ホリスは、アニムスを通して先祖の記憶に潜る際、あえて「幸せな記憶」を選んだ。
血と死に彩られた戦場ではなく、家の中で交わされる穏やかな会話や、無条件に向けられる眼差し。
そうした場面を、彼は意図的に辿った。
その先祖が当然のように受け入れていた、両親の愛情というものが、ホリスには理解できなかった。
守られること、信じられること、何も疑わず名を呼ばれること。
だからこそ、彼は安心できた。理解できないからこそ、それは自分のものではないと分かる。
他人の人生、他人の記憶――アニムスが映すのは、あくまで過去の影だ。
そう自覚することで、ホリスは自分を保っていた。
もしそれを羨んでしまえば、きっと戻れなくなると、どこかで知っていたからだ。
ホリスが未来予知に目覚めたのは、大粛清が起こる数ヶ月前のことだった。
それは啓示のような劇的な瞬間ではなく、むしろ悪夢に近い。
眠りと覚醒の狭間で、意味を持たないはずの映像が、異様なほどの現実感を伴って流れ込んできた。知らない場所、知らないはずの死。目を覚ましても、その感触だけが消えずに残った。
当初、ホリスはそれを単なる想像や不安の投影だと切り捨てた。アサシン候補として鍛えられる日々の中で、そうした精神的揺らぎは珍しくない。
だが、映像は繰り返された。細部が一致し、後から現実がそれをなぞる。訓練中の事故、支部の小競り合い、名も知らぬ末端の死――見た通りに起きる。否定はできなかった。
――大粛清のあの日、ホリスは襲撃の場に居合わせていた。
偶然ではない。
己が見た未来予知に従い、そこに立っていた。
映像は断片的で、血と炎、刃が交錯する瞬間だけを切り取ったものだった。
敵の襲撃は局地的なものだと、そう判断していた。
だが、テンプル騎士団は彼の想定よりも遥かに狡猾で、老獪だった。
すでに情報が漏れていた事実までは、未来予知には映らない。
ただ「起こる」という結果だけが示され、過程は闇に沈んでいた。
故に、ホリスは驕った。
慢心とも言える。
間もなく正式なアサシンとして認められるだろうという期待が、無意識のうちに警戒を鈍らせた。
あるいは、テンプル騎士団の悪意を、致命的なまでに見誤ったのかもしれない。
敵の数は予想を遥かに超えていた。
味方が次々と倒れ、戦線が崩壊していく中で、ホリスは一瞬、判断を遅らせた。
背後から迫る殺意に気づいた時には、すでに遅かった。
気づいた刹那、視界が遮られる。
ホリスは、父に庇われていた。
刃が肉を裂く鈍い音と、息が詰まる感覚。目の前で崩れる背中を、彼はただ呆然と見つめることしかできなかった。
未来は見えていたはずだった。
だが、守られる側になる未来だけは、どこにも映っていなかった。
崩れ落ちながらも、父は鮮やかに敵を処理していた。
致命傷を負いながらも動きは冴え、刃は迷いなく急所を捉える。
まるで、自身の生死など最初から計算に含まれていないかのように。
ホリスはその背を支え、直ちに戦線から離脱した。
だが、戦況がようやく落ち着いた頃には、父の呼吸はすでに細く、途切れがちになっていた。
あの位置にいたのが自分であれば、たとえ刃を受けていたとしても、重傷には至らなかったはずだ。
判断も、回避も、できた。
だが、父は咄嗟に庇った。
その立ち位置は悪く、結果として致命傷となった。
優秀なアサシンである父なら、見捨てることもできたはずだ。
状況はそれを許していたし、教団の教えもまた、そう命じていた。
生まれながらにアサシンたれ。
信条に殉じろ――その言葉と動きを、ホリスは父から叩き込まれてきた。
一般的な親の情というものは乏しく、抱き寄せられた記憶も、甘い言葉もない。
褒められたのは、アサシンとしての実力が目に見えて伸び始めた時くらいだった。
冷静で、合理的で、常に正しい選択をする男。それが父のはずだった。
それでも、父は庇った。
なぜだ。
冷静なアサシンである父は、なぜ己を守る選択をしたのか。ホリスの胸に残ったのは、答えのない疑問と、血の匂いだけだった。
「すまない、ホリス」
掠れた声が、血の匂いに沈んだ空気を震わせた。父は息を吐くたびに胸を痛めながら、それでも視線を逸らさなかった。
「俺は……お前に、生きる術を与えたかった」
その言葉は、謝罪というより告白に近かった。
「妻……サリーが死んで、俺に残ったのは、アサシンとしての腕だけだった。優しさも、別の生き方も……もう、持っていなかった」
短く咳き込み、指先がホリスの衣を掴む。
「だから、俺はお前に教え込んだ。刃の扱いも、判断も、覚悟も……俺の全てを」
父の目は、薄れゆく光の中でもなお澄んでいた。
「……まだ半人前だと、思っていた」
言葉が途切れ、息が揺れる。
「だが……違った。お前は……もう……一人のアサシンだ、ホリス」
最後に、ほんのわずか、口角が動いた。
それは微笑みと呼ぶにはあまりに儚い、安堵の痕だった。
「生きろ」
その一言が落ちた瞬間、父の手から力が抜けた。
ホリスは何も言えなかった。
叫びも、否定も、感謝も、すべてが喉の奥で凍りついた。
ただ、命じられた言葉だけが、刃のように胸に残った。
――生きろ。
なぜ、今際の際に言ったのだ。
その言葉を聞いてしまえば、もう無かったことにはできない。もし父が最後まで冷酷なアサシンであったなら、ホリスは自分もそうあれと割り切れたはずだった。感情を切り捨て、死を結果として処理し、前に進むことができただろう。
だが、父は違った。
最後の瞬間に残された告白は、ホリスの胸を激しくかき乱す。
理解できなかった情。
与えられた覚えのない愛情。
それらが、否応なく心に流れ込んでくる。
怒りでも、悲嘆でも、後悔でもない、名付けようのない激情が、彼の内側で渦を巻いた。
そして、その時から、ホリスの胸に確かなものが生まれた。
――父の死。
――教団が「罪なきものを傷つけることなかれ」と掲げるのならば。
――己は、罪ある者を殺すアサシンになろう。
それは誓いというより、選択だった。感情を否定するのではなく、抱えたまま刃を振るう道。ホリスは理解した。
父が与えた「生きる術」とは、ただ生き延びることではない。
何を斬るかを、自分で決めることだったのだと。