傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~ 作:パワーポイント・レンジャー
アムステルダムに来てから早十日が経った。
深い闇が自由と芸術の都を覆う。夜は運河の水面のように重く、静かに更けていった。
コーヒーショップからホテルに戻った二人は、部屋の窓際でウィスキーのボトルを開けていた。
マリファナの酩酊感はすでに去り、心地よい倦怠感だけが残っている。
クラークはグラスの中で溶ける氷を見つめながら、ずっと心に引っかかっていた棘について考えていた。
あのジャングルの墜落現場。ラルフが銃口を向けてきた時、彼は確かにこう言ったのだ。「クラーク・ウェリントン」と。
スティルではない。捨てたはずの本名だ。
「……大佐」
クラークは沈黙を破った。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「なんだ、改まって」
ラルフはソファに深々と身を沈め、葉巻の煙を天井に吐き出している。
「あの時……墜落現場で俺に銃を向けた時、あなたは俺の本名を口にしましたね。『ウェリントン』と」
ラルフの手が止まった。
「なぜ知っていたんですか。人事ファイルには『スティル』としか記載されていないはずですが」
ラルフはにやりと笑い、灰皿に灰を落とした。
「ああ、そのことか。……ネタばらしをするなら今か」
彼は琥珀色の液体を一口含み、語り始めた。
「あの任務の前からだ。俺はお前のことを怪しいと睨んでいた」
「俺が? スパイだと?」
「スパイか、あるいは何らかの訳ありか、だな。お前の所作、言葉の端々に出る育ちの良さ、そして妙に完成された事務処理能力。ただの元情報将校にしては、バックボーンが見えなさすぎた」
ラルフは探るような目でクラークを見た。
「俺は元デルタだぞ。古巣の情報網を使えば、新入りの素性を洗うくらい造作もねえ。お前の親父さんが、世界の金融を牛耳る『ウェリントン・インテリジェンス』のトップだってこともな」
「……プライバシーの侵害ですね」
「人聞きが悪いな。リスク管理と言ってくれ」
ラルフは悪びれもせずに言った。
「俺には危険を未然に防ぐ義務がある。スパイの工作ごときで、可愛い部下たちを死なせるわけにはいかねえからな」
「それで、俺を徹底的にマークしていたと? まるで大佐の方が防諜機関のスパイのようですね」
クラークが呆れて言うと、ラルフは鼻を鳴らした。
「用心深いのが長生きの秘訣だ。だがな……」
ラルフの声色が、ふと柔らかくなった。
「あの時、お前を撃たなくてよかった」
クラークはラルフを見た。荒っぽい男の横顔に、珍しく真摯な色が浮かんでいた。
「もしあそこで早まってお前を殺していたら、俺は研究施設に辿り着く前に野垂れ死んでいただろう。それに……」
ラルフはグラスを傾け、独り言のように続けた。
「たとえ一人で任務を遂行できたとしても、基地に戻ってから後悔しただろうな。お前がシロだったと知って……。優秀な相棒を、自分の疑心暗鬼で殺しちまったとなれば、寝覚めが悪すぎる」
相棒。
その言葉が、クラークの胸に静かに染み込んだ。
この男は、豪快に見えて繊細だ。仲間の命の重さを、誰よりも知っている。
「本名を知ったということは、俺が何者であるかも、実家との関係も知っているということですね」
「ああ。だが、誰にも言わん。墓まで持っていく」
ラルフは短く断言した。
「この世界じゃ、お前の苗字は看板にならねえ。むしろ標的になるだけだ。ウェリントンの御曹司なんて知れたら、身代金目当てのハイエナどもが群がってくるからな」
クラークは安堵の息を吐いた。
秘密を共有する。それは共犯関係であり、最も強い信頼の証だ。
これで完全に、過去と決別できた気がした。
その時、ラルフが突然、大きく伸びをした。
「あーあ、しんみりしちまった。それに、ここにも飽きてきたな」
……まただ。この男の悪い癖が出た。
「アムステルダムも制覇したし、マリファナも吸った。よし、次はニューヨークに行くぞ!」
クラークは耳を疑った。
「……今、なんと?」
「ニューヨークだ。ビッグアップルだ。世界のへそだ!」
「却下します」
クラークは即答した。
「そこにだけは行きたくありません。どうしても行きたいと仰るなら、どうぞお一人で」
ニューヨーク。マンハッタン。
そこはクラーク・ウェリントンの故郷であり、父の支配する王国だ。
息苦しい社交界、期待という名の重圧、仮面を被った人々。逃げ出した檻にわざわざ戻る理由はない。
「なんでだよ! 俺、ニューヨークには行ったことがねえんだよ。お前、生まれも育ちもマンハッタンなんだろ? 最高のガイドがいるのに行かない手はねえだろ!」
ラルフは子供のように駄々をこね始めた。
「無理です。知り合いに会うリスクが高すぎるので」
「誰もお前のことなんて見ちゃいねえよ」
「父の息のかかった人間はどこにでもいます。もし見つかったら……」
「見つかったらどうなる? 連れ戻されるか? お前はもう大人で、しかも傭兵だぞ。親父さんに首根っこ掴まれる歳でもねえだろ」
正論だった。だが、理屈ではない拒絶感がクラークにはあった。
しかし、ラルフは引かなかった。
「いいか、これはリハビリの最終段階だ。過去の亡霊に怯えて逃げ回ってるうちは、お前は本当の意味で自由になれねえぞ」
ラルフは挑戦的な目でクラークを見据えた。
「それとも何か? 中尉殿はパパが怖くてお漏らししそうなのか?」
「挑発に乗ると思ったら大間違いですよ」
クラークはため息をついた。
「……わかりました。行けばいいんでしょう、行けば」
結局、この男には勝てないのだ。
翌日、二人はジョン・F・ケネディ国際空港に降り立った。
入国審査を抜け、ターミナルの外に出ると、冷たく乾燥した風が吹き付けた。
ニューヨークの匂いだ。排気ガスとコーヒー、そして微かな海の匂いが混じり合った、忙しない都市の体臭。
イエローキャブ乗り場の列に並びながら、クラークはコートの襟を立て、顔を隠すように俯いた。
心臓が不快なリズムを刻んでいる。すれ違う人々が、全員自分を見ているような錯覚に陥る。
「おい、キョロキョロすんな。挙動不審だぞ」
ラルフが背中を叩いた。
「……知り合いがいないか、確認しているだけです」
「誰も気づかねえよ。今の自分がどんな面してるか、わかってんのか?」
ラルフは笑いながら言った。
「三ヶ月前とは全然違うからな。新入りの頃は、正直、シケた面した世間知らずの坊っちゃんだなあと思ってたが……今は違う」
ラルフはクラークの顔を指差した。
「一端の傭兵の面構えだ。人殺しの目をしてるぜ。いい意味でな」
タクシーに乗り込む直前、クラークは窓ガラスに映った自分の顔を見た。
無精髭。日焼けした肌。そして何より、瞳の奥にある光が違っていた。
かつての知的な光は影を潜め、代わりに獲物を狙う獣のような、鋭く冷たい光が宿っている。
確かに、これなら父ですら気づかないかもしれない。
「……そうですか。変わりましたか」
「ああ。いいツラになったぜ」
クラークは小さく頷き、タクシーの後部座席に滑り込んだ。
「行き先は?」
運転手に聞かれ、クラークは短く答えた。
「マンハッタンへ」
イエローキャブはヴァン・ウィック・エクスプレスウェイを北上し、ロングアイランド・エクスプレスウェイを西へ折れた。 やがてミッドタウン・トンネルを抜けると、高層ビル群の聳えるマンハッタン島へと入った。
コンクリートのジャングル。空を切り裂く摩天楼が、圧倒的な威圧感で迫ってくる。
かつては、この風景こそが世界の中心であり、自分のすべてだと思っていた。だが今は、ただの巨大な墓標の群れに見えた。
「すげえな! 首が痛くなりそうだ」
ラルフは窓にへばりつき、観光客丸出しで高層ビルを見上げている。
「ガイドさん。まずはどこへ連れてってくれるんだ?」
クラークは少し考え、運転手に行き先を告げた。
「ウォール街へ」
ロウアー・マンハッタン。世界の金融の中心地。
黒塗りのリムジン、仕立ての良いスーツに身を包んだビジネスマンたち。彼らは秒単位で世界を動かし、巨万の富を生み出している。
二人はトリニティ教会の前に降り立った。
ラルフの擦り切れたレザージャケットと、クラークのラフな服装は、この場では明らかに浮いていた。
「ここが金の亡者どもの巣窟か」
ラルフが鼻を鳴らした。
「ええ。父の主戦場です」
クラークは巨大なビル群を見上げた。
あのガラスの向こう側。空調の効いた役員室。数字だけが真実とされる世界。
あそこで一生を終えるはずだった。だが、自分はドッグタグを首にかけ、泥と血にまみれる道を選んだ。
不思議と、後悔はなかった。
ここに戻ってきて初めてわかった。自分はもう、この街の住人ではない。この街という巨大なシステムから吐き出された「異物」なのだ。
その疎外感が、むしろ心地よかった。
「飯にしようぜ。腹が減っては戦ができん」
ラルフの提案で、二人はウォール街を離れ、ミッドタウンへ向かった。
クラークが案内したのは、三十六丁目にある老舗ステーキハウス『キーンズ』だった。
天井一面に張り巡らされた無数のチャーチウォーデン・パイプ。重厚な木目調のインテリア。
ここは古き良きニューヨークの男たちの社交場だ。
「ほう、いい雰囲気じゃねえか」
ラルフは席に着くなり、巨大なマトンのローストと、ポーターハウス・ステーキを注文した。
「ニューヨークに来たら、ホットドッグより肉だろ!」
運ばれてきた肉塊にナイフを入れるラルフは、水を得た魚のようだ。
クラークもナイフを動かした。
肉汁と赤ワインの香り。アマゾンで食べたカピバラの肉も悪くなかったが、やはり熟成された牛肉の味は格別だった。
「どうだ、故郷の味は」
ラルフに聞かれ、クラークは肩をすくめた。
「悪くないですね。少なくとも、ここには俺の知っている人間はいなさそうだ」
周囲の客は観光客やビジネスマンばかりだ。彼らは自分の食事と会話に夢中で、隅のテーブルにいる薄汚れた二人組など気にも留めていない。
自分は透明人間になったようだ、とクラークは思った。
かつて背負っていた「ウェリントン」という看板を下ろした自分は、この街ではただの通行人Aに過ぎない。その事実が、クラークを真に自由にした。
店を出ると、日はすでに落ちていた。
マンハッタンがその本性を現す時間だ。
「最後はあそこだな。ベタだが外せねえ」
ラルフの希望で、二人はタイムズスクエアへと向かった。
そこは光の洪水だった。
巨大なビルボード、LEDスクリーン、ネオンサイン。
昼間よりも明るい人工の光が、夜空を焦がしている。
世界中から集まった観光客の波に揉まれながら、クラークとラルフは交差点の真ん中に立った。
喧騒、クラクション、音楽。すべてが混ざり合い、巨大なうねりとなって鼓膜を叩く。
「これが世界の中心か! 目がチカチカするぜ!」
ラルフが大声で笑った。
クラークもまた、ラルフの横でその光景を見つめていた。
かつては、この騒々しさが嫌いだった。だが今は、このカオスが、自分たちの内面にある混沌と共鳴しているように感じられた。
その時だった。
頭上の巨大なスクリーンが切り替わった。
洗練されたモーショングラフィックスと共に、見慣れたロゴマークが映し出される。
――Wellington Intelligence――
父の会社だ。
クラークの体が強張った。
画面には、世界地図を背景に握手を交わすビジネスマンたちの映像が流れ、重厚なナレーションが響き渡る。
『信頼という絆で結ばれた、真のパートナーシップが未来を築く』
そのキャッチコピーが、タイムズスクエアの喧騒を切り裂いてクラークの耳に届いた。
信頼。絆。パートナーシップ。未来。
父が好みそうな、綺麗事で塗り固められた言葉だ。
そこにあるのは、利益という名の数字による結合だけだ。血の通わない、冷たい契約。
クラークは隣を見た。
ラルフ・ジョーンズが、口を開けてその広告を見上げている。
「……へえ、立派な広告だな。ありゃお前の親父さんの会社か?」
「ええ、そうです」
クラークは答えた。
そして、ふと気づいた。
信頼という絆。
真のパートナーシップ。
その言葉が真実味を持って存在するのは、あの巨大企業のオフィスではなく、今、この薄汚れた路上なのではないか。
利益のためではなく、命を預け合い、背中を守り合う関係。
疑心暗鬼を乗り越え、互いの罪と過去を受け入れた関係。
それこそが、本物のパートナーシップではないか。
皮肉な話だ。
父の世界から逃げ出し、最も遠い場所へ来たはずが、そこでクラークは、父が掲げる理想の「真実の姿」を手に入れたのだ。
クラークの中で、何かが音を立てて定まった。
迷いは消えた。
自分はクラーク・ウェリントンではない。
傭兵、クラーク・スティル。ラルフ・ジョーンズのパートナーだ。
「……大佐」
クラークは雑踏の中で声をかけた。
「ん?」
「あのキャッチコピー、間違ってますよ」
クラークはビルボードを指差し、不敵な笑みを浮かべた。
「未来を築くのは、ビジネスマンの握手じゃない」
ラルフはクラークの顔を見て、その意図を察したようににやりと笑った。
「違いねえ。泥と血にまみれた拳だ」
ラルフが右の拳を突き出した。クラークは迷わず自分の右拳を軽くぶつけた。
ゴツッという硬い感触。
それは、どんな契約書よりも確かな、男たちの誓いだった。
「帰ろうぜ、クラーク。休暇は終わりだ」
「ええ。仕事に戻りましょう」
頭上にはまだウェリントン・インテリジェンスの広告が輝いていたが、クラークはもう二度と振り返らなかった。
二人の男は、光の洪水の中を、闇の待つ戦場へと向かって歩き出した。
その背中は、この街のどんな摩天楼よりも高く、誇り高く見えた。