名探偵コナンの裏事情 第1話「1994年は就職氷河期」
阿笠邸のリビングに、ありえないはずの「日常」が入り込んでいた。
ソファでくつろぐ、高校生の姿をした工藤新一。その隣で涼しげに雑誌をめくる宮野志保。その光景は、江戸川コナンと灰原哀にとって、かつて夢見た姿であり、今この瞬間においては「悪夢」そのものだった。
「し……新一……!! おまえなのか……!?」
博士が震える声で問いかけると、ソファの新一は不思議そうに眉を寄せ、手元のコーヒーカップを置いた。
「何言ってるんだよ、博士。オレは志保とずっと工藤邸にいたんだぞ。……さっきまで。今日は博士が『新しい発明品ができた』ってうるさいから、こっちに顔を出したんじゃねーか」
新一は当たり前のように言い放つ。コナンと灰原は、あまりの衝撃に言葉を失い、ただ目の前の「自分たち」を凝視することしかできない。
灰原が、震える唇を噛み締めながら一歩前に出た。
「……信じられないわ。……じゃあ、私のコードネームは……? 言ってみなさいよ」
すると、大人の姿をした志保は、雑誌からゆっくりと視線を上げた。その瞳には、灰原に対する深い困惑が浮かんでいた。
「当然、シェリーよ。……っていうか、あなた、なぜ私のコードネームを知っているの? それに……」
志保は灰原の顔をじっと見つめ、奇妙なデジャヴを感じたように目を細める。
「その顔……。まるで、私が子供になったみたいじゃない」
阿笠博士はパニックになり、後頭部の薄い髪をかきむしった。
「く……工藤君! 実はこの子供たちも、工藤君と宮野さんなんじゃ! わけがわからんが、ワシの目の前に今、二人の新一がいるんじゃよ!!」
博士の絶叫に、大人の新一は鼻で笑った。
「そんなわけねえだろ? 工藤新一はオレ一人……宮野志保も一人だ。ずっとそうだった。……なあ、博士。おかしな冗談はやめてくれよ」
冷や汗を流しながら、博士はさらに食い下がる。
「じ、冗談ではない! このコナン君たちは、ずっとワシと一緒に事件を解いてきたんじゃ! ……お、お前さんは一体、いつからそこにいたんじゃ!?」
新一は、博士を憐れむような、それでいてひどく真っ直ぐな瞳でこう答えた。
「いつからって……1巻からだけど」
その言葉がリビングに響いた瞬間、世界が反転したような錯覚に襲われた。
1巻から。
物語の始まりから、彼らは「そのままの姿」でそこに存在していたというのか。
コナンと灰原は、言葉を失い、ただ絶句するしかなかった。自分たちが積み上げてきた「江戸川コナン」としての月日を根底から否定するような、絶対的な自信がその言葉には宿っていた。
二人の「新一」と「志保」が対峙するリビングは、もはや推理の範疇を超えたカオスな空気に包まれていきました。
大人の新一は、冷めた目で足元のコナンと灰原を見下ろし、首をかしげた。
「そういえば……おまえら、一体誰なんだよ? 博士の親戚か?」
その隣で、志保も疑念の眼差しを向ける。
「ただの子供じゃないわね……。その眼鏡の男の子、どこかで見たことがあるような気がするけれど……」
その言葉に、コナンの我慢は限界に達した。一歩踏み出し、自分自身の胸を指さして叫ぶ。
「ふざけんな! オレも工藤新一だ……! ジンに薬を飲まされて、体が縮んじまったんだよ!」
続いて灰原も、冷や汗を流しながらも鋭い視線で自分と同じ名を持つ女性を見上げた。
「……私も宮野志保よ。 あなたと同じ、組織から逃げ出すために薬を飲んだ……」
二人の必死の訴えに対し、大人の新一はあからさまに「呆れ」の溜息をついた。
「バカバカしい……。オレと志保はここにいるじゃないか。薬で縮んだ? ジン? ……おい志保、お前そんな物騒な知り合いいたか?」
「いいえ、心当たりなんてないわ。それに、縮むなんて非科学的にもほどがあるわね」
志保はそう言って、肩にかかる茶髪を指で弄んだ。すると、新一がごく自然な動作で、志保の髪に手を伸ばし、優しくその毛先を撫でた。
「そ
うだよな。……そういえば、志保。少し髪、伸びたか?」
「ちょっと、工藤君。どさくさに紛れて私の髪の毛触らないでよ……」
志保は顔を赤らめることもなく、慣れた様子で彼の手を軽く払う。新一はへらっと笑いながら、頭の後ろで手を組んだ。
「いやあ……志保が可愛くて、つい手が動いちまったよ」
そのやり取りを目の当たりにしたコナンと灰原は、同時に凍りついた。
「「…………!!?」」
驚きなのは「新一が二人いる」ことだけではなかった。
あの不愛想で警戒心の塊のような志保が、あんなにも自然に新一を受け入れていること。
そして、あの推理バカで恋愛に疎い新一が、あんなにもストレートに「可愛い」などと口にしていること。
「(……誰だ、あいつら!?)」
コナンは戦慄した。姿形は自分たちそのものなのに、決定的に「中身」が違う。自分たちの知らない「1巻からの歴史」を歩んできた二人の親密さは、コナンと灰原が築いてきた関係とは全く別種のものだった。
新一はふと思い出したように、部屋の中を見回した。
「そういえば……あいつは……?」
「ええ、そういえば……『あの人』がいないわね。先に来ているはずなのに」
志保も雑誌を閉じ、不思議そうに首をかしげる。その二人の「誰か」を待っている様子に、コナンが思わず身を乗り出した。
「あの人って……誰のことだよ!?」
新一はコナンの剣幕に少し驚きながらも、事もなげに答えた。
「ああ……。本来なら、オレ、母さんに呼ばれてここに来たんだが……。博士のところで新作のゲームの発表会があるからってさ」
「母さん……? 有希子さんが……!?」
コナンがその名を呼んだ瞬間、玄関の扉が勢いよく開いた。
「ただいまー! 博士、ごめんね遅くなっちゃって! 途中で限定のケーキを買ってたら――」
弾むような声と共に現れたのは、紛れもなく工藤有希子だった。しかし、リビングに足を踏み入れた彼女は、彫像のように固まった。
「あれ……? 新(しん)ちゃんとしーちゃんが……二人……?」
有希子は手に持っていたケーキの箱を落としそうになりながら、ソファに座る大人姿の二人と、床に立ち尽くす子供姿の二人を交互に見た。
「「しーちゃん……?」」
コナンと灰原の声がハモった。
灰原に至っては、あまりの呼ばれ方に顔を引きつらせている。彼女の知る有希子は、自分のことを「灰原ちゃん」とは呼んでも、そんな親密すぎる愛称で呼んだことはなかった。
「ちょっと、有希子さん。誰よ、その『しーちゃん』って……」
灰原が困惑混じりに尋ねると、有希子は目をパチパチさせながら、大人姿の志保の方へ駆け寄った。
「あら、だって志保ちゃんはもうすぐ私の『娘』になるんだもの! 呼び方くらい可愛くしなきゃ損じゃない! ね、新ちゃん?」
有希子が大人新一の肩を叩くと、彼は照れくさそうに鼻の下をこすった。
「まあ……式の日取りも決まってるしな」
「「はあああああ!?」」
コナンと灰原の絶叫が阿笠邸に響き渡った。
「け、結婚……!?」
コナンと灰原の声が裏返る。自分たちが命のやり取りをしている裏で、この二人は人生のゴールインを決めようとしていた。
「ああ。学生婚になっちまうがな。まあ、当分は探偵業で食いつなぐつもりだ。今の御時世、新卒カードも持ってねえオレがまともに就職活動したって、そう簡単には決まらねーだろ?」
大人新一が、まるで「明日の晩飯をどうするか」くらいのトーンで深刻な雇用情勢を語り出す。すると、志保が憂いを含んだ瞳で彼に寄り添った。
「そうね……。私たち、いわゆる『※就職氷河期世代』だものね。安定したポストに就くのは至難の業だわ」
(リアル事情をぶっ込んでくるなよ! 知らねえよそんな事情!)
コナンと灰原の心の声が完全に一致した。黒ずくめの組織との死闘よりも、日本の労働環境を憂いている自分たちの姿に、猛烈な違和感を覚える。
「そういえば……事件ばっかり追ってて、高校もしばらく行ってねえな。そろそろ単位のために顔を出すか」
新一が顎に手を当てて呟くと、志保がその腕を自然に絡めた。
「私も行くわよ、新さん。実年齢の18歳としてではなく……たとえあらゆる経歴を詐称してでも、あなたと同じ教室に潜り込んでみせるわ」
「はは、頼もしいな志保」
(オレたちを犯罪者にするな……! 経歴詐称を愛の力で美化するんじゃねえ!)
内心のツッコミが止まらないコナンに対し、灰原は別の部分で限界を迎えていた。
「ちょっと……『新(しん)さん』って何よ。新さんって……」
灰原が顔を青くして震えていると、有希子がその背中をバシバシと叩いた。
「いいじゃない、アツアツで! あっちの志保ちゃんは、新ちゃんのこと『新さん』とか『旦那様』って呼んでるのよ? ねー?」
「ちょ、母さん! 『旦那様』はまだ早いって!」
照れる新一、微笑む志保。
その隣で、阿笠博士はすでにキャパシティをオーバーし、白目を剥いて泡を吹きかけていた。
その時、阿笠邸のチャイムが鳴る間もなく、いつものように隣人の沖矢昴が鍋を持って現れた。
「やぁ、赤井さん」
新一が事もなげに声をかけると、沖矢は一瞬目を見開いたが、すぐに細めて地声――赤井秀一のあの低い声で応じた。
「……ボウヤ、元に戻ったのかい? 随分と急な成長(リカバリー)だな」
赤井の登場に、コナンは焦って「赤井さん、ダメだ! そいつは……!」と叫ぼうとした。しかし、新一は首を振ってあくびを噛み殺した。
「
いえ……戻ったっていうか、1巻から寝坊してただけですよ。今日、昼頃に学校へ行こうと思って家を出たら、博士のところで騒ぎになってたんで寄ったんです」
新一のあまりにも脱力した「寝坊」発言に、赤井も流石に言葉を失い、手にした肉じゃがの鍋を落としそうになっている。
すると、隣にいた志保が、コナンの目を見つめて平然と言い放った。
「そういえば……私のお姉ちゃん、普通に生きていますよ。さっきまでそこで洗濯物干してましたし」
「「えっ……!?」」
コナンと灰原の心臓が止まりかけた。あの埠頭で、ジンに撃たれて息絶えたはずの宮野明美が?
二人が信じられない思いで玄関の方へ視線を向けると、パタパタと足音が聞こえてきた。
「志保ちゃーん? 洗剤切れてたから買ってくるわね……って、あら? お客さん?」
そこに立っていたのは、幻でも変装でもない、穏やかに微笑む宮野明美その人だった。
「あれ……? 誰……? 志保ちゃんにそっくりな子が二人も……」
((ホンマに生きていたーーーー!!))
コナンと灰原の魂の叫びが阿笠邸の屋根を突き抜ける。
感動の再会、涙のシーン……になるはずが、明美は首にかけたタオルで汗を拭いながら、「ねえ志保ちゃん、今夜はカレーでいいかしら?」と主婦感満載の相談を始めた。
「いいわよ、お姉ちゃん。新さんが『隠し味にチョコレート入れたい』ってうるさいから、適当にあしらっておいて」
「もー、新ちゃんったら凝り性なんだから」
志保と明美の、あまりにも「普通すぎる」姉妹の会話。
死を乗り越えた悲劇のヒロインだったはずの明美が、ここでは完全に「工藤家の義姉」のようなポジションに落ち着いている。
灰原はあまりのショックと安堵、そして脱力感から、膝から崩れ落ちそうになった。
「(……私のこれまでの涙は一体どこへ行けばいいのよ……)」
※連載開始年の1994年は就職氷河期です。ちなみにこれは1990年から始まり、2008年まで続いていました。(投稿者は20代です。)