夏でもないのに空気が湿りを帯びたように重く、
それでいて引き裂けそうな程刺々しい空間が大図書館を支配していた。
それは同じ赤を基調とした衣装を身にまとった二つの影が生み出している。
一人は博麗の巫女、そしてもう一人は小さな赤い吸血鬼。
吸血鬼、フランの目が細くなる。
「弾幕ごっこなんだから、どんな弾幕だっていいんだよね!」
右手が軽く振られた。
ただ、それだけ。
不可視の刃が鎌鼬みたいに走り、霊夢の頬を撫でた。
一瞬遅れて、壁がえぐれ、床が抉れて消える。
「っ……!」
霊夢は横に跳ぶ。
破片が頬を掠める。熱い。血の味がする。
遊びじゃない。
“弾幕ごっこ”の形をした、殺しの稽古。
「遅い、遅いよ。もっと踊って!!」
フランの姿が掻き消えた。
次の瞬間、頭上から赤い塊が降る。
光じゃない。
赤い暴力。圧縮された熱。
当たれば骨が折れる、そんな重さの弾が、雨になる。
霊夢は空中で身をひねり、結界を張る。
肌が引きつれる。結界越しでも衝撃が骨に響く。
「……重っ」
魔力の密度が異常だ。技術じゃない。
これが495年、溜め込んだものの重さなのか。
孤独が、発酵したまま腐らずに残っているかのようだ。
霊夢は札を切り、霊力を走らせた。
「夢想封印!」
放たれた霊力が追尾し、赤い弾と衝突する。
光が弾け、爆ぜる。耳の奥が痛い。
呼吸をするたび、胸の内側が擦れる。
煙の中から、フランが跳び出してくる。
手には炎の剣。歪な形。レーヴァテイン。
振り方は滅茶苦茶だ。
剣術じゃない。棒を振っているだけ。
でも、その滅茶苦茶が危ない。軌道が読めない。空間が焼き切られる。
霊夢は受けない。受けたら腕が持っていかれる。
紙一重で躱す。袖が焦げる。肌が熱波で焼かれる匂いが立った。
「逃げてばかり。つまんない!」
フランが地団駄を踏む。
床が震える。壁に亀裂が走る。
感情が、そのまま現象になる。自我の境界が薄い。
霊夢は距離を取って呼吸を整えた。汗が目に入り、視界が滲む。
「……あんた、自分が何してるか分かってる?」
フランの動きが止まる。
炎の剣をだらりと下げて、虚空を見る。
その瞳の奥に、底のない暗闇が渦巻いている。
「分かってるよ。弾幕ごっこでしょ?」
声が少しだけ揺れる。
「遊んでくれるって言ったじゃん……嘘つくの?」
霊夢は言葉を返さない。返せない。
返事の形を間違えると、全部壊れる。
フランの唇が震えた。泣きそうで、でも泣かない。泣けない。
それが一番危ない。
「お姉様は忙しい。パチェは本ばっかり。咲夜は……見てるけど、見てない」
「……」
「みんな、私の中の“壊れる”を怖がってるだけ」
怒りの温度が上がる。
それと一緒に、空間の圧が上がる。
「だから私が壊してあげるの! みんなが怖がってる破壊を、私が全部!」
フランが右手を掲げる。
掌の中に、黒い球が集まっていく。色がないのに、目が離せない黒。
フランの能力。
“目”を握り潰す。理屈を通さず、世界の急所を叩き割る。
霊夢の背筋に、冷たいものが刺さった。
これは弾幕じゃない。逃げても意味がない。空間ごと消える。
まずい
あれはまずい。
霊夢の直感が大音量で警告音を鳴らしている。
だが近づけない。
空間がねじれ、因果律すらも捻じ曲げるようにフランの手のひらに"全て"が収縮していく。
逃げたい。
博麗の巫女となって初めてそう思う。それ程までに常識を逸している。
だが、逃げれない。
ここで逃げたら、この子は永遠に“怪物”のまま固定される。
誰も近づけない。誰も触れられない。本人も出られない。
それが一番、面倒で最悪だ。
そして、私はそれをしたくない。
霊夢は一歩、前へ出た。
足が重い。怖い。
でも役目が背中を押す。巫女の役目は、こういうときに逃げないことだ。
「……させないわよ」
フランの視線が霊夢を刺す。
怒りと恐怖と、期待みたいなものが混ざっている。
「うるさい!」
フランが手を更に握り込む。
キュ、と乾いた音がした。
霊夢の心臓が、見えない手で掴まれたみたいに跳ねる。
視界が歪む。喉に血の味。口の端から赤が落ちた。
それでも、霊夢は止まらない。止まれない。
足裏に血が滲む。床の冷たさが痛みを増やす。
一歩進むごとに体が軋む。骨が歪む。皮膚が裂ける。
それでも、歩みは止まらない。
「わた…ッ、私を見なさい!」
錆びた味のする喉から声を絞り出す。
喉が裂ける。血がさらに出る。でも声を張る。
ここで弱い声を出したら、負ける。
「私は壊れない。あんたが暴れても、拒絶しても」
霊夢は懐へ飛び込む。
術じゃない。結界じゃない。今必要なのは、近さ。
“距離”を壊してやらないと、この子は永遠に壊し続ける。
「嫌……来ないで! 壊れちゃう、あんたも壊れちゃう!」
フランの声が揺れる。
怖がっている。壊したいんじゃない。壊したくないのに、壊してしまうのが怖い。
「私は壊れない! 私を誰だと思ってるのよ!」
霊夢は血まみれの手で、フランの胸倉を掴んだ。
「私は、博麗の巫女、博麗霊夢よ!!」
ゴッ、と鈍い音と共に二人の額が激しくぶつかる。
フランがよろめく。黒い球が散り、霧みたいに消えた。
圧が抜ける。空気がやっと肺に入る。
「……あ……」
フランが尻餅をつく。
額を押さえ、涙目で霊夢を見上げる。
そこには、禁忌の威厳もない。
ただ喧嘩に負けて呆然とする、子供がいる。
「……痛い」
「当たり前でしょ。石頭には自信あるのよ」
霊夢は肩で息をしながら、同じ場所にどさっと座り込んだ。
巫女装束はボロボロ。全身が熱い。血と焦げの匂いが混ざっている。
でも、今は武器を構える気になれない。
フランの目の赤が、少しだけ澄んでいく。
熱くてドロドロした塊が、出口を見つけて流れたみたいに。
「……ねえ、霊夢」
「なに」
「お腹空いた」
その声は、獲物を探す飢えじゃない。
遊び疲れた子の、素直なねだり。
霊夢は短く息を吐く。
「……後で咲夜に作らせなさいよ。私も付き合ってあげるから」
「うん」
フランが立ち上がろうとして、ふらついた。
そのまま霊夢の膝に倒れ込む。
霊夢は嫌そうな顔をしたが、押し退けない。
髪から、甘い菓子の匂いがした。
血と破壊の匂いの奥に隠れていた、本当の匂い。
静けさが戻る。
重たい沈黙じゃない。雨上がりみたいな、薄い静けさ。
「……お嬢様?」
瓦礫の隙間から銀色の影。十六夜咲夜。
崩れた地下と血まみれの二人を見て、ナイフに手がかかる。
「殺してるわけないでしょ」
「寝てるだけ、なのね。こんな寝顔をするなんて…」
咲夜の表情が、ほんの一瞬だけ歪む。
安堵。驚き。悔しさ。
自分ができなかったことを、この巫女がやったという事実の棘。
咲夜はそれを飲み込み、仮面を戻す。
「……ご苦労様でした。博麗の巫女」
「礼は弾んでよね。服も台無しなんだから」
咲夜がフランを抱き上げる。
腕の中でフランが、咲夜の服をぎゅっと握った。
その仕草に、咲夜の目が細くなる。役割じゃない体温が漏れる。
「紅茶を淹れますよ。最高級の茶葉で」
「お茶請けも。甘いやつ」
二人は瓦礫を背に、階段を上がり始めた。
外はもう夜かもしれない。
そんなことを考えながら霊夢は思う。
あー、疲れた。
紅魔館を覆っていた本当の闇は、静かに眠りについて新しい明日を迎える。