完璧な僕の嘘を、嫌われ者の君だけが「正論」で壊した   作:テレサ二号

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皆さん、こんばんわテレサ二号です!

第一話に引き続き、第二話をご覧いただきありがとうございます!

一話を読んでお気に入り登録してくださった方、ありがとうございました!!
とても嬉しかったです( *´꒳`* )

今回は物語が大きく動いて行く話になりますので、文字量は前回より多いのでゆっくり読んで行ってください笑

では、本編です!!



第二話:杉原耀は正さない

煌びやかなシャンデリアが照らし出す、政財界のレセプション会場。

 

耀は、その中心で「杉原家の完璧な次期後継者」としての役割を完遂していた。

 

だが、その内情は限界だった。

 

連日の過密スケジュールと、一分の隙も許されない精神的重圧。

食事を摂る間もなく書類と向き合い、睡眠を削って期待に応え続けた体は、すでに枯れ木のようだった。

 

既に制服の下の体躯は見る影もなくやつれている。

それを隠すために、彼はいつも以上に丁寧に襟を正し、背筋を伸ばしていた。

 

「——杉原君。顔色が悪いようだけれど、大丈夫かしら?」

 

声をかけてきたのは、四宮かぐやだった。

その傍らには、かぐやの大事な付き人である早坂愛が控えている。

 

四宮の「怪物」を前に、耀は本能的な恐怖を押し殺し、貼りついたような笑みを浮かべた。

 

「……お見苦しいところを。少し、煌びやかな会場の空気に当てられたようです」

 

一礼してその場を去る。

歩くたびに視界がぐにゃりと歪む。

 

 

人影のない非常階段に辿り着いた瞬間、支えを失った操り人形のように、耀の体は崩れ落ちた。

 

 

耀の違和感を不審に思ったかぐやは耀の後を追い、非常階段までやって来た。

 

「……杉原君? 杉原君!」

 

四宮かぐやの鋭い声が、冷たい非常階段の踊り場に響いた。

 

床に崩れ落ち、ピクリとも動かない耀を見て、傍らの早坂愛がすぐさま駆け寄り、手際よく頸動脈を確認する。

 

「意識はありません。呼吸も浅い。……かぐや様、これは」

 

「ええ、すぐに救急車を——」

 

かぐやが言葉を終えるより先に、背後から急ぎ足の足音が迫った。

耀の父であった。

 

「耀! 何をしている!」

 

父親の第一声は、倒れた息子への悲鳴ではなく、叱責だった。

 

そして彼は、息子の容体を確認するよりも先に、かぐやに向かって深々と腰を折った。

 

「これは四宮家のご令嬢。……申し訳ございません。我が家の息子が、このような公衆の面前で見苦しい姿を晒してしまいまして」

 

一瞬、かぐやの思考が止まった。

 

早坂も、耀の首筋に指を当てたまま、信じられないものを見る目で父親を凝視した。

 

「……見苦しい? 杉原さん、ご子息が意識を失って倒れているのですよ?」

 

かぐやが冷徹なまでに低い声で問う。

だが、父親は焦ったように愛想笑いを浮かべ、動かない耀の肩を忌々しそうに蹴らんばかりの勢いで揺さぶった。

 

「まったく、自己管理もできないとは情けない!四宮様、どうか此度の非礼、杉原の名に免じてご容赦いただきたい。おい耀、起きろ! 起きないか!」

 

父親にとって、目の前で死にかけているのは「我が子」ではなく、四宮家への「粗相」を犯した「不祥事そのもの」だった。

 

(……何、この人)

 

早坂は、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。

 

四宮家という冷酷なまでの実力主義の世界に身を置く彼女ですら、この父親の反応には、生物的な恐怖を感じるほどの「欠落」を見た。

 

かぐやの瞳からも温度が消える。

 

「……早坂、救急車は呼びました。あとはこの『お父様』にお任せしましょう」

 

「……かしこまりました。失礼いたします、杉原様」

 

二人は、泥人形のように扱われる耀を背に、逃げるようにその場を去った。

 

あの四宮かぐやにさえ「関わってはいけない異常なもの」と認識されたことすら、耀の父親は気づいていなかった。

 

 

 

 

 

消毒液の匂いが鼻を突く。

 

 

 

耀が重い瞼を開けると、視界の端で父親が苛立たしげに貧乏ゆすりをしていた。

 

「——気がついたか。全く、世話を焼かせおって」

 

父親は耀が意識を取り戻したことに安堵する素振りも見せず、手元のスマートフォンに目を落としたまま言った。

 

その声には、看病の疲れではなく、予定を狂わされたことへの不満だけが凝縮されている。

 

「……申し訳、ありません。父上」

 

「わかっているのか? 四宮家の令嬢の前であんな無様な倒れ方をして。私が即座に謝罪しておいたから事なきを得たが、一歩間違えれば杉原家の教育を疑われるところだったんだぞ」

 

父親は本気でそう思っていた。

 

倒れた息子を放置して令嬢に媚びた自分の振る舞いを、「完璧な危機管理」として誇ってさえいる。

 

耀は、酸素マスク越しに浅く呼吸を繰り返しながら、ただその言葉を飲み込んだ。

 

「……はい。ご対応、ありがとうございます」

 

「四宮様も、お前のあまりの不甲斐なさに言葉を失っておられた。お前がいつまでも一人前にならんから、私が頭を下げなければならんのだ。……自己管理もできない人間に、杉原の看板を背負う資格はない。いいか、二度目はないぞ」

 

そこへ、母が静かに、しかし冷徹な足取りで入ってきた。

 

彼女の手には、耀の見舞い品ではなく、今週の予定が書き込まれた手帳が握られている。

 

「あなた、お説教はそれくらいにして。……耀、お医者様には話しておいたわ。明日の朝には退院して、午後の書道のお稽古には間に合わせなさい。今度の展覧会、あなたの作品が杉原家の『品位』として展示されるのよ。一画の乱れも、私は認めませんから。

今週のお茶会も、這ってでも出席してもらうわよ。私の顔に泥を塗るようなことだけはしないでね」

 

「……分かっています、母上」

 

「分かっているならいいわ。お父様も、耀のためにこれだけ厳しくしてくださっているのよ。感謝なさい」

 

二人は、耀がなぜ倒れたのか、その根本的な原因には一ミリも興味がなかった。

彼らにとって耀の体調不良は、雨が降って服が濡れた程度の「不都合」でしかない。

 

乾いた正しい親としての言葉。

それが耀の心に、最後の一滴の毒として注がれる。

 

「……あは、は」

 

不意に、耀の唇から乾いた笑いが漏れた。

 

「……何がおかしい」

 

父親が不審げに眉をひそめる。耀は、ぼやけた視界の中で、鏡のように磨かれた父の靴を見つめながら答えた。

 

「いえ……。本当に、僕は幸せ者だと思って。……こんなに、僕を『正しく』導いてくれる両親がいて」

 

「……当たり前だ。お前のために言っているんだからな」

 

満足げに頷き、二人は「仕事があるから」と病室を去った。

 

後に残されたのは、真っ白なシーツと、空っぽになった「杉原耀」の器だけだった。

 

 

 

 

 

 

退院の翌日、耀の振る舞いは周囲を感心させるほど見事なものだった。

 

午前中の稽古では、墨の香りに包まれながら静かに筆を走らせた。

一画一画に意識を集中させ、紙の上に「正解」だけを置いていく。

書き終えた書を母に見せると、彼女は満足げに

 

「次はもっと線を太くしなさい」

 

とだけ言い、耀は「はい、母上」と、いつものように穏やかに微笑んだ。

 

 

 

 

翌日の放課後の生徒会室。

耀は、誰よりも早くそこへ足を運んでいた。

 

まずは共有の棚の整理。

各部活動からの予算申請書を項目別に色分けし、不備があるものには付箋を貼って、修正案まで添えておく。

 

(……これは、石上君が後で困らないように。……ここは、藤原先輩がうっかり見落とさないように)

 

指先一つ分も乱さぬよう、書類の角を揃える。

 

「——あら、杉原君。もう仕事ですか? 精が出ますね」

 

扉が開くと、四宮かぐやが入ってきた。

耀は手を止め、いつものように丁寧な一礼を返す。

 

「四宮先輩。ええ、少し溜まっていた仕事がありましたが……ちょうど今、一通り整理が終わった所です」

 

「助かりますわ。でも、そんなに詰め込まなくてもよろしいのに。体調はもう万全なのですか?」

 

「おかげさまで。今は……とても身体が軽いんです。今までで一番、頭が冴えていますから」

 

耀は、嘘偽りのない笑顔で答えた。

 

かぐやはその笑顔に、退院直後ゆえの気負いか、あるいは仕事への責任感のようなものを感じ「そう、無理はなさらないでね」と優しく返した。

 

 

 

放課後の生徒会室は、いつもと変わらぬ穏やかな空気に包まれていた。

 

耀は病み上がりであることを感じさせないほど、淀みない動作で事務作業をこなしていく。

共有の棚にファイルを戻し、机の上の書類を整える。

 

「よし、今日はこんなところか。杉原、お前も無理するなよ。なんなら明日は休んだっていいんだからな?」

 

白銀がカバンを肩にかけながら、耀に声をかけた。

 

「ありがとうございます、会長。皆さんも、お疲れ様でした。自分はもう少しだけやりたい仕事があるので、それを終わらせてから帰ります」

 

そこにはいつも通りの聖人のような耀の微笑みがあった。

 

「……四宮。少し、いいか」

白銀は帰宅の準備をしていたかぐやを呼び止めた。

 

「どうかなさいましたか、会長?」

 

「四宮、この後話したいことがある。時間はあるか?」

 

白銀の険しい目つきに、かぐやも本能的に何事かを察し、短く「ええ、構いませんわ」と頷いた。

 

 

パタン、と扉が閉まる。

 

一人残された耀は、しばらくその扉を見つめていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。

 

いつもより少しだけ、緩やかな笑みが唇に浮かぶ。

 

彼はゆっくりと、誰もいなくなった室内を歩き始めた。

 

窓際に置かれた観葉植物の葉にそっと触れ、藤原がいつも座っているソファの背もたれをなぞる。

 

石上のデスクに積まれた資料を指先で整え、まるで宝物を確認するかのように、一つ一つの備品を愛おしそうに見つめて回った。

 

「……ふふ」

 

ふと思い立ったように、耀は部屋の中央にある、生徒会長である白銀がいつも座っている大きな椅子へと歩み寄った。

 

普段の彼なら、そんな「不敬」な真似は絶対にしない。

だが、今夜だけは特別だ。

耀はゆっくりと、会長の椅子に深く腰を下ろした。

 

革の冷たさと、微かに残る白銀の気配。

そこから見える景色は、いつもの自分の席から見るものとは全く違って、ひどく広くて、頼もしかった。

 

(会長はいつも、ここからみんなを見ていたんだな……)

 

耀は背もたれに体を預け、楽しそうに足を少しだけ揺らした。

まるで、いたずらが見つかるのを恐れる子供のような、無邪気な表情。

 

もし誰かに見られたら、きっと「杉原君、そんな顔もできるんだね」と驚かれるだろう。

 

窓の外では、夕焼けが終わりを告げ、深い藍色の夜がゆっくりと降りてきていた。

 

部屋が暗くなるにつれ、耀の瞳から温度が消えていく。

 

「……さて」

 

彼は名残惜しそうに椅子から立ち上がると、最後にもう一度だけ、部屋全体を隅々まで見渡した。

 

もう、思い残すことはない。

 

自分がここにいたという記憶を、最高の状態のまま封じ込める。

 

耀は自分のスマートフォンを取り出すと、傷がつかないよう、棚の奥の目立たない場所へそっと置いた。

 

(……うん。これで、いい)

 

彼は迷いのない足取りで廊下へ出ると、音を立てずに扉を閉めた。

 

向かうのは、下へ降りる階段ではない。

 

暗い校舎を静かに、しかし1歩1歩確実に、彼は屋上へと昇っていった。

 

 

 

 

重い鉄の扉を開けると、そこには切り取られたような夜空が広がっていた。

 

冷たい夜風が、やつれた耀の体に吹き付ける。

 

だが、彼は寒さを感じなかった。

むしろ、纏わりつく熱病から解放されたかのような、清々しい心地よささえあった。

 

耀は、流れるような動作で柵を越えた。

 

コンクリートの縁、幅わずか数十センチの死地。そこが、彼にとって一生で最も安全な場所に思えた。

 

「……はは、すごい。本当に、何もないんだ」

 

眼下に広がる街の灯りは、まるで自分を祝福する宝石箱のように輝いている。

 

耀は、両手を翼のように広げ、夜風を一身に受けた。

 

(ああ、気持ちいい。こんなに呼吸がしやすいのは、いつ以来だろう)

 

いつも自分を縛り付けていた「杉原家の跡取り」という重圧が、一枚ずつ剥がれ落ちていく感覚。

 

死ぬことが、これほどまでに自由で、楽しいものだったなんて。

 

耀は満足げに目を細め、ふわりと、光の中へ溶け込もうとした——その時だった。

 

「なぁ杉原、男同士で腹割って話そうぜ」

 

背後から響いたのは、幸福な狂気を力ずくで引き裂くような、ひどく落ち着いた、けれど逃げ場のない声だった。

 

耀が驚きに肩を揺らし、ゆっくりと振り返る。

 

そこには、いつの間にか屋上の扉を開け、柵の向こう側で自分を見つめる白銀御行が立っていた。

 

その肩には、本来そこにあるはずのない消火用のホースが幾重にも巻き付けられている。

 

「……会長? どうして……」

 

「どうして、か。……お前が一人で『完璧に』仕事を終わらせるからだ。あまりにも綺麗すぎて、怖くなったんだよ」

 

白銀は一歩、柵に近づく。

耀を刺激しないよう、慎重に。

だが、その瞳には退くことのない強い光が宿っていた。

 

「さあ、こっちに来い。……話なら、いくらでも聞いてやる」

 

「いいえ。……お断りします。僕は今、人生で一番幸せなんです。邪魔をしないでください」

 

耀は困ったように笑い、再び夜空へと向き直る。

冷えた空気が耀の肺を冷ましていく。

 

耀は背中を向けたまま白銀に提案する。

 

「会長、お願いがあります」

 

「なんだ?」

 

「何も見なかった事にして、この場から去ってくれませんか?人が死ぬところを見るのはさすがの会長でも気持ちよく無いでしょう」

 

そう言うと耀は目を閉じ腕を広げる。

 

自分を操っていた糸が切れるように耀は自然と空に向かって飛び降りて行く。

 

目の前の視界が白く染まっていく。

 

「あぁ、やっとこれで自由になれる」

 

耀にとって空が抱きしめてくれている様な浮遊感に包まれた。

 

 

 

 

しかし次の瞬間、右腕にズシリとした痛みが走り、現実に引き戻される。

 

衝撃と共に、耀の体は地上数メートルの位置で静止した。

 

耀は、自分の手首を砕かんばかりに握る白銀の腕を、信じられないものを見る目で見つめていた。

 

太い消火用ホースが蛇のように軋み、白銀の肩に食い込む。

 

死への多幸感はどこへやら、視界には泥臭く汗を流し、歯を食いしばる「他人」の顔がある。

 

「……ッ、何なんですか、これ!! 会長まで死んだらどうするんですか!? 巻き込まれないでくださいよ、勝手に死なせてください!!」

 

耀の喉から、今まで押し殺してきた尖った声が飛び出した。

 

「うるさいんだよ……!! 完璧な自分? 理想の跡取り? ふざけるな! そんなもののために、勝手に俺の役員を一人減らされてたまるか!」

 

「自分勝手なことを言わないでください! 僕は、僕は綺麗に終わりたかったんだ! 誰にも迷惑をかけず、誰の期待も裏切らず、美しく消えるはずだったのに……!! 離せ! 離せよ、この野郎!!」

 

それは、かつて「杉原耀」が決して口にしなかった、泥にまみれた罵詈雑言だった。

 

上品な皮を剥ぎ、中身をぶちまけるような、剥き出しの叫び。

 

しかし、白銀は鼻から荒い息を吐き、口角を吊り上げた。

 

「……ははっ、いい声で鳴くじゃないか。やっと人間らしい言葉を話すようになったな、杉原」

 

白銀は、恐怖で血の気の引いた耀の顔を、真っ向から見据えた。

 

「お前が書き上げた完璧な書道よりも、今のその汚ない言葉遣いの方が、俺はよっぽど好きだぞ」

 

白銀の真っ直ぐな言葉が、耀の胸に熱い鉄塊のように叩きつけられた。

 

模範的な生徒の仮面を脱いだのに、嫌われるどころかよっぽど好きだと言われている。

耀にとっては今までの人生の根底をひっくり返されるような衝撃を受けている。

 

しかし、耀はここまでしてくれている白銀の言葉を真摯に受け入れながらも、話を続ける。

 

「ねぇ、会長?」

 

「なんだ?」

 

「会長は四宮先輩が好きなんでしょ?」

 

「ゲホッゲホッ!!」

 

耀からのまさかの言葉に白銀は焦り、むせてしまう。

そんな白銀を無視して耀は続ける。

 

「そんな大事な人がいるんだから、こんなに簡単に命を賭けちゃいけませんよ。さぁ、腕を離してください。会長1人ならまだ、自力で上がれるかもしれ、、、」

「俺の惚れた女ならっ!」

 

白銀は耀が言い終わるのを待たずに、食い気味に口を挟む。

 

「俺が惚れた女なら、きっと同じことをする。俺はアイツの隣に立つのに相応しい男になりたい。だから俺もこうしている。きっとアイツと出会う前の俺なら、今ここにいないさ」

 

白銀の言葉に、耀は呼吸を忘れた。

 

完璧であること。期待に応えること。

それだけが「生きる資格」だと思っていた自分に、この男は「誰かを想うために、自分を磨く」という、眩しいほどの生の動機を突きつけてきた。

 

「……っ、そんなの、会長だから……」

 

「なぁ杉原……。恋でもしてみないか?」

 

白銀は、ホースが肩に食い込む激痛に顔を歪めながらも、挑発するように、けれど慈しむように笑った。

 

「俺のように恋をしてみても、お前の景色が綺麗に見えないなら……その時は、この手を離してやる」

 

耀の瞳が大きく見開かれた。

 

「死ぬな」という一方的な命令ではない。

「一度、俺の信じる世界を見ろ。もしそれでも地獄なら、俺がお前を離してやる。その責任は俺が持つ」という、残酷なまでに誠実な、白銀なりの救済の提示。

 

(……ああ。どこまで、卑怯で……どこまで、真っ直ぐな人なんだ)

 

もしこの景色が、会長の言う通りに変わるのだとしたら。

 

凍りついたままの自分の時間が、誰かを想うことで動き出すのだとしたら。

 

耀の右手に、微かな力が戻る。

 

震える指先で、白銀の腕を、自らの意志で、折れんばかりに握り返した。

 

「……卑怯ですよ、会長。そんな風に言われたら……僕はもう、あなたの賭けに乗るしかないじゃないですか」

 

耀の声は震えていたが、そこには先ほどまでの虚無ではない、確かな「生」の震えがあった。

 

白銀はそれを見て、満足げに一つ頷くと、夜空へ向かって腹の底から叫んだ。

 

「——四宮! 頼む!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白銀に「四宮、俺が叫ぶまで、そこで待っていてくれ」とだけ言い残され、かぐやは踊り場で足止めされていた。

 

詳細は何も聞かされていない。

だが、白銀のあのただならぬ目つきと、耀の消え入りそうな背中を見れば、これから何が起きるかなど予測がついた。

 

(……無茶ですわ、会長)

 

暗い階段で、かぐやは自分の腕を強く抱きしめていた。

 

助けに行きたい。

 

けれど、会長が「待て」と言ったのは、それが耀のプライドを、ひいては一人の人間としての尊厳を守るための唯一の方法だと彼が信じているからだ。

 

やがて、夜の静寂を切り裂く白銀の絶叫と、鈍い衝撃音が聞こえた。

 

「四宮! 頼む!」

 

その声に弾かれたように、かぐやは屋上の柵へと駆け寄った。

 

そこで目にしたのは、消火用ホース一本を命綱に、一人の少年を必死に抱え上げたまま宙を舞う、泥臭く、無謀で、誰よりも気高い「想い人」の姿だった。

 

 

 

救助が終わり、地面に下ろされた耀は、かぐやの顔を見ることができなかった。

 

自分の不手際で、会長を死なせかけた。

 

四宮家の「盟友」とも言える杉原家の跡取りが、これほどまでに無様な姿を晒した。

 

「……四宮先輩。僕は、その……」

 

耀が震える声で、いつもの「完璧な謝罪」を口にしようとした、その時だった。

 

「……黙りなさい、杉原君」

 

かぐやの冷ややかな、けれどどこか震えている声が耀を制した。

 

彼女は、ボロボロになった白銀の姿を一度だけ、痛ましそうに、そして少しだけ恨めしそうに見つめてから、耀の前に立った。

 

「今のあなたにかける言葉など、今の私には見当たりません。……あなたのために、会長がどれほどの無茶をしたか。その細い腕一本を離さないために、会長が何を賭けたか……あなたなら、解るでしょう?」

 

耀は、自分の手首に残る白銀の指の痕を見つめ、唇を噛んだ。

 

「……はい」

 

「……けれど」

 

かぐやは一歩近づくと、耀の首元で無惨に曲がった襟元に、そっと手を触れた。

その指先は、驚くほど温かかった。

 

「……会長は、そこまでしてあなたを離さなかった。その意味も、理解しなさい。……アナタは会長が選んだ生徒会の役員です。そして私が認めた『杉原耀』です。それを勝手に廃棄するなど……この私が、許しません」

 

かぐやの瞳には、耀と同じ「籠の中の鳥」として生きてきた者特有の、深い共感と怒りが混ざり合っていた。

 

自分を犠牲にしてまで会長に相談せず一人で終わらせようとした耀への憤りと、それでも生きていてくれたことへの安堵。

 

「……さあ、帰りましょう。……会長。あまり無茶が過ぎると、次は私が屋上からあなたを突き落としますよ?」

 

「はは……。肝に銘じておくよ、四宮」

白銀が苦笑いしながら立ち上がる。

 

そんな白銀に耀は尋ねる。

 

「そう言えば、会長。何故俺が今日、消えようとした事が分かったんですか?」

 

「あぁ、それはな…」

 

会長はアゴに手を添えると説明を始める。

 

「お前は自身を律する時、襟を触る癖があるだろ? 今日はいつもより触る回数が多かったからな。気になっていたんだ」

 

白銀の言葉に、耀は目を見開いたまま固まった。

 

自分ですら意識していなかった、心の綻び。

それをこの男は、泥臭い奮闘の裏でずっと見守っていたというのか。

 

白銀は少し照れくさそうに鼻を擦り、どこか講義でもするかのような口調で続ける。

 

「……いいか杉原。本来『襟を正す』とは、身なりや姿勢をきちんと整えること、そしてそこから転じて気持ちを引き締めて真剣に物事に取り組む態度を示すことを指す」

 

そこまで言って、白銀はふっと、戦友を見るような優しい目で耀を振り返った。

 

「……全く、お前らしい面白い癖だよ。だが、そんなに四六時中気持ちを引き締めていたら、いつか心が酸欠になってしまうぞ」

 

「……あ」

 

耀の喉の奥から、乾いた音が漏れた。

 

「面白い」と言われた。

 

杉原家の次期後継者としての「完璧な作法」ではなく、一人の人間としての「奇妙な癖」として、白銀はそれを受け入れたのだ。

 

耀はゆっくりと自分の襟元に手をやった。

 

けれど、もうそこを正そうとはしなかった。

 

「……会長には、勝てませんね」

 

「当たり前だ。俺はこれでも、秀知院学園の生徒会長だからな」

 

白銀は不敵に笑うと、隣に立つかぐやに「行こうか」と視線を送った。

 

かぐやもまた、呆れたように、けれど慈しむような溜息をついて歩き出す。

 

「……杉原君。明日からは、その癖が出る前に生徒会室へいらっしゃい。私が、紅茶を淹れて差し上げますわ」

 

「……はい、四宮先輩」

 

夜の静寂の中、三人の足音が重なり合う。

耀は、わざと少しだけ襟を崩したまま、二人の背中を追って一歩を踏み出した。

 

 

 





いかがでしょうか?

良かったら、お気に入り登録や感想、評価などいただけたらとてもとても嬉しいのでよろしくお願いします!!

次回もお楽しみに!!

ではまたっ!
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