「新一……! 早く早く、置いていくよ!」
蘭に急かされ、新一は我に返った。
「すまん……考え事をしていた……!」
二人は最後尾から二番目の席に滑り込み、重厚なセーフティガードを降ろす。カチリ、という金属音が死の檻の施錠のように響いた。
「発車しまーす!」
係員の無機質な声と共に、コースターは重力に逆らい、ガタガタと異音を立てて頂上へと昇り始めた。
そして――最高地点からの急降下。
風を切り裂く絶叫の中、コースターが暗い隧道(トンネル)に差し掛かったその時だった。
新一の頬に、生暖かい飛飛沫が触れた。
「……? 水か……? いや、こっちは生暖かいぞ……!」
暗闇の中で新一の鼻腔を突いたのは、鉄錆のような強烈な血の匂い。
コースターが光の中へ躍り出、プラットホームへと一巡して戻ってきた時、そこは地獄絵図と化していた。
「ぎゃあああああ!!」
「緊急車だ!」「警察を呼べ!!」
新一の視線の先には、首から上が消失し、噴水のように鮮血を撒き散らす岸田の残骸があった。
「……見てらねーぜ」
数分前、新一の前に並んでいた銀髪の男、ジンが、吐き捨てるように呟く。その瞳には、死に対する驚きも嫌悪も、一欠片すら存在していなかった。
12分後。サイレンの音と共に、現場は封鎖された。
「どけどけ! 警察だ!」
「あ……目暮警部」
「おー……誰かと思えば、工藤君か」
目暮警部は図面を確認しながら、険しい表情で新一に問いかけた。
「では工藤君……これは『事故』ではないんだな?」
「ええ。もし『事故』で首が飛ぶほどの衝撃が加わったのなら、コースターの保安装置が異常を検知し、その場で緊急停止するはずです。ですが、この車両は平然と一巡して戻ってきた。つまり、保安装置に触れない方法で、かつ意図的に仕組まれた……明確な『殺人事件』です」
「おい、警部さんよ。そろそろ俺たちは行かねえと。探偵ゴッコに付き合ってらんねえんだよ」
ジンの冷たい声が割って入る。
(なんだ……!? こいつ、人を平気で何人も殺してきたような眼をしてやがる。ただの極道じゃねえ……こいつは一体!?)
新一の背筋を、本能的な恐怖が駆け抜ける。
そこへ、鑑識の部下が血のついた包丁の入った鞄を持ってきた。
「警部、被害者の連れの女性の鞄から、こんな物が……」
「知らない! 私、そんなもの知らないわ!!」
鞄の持ち主である椎奈美咲が悲鳴を上げる。
「じゃあ、そいつが犯人か?」
ウォッカがニヤリと笑う。だが、新一の鋭い眼差しは、震える別の女性を射抜いていた。
「いえ……犯人は、中条志美さん。貴女ですね?」
新一の指が、体操選手特有の痣を持つ彼女を真っ直ぐに指し示した。
「椎奈さんじゃないですよ。……その鞄の持ち主は、そこにいる大野愛子さんでしょう?」
新一の冷徹な指摘に、場が凍りつく。濡れ衣を着せられようとしていた椎奈が目を見開く中、中条志美が声を震わせた。
「私が……どうやって彼を殺したっていうのよ……」
「確かに普通の殺し方じゃ無理だ。だが、**『ピアノ線』と
『鋼鉄の輪フック』**さえあれば、可能だ……!」
新一は現場に停まったままのコースターを指し、自ら動いて検証を始めた。
「警部、あんたが被害者役だ。俺が一番前の左の席に座る容疑者。まず、セーフティガードが閉じる前に鞄を足元に挟む。ホラ、こうすれば隙間ができて簡単に抜け出せる。次に、あの真っ暗な隧道の中で背後の被害者の首に縄をかける。仕上げに、鞄から取り出した鋼鉄のフックをレールの突起に引っ掛ける……あとはコースターの圧倒的なスピードとパワーが、獲物を吹っ飛ばしてくれる寸法ですよ」
「物理学的には……不可能じゃねえな」
背後のサングラスの男、ウォッカが低く唸る。新一はその視線を一瞬だけ受け流し、崩れ落ちそうな中条を見据えた。
「貴女の『真珠のネックレス』……乗る前には確かに着けていたのに、今は無い。おそらく紐をピアノ線に挿げ替え、凶器にしたんでしょう。……その証拠にね、中条さん。ジェットコースターに乗って流した涙は、風圧で**『横にしか流れない』**はずなんだ。なのに、貴女の目元には縦に伝った涙の跡がある。それは、凶行を終えて俯き、静かに泣いた証拠だ」
「…………っ!!」
中条志美はその場に崩れ落ち、慟哭した。
「あの人が悪いのよ……! みんな私を捨てるから……!」
親友だと思っていた椎奈が、信じられないという顔で問い詰める。
「もしかして、志美……貴女、豊(岸田)君と付き合っていたの……?」
「ええ……大学で貴女たちに出会うずっと前から。でも、あいつは愛子に乗り換えた。だから……最初にデートしたこの場所で、最初に貰ったこの真珠で、殺してやりたかったのよ……!!」
事件は幕を閉じた。連行される彼女の鞄からは、大量の睡眠薬が発見された。計画を完遂した後、自らも命を絶つ「心中」のつもりだったのだろう。
やがて、暗い隧道の中から切断されたネックレスの残骸が回収された。
散らばった真珠の粒は、飛び散った鮮血に塗れながらも、沈みゆく夕陽を反射して淡い光沢を放っている。それはまるで、救われることのなかった彼女の、巨大な涙の結晶のように輝いていた。
「蘭……! 悪い、先に戻っておいてくれ……! すぐ戻るからよ……!」
新一の背中が遠ざかっていく。蘭の胸を去来したのは、理屈を超えた本能的な恐怖だった。
(この時……私は嫌な予感がしていた。新一ともう二度と会えない。そんな気がしたの。……私の元から、永遠に離れてしまうような……)
一方で、トロピカルランドの裏手、静まり返った工事現場。
「待ちくたびれたぜ……社長さんよ……!」
ウォッカの低い声が響く。物陰に潜んだ新一は、息を殺してフィルムカメラを構えた。
「約束通り金は用意した……! だから、渡してもらおう……!」
怯える社長が差し出したアタッシュケース。その時、闇の中から凛とした足音が響いた。
「シェリー……!? なぜここが……」
現れたのは、白いパジェロの女――宮野志保。
「いいから続けてちょうだい……」
(女か……? 奴らの仲間か……?)
新一のレンズが彼女を捉えるが、状況は急速に動いていく。
「まずは金が先だ」
開けられたケースには、束ねられた札。一億円はくだらない大金。
「ホラよ。これがお前の会社の『拳銃密輸の証拠フィルム』だ。悪いことはこれにて止めておくんだな……」
取引現場に意識を集中させていた新一は、背後から忍び寄る「死神」の気配に気づかなかった。
「探偵ゴッコは、そこまでだ」
背後から振り下ろされた金属バット。鈍い衝撃と共に、新一の視界が爆ぜた。
「チャカはマズイからな。シェリー……お前が開発した『新型の毒薬』、ここで使わせてもらうぞ」
ジンの冷酷な声に、志保の顔色が豹変する。
「ち……ちょっとジン! それはまだ未完成品なのよ……!」
「悪いな、シェリー。……ここでお前には消えてもらう」
ジンは躊躇なく、志保をもバットで殴打した。
「ガハッ……!」
崩れ落ち、新一の隣に倒れ込む志保。ジンは懐から、カプセ
ルに入った一錠の薬を取り出した。
「これがお前の開発した新型の毒薬、APTX4869だ。何でも、死体から毒物が検出されない優れもので、完全犯罪に向いているとか……」
新一の口に、そして志保の口に、冷たい薬が流し込まれる。
「あ……兄貴、早く……!」
ジンとウォッカの足音が遠ざかる中、地獄の苦しみが二人を襲った。
(身体が熱い……! 骨が溶けているみたいだ……もう、ダメだ……)
新一の意識が混濁し、視界が闇に染まっていく。
(お姉ちゃん……く……骨が溶けているみたいね……。もう、ダメかもしれないわね……)
隣で倒れる志保もまた、薄れゆく意識の中で、自分たちが生み出した「悪魔」に飲み込まれていくのを感じていた。
雨上がりの冷たいアスファルトの上で、新一は意識を取り戻した。
全身を襲う倦怠感と、引きちぎられるような節々の痛み。重い瞼を押し上げると、視界に入ってきたのは、ダブダブに余った自分の服と、異様に高く見える周囲の景色だった。
「な……何なんだ、これ……」
その時、すぐ隣で身悶え、起き上がる人影があった。
新一と同じように、大きすぎる白衣とパジャマのような服に埋もれた、一人の少女。
「誰だよ……アンタ……」
新一の声は、自分のものとは思えないほど高く、幼い。
少女は乱れた栗色の髪をかき上げ、青ざめた顔で新一を見据えた。その瞳には、子供らしからぬ鋭い知性と、絶望の色が混在している。
「私は、宮野志保……。工藤新一君ね……? 毎回新聞、読ませてもらっていたけれど……。まさか、こんな形で顔を合わせることになるなんて」
新一はその名に、意識を失う直前の記憶を重ねた。パジェロに乗っていた女。あの銀髪の男たちと共にいた、組織の科学者。
「志保……お前、小さくなってるぞ……!」
「工藤君もよ……」
志保の声もまた、震える幼女のものへと変わっていた。二人は互いの姿を見つめ合い、言葉を失った。あの毒薬は、人を殺すのではなく、細胞の自己破壊と再構築を強制的に引き起こし、肉体を数年分「退行」させたのだ。
遠くから、パトカーのサイレンと、見回りの警官たちの足音が近づいてくる。
「マズイぞ……このままだと警察に補導される。説明のしようがねえ……」
新一は震える膝に力を込め、立ち上がった。自分の袖を捲り上げ、志保の手を引く。
「……オレの家に来てくれ。あそこなら、ひとまず身を隠せる」
「……ええ。分かったわ」
志保は短く答えた。
かつての「高校生探偵」と、組織の「天才科学者」。
最悪の敵対者同士であったはずの二人は、ダブついた服を引きずりながら、米花町の夜の闇へと消えていった。
1994年3月14日、深夜。
それは、江戸川コナンという「仮面」が生まれる前の、工藤新一と宮野志保による真実の逃亡劇の始まりだった。
アサシン・零は、ようやく万年筆を置いた。
原稿用紙には、小さくなった二人が手を取り合い、工藤邸の巨大な門へ向かう後ろ姿が描かれている。
「……前書き(プロローグ)はここまでだ。ここからは、阿笠博士という『第三の知性』を加え、組織の正体を暴くための本格的な反撃が始まる。だが、この世界に『眠りの小五郎』は必要ないのかもしれない。二人の知能が合わされば、警察を動かす方法はいくらでもあるのだから……」
アサシン・零は、満足げに微笑み、書斎の窓を開けた。
冷たい夜風が、新しい物語の香りを運んでくる。