1994年3月19日。
工藤邸での共同生活が始まって数日が経った。
日比谷マージェリーとしての生活に、彼女は驚くほど早く適応していた。
科学者としての潔癖さゆえか、広大な邸宅の清掃から洗濯、さらには手際よく栄養バランスの取れた料理までこなしてみせる。
かつて蘭が通っていた頃のような賑やかさはないが、邸内は常に整い、皮肉にも蘭が「新一の様子を見に来る」必要性を奪ってしまった。
「……蘭さんに余計な警戒をさせないためには、これが最適解よ、工藤君」
志保はエプロンを外しながら、ソファで新聞を広げるコナンに冷たく言い放つ。コナンは複雑な表情で「ああ、そうだな……」と返すしかなかった。
夜。二人は暖炉の前で、秘密の共有を深めていく。
志保の口から語られる、組織の構成員、資金洗浄のルート、そして『ブラッディ・マリー』こと姉・明美の現状。コナンはその断片的な情報を脳内の地図に繋ぎ合わせ、闇の輪郭を浮き彫りにしていく。
だが、探偵としての本能は「静止」を許さなかった。
かといって、小学生の姿で現場に現れれば、目暮警部や現場の刑事に怪しまれるのは火を見るより明らかだ。
「……仕方ねえ。これで行くか」
コナンはテレビニュースで報じられる殺人事件の映像をスキャンし、阿笠博士のラボから暗号化された回線を用いて、警視庁へ**「匿名の情報提供」**を繰り返した。
「犯人の逃走経路は、第三京浜の側道ではなく、旧道沿いの空き家です。証拠の凶器は、そこの井戸の中にあるはずだ」
変声機を使った少年の声、あるいは加工されたFAX。
それはあまりにも正確で、あまりにも早すぎた。
数件の未解決事件が、この「匿名の預言者」によって数時間で解決に導かれた。しかし、警視庁捜査一課は愚かではない。
「……目暮警部、発信源を特定しました。米花町三丁目……
工藤邸の周辺です。それも、通信傍受を搔い潜る高度な技術が使われています」
情報の質、技術の高さ、そして発信場所。
全てのベクトルが、一人の「消えた高校生探偵」の自宅を指し示していた。
警視庁捜査一課。重苦しい沈黙の中、目暮警部がデスクに置かれた報告書を睨みつけていた。
「誰だ……? 千葉君……この情報の出所は」
まだ若手の千葉刑事が、緊張した面持ちで答える。
「僕にも分かりませんが……使われているのは、90年代きっても最新の暗号化通信です。通常の手段では逆探知不能……まるで、国家規模の通信傍受を搔い潜るようなプロの仕業です」
「なぜ……今頃になって、そんな人物が警察に協力するような真似を……?」
佐藤刑事が腕を組み、不可解そうに呟いた。その鋭い瞳は、一連の事件解決の「早すぎるタイミング」に向けられている。
「そういえば……工藤君から連絡が来なくなったな。ちょうど六日前……トロピカルランドの事件を最後に」
目暮警部の独白に、千葉刑事が手元の資料をめくった。
「警部、それに関連するかは分かりませんが……。工藤君の自宅に、現在小学生二人が代わりに住んでいるという目撃証言があります。何でも、工藤君の遠縁の親戚だとか……」
「まさか……小学生が、あの高度なプロファイリングと通信技術を……なわけないか」
目暮警部は自嘲気味に笑い、一度は思考を打ち切った。だが、刑事としての長年の勘が、心の隅で警鐘を鳴らし続けている。
「……だが、放置はできん。その『小学生』とやらが、工藤君の行方を知っている可能性もある。それに、工藤邸から発信されている疑いがある以上、一度足を運ぶ必要があるな」
工藤邸の重い門扉の前に、数台のセダンが停まった。
降りてきたのは、トレンチコートをなびかせる目暮警部を筆頭に、気鋭の佐藤警部補、冷静な白鳥警部補、そして若き高木巡査長と千葉巡査長。
ピンポーン、と佐藤が呼び鈴を鳴らす。
「警視庁刑事部捜査一課、強行犯三係です! ……工藤新一君のご親戚の方は?」
高木が緊張気味に声を上げると、内側からカチャリと鍵が開く音がした。
「あ……! それ、僕のことだね!」
現れたのは、眼鏡の奥に鋭い知性を潜ませた少年、江戸川コナン。彼は無邪気に手を振りながらも、その歩みには一切の隙がなかった。
「警視庁刑事部捜査一課強行犯三係の皆さん。……今日はどのようなご用件で?」
丁寧な言葉遣い。だが、その声に乗せられた「圧」に、佐藤と高木は思わず息を呑んだ。
(この子……本当に小学生なの? この、全てを見透かしたような眼は……)
「いやあ、たまたま近くを通りかかったものでね……」
白鳥が取り繕うように笑うが、コナンはその欺瞞を即座に切り捨てた。
「『たまたま』じゃないよね? どなたかは存じ上げませんが……。おそらく、ここ数日の事件解決に繋がった**『情報の発信源』**を探しに来たんでしょう?」
その一言に、刑事たちの間に戦慄が走った。
なぜ子供が、警察内部でも秘匿されているはずの「情報提供」の件を知っているのか。
「……とりあえず、新一お兄ちゃんから目暮警部のことは聞いているから。立ち話もなんですし、中に入ってください」
コナンは背を向け、悠々と廊下を歩き出す。その背中は、子供のものとは思えないほど大きく、そして不敵に見えた。
リビングでは、日比谷マージェリーが既に人数分の紅茶を用意して待ち構えていた。彼女は刑事たちが部屋に入るなり、優雅に一礼する。
「……いらっしゃいませ。捜査一課の皆様。歓迎するわ、私たちの『実験場』へ」
マージェリーの放つ、凍てつくような美しさと理知的なオーラ。
目暮警部は確信した。目の前にいるのは、ただの「親戚の子供」ではない。
工藤新一という天才の影で、あるいは彼をも凌駕する頭脳を持つ、異能の共犯者たちだということを。
「実は……僕たち小学生なんだけど、まだ学校には転入できていないんだ。……無戸籍、だからね」
コナンの口から出た「無戸籍」という言葉に、白鳥警部補が眉をひそめる。
「身辺調査があったんだけど……新一お兄ちゃんが外国から帰国するまで、僕たちがそのお手伝いをしているのさ。でも、ただの小学生じゃ誰も信用してくれないだろ? だから……**『わざと網を張った』**わけさ。君たちをここに呼ぶためにね」
「私は日比谷マージェリー。江戸川君の助手……いえ、対等な相棒(パートナー)かしら」
志保は優雅に紅茶を啜りながら、刑事たちを射抜くような視線で見つめた。
一課の面々が呆気に取られる中、コナンはテーブルの上に一枚の資料を滑らせた。
「とりあえず……今、起きている事件を解説しよう。強行犯三係一班が現在担当しているのは、米花町三丁目・西宮ビルで起きた『殺人事件』だね……?」
「バ、バカな……その事件はまだニュースには流していないはずだ!」
白鳥が声を荒らげるが、マージェリーは冷徹にそれを遮った。
「もうなっているわよ。……貴方たち、情報の末端が現場に届く速度すら把握していないのね。上層部に振り回されていて、お気の毒さま」
コナンは淡々と「真実」を積み重ねていく。
「殺された被害者はビルの管理人、西宮篤志さん。四十八歳、既婚。……驚くのはまだ早いよ、佐藤刑事」
「そこまで把握しているの……!?」
「次に、死因。……強く殴打されたことによる『頭部出血』、だよね?」
その瞬間、リビングに重苦しい沈黙が降りた。
警察しか知り得ないはずの検視情報。それを、目の前の七歳の少年が、まるで現場を見てきたかのように口にしている。
目暮警部は、震える手で帽子の鍔を押さえ、絞り出すように問うた。
「……き、君は……一体、何者なんだ……!?」
少年は、眼鏡の奥の瞳を青く光らせ、不敵に口角を上げた。その姿は、かつて数々の難事件を解決に導いた「平成のシャーロック・ホームズ」そのものだった。
「僕は江戸川コナン。……探偵さ」
リビングの空気は、もはや子供の遊び場のものではなかった。
コナンは「まずは...目暮警部のことは新一お兄ちゃんから聞いたから...他の人達は...?」
高木刑事は「高木 渉巡査長です...」
佐藤刑事は「佐藤 美和子警部補です...前は捜査一課強行犯一係に所属していました...」
「千葉巡査長です...僕が鑑識課と一緒に...科学捜査をしているよ...『ルミノール液』とか...『指紋鑑定の照合』とかね...」
白鳥刑事は「白鳥警部補だよ...ただもうすぐで...昇格試験があるから...『警部補』じゃなくなりそうだけど...」と言った。
コナンは一人一人の自己紹介を、まるでチェスの駒を確認するように聞き届けた。高木、佐藤、千葉、そして白鳥。後に警視庁の屋台骨を支えることになる面々が、今は目の前の少年に圧倒されている。
「改めて僕は江戸川コナン……少年探偵だ。現場を歩き、真実の欠片を拾い集める『捜査』を担当する」
「私は日比谷マージェリー。少女探偵ではあるけれど、千葉刑事、貴方の領域……つまり『科学捜査』が専門よ。ルミノール、指紋、DNA……。博士のラボを使えば、今の科捜研以上の精度を約束するわ」
二人の役割分担は完璧だった。新一の「洞察」と、志保の「科学」。
コナンは、冷めた紅茶のカップを置き、ソファに深く腰掛けた。その不敵な笑みは、目暮警部ですら気圧されるほどの威厳に満ちていた。
「僕たちは、君たちと末永くお付き合いしていくよ。……何かと都合がいいからね」
マージェリーが追撃するように、タブレット代わりのノートPC(1994年当時の最新型だが、中身は志保が改造したもの)を叩く。
「強行犯三係……。データによれば、近年の検挙率は芳しくないわね。上層部からの圧力と、巧妙化する犯罪。貴方たちだけの手には余っているのが現状よ」
コナンは立ち上がり、刑事たちの顔を一人ずつ見据えた。
「貴方たちには、二つの選択肢がある。……『刑事としてのプライドを折り、僕たちと手を組んで確実に真実を暴くか』。それとも、『警察という形だけの誇りに縋り、無解決事件の山に埋もれて朽ちていくのか』」
1994年の米花町。時代が激動する中、法の番人である刑事たちに、七歳の少年が突きつけたのは究極の踏み絵だった。
「さあ……選んでください。僕たちを『協力者』として受け入れるか、それともここで追い出すか」
目暮警部は唾を飲み込み、隣の佐藤、白鳥と目配せをした。
沈黙が支配するリビング。やがて、目暮は静かに、しかし決然と口を開こうとしていた。