-紅魔館、日常への余白-   作:幻想郷まったり書庫

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フランとの激闘が終わった静かな紅魔館。
そんな静けさの中のテラスで二人の影を月明かりが照らす。


第5話 日常の余白 欠けた月と、温かい紅茶

淹れたての紅茶から立ち上る、ベルガモットの香りが鼻腔を突く。

それ以上に、指先にこびりついた鉄の匂いが、自分の存在を執拗に主張していた。

「……熱いわね」

霊夢は小さく零し、ボロボロになった袖を無造作に捲り上げた。

陶器の熱が、戦いで冷え切った肌にじりじりと浸透していく。

 

紅魔館の最上階、月明かりだけが居座るバルコニー。

そこには、さっきまでの血生臭い狂気など、始めからなかったかのような静寂が横たわっていた。

対面に座る主、レミリア・スカーレットは、銀の匙を弄びながら夜の帳を見つめている。

その横顔は、完璧な吸血鬼としての象徴——幼き伯爵としての威厳に固定されているが、今はどこか薄氷のような危うさを孕んでいた。

強がりの沈黙。それが周囲を不安にさせる、彼女なりの『脆さ』の出し方だ。

「——終わったのね、本当に」

レミリアの声は、夜風にさらわれて消えそうなほど静かだった。

 

「まるで他人事みたいに…ちゃんとご所望通り終わらせたげたわよ」

霊夢はわざと無愛想に答え、茶を啜る。喉の奥が、まだ乾いた血の味でじりじりと痛む。

理屈を壊して距離を詰める。それが『博麗の巫女』としての、冷徹なまでのプロ意識だった。

「……そう。あの子が、あんなふうに笑って寝るなんて、何年ぶりかしら」

レミリアが視線を落とす。

その瞳の奥にあるのは、妹を閉じ込め続けてきた罪悪感か、あるいは自分だけが共有できない時間への疎外感か。

彼女たちは『象徴的な姿』に固定され、何百年も変わらない時を生きる。

けれど、その魂に刻まれる摩耗までは止められない。

「失礼いたします」

影が落ちる。十六夜咲夜が、新しいポットを持って現れた。

完璧な所作。乱れのないメイド服。

だが、霊夢の傷ついた腕へ包帯を巻くその指先は、必要以上に鋭く、冷たい。

主が自分ではなく、目の前の巫女に心の一部を預けていることへの、微かな、けれど確かな独占欲が滲んでいた。

「お茶請けです。お嬢様、そして……博麗の巫女」

咲夜の言葉には、感謝と、それを上回るほどの『余所者』への拒絶が混ざっている。

沈黙が、優しさとして機能するこの館において、言葉にされない感情だけが真実味を帯びる。

「……ねえ、霊夢。あなたは怖くないの?」

レミリアがふいに問いかけた。

「あの子は、世界を握りつぶせる。あなたの命も、その概念すらも」

 

霊夢は空になったカップを置き、立ち上がる。

夜の冷気が、焼けた肌に心地よい。

「怖いとか、そういうのはもう飽きたわ。ここは幻想郷よ。あんなの5万といるわ」

巫女という役割に縛られ、同時にそれを盾にして、常識の境界を歩く。

霊夢にとって、フランドールの狂気も、レミリアの孤独も、解決すべき『異変』の断片に過ぎない。

情に流されず、けれど踏み込む。その乾いた立ち回りこそが、彼女の生存戦略だった。

「礼は、最高級の茶葉と、この服の修繕費。……あと、当分は神社に来ないで。静かに寝たいの」

背を向けて歩き出す。

背後で、レミリアが小さく笑う気配がした。

カリスマを維持するための仮面が、一瞬だけ剥がれ、ただの少女のような溜息が漏れる。

「修繕費などは期待して頂戴。最後のお願いは……約束はできないわね」

霊夢の溜息と階段を降りる足音が、静まり返った館に響く。

図書室の方からは、パチュリーがページを捲る微かな音と、知的な諦念を孕んだ吐息が聞こえてくるような気がした。

館を出ると、外界の空気が肺を満たす。

地下の湿った石の匂いや、血の鉄臭さは、夜の森の匂いに上書きされていく。

空を見上げれば、月は相変わらず傲慢に輝いていた。

吸血鬼も、巫女も、それぞれの役割という檻の中で、明日もまた同じ姿で目覚めるだろう。

 

「……あーあ。本当に、高くつく仕事だったわ」

霊夢は独り言を捨て、闇の中へと消えていった。

その後ろ姿は、壊れることを拒んだ、ただ一人の人間のものだった。

 

 

視界の端で、銀色の針が時を刻んでいる。

チク、タク。

一定のリズムが、深い眠りの底に沈んでいた意識を、ゆっくりと水面へ引き上げていく。

重い。

瞼も、指先も、および胸の奥にある「なにか」も。

けれど、その重さはあの地下で感じていた、腐敗した孤独の重さとは違っていた。

 

「……起きたのかしら」

どこか突き放すような、けれど吐息のような柔らかさを孕んだ声。

フランドールがゆっくりと目を上げると、そこには見慣れた紫色の陰影があった。パチュリー・ノーレッジが、本を閉じる音と共にこちらを覗き込んでいる。

「……パチェ」

「酷い顔ね……でも、いい顔になったわ」

パチュリーは淡々と言いながら、手元のベルを鳴らした。

冷えた空気の中に、チリンと乾いた音が響く。

ここは地下の自室ではない。紅魔館の、主賓を迎えるためのゲストルーム。

窓の外には、夜の色を脱ぎ捨てようとしている薄明の空が広がっていた。

「……私、壊しちゃった」

フランが掠れた声で呟く。

地下の結界。自分の指。大図書館の書籍、そしてあの巫女の身体。

思い出そうとすると、喉の奥がじりじりと焼けるような熱を帯びる。

「壊れたものは直せばいいわ。……それが不可能なものなら、壊れたままの形を受け入れるしかない。魔法も、身体も、関係性もね」

パチュリーの言葉には、知的な諦念と、それを上回るほどの微かな優しさが混ざっていた。

詮索はしない。それがこの館における、最も誠実な距離感だった。

 

扉が静かに開く。

「お目覚めですね、妹様」

十六夜咲夜のその表情は完璧なメイドのそれだったが、フランを横たえたベッドの端を整える指先には、言葉にできない独占欲のような熱が宿っていた。

自分ではなく、あの巫女に主の心が向いたことへの悔恨。

あるいは、傷ついた「主の妹」を介抱することへの義務感。

それらが混ざり合い、複雑な質感となった心境が咲夜の内側を支配していく。

「奥の部屋にて、お嬢様がお待ちです」

耐えきれずか、義務からか、咲夜は完璧を演じたまま、静かに任されている役割をこなし、二人に伝えた。

 

 

テラスには、柔らかな朝の光が差し込み始めていた。窓を塞ぐ重厚なカーテンからもそれが薄っすらと漏れている。

テーブルの主座には、レミリア・スカーレットが座っている。

カリスマを纏い、威風堂々とした姿。

けれど、フランが近づく足音を聞いた瞬間、彼女の背中が微かに揺れた。

それは強がりを言わず、静かすぎることで周囲を不安にさせる、レミリア特有の「脆さ」の顕現だった。

 

「……起きたのね、フラン」

レミリアは座ったまま、首だけ向けて言った。

声は落ち着いている。けれど、カップを持つ指先が、ほんの少しだけ震えていた。

「ごめんなさい、お姉様」

フランは隣の椅子に座る。

隣り合う距離。

かつては「壊してしまう」ことを恐れて置けなかったその距離が、今は確かな熱を持ってそこにある。

博麗霊夢が、力づくでこじ開けた「近さ」が、まだそこにある。

「……謝る必要はないわ。あなたはただ、退屈に耐えきれなくなっただけでしょう?」

レミリアがカップを置き、初めてフランを正面から見た。

赤い瞳。

そこには拒絶も恐怖もない。

ただ、自分と同じ姿で固定された、逃れられない運命を共にする者への、深い沈黙があった。

咲夜が静かに紅茶を注ぐ。

黄金色の液体が、磁器のカップに波紋を作る。

パチュリーもまた、適当な席に座り、不機嫌そうに、けれど満足げにスコーンを口にした。

「……ねえ、お姉様」

フランが口を開く。

「なに?」

「霊夢……また、来るかな」

レミリアは一瞬だけ目を伏せ、それから少しだけ唇を端に寄せた。

「ええ。きっと来るわ」

その言葉に、フランは自分の掌を見つめた。

目を握りつぶす能力。

理屈を通さず、世界の急所を叩き割る力。

それは今も消えていない。

けれど、温かい紅茶のカップを握るこの感触は、確かにそこに存在していた。

「……なら、次はもっと上手く、弾幕ごっこをしてあげなきゃ」

フランの瞳に、狂気ではない、純粋な好奇心が灯る。

それは子供のような無邪気さであり、同時に吸血鬼としての本能でもあった。

日常が戻ってくる。

時計の針が刻む音。紅茶の香り。

完璧なメイドの給仕と、不機嫌な魔法使いの小言。

閉ざされた楽園を、また日常が回り始めた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

館を覆っていた重苦しい闇は、朝の光に溶けていく。

完全に「直った」わけではない。

歪みも、傷も、欠けたところも、そのまま。

けれど、壊れたままの形で回り続ける歯車が、紅魔館には相応しかった。

「咲夜、お代わり」

レミリアの声が響く。

「はい、お嬢様」

 

日常という名の監獄は、今日は少しだけ、風通しが良い。

フランドールは、甘すぎるジャムをたっぷり塗ったスコーンを頬張り、この楽しい日常を噛み締めた。

——夜が居座っているような暗さはもうない。

新しい一日が、またこの閉ざされた楽園を回り始めた。

 

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