傭兵クラーク・スティル誕生 ~さらば、インテリジェンス~ 作:パワーポイント・レンジャー
翌年の二月、クラークはアメリカ合衆国本土へ帰還した。
カンダハルでの任務は終了した。生きて帰ってきた。五体満足で。
だが、コロラド・スプリングス空港に降り立ったクラークの心は、アフガニスタンの乾いた砂漠に置き去りにされたままだった。
九ヶ月ぶりにフォート・カーソンのゲートをくぐる。見慣れた景色。整然と並ぶ兵舎、広大な演習場、遠くに見えるロッキー山脈。何も変わっていない。
ただ一つ、隣にいるべき男がいないこと以外は。
帰国後の事務手続きを終えて、三十日間の有給休暇を与えられたクラークは、ある場所へと足を向けた。
基地内の家族住宅エリア。かつてトラヴィスとエリー、そして彼らの息子が住んでいた家がある場所だ。
夕暮れ時だった。雪の積もった路地には、学校帰りの子供たちの笑い声が響き、どこかの家からは夕食を作る匂いが漂ってきていた。
クラークは、あの平屋の前に立った。そこは静まり返っていた。窓にはカーテンがなく、部屋の中が空っぽであることが外からでも分かった。
一昨年の冬、ここで見た光景が脳裏に蘇る。
窓から漏れるオレンジ色の暖かな光。ドアを開けた瞬間に溢れ出したスパイスと焼き菓子の香り。トラヴィスの豪快な笑い声。エリーの柔らかな笑顔。
それら全てが、幻のように消え失せていった。
クラークは、自分の胸にぽっかりと巨大な風穴が空いているのを感じた。
戦場にいる間は、緊張と怒りがその穴を埋めてくれていた。だが、平和な日常に戻った今、その穴を塞ぐものは何もない。
冷たい風が、心の空洞を吹き抜けていく。
――俺は守れなかった。あの温かな家庭を、親友の未来を、俺の
今、目の前にあるのは、ただの空き家という事実だけだ。クラークは沈んだ息を吐き、静かにその場を立ち去った。
長い有給休暇を与えられたものの、マンハッタンの実家に帰る気にはなれなかった。
両親に「勲章をもらって帰ってきた英雄」として扱われるのも、「所詮は情報将校だ」と冷淡にあしらわれるのも、どちらも耐え難かった。
クラークは愛車のカムリに荷物を積み込み、ロッキー山脈へと向かった。
一人になりたかった。あるいは、幻影でもいいから彼に会いたかったのかもしれない。
ティンバークリーク・キャンプ場。かつて二人で訪れたその場所は、深い雪に閉ざされていた。
葉を落としたアスペンの白い幹が澄みきった寒空を突き刺し、氷に覆われた川が穏やかな陽光を浴びて輝いている。
美しい、と思った。だが、その美しさは残酷だった。世界はトラヴィスを失っても、何一つ変わらずに巡っている。
クラークは一人でテントを張り、一人で火を起こし、一人でコーヒーを沸かした。
「……静かすぎるな」
呟いた声が、雪に覆われた森に吸い込まれていく。いつもなら、ここでトラヴィスが肉を焼きながら馬鹿話をしていた。
『おいクラーク、もっと薪をくべろよ』
『この川の魚は俺が全部釣り上げてやる』
思い出の中の彼は、あまりにも鮮やかで、生命力に溢れている。
クラークは目を閉じた。瞼の裏で、トラヴィスが笑っている。だが目を開ければ、そこにあるのは揺らめく炎と、底知れない孤独だけだ。
クラークはウィスキーのボトルを呷った。アルコールで感覚を麻痺させなければ、この静寂と寒さに押し潰されそうだった。
翌日、山を下りて独身寮に戻ったクラークは、スマートフォンの通知ランプが点滅していることに気づいた。メッセージ通知だ。
画面を見て、彼は息を呑んだ。差出人の名前はトラヴィス・キャラハンだった。
心臓が早鐘を打つ。死者からのメッセージ? ……そんな馬鹿な。
震える指でロックを解除し、メッセージを開く。
『クラークさん、お久しぶりです。エリーです。突然のご連絡ごめんなさい。トラヴィスのアカウントを使わせてもらいました』
全身の力が抜けた。同時に、ひどく安堵している自分に気づいた。
『あなたが帰国されたと聞きました。無事のお帰り、本当に良かったです。もしご迷惑でなければ、お渡ししたいものがあります。トラヴィスのドッグタグです。私には彼との思い出の品がたくさんありますが、クラークさんの手元には、彼を感じられるものがあまり残っていないのではないかと思って……』
ドッグタグ。兵士の命の証。常に身につけ、死ぬ時も一緒にある金属の板。それを、自分に?
クラークはすぐに返信を打った。
『ありがとう、エリー。すぐに受け取りに行く。今、どこに?』
『実家のテキサス州プレインビューに戻っています』
テキサス。トラヴィスの故郷。クラークは迷わず荷物をまとめ直した。
翌朝、クラークはカムリを南へと走らせた。
コロラドの山々を背にし、ニューメキシコを抜け、テキサスへ。州境を越えると、景色は劇的に変化した。
山が消えた。視界を遮るものが何もない、広大な地平線。冬の低い太陽が、鈍い光を大地に投げかけている。
およそ八時間のドライブを経て、プレインビューの町に到着したのは夕方だった。
乾燥した風と、土の匂い。小さな町だが、不思議と寂しさは感じなかった。広大な土地に根を張って生きる人々の、力強い生活の息吹があった。
待ち合わせ場所のカフェに入ると、窓際の席にエリーが座っていた。以前会った時よりも少し痩せていたが、その背筋はピンと伸びていた。
彼女は強い女性だ。テキサスの女は強いと、トラヴィスが自慢していたのを思い出す。
傍らにはベビーカーがあり、小さな男の子が眠っていた。
「クラークさん、遠いところすみません」
「いや、ドライブにはちょうどいい距離だったよ」
クラークは向かいの席に座った。
コーヒーを飲みながら、二人はトラヴィスの話をした。士官学校時代の失敗談、プロレスの話をして止まらなくなった時のこと、彼がいかにエリーを愛していたか。
涙はなかった。悲しみを共有するのではなく、彼の生きた証を共有するような、穏やかな時間だった。
「これを、あなたに」
エリーが小さな布袋を取り出した。クラークはそれを受け取り、中身を掌に出した。
チャラ、と乾いた音がした。一枚だけになった金属プレート。その周囲に巻かれているサイレンサーは、だいぶ擦り切れていた。
『CALLAHAN, TRAVIS』
刻印された文字。金属は冷たかったが、握りしめるとすぐに体温で温かくなった。
傷だらけで、少し歪んでいる。これが、あのパンジウェイの地獄で、彼が最期まで身につけていたものだ。
「……本当に、いいのか?」
「ええ。トラヴィスも、きっとそう望んでいると思います。あなたは彼の、
エリーの言葉が、クラークの凍りついた心の核を溶かしていった。
自分は彼を守れなかった。だが、彼の人生の一部であったことは、許されたのだ。
「ありがとう。一生、大切にするよ」
二人はその後、共にトラヴィスの墓参りをした。
墓石には、階級と名前、そしてトラヴィスの愛した聖書の句が刻まれていた。
クラークは静かに手を組み、祈りを捧げる。その掌には、トラヴィスのドッグタグが握られていた。
その日、クラークは町外れのモーテルに泊まった。
夜、部屋の外にあるベンチに座り、バーボンを飲みながら空を見上げた。
冬の夜空は、恐ろしいほどに澄み渡っていた。オリオン座が南の空に高く昇り、無数の星々がダイヤモンドの粉を撒き散らしたように輝いている。
クラークはポケットからドッグタグを取り出し、指先でその凹凸をなぞった。
不思議と、あの重苦しい孤独感は薄れていた。ドッグタグを握りしめていると、隣にトラヴィスがいるような気がした。
『おいクラーク、湿っぽい顔すんなよ。テキサスの冬の星は、最高に綺麗だろ?』
そんな声が、風に乗って聞こえてくるようだ。
彼は死んだ。二度と戻らない。
だが、彼は消滅したわけではない。この金属片の中に、エリーと彼女の息子の中に、そしてクラークの記憶の中に、確実に生き続けている。
――俺は一人じゃない。こいつと一緒に、生きていくんだ。
クラークは深く息を吸い込み、夜の冷気と共に肺の中へ星の光を取り込んだ。それは、凍てつく冬の最中に、彼の心だけに小さな春が訪れた瞬間だった。
翌朝、クラークはすぐに帰路には就かず、プレインビューの町を車で流した。トラヴィスが育った景色を目に焼き付けておきたかったからだ。
巨大な穀物サイロ。古びているが手入れされた農家。収穫を終えた綿花畑の枯れ枝が霜に輝いている。
道端でトラクターを修理している老人がいたので、道を尋ねるふりをして話しかけてみた。
「ああ、キャラハンの家の倅か? 知ってるよ、腕白でいい子だった。国のために立派に戦ったんだ、我々の誇りだよ」
老人は日焼けした顔を皺くちゃにして笑い、クラークの肩を叩いた。
ガソリンスタンドの店員も、ダイナーのウェイトレスも、みんな気さくで温かかった。
初めて会う人間に対して、何の警戒心もなく心を開く。マンハッタンではあり得ないことだ。あそこでは、他人は敵か、あるいは利用すべきリソースでしかない。
これが、トラヴィスを作った土壌なのか。この広大な大地と、人々の温もりが、あの陽気で勇敢な男を育てたのだ。
クラークは再びカムリに乗り、アクセルを踏んだ。
真っ直ぐに伸びる道路。地平線の彼方まで続く道。
ここには壁がない。父の支配も、家柄の呪縛も、情報将校としての重圧も、この圧倒的な広大さの前では些細なことに思えた。
「悪くないな、テキサスも」
クラークは助手席に置いたドッグタグに語りかけた。金属のプレートが、朝日に反射してキラリと光った。
カムリは土埃を巻き上げながら北へと向かう。そのハンドルを握るクラークの顔には、もう昨日のような悲壮な影はなかった。