傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~   作:パワーポイント・レンジャー

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手の届かない光

 十二月、コロラドの冬は容赦なく訪れた。

 ロッキー山脈から吹き下ろす風は剃刀のように鋭く、フォート・カーソンの広大な敷地を凍てつかせていた。

 

 第一ストライカー旅団戦闘団、旅団本部指揮所。

 相変わらずここは季節のない場所だった。電子機器の熱と人工的な照明、そして終わりのないデータの奔流。

 クラークは、アフガニスタンの治安情勢に関する最新のインテリジェンス・サマリーをまとめていた。

 

「少尉、この脅威評価の数値だが――」

 

 フォスター准尉がペン先で画面を突いてきた。

 クラークはキーボードを打つ手を止め、ペン先が示している数値に目を移す。

 

「少し楽観的すぎやしませんか? 現地の情報源(ソース)の信頼性評価を見直すべきです」

 

「……確認します。人的情報(ヒューミント)のレポートとクロスチェックをかけます」

 

「頼みますよ。現場の連中は、我々の出す天気予報ひとつで命を賭けるんですから」

 

 准尉の言葉は正論であり、そして重い。クラークは黙々とキーボードを叩き続けた。

 

 配属から数ヶ月。業務の流れは掴めてきた。だが、依然として自分は巨大なシステムの中の、頼りない歯車の一つに過ぎない。

 息が詰まるような閉塞感の中で、唯一の酸素となるのは、時折すれ違う親友の姿だった。

 ブリーフィングの合間、コーヒーメーカーの前でトラヴィスと目が合う。彼は泥に汚れた戦闘服を着て、部下たちと談笑している。

 トラヴィスはクラークに気づくと、片目を瞑って見せ、無言で親指を立てた。それだけのことで、クラークは自分がまだ人間であることを思い出せた。

 

 そして、クリスマス休暇直前の金曜日。食堂の喧騒の中で、トラヴィスはトレーをクラークの向かいに置いた。

 

「よう、ミスター・インテリジェンス。クリスマスはどうする?」

 

「独身寮で本でも読むさ。どうせ実家には帰らないからな」

 

「だろうな。なら、うちに来いよ」

 

 トラヴィスは、まるで今夜の飲みに誘うような軽さで言った。

 

「……お前の家に?」

 

「ああ。俺の家でクリスマスを祝うんだ。エリーもお前に会いたがってるぞ」

 

「よせ。新婚家庭の聖夜に、むさ苦しい男が割り込むなんて無粋だ」

 

「むさ苦しい? お前が? 鏡を見て言えよ、貴公子。それに、エリーは本気だぜ。『あのクラークさんが来るなら、腕によりをかけて料理を作らなきゃ』って張り切ってる」

 

 断る理由はなかった。

 いや、断りたくなかったのが本音だ。あの冷え切った独身寮の部屋で、一人で過ごすクリスマスの味気なさを、クラークは誰よりも知っていたからだ。

 

「わかった。そこまで言うのなら、ありがたく招待を受けることにしよう」

 

「そうこなくっちゃな! 家に帰ったら、早速エリーに伝えておくよ」

 

 トラヴィスは嬉しそうに白い歯を覗かせた。

 

 その日の夜、クラークは基地内の売店に立ち寄り、店内の一角を占めるワイン棚の前に立った。

 幼い頃から、父の開くパーティーで最高級のワインを見せつけられてきた。父はラベルの格付けと市場価格だけでワインを語り、その味を心から楽しんでいるようには見えなかった。

 

 クラークは、父が好むような権威的なフランスワインの棚を素通りした。トラヴィスとエリーの食卓に、そんな気取ったものは必要ない。

 彼が手を伸ばしたのは、カリフォルニア産のピノ・ノワール、『メイオミ』だった。

 果実味が豊かで、樽の香りが心地よく、何よりクリスマスの食事に合う。価格は手頃だが、決して安っぽくはない。

 ラベルを指でなぞる。これなら彼らに気を遣わせずに済む。そして何より、アメリカの士官が友と飲むのに相応しい酒だ。

 

 

 

 クリスマスの日の夕刻、クラークは基地内の家族住宅エリアにあるトラヴィスの家を訪れた。

 質素だが手入れの行き届いた平屋の家。窓からは暖かなオレンジ色の光が漏れ、玄関には手作りのリースが飾られている。

 ドアをノックすると、すぐにトラヴィスが開けてくれた。

 

「クラーク! 待ってたぜ」

 

「招いてくれて感謝する。これはつまらないものだが」

 

 トラヴィスにワインを手渡すと、奥から小柄な女性が小走りにやってきた。エプロン姿のエリーだった。

 栗色の髪を後ろで束ね、化粧っ気はないが、その瞳は驚くほど澄んでいた。

 

「ようこそ、クラークさん! トラヴィスからお話は伺ってます。よくいらしてくださいました」

 

 彼女の笑顔には一切の裏表がなかった。社交界の婦人たちが浮かべる、計算された愛想笑いとは対極にあるものだ。

 クラークは一瞬、眩しいものを見たかのように目を細め、ぎこちなく会釈した。

 

「こんばんは、ミセス・キャラハン。お招きいただき光栄です」

 

「まあ、ミセスだなんて。エリーでいいわ。さあ、どうぞ入って。外は寒かったでしょう?」

 

 通されたダイニングルームは、スパイスと焼き菓子の甘い香りで満たされていた。

 テーブルの上には、これでもかというほどのご馳走が並んでいる。

 中央に鎮座するのは、見事な焼き色のスモークターキーと、分厚いプライムリブ。肉汁の輝きがキャンドルの光を反射している。

 その脇を固めるのは、クリーミーなマッシュポテト、チーズがたっぷりかかったキャセロール、デビルドエッグ。そしてデザートのピーカンパイ。

 洗練されたフレンチのコースではない。だが、生きる喜びが皿の上に溢れている。

 マンハッタンの高級レストランで食べた、冷たく装飾されたどんな料理よりも、遥かに食欲をそそる光景だった。

 

「すごいな……これ全部、君が作ったのか?」

 

「トラヴィスにも少し手伝ってもらったけど、ほとんど私の自信作よ。さあ、冷めないうちに座って」

 

 三人で食卓を囲み、クラークが持参したメイオミで乾杯をする。

 グラスを合わせる涼やかな音が部屋に響く。ワインを一口飲んだエリーが目を輝かせた。

 

「おいしい! とってもフルーティーで、飲みやすいわ」

 

「肉料理に合うものを選んだつもりだ。気に入ってくれて嬉しいよ」

 

 食事は驚くほど美味かった。プライムリブはナイフがいらないほど柔らかく、ターキーは燻製の香りが鼻に抜ける。何より、会話という最高の調味料があった。

 トラヴィスとエリーの掛け合いは、見ているだけで心が温まった。二人の間には、言葉にしなくても通じ合う信頼と愛情の空気が流れている。

 

「トラヴィスったら、いつもクラークさんの話ばかりするのよ」

 

 エリーがプライムリブを取り分けながら言った。

 

「もちろん、他の話もたくさんするわ。訓練で泥だらけになった話とか、上官に怒鳴られた話とか……。でも、一番楽しそうに話すのは、クラークさんのこと」

 

「おいおい、そんなに話してないだろ」

 

「いいえ、話してるわ。クラークさんは普段はクールで頭がいいけど、実はすごく熱い人だって」

 

 クラークはフォークを止めた。

 

「……どんな風に?」

 

「プロレスの話になると、人が変わったみたいになるって」

 

 エリーがくすっと笑った瞬間、クラークは思わず咳き込みそうになった。

 トラヴィスを見ると、気まずそうにターキーを頬張っていた。

 

「トラヴィス、お前……」

 

「悪かった! でも事実だろ? エリー、言っとくがな、この家で『プロレス』は禁句だぞ。その単語が出た瞬間、こいつのスイッチが入って、俺たちは日付が変わるまで伝説のタイトルマッチについて講釈を聞かされることになるからな」

 

「ふふっ、それは困るわね。でも、聞いてみたい気もするわ」

 

 三人の間に、柔らかな笑い声が広がる。クラークもまた自然と笑っていた。皮肉でも愛想笑いでもない、心からの笑みだ。

 この空間には、実家で常に感じていたような緊張や、評価への恐れは存在しない。ただ、温かい食事と、互いを思いやる心があるだけだ。

 

 クラークはふと思った。結婚とは、こういうものなのだろうか。

 誰かとテーブルを囲み、同じものを食べ、笑い合う。それはあまりにも平凡で、しかし奇跡のような幸福に見えた。

 自分にも、いつかこんな日が来るのだろうか。

 

 ……いや。

 

 脳裏に、両親の冷ややかな顔がよぎる。

 愛し方を知らず、愛され方を知らない自分が、誰かと家庭を築くことなどできるはずがない。自分はこの温かな光の中に招かれた客であって、住人にはなれないのだ。

 キャンドルの炎を見つめながら、クラークは胸の奥に微かな痛みを覚えた。

 

 

 

 楽しい時間は瞬く間に過ぎ去った。ピーカンパイの甘い余韻と共に、パーティーはお開きとなった。

 

「今日は本当にありがとう。最高に楽しかった」

 

「またいつでも来てね、クラークさん。ここはもう、あなたの家でもあるんだから」

 

「待ってるぜ、兄弟」

 

 玄関先で二人に見送られ、クラークは夜の闇へと足を踏み出した。

 外は、いつの間にか雪が降り積もっていた。音もなく降りしきる白い雪が、基地の無機質な建物を覆い隠している。

 背後のドアが閉まり、温かな光と匂いが遮断された瞬間、急激な寒さがクラークを襲った。

 

 ……静かだ。あまりにも静かすぎる。先ほどまでの笑い声や、食器の触れ合う音が、まるで遠い夢の出来事のように感じられる。

 クラークはコートの襟を立て、雪を踏みしめて歩き出した。キュッ、キュッ、という足音だけが耳に届く。

 街灯に照らされた白い息が、夜空に消えていく。

 

 ――トラヴィスには帰る場所がある。待っている人がいる。だが俺は、誰もいない独身寮の冷たいベッドに戻るだけだ。

 

 ポケットの中で拳を握りしめる。その孤独は、以前よりも深く、鋭く感じられた。温かさを知ってしまったからこそ、寒さが身に沁みるのだ。

 

 クラークは一度だけ振り返った。

 雪の向こうに、小さく灯るトラヴィスの家の窓が見える。それは、クラークの手の届かない場所にある、美しい星のように輝いていた。

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