美術修復師の海斗は、古びた美術館の地下倉庫で、目録にない奇妙な箱を見つけた。
「主任。これなんでしょう。目録にないんですけど」
「ん? 見せてみ。……ん~。開けてみないとわからんな。海斗、君が調べてくれ」
「わかりました」
慎重に箱を開ける海斗。パピルスのような紙に包まれていたそれは歴史の資料集でよく見る黄金のマスクを模したものだった。
「なんだ、これは……? ん? 紙が貼ってあるな」
貼られていた紙には「ツタンニャーメンの仮面」と記載されていた。
主任と呼ばれた男が覗き込んできた。
「なんだ、この悪ふざけのような仮面は……。よく出来ているが」
「誰かのいたずらですかね」
「そうだな……。海斗、気に入ったなら持って行って構わんぞ。目録にもないものだし」
「いや、それはまずいですよ。……まあ、この調査期間中だけ預からせて頂きますけど」
その晩、海斗は持ち帰ってきた【ツタンニャーメンの仮面】を磨きながら蛍光灯にかざしていた。
「しっかしよくできているな、この仮面。この青い瞳なんか吸い込まれそうだ」
彼がその碧い瞳に触れた瞬間、室内の空気は一変した。激しい光が視界を焼き、次に目を開けたとき、彼は見渡す限りの黄金の砂漠に立っていた。
「ここは……?」
目の前には果てしない砂丘と、空を突く金字塔。
「夢でも見ているのか? それにしてはこの暑さはリアルすぎるが」
自分の服装を確認すると
「おいおい。いくら夢でもこの砂漠で半袖はないだろ。それにこの暑さじゃ食料や水が……ってあるよ。持っていないリュックサックとその中にサバイバルグッズが入っているよ。なんてご都合主義な夢だ」
それにしても、と海斗は周囲を見回す。
「ここは……エジプト? いや、何かが違う」
目の前にはエジプトの守護神を思わせる巨大な猫の像が三体鎮座していた。その台座には人間を排斥し、猫を崇めるような肉球のヒエログリフが刻まれていた。
「この像の質感と言い、この暑さと言い、あの光と言い……信じたくはないが」
海斗は直感した。
ここは歴史が「猫」によって築かれたもう一つの地球なのだと。
「さて、どうするかな。誰かいても言葉が通じるかわからないし友好的とも限らん」
思案する海斗。だが、日が次第に傾き始めてきた。
「とはいえ、いつまでもここにいても仕方ないか。エジプトのような場所なら近くに川があるだろう」
砂漠を彷徨い続けた海斗は、いつの間にか壮麗なルネサンス様式の都市へと足を踏み入れていた。
「やれやれ。食料が尽きる前に都市にたどり着けたのはありがたい。出来れば住民が友好的であってほしいものだが」
フィレンツェを彷彿とさせる広場の中央には、完璧な筋肉美を持つ大理石の像が鎮座していた。その凛々しくも鋭い猫の眼光は、異邦人である海斗を監視しているかのようだった。
「これはミケランジェロのダビデ像に似ているな。作者名は……ニャケランジェロ? ダビデ像じゃなくてニャビデ像か」
よく見ると凛々しさの中に愛らしい表情が隠されているようにも思えた。
「なるほど……これが……ならここが修理されているのは……」
いつしか海斗はプロの修復師としてニャビデ像とそこに隠されていた修理の手際の良さに見惚れていた。
「それにしても、この世界の住人はどこにいるんだ……? 砂漠がさほど広大でなかったのは助かったが」
人はおろか生き物の影すら見えない都市をさまよい、惹かれるように入った美術館のような建物。
そこの壮麗なホールに差し掛かった海斗はある彫刻の前で足を止めた。台座にはミロのビーニャスと刻まれている。
それはミロのヴィーナスによく似ていたが、頭部は優美な猫であり、失われた両腕の代わりに、しなやかな尻尾が足元の布地から伸びていた。
その完璧なプロポーションと曲線美は、この世界における「美」の基準が、人間ではなく猫そのものにあることを、静かに、しかし雄弁に物語っていた。
回廊を歩む海斗の目に壁一面を飾る猫たちの戦争画が飛び込んできた。
「これは……。作風としてはロマン主義の歴史画のスタイルだな。茶トラ猫が指揮官か? 負傷しながらも威厳を保つ指揮官を部下猫たちが囲んでいる様子はジャック=ルイ・ダヴィッドか? いや、ベンジャミン・ウエストも混ざっているな」
そう呟くと、周囲に人がいないのをこれ幸いにと、近づいてじっくりと観察する海斗。
「甲冑を着て遠くを指差す白い猫は戦場に戻るべき義務の象徴か。負傷した猫に寄り添う猫たちは家族愛や慈悲の象徴だな。定番といえば定番のテーマか。この世界の美術史はどんな歴史を辿ったのか。ますます興味深い」
さらに奥へ進むと、白馬に跨りアルプスを越える英雄の肖像画を思い起こさせる巨大な肖像画が飾られている。
「サン=ベルナール峠を越えるボニャパルト? サン=ベルナール峠を越えるボナパルトと似たような肖像画だとしたら、他に似たような肖像画があるか? 探してみても……。!」
不意に、背後から視線を感じた海斗が振り返ると、そこには額縁の中からこちらを覗き込む黒猫の肖像画があった。
「こいつは、あれか。となると作者は……レニャード・ビンニェント? ニャビンチではないのか? 絵画名は……こっちはモニャ・リザか」
モニャ・リザのミステリアスな微笑みは、すべてを知っているかのようだった。
「この微笑み……もしかしたら元の世界へ戻るためのヒントが隠されていないか?」
と吸い寄せられるように近づいていった。
「モニャ・リザのもうっすらとベールがかかっているのか。だがさすがに手がかりはなしか。ん?」
モニャ・リザがかかる壁面の奥に窓が見えていた。
「裏庭かな? 行ってみるか」
モニャ・リザに導かれるように寺院の裏庭へ出ると、そこは崩れかけた古代の円柱が並ぶ廃墟を模した広場だった。
その中心で、一際異彩を放つブロンズ像が、岩の上に座って深く考え込んでいた。
「ロニャン作『考える猫』? これは……!」
それは、この世界の真理を司る存在のように思えた。
隆起した筋肉、鋭い爪。石のように動かないその像からは、圧倒的な威圧感が放たれている。海斗の心臓は、早鐘のように打ち鳴らされた。圧倒的な捕食者の気配。生物としての格の違い。
海斗は金縛りにあったように動けなくなった。
(ここで目を背けたら、間違いなく食われる)
本能がそう告げていた。
海斗は必死に目を見開き、死を覚悟し、冷や汗を流しながらも、その眼光を真正面から受け止め続けた。沈黙が永遠のように感じられたその時、像の口角が不敵に「にやり」と持ち上がった。
「……怖いか? ニンゲンは忘れかけているが、猫はもともと肉食にゃ。そして、猫はいつでもニンゲンを見ているからにゃ」
重低音の響く声が脳内に直接響き渡り、視界が急激に歪んだ。
「うわっ!」
叫び声を上げて飛び起きると、そこは見慣れた自宅のベッドの上だった。窓からは柔らかな朝の光が差し込み、いつもの街の喧騒が聞こえてくる。
「……夢か。変な夢だった……。いや、夢……だったのか?」
海斗が額の汗を拭い、激しい鼓動を鎮めようと深呼吸をすると、胸の上にずっしりとした重みを感じた。視線を落とすと、そこには自分の飼い猫である黒猫のクロが、あの「モニャ・リザ」と同じような謎めいた表情で丸くなってうずくまっていた。
その姿は、あの異世界で見た聖母のようでもあり、あるいは小さな捕食者のようでもあった。
クロは海斗とじっと目を合わせると、「ナァ」と短く、どこか意味深ながらも人を食ったような声で一言だけ鳴いた。そして、海斗の胸を軽く蹴るようにして飛び降りると、悠然とした足取りで、一度も振り返ることなく、開いたドアの向こうへと消えていった。
開いたままのドアの向こうで、クロの尻尾がゆらりと揺れる。それを見つめながら、海斗は手のひらに残る黄金のマスクの冷たさと、あの「考える猫」の筋肉の質感を思い出していた。
彼は確信した。あの世界は、決して夢などではなかったのだと。