降り続く雨は止んでいたが、米花町の夜気はさらに鋭さを増していた。
工藤邸の重厚な門扉の前。ダブダブの服を引きずりながら、新一は必死に背伸びをしていた。
「クソ……ッ! 届かねえ……! 玄関の鍵が……!」
かつては無意識に手を伸ばしていた高さが、今は絶望的な壁となって立ちはだかっている。隣で震える志保を横目に、新一が歯噛みしたその時だった。
――ドォォォォン!!
隣の阿笠邸から、耳を劈くような爆発音と黒煙が上がった。
煤で顔を汚した恰幅の良い老人が、よろよろと庭に飛び出してくる。
「誰じゃ……? 君たちは。こんな夜更けに……」
阿笠博士。新一にとっては物心ついた時からの隣人であり、理解者だ。
「博士! オレだ、工藤新一だ! 理由あって小さくなっちまったんだよ……信じてくれ……!」
常人なら一笑に付すであろうその言葉に、阿笠は歩み寄り、眼鏡の奥の瞳で幼い新一を凝視した。
「……ふむ。どういう原理かはわからんが、その眼、そしてその迫真の顔。……どうやら新一本人のようじゃな。信じ難いが、この世界にはワシの想像を超えた『理外』があるということか」
阿笠は視線を隣の少女へと移す。
「そちらのお嬢さんは……?」
「私は宮野志保。工藤君を小さくした薬の開発者だったけれど……組織から見れば、もう『用済み』ってことかしら」
自嘲気味に呟く志保。その肩は微かに震えていた。だが、新一はその小さな肩を、力強く、しかし優しく抱き寄せた。
「いや……まだ誰もお前を『用済み』なんて思っちゃいねえ。この『平成のシャーロック・ホームズ』が、最高の『平成のワトソン博士』を欲しているんだぜ……?」
志保は一瞬目を見開き、やがて幼い顔に相応しくない不敵な、しかし柔らかな笑みを浮かべた。
「ふふ……それでこそ、工藤新一君ね。いいわ、その契約(オファー)、受けてあげる」
阿笠博士は二人の間に流れる奇妙で強固な連帯感を感じ取り、深く頷いた。
「とにかくお前たち、中に入れ。……温かいココアでも飲みながら、その『組織』とやらについて、じっくり聞かせてもらおうじゃないか」
1994年3月14日、23時45分。
後に歴史を裏側から動かすことになる「米花町の秘密結社」が、この夜、阿笠邸の居間で産声を上げた。
工藤邸の応急処置。新一はクローゼットの奥から引っ張り出した、かつての自分の服に袖を通した。
「とりあえず……ガキの頃の服を着たけど、妙にダサいんだよな……」
黄色い半ズボンに、どこか時代を感じさせるプリントTシャツ。鏡に映る自分を見て、新一は溜息をつく。
「そうかしら。……おそらく、精神年齢が十七歳だからそう感じるのよ。私も、博士が新しい服を調達してくれるまでは、貴方の服を借りるけれど……やっぱりダサいと思うわ」
志保は新一の予備のシャツをワンピースのように羽織り、裾を絞ってベルト代わりの紐で結んでいた。その姿は、痛ましいほどに小さく、しかしその眼光だけは「シェリー」と呼ばれた頃の鋭さを失っていない。
「まあ……そうだよな。……それより志保、教えてくれ。お前ら、あそこで何をしていたんだ?」
新一の問いに、志保は冷めたココアのカップを見つめ、淡々と答えた。
「簡単に言えば、ありふれた『取引』よ。弱みを握った社長を理由に強請(ゆす)り、金を吸い上げる。……組織の資金源の一つに過ぎないわ」
「あいつらの名前、わかるか?」
「本名は知らない。……組織ではコードネームで呼び合うのが鉄則だから。私を殴った銀髪の男は**『ジン』。隣の巨漢は『ウォッカ』。そして、私のコードネームは『シェリー』**だった……」
新一は、脳内のデータベースを高速で検索する。
「酒の名前、か……。しかも『ジン』と『ウォッカ』は強い蒸留酒(スピリッツ)。対してお前は、白ワイン(強化ワイン)の『シェリー』」
「ええ……よくご存知ね。私たちのコードネームには一定の法則がある。男性は蒸留酒や醸造酒、女性はワインやリキュール……。もっとも、その法則を無視するような特例もいくつか存在するけれど……」
志保の声は、組織という巨大な闇の「体系」を語る冷徹なものだった。新一はその言葉を噛みしめる。
(ジン、ウォッカ、そしてシェリー。酒を飲み干すように人を殺し、使い捨てる連中……。だが、法則があるなら逆探知も可能だ)
新一は、ダサいと言った半ズボンのポケットに拳を突っ込み、不敵に口角を上げた。
「面白いじゃねーか。……蒸留酒なら、蒸発させて消してやるまでだ」
「うちの組織には……『幹部候補生』も存在するわ」
志保が紡ぐ言葉は、組織が単なる暴力集団ではなく、洗練された階級社会であることを示していた。
「『幹部候補生』……?」
「ええ。『ブルー・ラグーン』『ブラック・ルシアン』『ミント・ビア』……。私のお姉ちゃん、宮野明美も**『ブラッディ・マリー』**という名を与えられていたわ。候補生たちはカクテルから名付けられることが多いのよ。……お姉ちゃんは私と違って、組織の汚れ仕事や雑用を押し付けられる立場だったけれど……」
「ブラッディ・マリー。……『血塗れのメアリー』か」
新一はその不吉な響きに眉をひそめる。
「お前の組織も、一筋縄じゃいかなそうだな……。根が深すぎる」
その時。夜の静寂を切り裂いて、切羽詰まった少女の叫びが工藤邸の重厚な門の外から響いた。
「新一……! 新一、いるんでしょ……! 何度も電話したのよ……!!」
「ら、蘭だ……!」
新一の背筋に、冷たい汗が伝う。
昨日の今日だ。トロピカルランドで別れたきり連絡が取れない幼馴染を、彼女が放っておくはずがない。もし今、この姿を見られれば、彼女をこの「血塗られたカクテル」の世界に引きずり込むことになる。
「博士! この工藤邸の別の部屋に、志保を隠してくれ! こっちは俺がなんとかする……!」
「わ、わかったぞ新一! 急ぐんじゃ!」
阿笠博士は志保の小さな手を引き、隠し扉のある書斎へと急ぐ。
新一は一人、広すぎる書斎に残された。
ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がする。予備の鍵を持っている蘭が、ついに中へ入ってきたのだ。
新一はとっさに近くにあった眼鏡――かつて父親の工藤優作が遊びで置いていった、度の入っている眼鏡――を手に取り、それを深くかけた。
「……やるしかねえ。……『工藤新一』は、ここで一度消えるんだ」
足音が近づく。
新一は、ダブダブの服の襟を正し、幼い子供の「声」を喉の奥で作った。
1994年3月15日、午前1時。
外では冷たい雨が再び降り始めていた。
新一は書斎の隅で、埃を被った予備の眼鏡を掴み取った。父・優作がかつて執筆の合間に使っていた、度の薄い黒縁眼鏡だ。
「父さんの昔使っていた眼鏡だ……度は1.1ぐらい……。これで変装しよう……!」
鼻筋に眼鏡を押し込んだその瞬間、蘭が背後から声をかけた。
「……ボウヤ、誰……?」
振り向いた先には、不安と困惑に満ちた蘭の瞳。新一は喉の奥まで出かかった「新一だ」という言葉を飲み込み、とっさに背後の本棚へ視線を走らせた。
『コナン・ドイル傑作集』、そして『江戸川乱歩短編集』。
「しん……でもなく……僕の名前は……。僕の名前は、江戸川コナンだ……!」
運命の名前が、この瞬間に産声を上げた。
「へー……江戸川コナン君ね。よろしく……!」
蘭は屈み込み、新一――コナンと同じ目線になった。その瞳に疑念の色はないが、新一は胸の奥を刺されるような痛みを覚える。
「僕は、新一お兄ちゃんとは……遠縁の親戚で……新一お兄ちゃんはちょっと……すぐに外国に行っちゃったよ……?」
「え……? じゃあ、新一はもう日本にいないの……?」
蘭の肩が微かに落胆に揺れる。コナンは無理に作った笑顔で答えた。
「多分ねー……。今は僕一人と……もう一人の『女の子』で、ここを管理しているんだ。新一お兄ちゃんはもう、当分は帰ってこないと思うから……」
阿笠博士が、状況を整理するように口を挟んだ。
「コナン君……どうする? 『毛利探偵』の元で居候するか、それともここで暮らすか……?」
蘭に聞こえないよう、コナンは博士の耳元で小声で毒づいた。
「バーロー……。ここ、俺の家だぞ? ここにいて何の問題もねーだろ……」
だが、コナンの脳裏には、先ほど志保から聞いた「カクテル酒のコードネーム」を持つ幹部候補生たちの不気味な響きが残っていた。
工藤邸に留まることは、志保を守るためには最適だが、情報を集め、組織を追うためには「探偵事務所」という拠点も捨てがたい。
「……ま、とりあえず、今夜はここで寝かせてくれ。蘭、心配かけてごめんな。新一お兄ちゃんからは、そのうち連絡が来ると思うから……」
蘭を送り出し、静まり返った工藤邸のリビング。
隠し部屋から出てきた志保が、眼鏡をかけたコナンを冷ややかに、しかしどこか親しみを持って見つめていた。
「江戸川コナン……。推理小説の巨匠二人を掛け合わせた、安易な偽名ね」
「うるせーよ。……さて、宮野志保。お前はどう名乗るつもりだ?」
アサシン・零はペンを置き、満足げに背もたれに体を預けた。
「……江戸川コナンが誕生し、阿笠邸ではなく、あえて工藤邸を拠点とする選択。リブートされたこの世界では、二人の天才子供による『工藤邸共同生活』が始まる。
静まり返った工藤邸の書斎。コナンが眼鏡を直しながら問いかけると、志保は本棚の一角に並ぶ古びた洋書に指を滑らせた。
「私は……日比谷(ひびや)マージェリー……」
「いいな、日比谷マージェリー。……マージェリー・アリンガムから取ったのか。なかなかのセンスだぜ」
コナンは不敵に笑い、自分たちが置かれた奇妙な現状を再確認するように言葉を繋いだ。
「とりあえず……オレたちは、この工藤邸で共に暮らすことになる。だけど外見は見ての通りの小学生だ。だから、隣の阿笠博士が毎日様子を見に出入りする……っていう体裁にしてもらったぜ。世間体ってやつも必要だからな」
マージェリー――志保は、小さくなった自分の手を見つめ、静かに、だが力強く頷いた。
「そうね……。嘆いていても時間は戻らないわ。とりあえず、今の私たちにしかできないことをしましょう。組織の尻尾を掴むためにね」
「ああ。阿笠博士のラボは自由に使って構わないそうだ。お前の専門知識があれば、あの毒薬の成分分析も進むだろ? ……ただ、帰る時はこっち(工藤邸)だ。夜はここで寝るんだぞ」
コナンは広大な廊下の先を指差した。
「客間が一階にあったはずだ。来客用の布団もあるから、好きに使ってくれ。……ま、元はといえば俺の家だからな。遠慮すんなよ」
こうして、米花町三丁目の「開かずの工藤邸」に、二人の子供が住まうことになった。
一人は、失われた真実を追う名探偵。
一人は、過去を捨てて未来を創る科学者。
夜が明け、1994年3月15日の朝日が差し込む頃。
そこには、昨日の平和な高校生たちの姿はもうどこにもなかった。
代わりに、冷徹な理性を宿した「江戸川コナン」と「日比谷マージェリー」の反撃の火蓋が、密かに、しかし確実に切られたのである。