における我々の唯一の救いでした。彼は優れた戦士であると同時に、人の心の機微を理解する、真に優しい男でした』

 

 彼が「カルロス・エストラーダ・サンチェス」として生きていた頃のことは何も知らない。ただ、「ハビエル」という男の真実だけを綴り、そっと封をした。

 

 最後に、カズ。

 書類を見る。本名、カズヤ・スミトモ。

 クラークの目が、その文字列に釘付けになった。

 

「スミトモ……?」

 

 記憶の検索が一瞬で完了する。

 日本の三大財閥の一つ、住友。世界経済の一角を担う巨大なコングロマリット。

 

 ――まさか。

 

 クラークはカズの横顔を思い出した。

 常に冷静で理知的。プロレスという野蛮なショーを愛しながらも、その語り口には洗練された知性が宿っていた。

 フランス外人部隊を経て、ここへ流れ着いた男。

 ウェリントン・インテリジェンスの御曹司であるクラーク・ウェリントンが、家を捨て、名を捨てて傭兵になったように――カズもまた、何かから逃れ、あるいは何かを求めて、この血塗られた世界に身を投じた同類だったのか。

 

 なぜ、生前に気づかなかった。

 もし知っていれば、プロレスの話以外にも、もっと深い話ができたかもしれない。家という呪縛について、期待されることの重圧について、そしてそこから逃げ出した罪悪感について。

 クラークは苦い笑みを浮かべた。

 皮肉な話だ。ここには過去を捨てた男たちが集まる。だが、死して初めて、その捨てたはずの過去が浮き彫りになる。

 クラークはカズの家族に宛てる手紙を書いた。

 

『彼は静寂を愛する、高潔な戦士でした。私とは趣味を通じて深い絆で結ばれていました。彼との語らいは、私にとって何にも代えがたい時間でした。彼は最期まで、誇り高い男として生きました』

 

 宛先は、日本の大阪にある一等地。

 クラークは封を閉じた。これで、彼らの人生という物語は、公式には幕を閉じる。

 

 書き終えた手紙を基地内の郵便窓口に出すと、クラークは外へ向かった。

 日が傾きかけている。裏庭にある焼却場の方角から、黒い煙が細く立ち上っていた。

 コンクリートの壁に囲まれた焼却スペースで、ラルフが一人、ドラム缶の中で燃え盛る炎を見つめていた。

 足元には、空になった黒いゴミ袋が転がっている。

 

「終わりました、大佐」

 

 クラークが声をかけると、ラルフは振り返らずに言った。

 

「そうか。こっちも今、終わったところだ」

 

 ドラム缶の中では、服や本、小物類が炎に包まれ、灰へと変わろうとしていた。

 そこに見覚えのある表紙の本があった。カズが読んでいた本だ。ページがめくれ、火の粉となって舞い上がる。

 

「……中身は確認しないんですか?」

 

 クラークが尋ねると、ラルフは炎に照らされた顔をこちらに向けた。

 

「傭兵の世界のルールだ。仲間の遺品は、そのまま燃やして処分する」

 

 ラルフの声は厳粛だった。

 

「身分証、家族の写真、恋人からの手紙、日記……。そんなもんを見てみろ。あいつらがここに来る前にどんな人生を送っていたか、誰に愛されていたか、知っちまうことになる」

 

 ラルフは足元の石を蹴り、ドラム缶に放り込んだ。

 

「知っちまえば情が湧く。情が湧けば、引き金を引く指が鈍る。俺たちは死神だ。人間臭いエピソードなんて背負ってたら、次は俺たちが焼かれる番になる」

 

 それは非情なようでいて、極めて合理的な、そしてある意味では優しいルールだった。

 死者のプライバシーを守り、生者の精神を守るための儀式。

 クラークは炎を見つめた。

 ハビエルの陽気な笑顔、カズの静かな語り口、マティアスのあどけない表情。

 物質的な証拠はこの炎で消滅する。彼らがこの世に存在した痕跡は、今、煙となって空へ消えていく。

 だが。

 

「……物は消えても、記憶は消えませんよ」

 

 クラークが呟くと、ラルフは微かに口元を緩めた。

 

「ああ。俺とお前が覚えている限り、あいつらは死なねえ。それで十分だ」

 

 二人は並んで、炎が燃え尽きるのを待ち続けた。

 立ち上る煙の向こうに、一番星が光り始めていた。死んでいった戦友たちが、空からこちらを見下ろしているかのように。

 

 

 

 遺品を燃やした日から三日が過ぎた。

 基地の生活は平穏を取り戻しつつあったが、クラークの中にある澱のような感情は消えていなかった。

 それは喪失感だけではない。明確な怒りの火種が、胸の奥でくすぶり続けていた。

 あの墜落は事故ではない。人為的な工作だった。

 通信士席のコンソールが発火した瞬間。あれが全ての始まりだった。

 誰が仕掛けたのか。

 

 その日の午後、クラークはラルフから呼び出された。

 

「犯人が割れたぞ、クラーク」

 

 もたらされた情報は簡潔かつ決定的だった。

 整備班に紛れ込んでいた男。敵対組織から送り込まれた産業スパイ。そいつが離陸直前、通信機の配線に時限発火装置を仕掛けたのだ。

 すでに男は拘束され、地下の尋問室で「適切な処理」を受けているという。

 

 クラークは大きく息を吐いた。

 これで、ラルフが一瞬とはいえ自分を疑った「裏切り者(ラット)」の疑惑は、物理的にも完全に晴れたことになる。

 だが、安堵よりも先に湧き上がったのは、どす黒い殺意だった。

 たった一人の裏切りによって、三人の優秀な傭兵が死に、クラークとラルフは地獄を見た。

 許せるはずがなかった。

 

 さらに二日が経過した。

 早朝、宿舎の個室で身支度を整えていたクラークの元に、ハイデルンからの呼び出しがかかった。

 場所は執務室ではなく、基地の裏手にある射撃訓練場だという。不穏な気配を感じながら、クラークは足を運んだ。

 

 朝霧が立ち込める訓練場には、すでに人だかりができていた。

 特殊作戦部だけでなく、他の部隊の傭兵たちも集まっている。殺気立った、独特の雰囲気が漂っている。

 その中心に、一脚の椅子が置かれていた。

 そこに縛り付けられている男がいる。顔は殴打され腫れ上がり、軍服はボロボロだ。あのスパイだ。

 その傍らに、腕を組んで立つハイデルンの姿があった。

 ラルフもいる。彼はクラークの姿を認めると、無言で顎をしゃくった。

 

「来たか、クラーク」

 

 ハイデルンの声が、朝の冷気を通して響いた。

 クラークはハイデルンの前まで歩み寄り、敬礼した。

 

「お呼びでしょうか、教官」

 

「この男の処分が決まった。極刑だ」

 

 ハイデルンは冷徹に告げた。

 

「我が部隊において、裏切りは万死に値する。通常であれば憲兵隊が処理を行うところだが……今回は特別だ」

 

 ハイデルンの青い瞳が、クラークの深層心理を覗き込むように光った。

 

「お前にはその権利がある。非業の死を遂げた友の仇を、自らの手で討ちたいか?」

 

 試されている。

 クラークは瞬時に理解した。これは単なる処刑ではない。儀式だ。

 情報将校としてのクラーク・ウェリントンであれば、法に基づいた裁きや、あるいは情報の搾取を優先しただろう。感情による私刑など、文明人のすることではないと否定したはずだ。

 だが、今の自分は誰だ?

 アマゾンの泥水を啜り、友の死を見つめ、生きるために殺し続けてきた男だ。

 

 クラークは椅子に縛られている男を見た。

 男は虚ろな目で震えている。恐怖に支配された、ただの肉の塊として。

 

「……はい。俺がやります」

 

 クラークの口から出た言葉は、驚くほど低く、落ち着いていた。

 ハイデルンは無言で頷き、道を空けた。

 

 クラークはホルスターから愛用のグロック17を抜いた。

 掌に吸い付くようなポリマーフレームの感触。薬室に弾が送り込まれる金属音。

 衆人環視の中、クラークはスパイの正面に立った。距離は三メートル。

 スパイが顔を上げた。

 

「た、助け……」

 

 命乞いの言葉。

 クラークは眉一つ動かさなかった。感情のスイッチを切り、ただの機構(メカニズム)になる。

 かつて父の会社で見た数字の羅列のように、目の前の男を「処理すべき障害」として認識する。

 銃口を上げる。照星が男の眉間にピタリと重なる。

 

 ――ハビエル、カズ、マティアス……そして、名も知らぬ少女へ。

 

 心の中で呟いたその言葉は、祈りであり、決別だった。

 

 乾いた破裂音が一つ。

 男の頭が後ろへ跳ね上がる。

 間髪容れず、銃口をわずかに下げ、左胸へ。

 二発目。心臓を破壊する、確実な死の宣告だった。

 男の体が椅子の上で痙攣し、やがて糸が切れた人形のように動かなくなった。

 完璧なダブルタップ。硝煙の匂いが鼻孔をくすぐる。それは不思議と、心を鎮める香りのように感じられた。

 

 静寂が場を支配した。

 誰も言葉を発しない。ただ、クラークの冷徹な手際に対する畏怖と、無言の承認が漂っていた。

 クラークはゆっくりと銃を下ろし、セーフティをかけ、ホルスターに戻した。

 振り返ると、ラルフが立っていた。彼は何も言わなかった。ただ深く、力強く頷いた。その瞳は「ようこそ、こちらの世界へ」と語っているようだった。

 ハイデルンが近づいてきた。

 

「見事だ。休暇を楽しめ、クラーク」

 

 それだけ言い残し、彼はマントを翻して去っていった。

 

 解散していく傭兵たちの波の中で、クラークは空を見上げた。抜けるような青空が広がっている。

 復讐は終わった。だが、死んだ仲間は帰ってこない。胸の中にある空洞は、きっと一生埋まることはないだろう。

 ……それでいい。この空洞こそが、クラーク・スティルという傭兵が背負うべき業なのだから。

 

 クラークは自らの手で地獄に送ったスパイに背を向け、ラルフの前に立った。

 

「一杯付き合ってくださいよ、大佐」

 

「ああ、いいぜ。とびきり強い酒を奢ってやる」

 

 二人の男は並んで歩き出した。

 その足取りは重い。だが、迷いはもう、どこにもなかった。

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