-紅魔館、日常への余白-   作:幻想郷まったり書庫

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紅霧異変から一ヶ月が経ち、落ち着きを戻した紅魔館。
だが主は笑顔がなく、思いつめたように咲夜に一言命じる。
その一言が、地下に幽閉される幼い吸血鬼の運命を変えることをまだ誰も知らない。


第一話 主が笑わない館

 

【挿絵表示】

 

紅魔館の朝は、いつも同じ匂いから始まる。

磨いた床の冷たい光と、紅茶の湯気と、どこかに残る古い石の湿り気。

咲夜はその順番を崩さない。崩せない。崩れた瞬間に、この館は「ただの大きい箱」になるからだ。

 

長い廊下の端まで、白い手袋の指先が届くように。

時計の針が鳴る前に、音を整えるように。

咲夜はカップを一つ、銀の盆に載せた。

香りは強すぎない。甘さは控えめ。主の好みを外すことは許されないし、外したら外したで主は笑う。以前なら。

 

盆を持ち、階段を上がる。

上階の扉は重い。ノックは二回。返事はない。いつものことだ。

それでも咲夜は、返事がある前提で扉を開ける。

 

部屋にはカーテンが引かれている。

夜が居座っているような暗さではない。

ただ、朝の光が入るべき場所が、きちんと締め切られている。

 

「紅茶をお持ちしました」

 

ベッドの端に、レミリアは座っていた。

小柄な身体は、衣装のフリルに埋もれているのに、視線だけが妙に重い。

深紅の瞳が窓の方向を一瞬だけ見て、すぐ咲夜の手元へ戻る。

 

「置いて」

 

言葉は短い。

命令としては必要十分。主としては、あまりにも静か。

 

咲夜は盆を置き、カップの向きを整える。

いつもなら、ここで一つ二つ、どうでもいい会話が挟まるはず。

「今日は何か面白いことはあった?」

「私のカリスマ、廊下に落ちていなかった?」

そんな冗談のために、咲夜は時間を止めてさえ笑顔を作ることすらあった。

 

今日は、それがない。

 

「……お嬢様。昨夜も、あまり眠れていませんね」

レミリアの指が、カップの縁に触れる。

熱さを確かめるように、触れては離す。

 

「眠る理由がないのよ」

あまりに素直で、咲夜の言葉が詰まる。

主が弱い言葉を吐くことは珍しくない。

ただしそれは、必ず強がりや冗談で包まれていた。

今日は包みがない。

 

咲夜は一歩、前へ出そうとして止めた。

距離を詰めれば救える種類のものと、詰めた瞬間に壊れる種類のものがある。

咲夜は後者を何度も見てきた。

 

「お茶会の準備は整っております。お嬢様が望まれれば、すぐに」

レミリアは首を横に振る。

否定は軽いのに、拒絶の力だけは強い。

「今日は、いい。誰も呼ばないで」

 

「……承知いたしました」

咲夜は、承知したくないことも承知しなければならない。

それがメイド長という役目だ。

「咲夜。昨日の分の菓子、地下に回して」

 

咲夜の体が一瞬止まる。

地下。

その単語だけで、この館の空気が一段冷える。

 

「……かしこまりました」

自分でもぎこちなくなっている一礼を言葉と一緒に行う。

レミリアは、咲夜の目を見ない。

カーテンの奥に見える何かを見ようとして、すぐ逸らしながら、言葉を紡ぐ。

「あと、パチェに伝えなさい。

 結界を……少しだけ緩めるようにと」

 

咲夜のドアに向かう足が止まる。

理由を問わない。

問えば、答えが返ってくるかもしれない。

返ってきたら、それは命令ではなく、願いになってしまう。

 

願いを背負うのは、主の役目だ。

メイドの役目じゃない。

「承知いたしました」

 

レミリアは、ほんの一瞬だけ笑いかけた。

笑いかけたというより、笑う練習をしたみたいな顔。

それが余計に痛い。

「……あと」

 

「はい」

「誰も、余計なことを言わないように」

咲夜は頷いた。

余計なことを言わない。

詮索しない。

優しさの形を、館全体に強いる合図。

 

咲夜が去る背中に、レミリアの小さな声が落ちた。

「大丈夫よ。たぶん」

 

その「たぶん」が、主の運命操作の精度そのものみたいで、咲夜は少しだけ唇を噛んだ。

館は動き出す。

楽しげではない。

けれど、止まっているよりずっとましな種類の動き。

 

扉の外へ出ると、廊下の静けさが戻った。

戻ってくるはずの静けさなのに、今日はどこか薄い。

館そのものが息を潜めているように感じる。

 

中層へ降りれば、妖精メイドたちの足音が聞こえた。

笑い声はある。

けれど、いつもより小さい。誰かの機嫌を伺う音量だ。

 

咲夜は厨房へ向かい、菓子を包ませる。

銀のトレーではない。紙と布で丁寧に。

地下へ運ぶ荷物に、音は要らない。

 

途中、門の方向から物音がした。

紅美鈴が、箒を抱えたまま柱にもたれている。

目は閉じているが、呼吸は整っている。

眠っているのだろう。いつも通りに。

「美鈴」

 

「はっ。起きてます!」

一瞬で背筋が伸びる。

言い訳の速度だけは、確実に鍛えられている。

「外の様子は」

 

「見てます! ちゃんと!」

咲夜は門の向こうを見た。

紅い霧は薄い。今日は外の空気が見える日だ。

見える日の方が、館の内側は落ち着かなくなる。

 

「今日は昼寝は短くしなさいよ。お嬢様が、あまり上機嫌ではないから」

美鈴は一瞬、口を噤んだ。

笑って誤魔化すのが得意な妖怪が、言葉を選ぶ顔になる。

「……そう、ですか。ええと。お嬢様、最近」「詮索はしないで。仕事を」

「はい!」

美鈴は元気よく返事をした。

けれど咲夜は知っている。

この館で「詮索しない」というのは、優しさの形の一つだ。

 

咲夜が大図書館へ入ると、湿った紙の匂いと、薬草の香りが混じって漂っていた。

本棚の影が深い。

蝋燭の照明が、朝でも夜でもない時間を作っている。

 

小悪魔が脚立に乗り、返却本を抱えたままふらついている。

本の山は崩れそうで崩れない。

崩れる瞬間だけを誰かが止めているのだろう。「小悪魔。危ないわ」

 

「大丈夫です! たぶん!」

返事の自信が薄い。

咲夜は脚立を支え、上の本を一冊抜いた。

タイトルを見て、何気ないふりをした。

内容が何であれ、この館では「読むもの」が武器になり得る。

 

「パチュリー様は」

小悪魔が目で奥を指す。

咳払いが一つ。羽ペンの音が二つ。

 

パチュリーは机に向かったまま、顔だけをこちらに向けた。

肌はいつもより良い。

咳が少ない日だと本人は言うだろうが、咲夜には分かる。

少ないからといって楽ではない。息を温存しているだけだ。

 

「お嬢様から、菓子を地下へ回すようにと」

咲夜が包みを見せると、パチュリーの目がわずかに細くなった。

ため息とも、計算の音ともつかない沈黙が落ちる。

「……そう」

 

「それと。今日はお茶会は無し、と」

「でしょうね」

言い切りが早い。

パチュリーは理解している側の顔をしている。

理解しているからこそ、口にしない。

 

咲夜は机の上に、別の封筒を置いた。

館の備品管理の報告。

いつもならここで、パチュリーは嫌味を一つ言う。

「うちの本は神社の賽銭より高い」とか。

今日は、言わない。

 

「咲夜」

呼ばれて、咲夜は背筋を正す。

 

「レミィは最近……外へ行っている?」

咲夜は一瞬、言葉を選ぶ。

パチュリーの質問は、確認ではない。

すでに答えを知っている者の儀式的な言葉使い。

 

「ええ。時折」

「……あの博麗のところ?」

咲夜は否定しない。

否定しなくても、パチュリーは結論へ辿り着く。

 

「そう」

パチュリーは羽ペンを置いた。

指先で、机の角を軽く叩く。

癖だ。思考の速度を整えるための。

「レミィはああいうことをする時、説明しないから」

 

「ええ」

「説明しないまま、必要な準備だけ増やす」

咲夜は黙る。

その通りだから。

そして咲夜もまた、必要な準備を増やす側だから。

 

パチュリーが、椅子の背にもたれた。

「地下の結界は、いじっていないわよね」

 

咲夜は主人に言われた言葉を、ようやくいう時だと思い、視線をその扉の方へ向ける。

 

「お嬢様より、今日は結界また緩めて欲しい、と」

 

「またやるのね」

パチュリーが薄く笑った。

咲夜がこの館で一番嫌う種類の笑いだ。

正しく理解している者が、理解していないふりをする笑い。

 

「お嬢様は、何をお考えなのでしょう」

咲夜は、ほんの少しだけ本音を漏らした。詮索せず、余計な事を言わないようにと言われているが、喉の奥に刺さる様なこの気持ちはきえない。

だが漏らしていい相手は限られる。

パチュリーは、その数少ない一人だ。

 

パチュリーは天井を見上げた。

本棚の影が、蜘蛛の巣のように広がっている。

 

「さあね。運命を操るのはレミィの趣味でしょう。私は七曜しか扱えないからわからないわ」

「……趣味、ですか」

「いつもはね、今回はちょっと必死ね」

 

咲夜は息を呑む。

パチュリーは言い過ぎたと気づいたのか、咳を一つした。

咳が増えると、会話も途切れる。

 

小悪魔が扉の隙間から顔を覗かせた。

目が泳いでいる。この重たい空気に恐る恐る言葉を発する。

「パチュリー様、返却の山が……」

 

「置いて。後で見る」

小悪魔は引っ込んだ。

気配だけが残る。

あの子もあの子で、館の揺れを感じ取っている。

 

咲夜は包みを持ち直す。

地下へ向かう仕事は、今の自分に一番似合っている。

会話より、運搬。

感情より、手順。

 

「地下へ行ってまいります」

パチュリーは頷いた。

そして、咲夜が扉を出る寸前に、低い声で言った。

 

「咲夜。もし、レミィが何かを決めたなら」

 

咲夜は振り返る。

「あなたは止めないでしょ」

咲夜は笑わなかった。

笑えなかった。

止めるという発想が、最初から無いことを見抜かれている。

「私は、お嬢様のメイドですので」

 

パチュリーは目を伏せた。

その返答に満足したのか、諦めたのか。

判別はできない。パチュリーの諦めは、いつも正しすぎるから。

 

 

地下へ続く階段は冷たい。

石が湿っている。光が少ない。

それでも闇ではない。

咲夜はランプを持たない。

持たなくても、この道は覚えている。

 

扉の前で、咲夜は呼吸を整えた。

ゆっくりノックを2度行う。

だが、返事がない。

扉を開けるなというサイン。咲夜は少し視線を伏せ、食事を乗せる棚にお菓子を置く。

「……妹様、お菓子です。暖かいうちにお召し上がり下さい」

 

その言葉にも返事はなく、咲夜の声は、石に吸われていく様だった。

 

咲夜が踵を返した、その瞬間。

背後の気配が、ほんの少しだけ動いた気がした。

 

見ない。

振り返らない。

ここで振り返るのは、優しさではなく、好奇心だ。

好奇心はこの扉の前では毒になる。

 

咲夜は階段を上がる。

上へ行くほど、館の音が戻ってくる。

妖精メイドの笑い声、美鈴の箒の音、遠くの時計の刻み。

 

そして上階の方角から、主の気配が微かに揺れた。

決めた時の揺れだ。

 

咲夜が大広間に戻ったをところで、レミリアが待っていたかの様にこっちに向かって歩いてくる。

「咲夜」

 

「はい、お嬢様」

レミリアは咲夜の目を見て、玄関扉に視線を移した。

「出かけるわ。一緒に来なさい」

 

「どちらに向かわれるのでしょうか?」

咲夜は行き先がわかっていながらつい聴いてしまう。

(また、あの巫女の所だろう。ここ1ヶ月で既に3回目だ。

知っているお嬢様が知らない者に染まっていく様で、物凄く嫌になる時がある。)

咲夜はそんな思いを巡らしながら主人のわかっている言葉を待つ。

「霊夢のところよ、すぐ向かうわ。美鈴も一緒に向かう様に伝えなさい。館にはパチェだけでいいわ」

 

【霊夢】

お嬢様が名前を呼ぶのは紅魔館の住人のみのはず。

その言葉に咲夜の心が強く痛み、主人には見えないように奥歯に力が入れてしまう。

「……かしこまりました。すぐに出発の用意をいたします」

 

館は動き出す。

楽しげではない。

けれど、止まっているよりずっとましな種類の動き。

 

紅魔館の一日は、いつもとは違う日を紡ぎ出した。

いつも通りに見えるように、全員が努力しながら。

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