バレンタイン
今日は珍しく私と同じ雷門のマネージャーである葵と共に帰路についていた。
いつもなら、彼女は天馬と帰ることが多い。今日はその天馬やコウが部室に忘れ物をしたらしく、先に帰ることになったのだ。
「紫ちゃんと二人って、なんか新鮮だね」
葵が楽しそうに笑う。
「そうかしら。帰宅経路が同じなのだから、不思議ではないわ」
「もー、そういうとこ!」
彼女はくすくす笑う。
沈みかけた太陽が、街を橙色に染めていた。
部活終わりの静かな帰り道。風は少し冷たい。
しばらく歩いたあと、葵が思い出したように口を開く。
「そういえばさ、もうすぐバレンタインだけど覚えてる?」
私は足を止めることなく答えた。
「もちろん。二月十四日。三世紀ローマの司祭ウァレンティヌスに由来する記念日。現代アメリカでは男女問わずカードや花束を贈る日ね」
葵がきょとんとする。
「花束……?」
「感謝や愛情を広く伝達する日……間違ってるかしら?」
数秒の沈黙。
「……多分それ本場のバレンタインだと思う。日本だとね、ちょっと違うんだよ」
葵は少し笑いながら説明する。
「女の子が男の子にチョコをあげる日なんだ。本命とか、義理とか、友チョコとかさ」
「好きな異性に甘味をプレゼントするということ?」
「うん、まあ簡単に言えば」
私は即答する。
「私に好きな人はいないわ」
葵は驚いた顔をしたあと、なぜか優しく笑った。
「好きじゃなくてもいいんだよ? 仲がいい人とか、いつも頑張ってる人に“ありがとう”って渡すのもアリなんだよ」
感謝の可視化。
チーム運営の観点から見れば、確かに有効かもしれない。
「なら部員全員に均等配布するのが妥当ね」
「均等配布って言い方やめて!」
葵は笑いながら私の腕を軽く叩いた。
「手作り、してみない?」
その提案に、わずかに思考が止まる。
料理経験はほぼゼロ。成功率は未知数。
だが――
「……非効率的だけれど、やる価値はあるかもしれないわね」
そう答えた瞬間、葵の笑顔がぱっと明るくなった。
「よーし! じゃあ明日、2人で作ろう!」
こうして私たちは後日、放課後の調理室へ向かうことになった。
――正直に言えば。
“好きな人がいない”という言葉を口にした瞬間、
胸の奥にわずかな違和感が走った。
その正体を、私はまだ知らない
*
ヴァレンタイン前日。
放課後の家庭科室は、普段の静けさが嘘のように賑やかだった。机の上には小麦粉、バター、砂糖、卵、ココアパウダー。材料は完璧に揃っている。
「よし、今日はチョコマフィン作るよ!」
葵がエプロン姿で拳を握る。
私はレシピを一瞥した。
「薄力粉二百グラム。砂糖百二十グラム。ココア二十五グラム。ベーキングパウダー五グラム」
「もう覚えたの!?」
「記憶するのに三十秒も必要なかったわ」
計量は完璧だった。むしろ正確すぎるくらい。
でも問題は――そこからだった。
「えっと、次は卵を割って……」
私は卵を持ち上げ、的確な角度と力加減を計算する。
――コツン。
次の瞬間。
ぐしゃ。
「……」
ボウルの中に落ちたのは、綺麗に割れた卵と――殻の破片。
「あ、あわわ、殻入ってる!」
「……想定外」
私は箸で殻を拾おうとするが、滑って沈む。
「紫ちゃん、卵はこうやって割るんだよ!」
葵が優しく手本を見せる。
殻は入らず、黄身も綺麗なまま。
「……力加減が、難しいのね」
私は小さく呟いた。さらに混ぜる工程。
レシピ通りに正確に混ぜるはずが――
「ちょ、ちょっと紫ちゃん!? 混ぜすぎ!」
生地はなめらかを通り越し、やや粘度を増していた。
「均一化を図った結果よ」
「それ、グルテン出すぎちゃうから!」
「……そう」
理論上は“均一”が最適解のはず。
だが、料理はどうやら単純な数式ではないらしい。
それでも。
私は再びボウルを持ち、今度は慎重に、葵の動きを観察しながら混ぜる。無駄な力を抜き、空気を含ませるように。
オーブンに入れてしばらくすると、ふわりと甘い香りが室内に広がった。
「焼けた!」
型から外されたチョコマフィンは、少しだけ形が不揃いだった。私の分は、ほんの少しだけ高さが足りない。
「……見た目の完成度は八十点」
「充分だよ! 初めてなんでしょ?」
葵が笑う。私は出来上がったマフィンをじっと見つめた。計算通りではない。完全でもない。
それでも――
胸の奥に、ほんのわずかな達成感が芽生えていた。
(……悪くないかも?)
そのとき、ふと一つの疑問が浮かぶ。
――彼は、これをどう評価するだろう。
私はすぐに思考を打ち切った。
全員に同じものを渡す。
特別な意味はない。
これはあくまで“労い”。
それ以上でも、それ以下でもない。
*
ヴァレンタイン当日
放課後の部室は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。練習を終えた部員たちが戻ってくるたび、甘い香りとともに歓声が上がる。
「はい、これ。みんなお疲れさま!」
葵たちが次々とチョコマフィンを配っていく。
「うおー! 手作りだド!?」
「マジで!?ちゅーかテンション上がる!」
天馬は目を輝かせ、信助は「わああ!」と素直に喜び、三国先輩は妙に照れながら受け取っていた。
私は一歩引いた位置から、それを観察していた。
「紫ちゃんも配ろうよ!」
葵に背中を押され、私は用意していた袋を手に取る。
一人、また一人と手渡していく。
反応は上々。味の評価も悪くない。
それで十分なはずだった。
――だが。
「はい、紫ちゃん」
葵が、私の手に小さな包みをそっと乗せた。
「……これは?」
「コウくんの分。紫ちゃんから直接渡しなよ」
一瞬、思考が止まる。
「なんで?」
葵はにやりと笑った。
「好きじゃなくてもいいんだよ? 仲がいい人に渡すんだから」
好きじゃなくても。仲がいい人。
その言葉が、妙に胸に残る。
視線を上げると、少し離れた場所でコウがマフィンを眺めていた。
特別な表情はない。
ただ、静かに包装を見つめている。
(渡すだけ。特別な意味はない)
私は歩み寄る。
一歩。
二歩。
心拍数がわずかに上がる。
緊張ではない……はず。
「……コウ」
彼が顔を上げる。
「紫? どうした」
いつも通りの声。
私は包みを差し出した。
「これは、あなたの分よ。日頃の労い」
一瞬の沈黙。
コウは受け取り、少しだけ目を細めた。
「……直接か」
「葵に促されたの」
正直に言うと、彼は小さく笑った。
「そうか、じゃあ早速一口」
コウは包装を開け、ためらいなく一口かじった。
数秒、無言。
そして――
「……苦いな」
その場の空気が一瞬、固まる。
私は即座に思考を切り替える。
「苦味を抑える調整は可能だったわ。次回は――」
そこまで言いかけた私の言葉を、コウが軽く遮った。
「いや、悪い意味じゃねえぞ」
そう前置きして、もう一口かじる。
「俺さ、甘いのっていっぱい食えないんだよな」
もぐもぐと噛みながら、なんでもないことのように言う。
「すぐ胸焼けするし。でも苦いのはさ、なぜか無限にいける」
意味のわからない理屈。
だが、その言葉の裏にある“好意”は理解できた。
「つまり……好み、ということ?」
「そうそう、そういう事!」
コウはあっさり頷く。
「このくらいの苦さ、ちょうどいい。紫の作り方、俺には合ってる」
“紫の作り方”
料理工程の話をしているだけのはずなのに、
その言い方が、やけに胸に引っかかる。
苦笑しながらも、コウは最後の一口を迷いなく口に運ぶ。
「でもさ、ちゃんと考えて作ってくれたのは分かる。
適当に甘くした感じじゃないし」
私は一瞬、返答に迷う。
(評価対象は味。感情的な意味は含まれていない)
そう整理しようとするが、
胸の奥に生まれた微かな熱を、完全には否定できなかった。
「……そう。なら良かったわ」
平静を装ってそう言うと、
コウは何事もなかったように笑った。
「ありがとな。これ、普通に嬉しいぜ」
「そう……なら今度また作ってあげるわ」
苦い、と言われた瞬間に感じた小さな冷えは、
もうどこにもなかった。
コウはお世辞でも嘘をつくのが苦手なのでたまに空気を読めない時がある
ホーリーロード編までの設定集とか欲しいですか?
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いらない