傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~   作:パワーポイント・レンジャー

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【文中の略語について】
 IBOLC:Infantry Basic Officer Leader Courseの略。歩兵科基礎将校指導課程。


山に抱かれて

 フォート・カーソンの第一ストライカー旅団戦闘団、旅団本部指揮所。

 分厚いコンクリートと防爆壁に囲まれたその空間は、冷房が効きすぎていて、常に電子機器の排熱と埃っぽい匂いが混じり合っていた。

 無数のモニターが青白い光を放つ。絶え間なく流れるデータストリームが、世界のどこかで起きている摩擦や危機の予兆を映し出している。

 クラークはマグカップの冷めたコーヒーを呷り、目の前の端末に表示された衛星画像と睨めっこをしていた。

 

「少尉。そのセクターの画像解析、まだか?」

 

 背後から低い声が降ってくる。直属の上官、上級情報主任のグラント少佐だ。

 鍛え上げられた身体に糊の効いた迷彩服を纏い、その眼光はモニターの輝度よりも鋭い。

 

「現在、最終確認中です。熱源反応のフィルタリングにノイズが混じっています」

 

「急げ。歩兵大隊の連中が作戦地図(オーバーレイ)を待っている。情報の遅れは血の代償を生む。士官学校で習ったはずだ」

 

 グラント少佐が足音を立てずに去っていくと、クラークは小さく息を吐いた。

 デスクの向かい側では、コール曹長が、まるで自分の庭の手入れでもするかのような手際で、複雑な暗号通信のログを解析している。

 その隣で、叩き上げの技術者であるフォスター准尉が、ペンを回しながら電子戦のシミュレーション結果をチェックしていた。

 二人とも、この道二十年以上のベテランだ。クラークのようなひよっ子の少尉が口を挟む余地など、一ミリも存在しない。

 クラークは、階級上は彼らに指示を出す立場にあるが、現実は逆だ。

 

「少尉、フィルタリングならこっちのパラメータを使った方がいいですよ」

 

 コール曹長が画面から目を離さずに言った。

 

「……感謝します、曹長」

 

 クラークは素直に修正コードを打ち込む。屈辱ではない。ただ無力感が胸の奥に沈殿していくだけだ。

 

 ウェストポイントを優秀な成績で卒業し、本来なら小隊長として部下を率いて泥にまみれているはずだった。

 だが今、彼はこの空調の効いた檻の中で、実体のない数字と記号の戦争をしている。

 マンハッタンの高層ビルで、巨額の投資データを動かしている父の姿が重なる。結局、俺はここから逃げられないのか。

 

 

 

 金曜日の夕刻、一週間の業務が終わる合図とともに、クラークは逃げるように指揮所を出た。

 コロラドの乾いた風が頬を打つ。肺の中に溜まった電子機器の臭いを吐き出し、基地内のフィットネスセンターへと向かった。

 週末の基地は、解放感と倦怠感が入り混じった独特の空気に包まれている。バーに向かう者、家族の待つ家へ帰る者、あるいは兵舎でただ惰眠を貪る者。

 クラークは目的もなくジムのエリアを彷徨った。バーベルの金属音、汗の匂い、男たちの怒号。それらが心地よかった。

 

 格闘技エリアのマットでは、数人の兵士たちがレスリングのスパーリングを行っていた。

 タックルが入る鈍い音。マットに身体が叩きつけられる衝撃音。

 クラークは足を止め、フェンス越しにその光景に見入る。

 美しい、と思った。そこには嘘がない。データや欺瞞情報工作など入り込む余地のない、純粋な肉体と肉体の衝突があるだけだ。

 かつて士官学校時代、彼自身もあのマットの上で汗を流した。

 相手の重心を感じ、筋肉の動きを読み、力と技でねじ伏せる。その瞬間だけは、ウェリントン家の呪縛を忘れられた。

 

「おいおい、やっぱりここにいたか」

 

 背中を叩かれ、クラークは現実に引き戻された。

 振り返ると、日焼けした親友の笑顔がそこにあった。

 

「ああ、トラヴィスか」

 

「お前のことだから、レスリングの訓練を見学に来てると思ったよ。真面目な顔して、心の中じゃスープレックスの軌道を計算してんだろ?」

 

「馬鹿を言え。士官たちの体力練成の状況を確認していただけだ」

 

 クラークはいつものようにすかした態度で返すが、口元が緩むのを止められなかった。トラヴィスには嘘が通じない。

 

「で、週末の予定は? まさか、独身寮の狭い部屋で、難解な哲学書でも読みながら過ごすつもりじゃないだろうな」

 

「特にはない。洗濯でもして、眠るだけだ」

 

「だったら決まりだ。クラーク、山へ行くぞ」

 

「山?」

 

「ああ。エリーが実家の用事で週末留守なんだ。男二人でロッキーの懐に飛び込んで、焚き火と肉と酒を楽しむ。最高だろ?」

 

 トラヴィスは拒否権など与えない勢いで、クラークの肩を組んだ。その体温と、屈託のない笑顔が、クラークの中に溜まっていた澱を少しだけ溶かした。

 

 

 

 翌朝、二人は基地のレクリエーションセンターで借りた四輪駆動車に、テントと釣り道具、そしてクーラーボックスいっぱいの食材を詰め込んで出発した。

 目的地は、ロッキー山脈国立公園にあるティンバークリーク・キャンプ場。

 フォート・カーソンのあるコロラドスプリングスから北へ、車を走らせる。市街地を抜け、標高が上がるにつれて、景色は劇的に変化していった。

 乾いた荒野は姿を消し、視界のすべてを圧倒的な自然が埋め尽くしていく。

 

 ロッキー山脈。それは単なる山ではない。地球の背骨だ。

 荒々しく切り立った岩肌は、太古の昔から風雪に耐え抜いてきた王者の風格を漂わせている。頂きには万年雪が白く輝き、その下には針葉樹の深い緑が広がっていた。

 そして何より、今は秋だ。斜面を覆うアスペンの木々が、燃えるような黄金色に染まっている。陽光を浴びて輝くその様は、まるで山全体が黄金の鎧を纏っているかのようだった。

 

 窓を開けると、冷たく澄んだ空気が車内に流れ込んでくる。松脂の香りと、雪の匂いが混じった、鋭利な山の匂い。

 

「すげえな……」

 

 ハンドルを握るトラヴィスが呟く。助手席のクラークもまた言葉を失っていた。

 ニューヨークの摩天楼も巨大だが、あれは人間が作った傲慢な塔だ。ここにあるのは、人間の意思など介在しない、圧倒的な存在そのものだった。

 父が支配する金融の世界も、母が生きる社交界の虚飾も、この巨大な山脈の前では砂粒ほどの意味も持たない。

 

 クラークは、天を突くロングス・ピークを見上げた。

 あそこには誰もいない。情報も、任務も、期待も、失望もない。ただ岩と雪と風があるだけだ。その事実に、クラークは奇妙な安らぎを覚えた。

 

「おいクラーク、見ろよあの渓流。カワマスがいそうだぞ」

 

「ああ、悪くない流れだ。水温も低そうだ」

 

「今日は釣るぞ。レーションなんか食ってる場合じゃねえ。新鮮なマスの塩焼きこそが、将校の晩餐に相応しいんだ」

 

 トラヴィスの軽口に、クラークはふっと笑った。

 

 車は曲がりくねった山道を登りきり、標高二千六百メートルにあるキャンプ場へと滑り込んだ。

 周囲を高い山々に囲まれ、すぐ側にはコロラド川の源流が流れている。空気はさらに薄く、そして冷たい。

 車を降りた瞬間、静寂が二人を包んだ。風がアスペンの葉を揺らす音と、遠くで聞こえる川のせせらぎだけが、世界に音が存在することを証明していた。

 

「よし、ここを本日の作戦基地とする!」

 

 トラヴィスが宣言し、二人は手際よく荷物を降ろし始めた。

 テントを設営する手順は、軍の演習で嫌というほど体に染み付いている。言葉を交わす必要すらない。

 トラヴィスがポールを組み、クラークがペグを打つ。数分もしないうちに二人の城が完成した。

 

 折りたたみ式の椅子に腰を下ろし、クーラーボックスから冷えたビールを取り出す。プシュッ、という小気味よい音が森の静寂に響いた。

 

「乾杯」

 

「ああ、乾杯」

 

 缶をぶつけ合い、喉に流し込む。苦味と炭酸が、渇いた喉を潤していく。

 クラークは深呼吸をした。基地のオフィスで吸っていた、あの無機質な空気とは違う。ここにあるのは、生命の気配と、厳しい冬を予感させる死の気配が同居した、本物の空気だ。

 

「悪くないな」

 

 クラークが言うと、トラヴィスはにやりと笑った。

 

「だろ? お前にはこういう時間が必要なんだよ。いつも眉間に皺を寄せて、世界の終わりみたいな顔してるからな」

 

「生まれつきこういう顔だ」

 

「嘘つけ。レスリングをやってる時と、プロレスの話をしてる時は、ガキみたいな顔になるくせに」

 

 痛いところを突かれ、クラークは視線を逸らしてビールを呷った。

 だが、その指摘は不快ではなかった。むしろ、自分の本質を知ってくれている人間が隣にいることに安堵を覚えた。

 

「さて、まずは食料の確保だ。行くぞ、トラヴィス。マスの機嫌がいいうちに」

 

「おう、腕が鳴るぜ」

 

 二人はロッドを手に、川へと降りていった。

 黄金色のアスペンの森を背に、冷たい流れに糸を垂れる。時間はゆっくりと、しかし確実に過ぎていった。

 

 

 

 釣果は上々だった。ニジマスが三匹に、カワマスが二匹。

 日は西の山並みに沈みかけ、空は深い藍色へと変わりつつある。気温が急激に下がり始め、二人は焚き火の準備に取り掛かった。

 パチパチと薪が爆ぜる音とともに、オレンジ色の炎が揺らめく。

 クラークはナイフを使って手際よくマスを捌き、串を打って塩を振った。それを焚き火のそばに立てかける。

 隣ではトラヴィスが、分厚いステーキ肉を鉄板の上で焼いていた。肉の焼ける香ばしい匂いと、魚の脂が炭に落ちて焦げる匂いが、冷涼な空気の中に漂う。

 

「ベニングでの訓練はどうだった?」

 

 クラークは串を回しながら尋ねた。

 

「地獄だったよ、最高にな」

 

 トラヴィスは肉を裏返しながら笑う。

 

「泥と汗まみれで、毎日が限界への挑戦だ。IBOLCの教官たちは、俺たちを殺す気なんじゃないかって本気で思ったね。でも、充実してた。俺はやっぱり、デスクワークより泥遊びの方が性に合ってるよ」

 

 トラヴィスの言葉には、一点の曇りもない自信があった。自分が進むべき道を疑っていない者の強さだ。

 

「お前の方はどうだったんだ? ワチュカの情報教育は」

 

「荒野と、教室と、終わりのないプレゼンテーションの日々だ。敵の教義(ドクトリン)、情報要求、収集計画、分析……。頭の中に情報を詰め込まれ、それを吐き出すだけの毎日さ。肉体的な疲労よりも、精神が削られる感覚だった」

 

 クラークは焚き火を見つめたまま淡々と答えた。

 

「まあ、お前は頭が良いからな。軍もお前を放っておかないさ」

 

「それが呪いだった。俺は本当は、お前と一緒に……」

 

 言葉を飲み込む。今更言っても詮無いことだ。

 焼き上がったマスを手に取り、かぶりつく。皮はパリッと香ばしく、身はふっくらとして甘い。単純で、力強い味がした。

 

「美味いな」

 

「ああ、最高だ」

 

 食事と酒が進むにつれて、会話の内容は軍務のことから、次第に砕けた話題へと移っていった。

 士官学校時代の馬鹿話、共通の知人の噂話。そして話題が「興行」のことになった時、クラークのスイッチが入った。

 

「なあクラーク、来月デンバーで大きな大会があるらしいぞ」

 

 トラヴィスが何気なく言った一言が、導火線となった。

 

「知っている。メインイベントは『ザ・リヴァイアサン』対『ゴールデン・ホーク』のタイトルマッチだ」

 

 クラークの声のトーンが半音上がった。いつもの冷ややかなバリトンボイスに、熱っぽい響きが混じる。彼はビール缶を地面に置き、身を乗り出した。

 

「いいかトラヴィス。このマッチメイクの妙味がわかるか? リヴァイアサンは半年間、無敗を誇る絶対王者だ。彼のファイトスタイルは冷酷無比、反則すれすれのラフプレイで対戦相手を精神的に追い詰める、典型的なヒールだ」

 

「ああ、嫌な奴だよな、あいつは」

 

「そこが浅いんだ、お前は!」

 

 クラークは立ち上がり、焚き火の前で演説を始めた。

 

「リヴァイアサンがただの悪党なら、観客はブーイングを送るだけで終わる。だが彼は、技術が本物なんだ。基礎的なレスリング技術に裏打ちされたラフプレイだからこそ、説得力が生まれる。そして対するゴールデン・ホークは、小柄だが空中殺法を得意とするベビーフェイス。この体格差とスタイルの対比! これは単なる喧嘩じゃない、叙事詩なんだよ」

 

 クラークは右手を振り上げ、熱弁を振るう。

 

「子供の頃、俺の家ではプロレスは『野蛮で低俗な見世物』として厳しく禁じられていた。執事が俺の隠し持っていたプロレス雑誌を見つけて、暖炉に放り込んだ日のことを今でも覚えている。学校の教師もそうだ。プロレスごっこをしただけで、俺たちは『紳士にあるまじき行為』として罰せられた」

 

 焚き火の炎がクラークの顔を赤く照らす。

 

「だがな、トラヴィス。彼らは何もわかっていない。プロレスこそが、最も純粋な物語なんだ。そこには明確な善悪があり、裏切りがあり、そして復讐がある。リングの上で流される汗と血だけは、嘘をつかない。俺が普段扱っている、政治的意図や欺瞞に満ちたインテリジェンスとは真逆の世界だ」

 

 クラークは自身の拳を見つめた。

 

「俺は、彼らが演じる『痛み』に救われるんだ。彼らがマットに叩きつけられ、それでも立ち上がる姿を見る時だけ、俺は自分が受けてきた――愛情の欠落や、望まぬ運命への怒りを、肯定できる気がするんだ」

 

 一気にまくし立てると、クラークは照れ隠しに咳払いをし、再び椅子に座った。

 トラヴィスは、そんな親友の姿を優しく見守っていた。彼は新しいビールをクラークに手渡した。

 

「お前、本当に好きだよな」

 

「悪いか」

 

「いいや、最高だ。お前のそういう熱いところ、俺は嫌いじゃないぜ。それに、もう誰もお前を止めやしない。親父さんも、執事も、学校の先生もここにはいない。お前は自由だ、クラーク」

 

 自由。その言葉が、夜の冷気と共に胸に沁み込んだ。

 クラークは空を見上げた。満天の星空が広がっている。マンハッタンの空は見上げるものではなく、ビルとビルの隙間から覗くものだった。

 だがここは違う。星々が、今にも降り注いできそうだ。

 

「そうだな。俺は今、自由だ」

 

 クラークは呟いた。

 もちろん、休日が終わればまた冷たいコンクリートの指揮所に戻らなければならない。少佐の命令に従い、見えない敵を探す日々に逆戻りだ。

 だが、今夜だけは――この炎と、星空がある今夜だけは、彼は誰の息子でもなく、どの階級の将校でもない。ただのクラーク・ウェリントンとして存在することができた。

 

「明日は早起きして、頂上までトレッキングだ。ついて来れるか、インテリジェンス?」

 

「愚問だな、インファントリー。俺の脚力を見くびるなよ」

 

 二人は笑い合い、残りの酒を飲み干した。

 夜が更けていく。焚き火が熾火になり、静寂が再び森を支配する。

 テントの中に潜り込み、寝袋に包まると、すぐに強烈な睡魔が襲ってきた。遠くでコヨーテの遠吠えが聞こえた気がした。

 

 クラークは目を閉じる。

 瞼の裏に浮かぶのは、複雑な暗号コードでも、両親の冷ややかな視線でもない。親友の笑顔と、黄金色に輝くアスペンの森と、リングの上で高く手を掲げるレスラーの姿だった。

 彼は深く、穏やかな呼吸を繰り返し、泥のように眠った。それは、少尉に任官してから初めて訪れた、安らかな休息だった。

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