傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~   作:パワーポイント・レンジャー

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通過儀礼

 エンジンの唸りを上げるレンタルバイクの背で、クラークは熱風に目を細めた。

 バンコクから南東へ約百五十キロ。国道三号線をひた走り、二人が辿り着いたのは「東洋のハワイ」と称される世界的なビーチリゾート、パタヤだった。

 クラークの目の前に広がっているのは、絵葉書のような南国の楽園ではなかった。

 弓なりに続くパタヤビーチ。その砂浜は想像よりも狭く、海の色も濁っている。だが、クラークの眉をひそめさせたのは、風景そのものではなく、そこを占拠している人間たちの群れだった。

 

 ビーチロード沿いのオープンカフェに腰を下ろすと、クラークはサングラスの位置を直し、周囲を見渡した。

 

「……ここは老人ホームの屋外レクリエーション場か?」

 

 クラークは冷ややかに呟いた。

 視界に入るのは、腹の出た中高年の白人男性ばかりだ。彼らの多くは、孫ほども歳の離れた現地のタイ人女性を連れている。

 男たちの顔に刻まれた皺と、だらしなく晒された贅肉。その表情には、本国での孤独や満たされない欲望が滲み出ていた。

 かつて軍属としてベトナムや湾岸で戦い、社会に戻れなくなってこの地に根を下ろした退役軍人たちの成れの果てか。

 彼らは昼間からビールを呷り、金で買った若さを侍らせ、虚ろな優越感に浸っている。

 

 クラークは、自分の手元にあるハイネケンのボトルを見た。自分もまた、彼らと同じような格好をし、同じ場所に座っている。

 脳内に警告音が響く。お前は彼らとは違う。あんなふうに堕ちてはいけない、と。

 

「大佐……バンコクに戻りませんか?」

 

 クラークは向かいに座っているラルフに言った。

 

「ん? 何言ってんだ。着いたばかりだぞ」

 

 ラルフは巨大なジョッキを傾け、豪快に喉を鳴らしている。

 

「空気が合いません。ここには、敗残者の匂いが充満しています」

 

「相変わらず潔癖だな、インテリ」

 

 ラルフは口元の泡を拭うと、にやりと笑った。

 

「あいつらはあいつらなりに、人生の黄昏時を楽しんでるんだよ。俺たちだって明日はどうなるかわからねえ身だ。他人の老後を笑えるほど、俺たちは立派な人間じゃねえぞ」

 

 ラルフの言葉は、痛いところを突いていた。

 確かに、ジャングルで人を殺し、その報酬で酒を飲んでいる自分たちが、彼らを裁く権利などない。

 

「それにだ」

 

 ラルフは身を乗り出した。

 

「パタヤに来て、ビーチだけで帰る馬鹿がいっかよ。本番はこれからだ」

 

「……嫌な予感がしますね」

 

「予感じゃねえ、確信しろ。行くぞ!」

 

 ラルフは伝票と紙幣をテーブルに叩きつけると、クラークの襟首を掴んで立たせた。

 

 連れて行かれたのは、ウォーキングストリートと呼ばれる歓楽街だった。

 通りの両側には無数のバーやクラブが軒を連ね、呼び込みの声が飛び交っている。

 ラルフは迷うことなく、一軒の巨大なゴーゴーバーへと足を踏み入れた。

 バンコクでの悪夢――レディボーイとの遭遇――が脳裏をよぎり、クラークの足がすくむ。

 

「大佐……まさかまた、俺に地雷を踏ませる気じゃありませんよね?」

 

「安心しろ。今日は実践的な『講義』だ」

 

 ラルフは薄暗い店内のソファ席にクラークを座らせると、真剣な顔つきで言った。

 

「いいか、クラーク。敵を見極めるには、目だけに頼るな。五感すべてを使え。これは戦場でもここでも同じ鉄則だ」

 

 ラルフはステージの上で踊る女性たちを指差した。

 

「まず、視覚情報だ。あの中で、モデル並みに背が高くて、スタイルが完璧で、顔立ちが整いすぎている奴。あれは百パーセント、レディボーイだ」

 

「……全員そう見えますが」

 

「よく見ろ。骨格、喉仏、手の大きさ。だが、最近の医療技術は凄まじい。外見だけじゃプロでも見分けがつかねえレベルのがゴロゴロいる」

 

 ラルフはシンハービールを一口飲み、声を潜めた。

 

「そこで、最終確認の手段がある」

 

「最終確認?」

 

「匂い、だ」

 

 ラルフは自分の鼻をトントンと叩いた。

 

「ステージから呼んで、隣に座らせる。ここまではバンコクと同じだ。だが、すぐに口説くんじゃない。まずはさりげなく距離を詰め、相手の首筋や髪の匂いを嗅げ」

 

「……変質者だと思われませんか?」

 

「チップを弾んでハグすりゃいいんだよ。いいか、ここが重要だ。どんなに完璧に女を装っていても、どんなに高い香水で誤魔化そうとしても、男の体臭ってのは消せねえ。ホルモンの匂いだ」

 

 ラルフの目は狙撃手のように鋭かった。

 

「逆に、本物の女なら、特有の甘い匂いがする。桃のような、あるいはミルクのような……生理的な柔らかい匂いだ。それが確認できて初めて、連れ出し(ペイバー)の交渉に入る。わかったか?」

 

 なるほど、論理的だ。

 クラークは感心した。この男は、遊びに関しても命懸けの真剣さを持っている。

 

「わかりました。試してみましょう」

 

 クラークはステージを見上げた。

 ラルフの教えに従い、飛び抜けて美しい高嶺の花は除外する。美しすぎるものは罠だ。それは自然界の掟でもある。

 クラークの目に留まったのは、ステージの端で少し控えめに踊っている女性だった。

 小柄で、愛嬌のある顔立ち。肌は健康的な小麦色。派手さはないが、どこか親しみやすさを感じさせる。

 クラークはウェイターに合図を送り、彼女を指名した。

 

「サワディーカー」

 

 彼女がテーブルにやってきた。はにかむような笑顔。クラークは彼女にレディスドリンクを奢り、隣に座らせた。

 会話を始める。英語はあまり得意ではないようだが、一生懸命コミュニケーションを取ろうとする姿勢に好感が持てた。

 十分後、クラークは機を見計らった。

 

「君の髪、とても綺麗だね」

 

 言いながら、自然な動作で彼女の肩を抱き寄せ、顔を近づける。彼女は嬉しそうに身を預けてきた。

 クラークは鼻腔を開き、神経を集中させた。

 シャンプーの香りがする。その奥にあるのは……。

 ムスクのような刺激臭ではない。桃のような、あるいは熟れた果実のような、柔らかく甘い香り。女性特有のフェロモンと体温が混じり合った、生命の匂い。

 

 ――シロだ。

 

 クラークの中で確信のフラグが立った。

 これは、本物だ。

 

 クラークはラルフの方を見た。ラルフはにやりと笑い、目配せをした。

 クラークはママさんを呼び、ペイバーを支払った。そして女性の手を取り、店を出て近くのホテルへと向かった。

 

 部屋での時間は、バンコクでの屈辱を完全に払拭するものだった。

 彼女の柔らかな肌、しなやかな肢体、そして何よりも、紛れもない女性としての反応。

 クラークは久しぶりに、泥のような眠りではなく、満たされた安らぎの中で微睡むことができた。

 

 一時間後、ホテルを出てラルフと合流した。

 ラルフは上機嫌で煙草をふかしている。

 

「どうだった、中尉?」

 

 ラルフがからかうように尋ねてきた。

 クラークは言葉を発さず、ただ静かに笑みを浮かべ、親指を立てた。

 完璧な作戦遂行(ミッション・コンプリート)

 ラルフは満足げに頷き、クラークの肩を叩いた。

 

「よし。これでやっと、お前も一人前の『観光客』になれたな」

 

 それからの日々は、まさに堕落という言葉がふさわしかった。

 時計を見るのをやめた。朝起きれば海を見ながらビールを飲み、夜になれば街へ繰り出し、女を抱く。

 思考を停止させること。それが、ジャングルで焼き付いた惨劇の記憶から逃れる唯一の手段だった。

 パタヤの熱気と喧騒は、麻酔薬のようにクラークの神経を麻痺させてくれた。

 

 だが、そんな生活が二週間も続くと、今度は別の感覚が首をもたげてきた。

 飽きだ。

 刺激が日常になると、それは退屈へと変わる。

 ある夜、バーのカウンターでラルフが欠伸を噛み殺しながら言った。

 

「……飽きたな」

 

「同感です。毎日が同じことの繰り返しですからね」

 

 クラークはグラスの氷をカランと揺らした。

 

「アジア系の女の子も悪くねえが、こう毎日だと刺激が足りねえ。もっとこう、脳味噌を揺さぶるような何かが欲しい」

 

 ラルフの目が、急にギラリと光った。

 

「よし、移動するぞクラーク」

 

「移動? プーケットにでも行くんですか?」

 

「馬鹿言え。同じタイ国内じゃ目先が変わらねえだろ」

 

 ラルフはカウンターに紙幣を投げ捨て、立ち上がった。

 

「次はヨーロッパだ。アムステルダムに行くぞ!」

 

「……は?」

 

 クラークが聞き返す間もなく、ラルフは出口へと歩き出していた。

 

「おい、早くしろ! チケットの手配だ。オランダの風車が俺たちを呼んでるぜ!」

 

 クラークは深いため息をついた。

 この男の思いつきに付き合うのが、部下としての最大の任務なのかもしれない。

 だが、不思議と嫌ではなかった。ここにはもう、用はない。

 クラークは残った酒を一気に呷り、ラルフの背中を追った。

 

 

 

 気候が変わった。

 スワンナプーム国際空港から約十二時間のフライトを経て、アムステルダム・スキポール空港に降り立った二人を迎えたのは、北海から吹き付ける湿った冷気だった。

 空は低く、鉛色に曇っている。パタヤの強烈な日差しとは対照的な、沈鬱で理知的なグレーの世界。

 だが、その冷たさが心地よかった。熱帯の湿気でふやけた脳が引き締められるようだ。

 

 中央駅近くのホテルにチェックインし、荷物を置くと、二人はすぐに街へ繰り出した。

 運河が張り巡らされた美しい街並み。石畳の路地。行き交う人々も、どこか洗練された雰囲気を漂わせている。

 だが、ラルフの目的は美術館でも運河クルーズでもなかった。

 

「ここだ」

 

 ラルフが足を止めたのは、路地裏にある一軒の店だった。

『BULLDOG』というネオンサイン。看板には犬の絵が描かれている。

 カフェのようだが、漂ってくる匂いが違った。焙煎されたコーヒーの香ばしさではない。もっと甘く、重く、どこか草いきれのような独特の香り。

 

「……コーヒーショップ、ですか」

 

 クラークは看板を見て呟いた。

 知識としては知っている。オランダにおける「コーヒーショップ」が何を意味するのかを。

 ソフトドラッグの販売と喫煙が容認された場所だ。

 

「入るぞ」

 

「待ってください、大佐。酒と女までは付き合いましたが、さすがに薬物は……」

 

 クラークは眉をひそめた。軍規以前に、人間としての最後の一線を越えるような抵抗感があった。

 

「堅いこと言うな。ここでは合法だ。郷に入っては郷に従え、だろ?」

 

 ラルフはクラークの抗議を聞き流し、重いドアを押し開けた。

 

 店内は薄暗かった。

 サイケデリックな壁画、ブラックライトに浮かび上がるポスター、そしてレゲエの重低音。

 空気は白く煙り、甘ったるい匂いが充満している。

 ラルフはカウンターへ向かい、店員と何か言葉を交わすと、二本の細巻き――ジョイントを持って戻ってきた。

 奥のテーブル席に座ると、ラルフはその一本をクラークに突きつけた。

 

「ほらよ、お前の分だ」

 

「俺は結構です。受動喫煙だけで十分ハイになりそうですよ」

 

「いいから吸え。これは命令だ」

 

 ラルフの声色が、ふと真剣味を帯びた。

 

「お前、最近寝ててもうなされてるぞ。歯ぎしりがうるさくてかなわねえ」

 

 クラークは口を閉ざした。

 図星だった。女と体を重ねている最中は忘れられても、眠りに落ちた瞬間、夢の中に死者たちが現れる。

 無惨に処刑されたトラヴィス。太い枝に胸を貫かれたマティアス。機体のフレームに押し潰されたハビエル。あらぬ方向に首が曲がっていたカズ。そして、研究施設に置き去りにしてしまった少女の無垢な瞳。

 

「脳味噌の洗濯が必要なんだよ。アルコールじゃ落ちねえ汚れもある」

 

 ラルフは自分のジョイントに火をつけ、深く吸い込んだ。紫煙を吐き出し、恍惚とした表情を浮かべる。

 クラークは手の中のジョイントを見つめた。

 白く巻かれた紙筒。この中に、忘却への鍵があるというのか……。

 クラークはライターを取り出し、震える手で火をつけた。

 

 吸い込む。

 熱い煙が喉を焼き、肺を満たす。咳き込みそうになるのを堪え、ラルフの真似をして息を止める。

 数秒後、ゆっくりと吐き出す。

 最初は何も感じなかった。だが、二口、三口と吸い進めるうちに、変化は訪れた。

 

 指先の感覚が遠くなる。

 店内のネオンの光が、滲むように鮮やかさを増していく。赤、緑、青。色が音を奏でているようだ。

 重力が変化したような浮遊感。

 思考のスピードが極端に遅くなる。今まで頭の中を占拠していた複雑な計算式や、論理的な思考回路が、飴細工のように溶けていく。

 

 ふと、ラルフを見た。

 彼は煙の向こうで、虚空を見つめて笑っていた。その笑顔は、普段の豪快なものではなく、子供のように無防備で、どこか悲しげだった。

 

 ――ああ、そうか。

 

 クラークの口元から、意味もなく笑いが漏れた。

 可笑しい。全てが可笑しい。

 この男も、痛いのだ。

 英雄と呼ばれるラルフ・ジョーンズ大佐も、夜毎の悪夢に怯え、こうして植物の力を借りて、必死に正気を保っているのだ。

 傭兵とは、なんと脆く、哀れな生き物なのか。

 

 不思議と、死者たちの顔が浮かんでこない。

 トラヴィス、ハビエル、カズ、マティアス、そして名も知らぬ少女――彼らのことを思い出そうとしても、その輪郭は煙のように揺らぎ、恐怖や罪悪感を伴わずに、ただの「情報」として通り過ぎていく。

 これが救いか。

 これが、堕ちるということか。

 

 時間の感覚が消失していた。一分が永遠のようにも、一時間が一瞬のようにも感じられる。

 クラークはジョイントを灰皿に押し付けた。指先が熱かったが、それすらも他人事のように感じられた。

 

 やがて強烈なピークが去り、意識が徐々に現実に帰還し始めた。

 喉が渇き、猛烈な空腹感に襲われる。

 二人は店内でコーラとブラウニーを注文し、貪るように食べた。砂糖の甘さが、疲弊した脳に染み渡る。

 クラークは深呼吸をした。

 頭の中がクリアになっている。憑き物が落ちたような、奇妙な爽快感があった。

 だが同時に、自分の中の何かが決定的に失われたことも自覚した。

 

「……戻ってきたか」

 

 ラルフが空になったグラスを置き、にやりと笑った。

 

「ええ。長い旅でしたよ」

 

 クラークは自嘲気味に答えた。

 

「悪くなかっただろ?」

 

「……まあ、悪夢を見るよりはマシですね」

 

 ラルフは満足げに頷き、立ち上がった。

 

「よし、リハビリは終了だ。腹ごなしに散歩といくか」

 

「散歩? この時間からですか?」

 

 時計の針は深夜を回ろうとしている。

 

「アムステルダムの夜はこれからだぞ。行くぞ、『飾り窓』へ」

 

 ラルフが指差した先、運河の向こうには、妖しく赤い光が揺らめいていた。

 売春が合法化された地帯、飾り窓地区(デ・ワレン)

 ガラス張りのショーウィンドウの中に、下着姿の女性たちが立ち、道行く男たちを誘う、世界でも稀有な欲望の市場。

 パタヤのそれとはまた違う、退廃的で、どこか幻想的ですらある光景。

 

「付き合いますよ、大佐。どこまでも」

 

 クラークは立ち上がり、ジャケットを羽織った。

 もう躊躇いはなかった。

 これは通過儀礼だ。真の傭兵になるための、そして、この狂った世界で正気を保ち続けるための、必要な儀式なのだ。

 

 二人の男は肩を並べ、石畳の路地を歩き出した。

 赤いネオンが、彼らの影を長く、黒く、運河の水面に映し出していた。

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