そんな静けさの中のテラスで二人の影を月明かりが照らす。
淹れたての紅茶から立ち上る、ベルガモットの香りが鼻腔を突く。
それ以上に、指先にこびりついた鉄の匂いが、自分の存在を執拗に主張していた。
「……熱いわね」
霊夢は小さく零し、ボロボロになった袖を無造作に捲り上げた。
陶器の熱が、戦いで冷え切った肌にじりじりと浸透していく。
紅魔館の最上階、月明かりだけが居座るバルコニー。
そこには、さっきまでの血生臭い狂気など、始めからなかったかのような静寂が横たわっていた。
対面に座る主、レミリア・スカーレットは、銀の匙を弄びながら夜の帳を見つめている。
その横顔は、完璧な吸血鬼としての象徴——幼き伯爵としての威厳に固定されているが、今はどこか薄氷のような危うさを孕んでいた。
強がりの沈黙。それが周囲を不安にさせる、彼女なりの『脆さ』の出し方だ。
「——終わったのね、本当に」
レミリアの声は、夜風にさらわれて消えそうなほど静かだった。
「まるで他人事みたいに…ちゃんとご所望通り終わらせたげたわよ」
霊夢はわざと無愛想に答え、茶を啜る。喉の奥が、まだ乾いた血の味でじりじりと痛む。
理屈を壊して距離を詰める。それが『博麗の巫女』としての、冷徹なまでのプロ意識だった。
「……そう。あの子が、あんなふうに笑って寝るなんて、何年ぶりかしら」
レミリアが視線を落とす。
その瞳の奥にあるのは、妹を閉じ込め続けてきた罪悪感か、あるいは自分だけが共有できない時間への疎外感か。
彼女たちは『象徴的な姿』に固定され、何百年も変わらない時を生きる。
けれど、その魂に刻まれる摩耗までは止められない。
「失礼いたします」
影が落ちる。十六夜咲夜が、新しいポットを持って現れた。
完璧な所作。乱れのないメイド服。
だが、霊夢の傷ついた腕へ包帯を巻くその指先は、必要以上に鋭く、冷たい。
主が自分ではなく、目の前の巫女に心の一部を預けていることへの、微かな、けれど確かな独占欲が滲んでいた。
「お茶請けです。お嬢様、そして……博麗の巫女」
咲夜の言葉には、感謝と、それを上回るほどの『余所者』への拒絶が混ざっている。
沈黙が、優しさとして機能するこの館において、言葉にされない感情だけが真実味を帯びる。
「……ねえ、霊夢。あなたは怖くないの?」
レミリアがふいに問いかけた。
「あの子は、世界を握りつぶせる。あなたの命も、その概念すらも」
霊夢は空になったカップを置き、立ち上がる。
夜の冷気が、焼けた肌に心地よい。
「怖いとか、そういうのはもう飽きたわ。ここは幻想郷よ。あんなの5万といるわ」
巫女という役割に縛られ、同時にそれを盾にして、常識の境界を歩く。
霊夢にとって、フランドールの狂気も、レミリアの孤独も、解決すべき『異変』の断片に過ぎない。
情に流されず、けれど踏み込む。その乾いた立ち回りこそが、彼女の生存戦略だった。
「礼は、最高級の茶葉と、この服の修繕費。……あと、当分は神社に来ないで。静かに寝たいの」
背を向けて歩き出す。
背後で、レミリアが小さく笑う気配がした。
カリスマを維持するための仮面が、一瞬だけ剥がれ、ただの少女のような溜息が漏れる。
「修繕費などは期待して頂戴。最後のお願いは……約束はできないわね」
霊夢の溜息と階段を降りる足音が、静まり返った館に響く。
図書室の方からは、パチュリーがページを捲る微かな音と、知的な諦念を孕んだ吐息が聞こえてくるような気がした。
館を出ると、外界の空気が肺を満たす。
地下の湿った石の匂いや、血の鉄臭さは、夜の森の匂いに上書きされていく。
空を見上げれば、月は相変わらず傲慢に輝いていた。
吸血鬼も、巫女も、それぞれの役割という檻の中で、明日もまた同じ姿で目覚めるだろう。
「……あーあ。本当に、高くつく仕事だったわ」
霊夢は独り言を捨て、闇の中へと消えていった。
その後ろ姿は、壊れることを拒んだ、ただ一人の人間のものだった。
◆
視界の端で、銀色の針が時を刻んでいる。
チク、タク。
一定のリズムが、深い眠りの底に沈んでいた意識を、ゆっくりと水面へ引き上げていく。
重い。
瞼も、指先も、および胸の奥にある「なにか」も。
けれど、その重さはあの地下で感じていた、腐敗した孤独の重さとは違っていた。
「……起きたのかしら」
どこか突き放すような、けれど吐息のような柔らかさを孕んだ声。
フランドールがゆっくりと目を上げると、そこには見慣れた紫色の陰影があった。パチュリー・ノーレッジが、本を閉じる音と共にこちらを覗き込んでいる。
「……パチェ」
「酷い顔ね……でも、いい顔になったわ」
パチュリーは淡々と言いながら、手元のベルを鳴らした。
冷えた空気の中に、チリンと乾いた音が響く。
ここは地下の自室ではない。紅魔館の、主賓を迎えるためのゲストルーム。
窓の外には、夜の色を脱ぎ捨てようとしている薄明の空が広がっていた。
「……私、壊しちゃった」
フランが掠れた声で呟く。
地下の結界。自分の指。大図書館の書籍、そしてあの巫女の身体。
思い出そうとすると、喉の奥がじりじりと焼けるような熱を帯びる。
「壊れたものは直せばいいわ。……それが不可能なものなら、壊れたままの形を受け入れるしかない。魔法も、身体も、関係性もね」
パチュリーの言葉には、知的な諦念と、それを上回るほどの微かな優しさが混ざっていた。
詮索はしない。それがこの館における、最も誠実な距離感だった。
扉が静かに開く。
「お目覚めですね、妹様」
十六夜咲夜のその表情は完璧なメイドのそれだったが、フランを横たえたベッドの端を整える指先には、言葉にできない独占欲のような熱が宿っていた。
自分ではなく、あの巫女に主の心が向いたことへの悔恨。
あるいは、傷ついた「主の妹」を介抱することへの義務感。
それらが混ざり合い、複雑な質感となった心境が咲夜の内側を支配していく。
「奥の部屋にて、お嬢様がお待ちです」
耐えきれずか、義務からか、咲夜は完璧を演じたまま、静かに任されている役割をこなし、二人に伝えた。
◆
テラスには、柔らかな朝の光が差し込み始めていた。窓を塞ぐ重厚なカーテンからもそれが薄っすらと漏れている。
テーブルの主座には、レミリア・スカーレットが座っている。
カリスマを纏い、威風堂々とした姿。
けれど、フランが近づく足音を聞いた瞬間、彼女の背中が微かに揺れた。
それは強がりを言わず、静かすぎることで周囲を不安にさせる、レミリア特有の「脆さ」の顕現だった。
「……起きたのね、フラン」
レミリアは座ったまま、首だけ向けて言った。
声は落ち着いている。けれど、カップを持つ指先が、ほんの少しだけ震えていた。
「ごめんなさい、お姉様」
フランは隣の椅子に座る。
隣り合う距離。
かつては「壊してしまう」ことを恐れて置けなかったその距離が、今は確かな熱を持ってそこにある。
博麗霊夢が、力づくでこじ開けた「近さ」が、まだそこにある。
「……謝る必要はないわ。あなたはただ、退屈に耐えきれなくなっただけでしょう?」
レミリアがカップを置き、初めてフランを正面から見た。
赤い瞳。
そこには拒絶も恐怖もない。
ただ、自分と同じ姿で固定された、逃れられない運命を共にする者への、深い沈黙があった。
咲夜が静かに紅茶を注ぐ。
黄金色の液体が、磁器のカップに波紋を作る。
パチュリーもまた、適当な席に座り、不機嫌そうに、けれど満足げにスコーンを口にした。
「……ねえ、お姉様」
フランが口を開く。
「なに?」
「霊夢……また、来るかな」
レミリアは一瞬だけ目を伏せ、それから少しだけ唇を端に寄せた。
「ええ。きっと来るわ」
その言葉に、フランは自分の掌を見つめた。
目を握りつぶす能力。
理屈を通さず、世界の急所を叩き割る力。
それは今も消えていない。
けれど、温かい紅茶のカップを握るこの感触は、確かにそこに存在していた。
「……なら、次はもっと上手く、弾幕ごっこをしてあげなきゃ」
フランの瞳に、狂気ではない、純粋な好奇心が灯る。
それは子供のような無邪気さであり、同時に吸血鬼としての本能でもあった。
日常が戻ってくる。
時計の針が刻む音。紅茶の香り。
完璧なメイドの給仕と、不機嫌な魔法使いの小言。
閉ざされた楽園を、また日常が回り始めた。
館を覆っていた重苦しい闇は、朝の光に溶けていく。
完全に「直った」わけではない。
歪みも、傷も、欠けたところも、そのまま。
けれど、壊れたままの形で回り続ける歯車が、紅魔館には相応しかった。
「咲夜、お代わり」
レミリアの声が響く。
「はい、お嬢様」
日常という名の監獄は、今日は少しだけ、風通しが良い。
フランドールは、甘すぎるジャムをたっぷり塗ったスコーンを頬張り、この楽しい日常を噛み締めた。
——夜が居座っているような暗さはもうない。
新しい一日が、またこの閉ざされた楽園を回り始めた。