それをみるフラン。そして博麗神社についた紅魔館一行…
ゆっくりと、過去の日常へ戻るために動き出す歯車の物語
大図書館の照明は、昼でも薄暗さを保っている。
パチュリー・ノーレッジは机に向かい、開いた魔導書をそのままに、指先で空中の魔力をなぞっていた。可視化されない計算式が、頭の中で何重にも組み替えられていく。
地下結界。
紅魔館の中でも、最も扱いに慎重を要する構造。
壊さないために閉じる。
触れさせないために隔てる。
それは理にかなっている。合理的だ。正しい。
だが、今日は違う。
「……少しだけ、ね」
誰に聞かせるでもない声が、書斎の空気に溶ける。
指示は明確だった。 完全解除は不可。 通行許可も与えていない。レミィが出かけるときにお願いする結界の方法。
ただ、圧を抜く。それだけ。
魔力の流れを、ほんの一段階だけ緩める。結界の“強度”ではなく、“存在感”を薄くする。
それは、出入り口を作る行為ではない。 ただ、内側から外への興味を持ちやすくするためだけのもの。
「……何を考えてるのかしらね、ほんと」
パチュリーは苦笑ともため息ともつかない息を吐く。
レミィはいつも説明しない。 理由も、狙いも、目的さえも。 渡されるのは結果だけだ。
それでも、パチュリーは動く。
動く理由を理解しているからではない。
理解しようとすると、止めるべき場面が増える。
止める役目は、自分にはない。
結界の式を構成する七曜の配列を、紙の上で書き換える。
一つ、二つ、位置をずらす。
成功率は九割九分。
残る一分は、意図的に切り捨てる。
「失敗したら、それは事故じゃすまないわね……」
パチュリーは羽ペンを置き、目を閉じた。
地下にいる“彼女”のことを思い浮かべる。
天才。化け物。 制御不能。
呼び名はいくらでもある。
どれも正しくて、どれも足りない。
壊す力を持つ者が、壊さない距離をわかるようにできるのが、あの地下だ。
だから今日は、その距離を少しだけ動かす。
壊さないまま、触れられるかどうか。
それを試すのは、外の世界の役目だ。
パチュリーは魔力を流し込み、結界の一部を緩めた。
反応はない。爆ぜない。 揺れもしない。静かな成功。
「……これでいいのね、レミィ」
それ以上の感想は、不要だった。
◆
地下は今日も変わらず冷たく静かだった。音が無いわけではない。ただ、音が意味を持たない場所だった。水滴の落ちる音も、石が軋む気配も、ここではただの現象でしかない。
部屋の真ん中に幼い影がある。
フランドールは床に座っていた。椅子はある。ベッドもある。本も、玩具も、壊れかけの人形も。けれど彼女は床を選ぶ。何かを壊さない距離が、そこにあったから。
視線を上げると、天井の奥に微かな揺れが見える。 結界だ。 触れなければ壊れない。 近づかなければ、壊さなくて済む。
外の音が、少しだけ混じっている。 紅魔館の気配。 階段を行き交う足音。 カップの触れ合う音。 誰かが笑い、誰かが咳をする。
見える。 聞こえる。 けれど触らない。
それが、彼女が選んだ距離だった。
昔は違った。
昔といっても、時間の感覚は曖昧だ。 怒られたことも、叱られたこともない。 ただ、壊れた。 近づいたものが、全部。
だから彼女は学んだ。 「きゅっとして、どかーん」は楽しいけれど、後には何も残らない。 何も残らないと、誰も来なくなる。
天井の揺れが、少し大きくなった。 今日は、いつもと違う。
フランは立ち上がり、結界の前に歩み寄る。 指先が震える。 触れれば、壊れるかもしれない。そしたらまた長い時間誰も来ないかも…
でも今日は、触れても壊れない、そんな気がした。
理由は分からない。 誰も説明してくれない。 説明されないことには、慣れている。
結界の向こうに、懐かしい魔力の流れが見えた。私の知っている、とても大好きで懐かしい色合い。
「……お姉さま、パチュリー………」
名前を呼んでも、返事はない。 返事が来ない距離で呼ぶのが、彼女の癖だった。
結界が、わずかに緩んでいるのがわかる。外の気配がいつもより明確にわかる。なぜだろう。わからない。
お姉さまがしてくれたに違いない。それだけで十分だった。
フランドールは、結界に触れないまま、目を閉じた。 見るだけ。 今日は、それでいい。
でも、胸の奥で何かが動く。 外に出ても、だれも壊さないかもしれない、という感覚。
それは希望ではない。 予感だった。
地下は変わらず静かだ。けれど今日は、その静けさが少しだけ薄い。
フランの心の奥が微かに火を灯す。
結界から目を離し、階段の方向を見た。誰かが来る。来るかもしれない。そんな予感。
その可能性だけで、胸が少し熱く、軽くなった。
壊さないまま、触れる日が、近づいている。そう感じながら、彼女は階段の奥を見つめていた。
◆
博麗神社の境内は、昼下がりの陽気に包まれていた。
箒を動かす霊夢の動きは雑だが、境内は不思議と整っている。慣れた仕事のリズムが、空気を安定させていた。
縁側には、珍しい顔ぶれが揃っている。
レミリア・スカーレットは日傘を咲夜に任せ、紅茶のカップを指先で回していた。視線は空を向かず、地面にも落とさない。
その一歩後ろに咲夜が立ち、少し離れた場所で美鈴が腕を組んでいる。
「……今日は、やけに賑やかじゃない」
霊夢が口を開く。
「うるさいのは好きじゃないの」
「嘘。あんた、うるさいの好きでしょ?」
霊夢は箒を立てかけ、腕を組んだ。
「わざわざ勢ぞろいで何の用?」
レミリアは答えない。
一拍、二拍。
紅茶を一口飲む。
「紅魔館で、少し厄介なことが起きそうなの」
「起きてから言いなさいよ」
「起きる前だから来たのよ」
霊夢は眉をひそめる。
「……面倒くさい言い方ね」
咲夜が小さく咳払いをした。
「お嬢様、要点を」
「分かってるわよ」
レミリアは霊夢を見る。
冗談を言う時の目ではない。
「これから、紅魔館へ行きなさい」
「は?」
「弾幕ごっこ」
霊夢は一瞬、言葉を失った。
「ちょっと咲夜。この吸血鬼は何を言ってんのかわかる?」
「お嬢様、要点をと申しましたが…」
咲夜は少し申し訳なさそうにレミリアに向かい言葉をかけようとするが、それをレミリアは言葉で遮る。
「異変じゃないわ、でも早いところしないと、異変になっちゃうかもしれないわね」
変わらないリズムで紅茶を口に運びながら告げた。
「……確認よ」
「何をよ」
「あなたが、壊れないかどうか、の確認」
霊夢は沈黙した。
咲夜が思わず声を上げる。
「お嬢様、それは——」
「いいの」 短い否定。「必要なの」
霊夢はしばらく考え込み、やがて肩をすくめた。
「いったい何なのよ……相変わらず説明ができない奴ね。行けばいいんでしょ行けば」
「助かるわ」
その言葉に、感謝の色はなかった。
ただ、決断を一つ終えた響きだけが残る。
レミリアは立ち上がる。
「壊れなかったら、その先を考える」
「壊れる壊れないって…じゃあ、壊れたら?」
霊夢の問いに、レミリアは小さく微笑む。
「その時はまた空を赤く染めて、私が貰ってあげるわ」
「ほんと、ろくでもない吸血鬼だわ」
だがその表情は、どこか真剣だった。
紅魔館へ向かう理由は、それで十分だった。