傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~ 作:パワーポイント・レンジャー
乾杯、くそったれなバンコクの夜に
スパイの処刑という冷たい儀式を終えた翌日、クラークは特殊作戦部の部隊長室に呼び出された。
部屋に入ると、窓のブラインドが下ろされており、薄暗い空間にモニターの青白い光だけが浮かんでいた。ラルフはデスクに肘をつき、苦虫を噛み潰したような顔で画面を睨んでいる。
「座れ、クラーク。ハッキングで引っこ抜いてきた『戦利品』の解析結果が出た」
ラルフが顎で予備の椅子を指した。
クラークは黙って腰を下ろした。あの研究施設から奪取したデータ。それは多くの血と命と引き換えに手に入れた、呪われたパンドラの箱だ。
「技術部の連中が言うには、大半は暗号化されたバイナリデータだ。遺伝子配列や神経伝達物質の化学式……俺たちの専門外だな」
ラルフはキーボードを叩き、ウィンドウを切り替えた。
「だが、計画書の概要と、いくつかの参考資料は復号できた。……胸糞悪い話だぞ」
画面に表示されたテキストには、『強化型クローン兵士開発計画』という文字が踊っていた。
培養されたクローン体をベースに、筋骨格の強化改造を施す。それだけではない。彼らの脳内に、戦闘経験豊富な別の人間の記憶データを直接インストールし、即席の熟練兵士を作り上げるというのだ。
「肉体はコピー、魂はインストール……人間を何だと思ってるんでしょうね」
クラークは吐き捨てるように言った。
「部品だろ。少なくとも、あの施設の連中にとってはな」
ラルフはマウスをクリックし、一つの動画ファイルを開いた。
「これは『記憶ソース』のサンプルデータらしい。見てみろ」
画面にノイズが走り、やがてブレのある映像が映し出された。
視点の高さからして、子供の記憶だろうか。
薄汚れた部屋。目の前に、銀髪の少年がいる。年はまだ十にも満たないだろう。肌は褐色で、どこか怯えたように泣きじゃくっている。
『お姉ちゃん……行かないで……』
少年の声。
映像はそこで激しく揺れ、視界の主が少年の頭を撫でる動作をしたようだ。
『泣かないで』
少女の声が聞こえた。もしかして、研究施設に置き去りにしてしまった、あの少女の声だろうか?
『またきっと会えるから。……あなたの代わりに、思いっきり泣いてあげる。だから……』
映像はそこでプツリと途切れた。
静寂が部屋に戻ってきたが、クラークの耳には少女の声が残響していた。
「……これは、あの少女の記憶なんでしょうか?」
クラークは自分でも驚くほど乾いた声で尋ねた。
「わからん」
ラルフは背もたれに体を預け、天井を見上げた。
「他のガキの記憶かもしれねえ。だが、状況からしてその可能性は高いだろうな」
クラークは拳を握りしめた。
あの少女は、ただの実験体ではなかった。誰かの姉であり、誰かを守るために、あそこで気丈に振る舞っていたのだ。
自分は、そんな彼女を見捨てた。
弟らしき銀髪の少年は、今どこにいるのか。彼もまた、あの狂気の実験の犠牲になったのか。
「……救えなかった」
無意識に言葉が漏れた。
ラルフが視線を戻し、低い声で言った。
「やめろ。ここで考えてたって答えは出ねえよ。俺たちは神父様じゃない。懺悔室に籠もっても、死者は生き返らねえ」
ラルフは強引に話題を断ち切るように、パンと手を叩いた。
「湿っぽい話はここまでだ。明日から一ヶ月の休暇だぞ。お前、どこに行くか決めたのか?」
クラークは顔を上げ、少し呆気にとられた。この男の切り替えの早さには、いつも舌を巻く。
「まだ決めていません。実家に帰る気もしませんし……まあ、本でも読んで過ごしますよ」
「本だあ? お前、せっかくの休みに活字中毒になる気か? 暗い、暗すぎるぞ!」
ラルフは机をバンと叩き、身を乗り出した。
「よし、俺にいい考えがある。一緒にバンコクに行こうぜ!」
「バンコク?」
「ああ、あそこは地上の楽園だ! 一年中暖かいし、飯は死ぬほど美味い。トムヤムクンにパッタイ、シンハービール! それに何より――」
ラルフはにやりと笑い、親指を立てた。
「酒も女も楽しめる。ちょっと足を伸ばせばパタヤのビーチもあるしな。物価が安いから、俺たちの給料なら王様気分だ。酒は飲み放題、綺麗なねーちゃんも抱き放題! 最高だろ?」
クラークは微かに目を見開いた。
既視感があった。
――今度の休暇はバンコクに行こうぜ、アミーゴ! あそこはパラダイスだ!
ハビエルだ。
あの陽気なラテン男が、生前、口癖のように言っていた台詞と全く同じだった。
ラルフはハビエルの言葉を覚えているのか、それとも単なる偶然か。どちらにせよ、この男は死んだ仲間のやりたかったことを、代わりに叶えようとしているように見えた。
クラークの口元に、自然と苦笑が浮かぶ。
「……ハビエルの受け売りですか?」
「ん? まあな。あいつが行きたがってた場所だ。俺たちが代わりに行って、土産話を作ってやるのも供養ってもんだろ」
ラルフは悪びれもせずに言った。
供養。この男にかかれば、酒と女遊びすらも神聖な儀式になるらしい。
「わかりました。付き合います」
クラークは肩をすくめた。
「ただし、羽目を外しすぎて憲兵のお世話になるのだけは御免ですからね」
「安心しろ。俺の辞書に『節度』って言葉はねえが、『逃走』のスキルは一級品だ」
翌朝、二人は軍用機と民間機を乗り継ぎ、東南アジアの熱帯、タイ王国へと降り立った。
スワンナプーム国際空港を出た瞬間、むっとするような熱気と、スパイスと排気ガスが混ざった独特の匂いが鼻をついた。
ジャングルの湿気とは違う、人間の欲望と活気が煮詰められたような空気だ。
二人はスクンビット通りにあるサービスアパートメントにチェックインした。
「いい部屋だ」
ラルフは広々としたリビングを見渡し、冷蔵庫からビールを取り出して一気に呷った。
「まずは腹ごしらえだ。街に出るぞ」
バンコクの夜は煌びやかだった。
屋台が連なる通りで、二人はプラスチックの椅子に座り、激辛のソムタムと焼き鳥を肴にビールを飲んだ。
辛さにむせるクラークを見て、ラルフは大笑いした。
「情けねえぞクラーク! ジャングルのトカゲよりはマシだろ?」
「トカゲの方が喉には優しかったですよ……」
涙目でビールを流し込む。
スーパーで山盛りのスナック菓子とウイスキーを買い込み、一旦部屋に戻って飲み直した頃には、クラークの酔いもほどよく回っていた。
だが、ラルフの夜はこれからだった。
「よし、エンジンがかかってきたな。行くぞ、クラーク」
「行くって、どこへ?」
「決まってるだろ。『ナナプラザ』だ」
ラルフの目が、狩人のそれに変わった。
「待ってください。俺はそういう店は……」
「拒否権はねえ。ハビエルの供養だと言ったろ? あいつも草葉の陰で『連れて行け』って泣いてるぞ」
ラルフは強引にクラークの腕を掴み、夜の街へと引きずり出した。
その背中は、戦場での行軍と同じくらい力強く、そして迷惑だった。
ナナプラザ。
スクンビット・ソイ4に位置するその場所は、コの字型の三階建てビル全体がネオンサインに彩られた、巨大な欲望の迷宮だった。
入口でのセキュリティチェック――といっても、銃を持っていないかカバンを覗かれる程度の形式的なものだ――を抜け、中庭に足を踏み入れると、そこは別世界だった。
ピンクや紫の照明が視界を染め、鼓膜を震わす大音量のダンスミュージックが鳴り響いている。
各店舗の前には呼び込みの女性たちが立ち並び、甘い声で男たちの腕を引く。
クラークは圧倒されていた。ウェリントン家のパーティーや、士官学校のダンスパーティーとはわけが違う。ここにあるのは、剥き出しの「性」と「金」の取引だ。
「おい、口が開いてるぞインテリ」
ラルフがクラークの脇腹を小突いた。
「二階に行くぞ。おすすめの店がある」
ラルフに先導され、エスカレーターで二階へ上がる。『Rainbow』という看板の店に入った。
重い扉を開けた瞬間、冷房の冷気と共に、さらに強烈なビートが襲ってきた。
店内の中央には巨大なステージがあり、そこではビキニ姿の――あるいはそれ以上の露出度の女性たちが、ポールに掴まりながら踊っている。
いや、踊っているというよりは、気怠げに体を揺すっているだけだ。その姿は、水槽の中を漂う熱帯魚のようにも見えた。
「どうだ、壮観だろ」
ラルフは慣れた手つきでウェイターにビールを注文し、ステージかぶりつきの席に陣取った。
「いいか、システムを教えるぞ。あの中で気に入った子がいたら呼ぶんだ。酒を奢って、話をして、気が合えば『連れ出し』だ」
ラルフはにやりと笑い、早速ステージ上の女性の一人を指差して呼んだ。
やってきたのは、愛嬌のある笑顔を浮かべた小柄な女性だった。決して一番の美人ではないが、ノリが良さそうだ。
ラルフはすぐに打ち解け、馬鹿笑いを上げながら乾杯している。
クラークは一人取り残された気分で、ビールをちびりと飲んだ。
ステージの上には数十人の女性がいる。皆、ナンバープレートをつけて、客からの指名を待っている。品定めされる商品。
倫理的な抵抗感がなかったわけではない。だが、隣でラルフが「ほら、お前も選べよ! 一番美人のあの子なんかどうだ?」と急かしてくる。
クラークはため息をつき、覚悟を決めた。
どうせなら、一番レベルの高そうな女性を選んでやろう。エリートのプライドが妙な方向へ働いた。
彼はステージの中央付近で踊る、際立って背が高く、モデルのようにスタイルの良い女性を指名した。
長い黒髪、切れ長の大きな瞳、陶器のように滑らかな肌。誰が見てもこの店一番の美女だ。
なぜラルフがこの女性を選ばなかったのか不思議に思いつつ、クラークは彼女を席に招いた。
「こんばんは」
彼女は優雅な所作でクラークの隣に座った。
近くで見ても、その美貌に曇りはない。香水の甘い香りが漂ってくる。
「一杯、いいかな?」
クラークが英語で尋ねると、彼女はにっこりと微笑んだ。
「もちろん。ありがとう、ハンサムなお兄さん」
タイ訛りの英語だが、聞き取りやすい。
「どこから来たの? アメリカ? それともヨーロッパ?」
「……まあ、そんなところだ」
クラークは曖昧に答えた。
「映画スターみたいね。目がとても綺麗」
彼女はクラークの腕にそっと手を置いた。その指は細く、しなやかだった。
悪い気はしなかった。戦場での緊張が、彼女の笑顔とアルコールで解れていくのを感じる。
しばらく会話を楽しんだ後、クラークはラルフに目配せをした。ラルフは親指を立てて「行け」と合図を送ってきた。
クラークはママさんを呼び、
彼女の手を取り、店を出る。向かう先は、二階にあるショートタイム用の個室だ。
部屋に入ると、彼女は慣れた手つきで照明を落とし、ベッドに座った。
「シャワー、浴びる?」
「いや、まずは……君の顔をもっと見せてくれ」
クラークは少し気取った台詞を言ってみた。ハードボイルド小説の探偵気取りだ。
彼女は妖艶に微笑み、立ち上がると、ゆっくりとドレスのファスナーを下ろした。
布が床に落ち、露わになる肢体。完璧なプロポーションだった。
クラークは息を呑んだ。
彼女は次に、背中に手を回し、ブラジャーのホックを外した。豊かな胸が解放される。
そして、最後に残った小さなレースのショーツに指をかけた。
クラークの鼓動が高鳴る。
彼女はショーツをするりと下ろし、ベッドの上に横たわった。
クラークは彼女の上に覆いかかろうとして――動きを止めた。
凍りついた。
思考が停止した。
彼女の股間には女性器がなかった。
そこにあるのは、手術痕のような傷跡と、未完成な造形。
明らかに、かつてそこには別のものが存在していた痕跡だった。
「……え?」
クラークの声が裏返った。
彼女はクラークの困惑を見て取り、悪戯っぽく微笑んだ。
「私、レディボーイね。綺麗でしょ?」
レディボーイ。
つまり……元、男。
クラークの脳内で情報が爆発した。
この完璧な美女が? 男?
「ま、待て。待ってくれ」
クラークは慌ててベッドから飛び退いた。
「聞いてないぞ。そんなことは」
「聞いてない? でも、バンコクじゃ普通よ?」
彼女は――いや、彼は心外そうに首を傾げた。
クラークは額に脂汗を浮かべた。
さすがに無理だ。元男とベッドを共にする趣味はない。
「す、すまない。急用を思い出した」
クラークは脱ぎかけたシャツのボタンを留めるのももどかしく、財布からチップを鷲掴みにしてテーブルに置いた。
「これで許してくれ!」
逃げるように部屋を飛び出した。
一階のバーに戻ると、ラルフがまだ同じ席で飲んでいた。
しかも、最初に呼んだ女性だけでなく、もう一人別の女性も侍らせて、王様のように踏ん反り返っている。
クラークが息を切らして戻ってくると、ラルフは口元についたビールの泡を拭いながら、にやにやと笑った。
「おや、もうお帰りか? 随分と早えな、中尉殿。まさか早撃ちガンマンか?」
クラークは椅子に崩れ落ち、頭を抱えた。
「違いますよ。あれは……」
「あれは?」
「……男でした」
クラークが絞り出すように言うと、ラルフは数秒間の沈黙の後、店が揺れるほどの大爆笑をした。
「ははははは! やっぱりか! やっぱり引いたか、大当たりだ!」
ラルフは腹を抱えて笑い転げている。
「知ってたんですか!?」
クラークは顔を赤くして抗議した。
「当たり前だろ! バンコクじゃな、とびきりの美女は大抵レディボーイなんだよ。あんなスタイルのいい美女がこの世にいるわけねえだろ!」
「だったら先に教えてくださいよ! 心臓が止まるかと思いましたよ!」
クラークの悲痛な叫びに、ラルフは笑い涙を拭きながら言う。
「馬鹿野郎。これも教育だ。自分で金払って恥かかなきゃ、身に沁みねえだろ?」
ラルフはクラークの背中をバシバシと叩いた。
「ま、いい経験になったじゃねえか。世の中、見た目通りじゃねえってことだ。戦場と同じだな」
クラークは深い深いため息をついた。
金は払い損。プライドはズタズタ。そしてラルフには一生の笑い話を提供してしまった。
「……もう二度と、この国の風俗店には入りません」
「そう言うなよ。次からはちゃんとチェックの仕方を教えてやるから」
ラルフは新しいビールを注文し、クラークに突き出した。
「ほら、飲み直すぞ。夜はまだ長いんだ」
クラークはグラスを受け取った。
冷えたビールの感触。
最悪の夜だ。だが、不思議と不快ではなかった。
笑い飛ばせる失敗。命のやり取りではない、ただの馬鹿げたトラブル。それがひどく平和で、人間らしく思えたからだ。
クラークは苦笑いを浮かべ、ラルフとグラスを合わせた。
「……乾杯。くそったれなバンコクの夜に」