「知らない天井だ」
目が覚めたとき、視界に入ったのは見慣れない白い天井だった。
鼻をつく消毒液の匂い。遠くで運動部の掛け声が聞こえる。
「あ、俺……」
体を起こそうとした瞬間、全身を鉛のような重さが襲った。
「動かないほうがいいわよ。まだスタミナが空っぽなんだから」
不意に横から声をかけられ、心臓が跳ね上がった。
カーテンの影、椅子に座って脚を組み、読書をしていたのは――藤原紫だった。
「……藤原、紫。……俺、どれくらい寝てた?」
「6時間ってところね。診てくれた先生曰く、ただのスタミナ切れ。脚の痺れも一時的なものよ。……無茶苦茶な戦い方をするから、そうなるのよ」
彼女は本を閉じると、冷めた瞳で俺を見つめた。相変わらず表情が読めない。
窓の外を見ると、空は燃えるような茜色に染まっていた。
「みんなは……天馬や、先輩たちは?」
「とっくに帰ったわ。……あ、でも松風君は最後まで残ろうとしてたわよ。私が無理やり追い返したけれど」
「お前……まあいいや。俺も帰る。お日さま園で皆んなが待ってるだろうしな」
重い体を引きずってベッドから降り、制服を整える。
だけど、保健室のドアを開けようとした俺の手を、紫の言葉が止めた。
「……帰り道、少し寄り道していかない?」
「はぁ? どこにだよ」
「グラウンドよ。あなたのその力の使い方……少しだけ見てあげてもいいわ」
「なっ……」
俺が言い返す暇もなく、彼女はひらりと保健室を抜け出していく。
「……何なんだよ、あいつ」
ぶつぶつ文句を言いながらも、俺は彼女の後を追った。
*
俺は保健室からグラウンドに向かうまで俺が気絶した後試合がどうなったか教えてもらった。
俺が倒れた後、剣城が、化身というオーラを具現化してパワーアップする力を使って天馬をボコボコにしたらしい。そして、天馬の言葉をきっかけに神童先輩が化身を覚醒させて、それを見た黒の騎士団の監督の命令で剣城達は撤退したらしい。
「化身……そんなものが」
「あなたも化身を出す才能はあるわ。だからその力を使えるように鍛えてあげるの」
「鍛える?」
俺は思わず聞き返した。夕日に照らされた紫は、相変わらず感情の読めない顔でボールを弄んでいる。
「ええ。その力……『化身』は、一朝一夕で扱えるものじゃない。私が叩き込んであげる。感謝なさい」
「待て待て、いきなり鍛えるって……そもそもサッカーできるのか?」
さっきの試合は散々なものだったが流石に初対面の人間に鍛えてやると言われてはいそうですかと納得できるものではない。
「疑うなら私の力を見せてあげるわ」
紫は静かに構える。その瞬間、彼女の纏う空気が一変した。
「いつでもどうぞ。私のボールを奪ってみて」
「だったら遠慮なくいかせてもらうぜ」
俺は紫のボールを奪うべく距離を詰める。
次の瞬間、紫がボールを両足で挟み込み、ふわりと背後へ跳ね上げた。――ヒールリフトだ。
俺は頭上を通るであろうボールを奪うべく腰を落としてジャンプしようとする。――だが、それは罠だった。
「甘いわね」
頭上にあるはずのボールがない。跳ね上げたはずのボールは彼女の踵をかすめるようにして、そのまま足元へ吸い付くように落ちた。完全なブラフだ。俺がブラフに釣られて体勢を崩した一瞬の隙。
「――っ!?」
紫は鮮やかなルーレットを繰り出した。独楽のように鋭く回転し、俺の横をすり抜ける。風を切る音と共に、彼女の白髪がふわりと俺の鼻先をかすめた。
「……う、嘘だろ……」
振り向いた時には、彼女はもうゴール前で優雅にボールを止めていた。
「今のだけじゃ足りないわよね……もう少し見せてあげる」
紫は無造作に、俺の足元へボールを転がしてきた。今度は俺がボールを持つ番らしい。
今度こそはとボールをキープしようとした瞬間、紫の姿がブレた。
「――『クイックドロウ』」
何が起きたのか理解するより早く、俺の足元のボールは奪われていた。
鋭い冷気が脚の横を通り抜け、気がつけば紫が背後でボールを弄んでいる。
「……速すぎる……。何だよそれ、お前の必殺技か?」
「ええ。無駄な動きを削ぎ落とし、最短の軌道で『奪う』。まあ、必殺技くらいならすぐに習得できると思うわ」
紫は奪ったボールを小脇に抱え、事もなげに言った。
「本当かよ……あんな動き俺にできるのか?」
「ええできるわ……でも、今日はここまで。さっきの試合で、あなたの体はもう限界のはずよ。これ以上は特訓じゃなく、ただの自傷行為だわ」
紫はそう言うと、踵を返して歩き出した。
確かに、言われてみれば全身の筋肉が焼けるように熱い。アドレナリンが切れてきたのか、一歩踏み出すたびに膝が笑う。
「おい、待てよ!」
俺の声に、紫が足を止める。夕闇が濃くなり、彼女の白い髪が淡い光を反射していた。
「……お前、本当は何者なんだ? その実力、ただの中学生じゃねーだろ」
問いかけられた紫の背中が、一瞬だけピクリと跳ねた。
彼女はゆっくりとこちらを振り返ったが、その表情には珍しく戸惑いの色が浮かんでいた。
……いや、あれは「何て答えようか考えていなかった」時の顔だ。
「……私は……」
数秒の沈黙の後、彼女はフイッと視線を逸らし、ぶっきらぼうに言い放った。
「……ただのサッカーマニアよ。……それ以上でも、以下でもないわ」
「はぁ? サッカーマニアが、あんな動きできるわけないだろ!」
「知識があれば、体の動かし方くらい導き出せるわ。とにかく、明日からはマネージャーとして雷門を支えてあげる。あなたのサッカー、せいぜい近くで見せてもらうわ」
「あ、おい! まだ話は――」
呼び止める俺を無視して、紫は足早に校門の方へと向かい、角を曲がっていった。
俺は慌ててその後を追う。あいつの家がどっちか知らないが、 聞きたいことが色々とあるんだ。
だが――角を曲がった先には、誰もいなかった。
「……え? 消えた?」
そこは長い直線の一本道だ。いくら足が速くても、数秒で視界から消えるなんてありえない。
「……サッカーマニア、ね」
俺は独り言をこぼし、自分の熱を持った右足を見つめた後重い足取りでお日さま園への帰路についた。
ホーリーロード編までの設定集とか欲しいですか?
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いる
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いらない