【完結】渋谷の中心でマハムドバリオンを唱えた馬鹿者 作:双子座流星群
発動:マハムドバリオン
——俺には、誰にも言えない悪癖がある。
それは、どうしようもなく腹が立った時、あるいは理不尽な事態に直面した時に、対象に向かって呪いの言葉を吐くことだ。
もちろん、本気で相手の死を願っているわけではない。いや、その瞬間だけを切り取れば、願っていると言えなくもないが、それを実行に移す度胸もなければ手段もない。あくまで精神衛生を保つための、ささやかな儀式に過ぎない。
ただ、「死ね」と直球で口にするのはあまりに芸がないし、言葉にするのはあまりにリスクが高すぎる。
万が一、その呟きが誰かの耳に入った時、言い訳のしようがない。「死ね」という言葉が持つ暴力性は、現代社会においては一発アウトのレッドカードだ。
そこで俺が採用したのは、あるゲームに登場する呪文だった。
「
これだ。
この言葉の響きが、俺の琴線に触れた。
同じ即死魔法のカテゴリーには、幅広い世代に知られる国民的RPGの由来の「
後者に至っては、「死ね」と言っているのと何ら変わりがない。あまりに直球すぎて、カモフラージュとしての機能果たしていない。
その点、「
まず、響きが暗く、重い。口をあまり開かず、喉の奥で押し殺すように発音できるため、周囲に聞き取られにくい。仮に聞かれたとしても、「うど?」「むご?」といった具合に、ただの聞き間違いや、意味のない独り言として誤魔化せる可能性が高い。
そして何より、比較的マイナー(と言っては開発元に失礼だが)なのがいい。ゲーム好きならそこそこ知っている、という絶妙なライン。もしこの言葉を聞いて即座に「ああ、呪殺系ですね」と反応する人間がいれば、それはそれで同好の士として仲良くなれるかもしれない——なんて、馬鹿なことを考えながら、俺はこの習慣を身につけていった。
日常には、呪文を唱えたくなる瞬間が溢れている。
例えば、コンビニのレジでのことだ。俺が会計を済ませようとトレイに金を置いた瞬間、中年男性の客が横から割り込んできたことがある。手には温めが必要な弁当と、酒。
店員が困惑した視線をこちらに向けてくるが、男はお構いなしに千円札を突き出し、「タバコ。いつもの」と怒鳴るように言った。
店員が俺の会計を優先しようとすると、男は舌打ちをし、カウンターを指先でコツコツと叩き始めた。
——まあ、そのリズムの不快さと言ったらなかった。
「……
俺は男の背中に向かって、音にならない声で呟く。
心の中で、黒い霧が男の足元から立ち上り、その存在を絡め取っていく様を想像する。もちろん、現実には男はイライラと貧乏ゆすりを続けているだけだが、それだけで俺の胸のつかえは少しだけ軽くなるのだ。
あるいは、休日の繁華街。
狭い歩道を、横一列に広がって歩く学生の集団に遭遇した時だ。彼らは大声で笑い合い、スマホの画面を見せ合いながら、対向者である俺の存在など目に入っていないかのように振る舞う。
避けるスペースはなく、俺は車道ギリギリまで追いやられるか、立ち止まって彼らが通り過ぎるのを待つしかない。
我が物顔で道を塞ぐ彼らの、その無神経な背中を見送る時。単発の「
「……
対象が複数であること、そして彼らの若さとエネルギーに対する嫉妬にも似た苛立ちを込めて、全体呪殺魔法を選択する。
彼らの足元に巨大なドクロの幻影が浮かび上がり、その騒がしい口を一瞬で閉ざさせる——そんな妄想を脳内で再生し、俺は小さく息を吐いて再び歩き出す。
そして最も頻繁に、かつ心を込めて唱えるのが職場でのことだ。俺の上司は、絵に描いたような理不尽の塊だった。
自分の指示ミスを部下の責任に転嫁し、機嫌が悪いと書類を放り投げる。会議では手柄を独り占めし、トラブルが起きれば「俺は聞いていない」と逃げ回る。
その日も、俺は彼のデスクの前に立たされていた。
「おい堀田ァ! この数字はどうなってるんだ、先方はカンカンだぞ!」
唾が飛ぶほどの距離で怒鳴られ、俺は眉間に皺が寄るのを必死で堪えていた。その数字は、先週彼自身が「これでいけ」と赤ペンで書き込んだものだ。
だが、それを指摘すれば火に油を注ぐことになる。俺はただ、「申し訳ありません」と頭を下げるしかなかった。
上司の顔は赤く充血し、首の血管が浮き上がっている。
その醜悪な表情を見つめながら、俺の腹の底にはどす黒いマグマが煮えたぎっていた。
死んでしまえ。
今すぐ、この場から消え失せろ。
その心臓を鷲掴みにして、握り潰してやりたい。
……限界だった。
これまでの鬱憤が全て凝縮され、喉元までせり上がってくる。
俺は俯いたまま、上司に聞こえないギリギリの音量で最強の魔法を紡いだ。
「
それは、単体の敵を高確率で即死させる、上位の呪殺魔法。
俺の全霊を込めたその言葉は、いつものように虚空に消え、ほんの僅かな精神安定剤として機能して終わる——はずだった。
そう、あの日までは。
※※※
運命を変える「あの日」は、恐ろしいほどに平凡な顔をしてやってきた。
空は雲ひとつない快晴。通勤電車はいつも通りのすし詰め状態。オフィスの空気は澱み、始業のチャイムと共にキーボードを叩く乾いた音だけが響き渡る。
何ひとつ、昨日と変わらない日常。
予兆など欠片もなかった。
午前十時過ぎ。俺はいつものように、課長のデスク脇に呼びつけられていた。
要件は、提出した企画書の些細な不備——というか、単なる好みの問題についての小言だ。
「あのさあ、ここのフォント、明朝体じゃなくてゴシックにしてって言ったよねええ? 言わなかったっけ、言ったと思うんだけどなあ」
課長は自身の脂ぎった額をハンカチで拭いながら、ねっとりとした口調で絡んでくる。
言われていない。断じて言われていない。むしろ先週は「明朝体の方が見やすい」と言っていたはずだ。
だが、それを指摘したところで「言った言わないの水掛け論」に持ち込まれ、最終的に「お前の聞き方が悪い」という結論に着地するのは目に見えている。
「……申し訳ありません。すぐに修正します」
「ほんと頼むよ。こういう細かいところに気が回らないのが、君の悪い癖だよな。仕事に対する姿勢が出てるっていうかさ」
たかがフォント一つで人格否定まで飛躍するその論理展開に、俺の心は急速に冷えていく。
怒りを通り越して、無の境地だ。
はい、すみません、以後気をつけます。
自動販売機のように定型文を吐き出し、俺は頭を下げた。これで解放される。そう思った矢先だった。
「ま、ハナから堀田には期待はしてないけどな」
背中を向けようとしたその瞬間に、課長はボソリと、だが確実に俺の耳に届く音量でそう言った。
——捨て台詞。
それも、相手の自尊心を一番効率よく削ぐための、計算され尽くした一言。
周囲の同僚たちが、気まずそうに視線を逸らすのが視界の端に見えた。オフィスの空気が一瞬で凍りつき、そして何事もなかったかのように再びキーボードの音が再開される。
誰も関わり合いたくないのだ。当然だろう。
俺の足は自分の席へと向かっていたが、腹の底ではどす黒い感情が渦を巻いていた。
期待していない?
どの口が言うんだ。部下の手柄を横取りし、責任だけを押し付ける無能な寄生虫が。
振り返って殴りかかるわけにはいかない。怒鳴り返すこともできない。
……だから俺は、いつもの儀式に逃げ込んだ。
ストレスを体外へ排出するための、意味のない独り言。
歩きながら、誰にも気づかれないほどの小声で、背後にいる上司に向けて毒を吐く。
「……
選んだのは、最強の呪殺魔法だった。
個人への殺意が、極限に達し、魂ごと消し去ってしまいたいという破滅的な衝動がハラワタから湧き上がる。
もちろん、本気で死ぬなんて思っていない。
ただ、ゲームの画面内で敵キャラクターがエフェクトと共にバタリと倒れていく様を想像し、溜飲を下げるだけ。
……いつもなら、それで終わりだ。
俺は何食わぬ顔で自席に戻り、エクセルの画面を開き、憂鬱な一日をやり過ごす。そして課長は、鼻歌混じりにコーヒーを啜り、次のターゲットを探し始める。
それが確定された未来のはずだった。
——ドサッ。
背後で、重たく、鈍い音が響いた。
それは、書類の束が落ちたような乾いた音ではない。もっと質量の在る物体が、受け身を取ることもなく床に叩きつけられたような、生々しい音だった。
続いて、ガシャンと何かが割れる音。おそらくマグカップだ。
俺は足を止めた。
心臓がドクンと大きく跳ねる。
魔法が効いた?
まさか。そんな馬鹿な。アホくさ。
一瞬、脳裏をよぎったのは、あまりに現実的な推測だった。
(あのメタボ腹だ。足でももつれさせて転んだか?)
あるいは貧血か何かで倒れたのかもしれない。だとしたら、ザマァミロと言うよりは、救急車を呼ばなきゃいけない面倒くささの方が先に立つ。
俺は「やれやれ」といった感情を顔に貼り付け、あくまで「音に驚いた部下」という体裁を整えてから、ゆっくりと振り返った。
「課長? 大丈夫ですか、何——か」
言葉は、途中で途切れた。
目の前に広がる光景が、俺の想像していた「転倒事故」とは、あまりにもかけ離れていたからだ。
課長のデスクの周りだけ、時間が止まったように静まり返っていた。
椅子が後ろに倒れている。その横に、課長が倒れていた。
いや、「倒れている」という表現は正確ではないかもしれない。
まるで糸が切れた操り人形のように、あるいは支えを失った肉の塊のように、不自然な格好で床に崩れ落ちていたのだ。
ピクリとも動かない。
痙攣もしていない。
うめき声ひとつ上げない。
つい数秒前まで、俺に粘着質な小言を垂れ流していたあの口が、今は半開きになり、だらしなく床に押し付けられている。
周囲の同僚たちが、異変に気づいて立ち上がり始めていた。
「おい、どうした?」
「課長?」
誰かが駆け寄る音がする。
だが俺は、その場から一歩も動けなかった。足が床に縫い付けられたように動かない。
背筋を、冷たい汗が伝い落ちる。
偶然だ。
絶対に偶然だ。
タイミングが良すぎただけだ。
心の中で必死にそう繰り返すが、喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じた。
だって、おかしいだろう。
転んだにしては、倒れ方が唐突すぎる。
まるで、スイッチを切られたみたいに——。
俺の視線は、課長の倒れた姿に釘付けになっていた。
そして、その体から立ち上る何か——陽炎のような、あるいは黒い靄のような不確かな揺らぎ——が見えたような気がして、俺は慌てて目を擦った。
※※※
先日オフィスを襲った喧騒は、まるで悪い冗談のようだった。
駆けつけた救急隊員の怒号、AEDが発する無機質な機械音声、そして担架で運ばれていく課長の、蝋人形のように色のない顔。それらが断片的な映像として記憶に残っているだけで、俺自身の意識はどこか現実味を欠いていた。
警察の聴取もあった。「当時の状況は?」「変わった様子は?」と聞かれたが、俺はただ「突然倒れたんです」と繰り返すしかなかった。
——まさか「僕が
そんなことを言えば、重要参考人以前に頭のおかしい奴として病院送りにされるのが関の山だ。
結局、課長の死因は急性心不全と診断されたらしい。
働きすぎだの不摂生だの、もっともらしい理由が囁かれたが、俺にとっては好都合だった。
偶然だ。絶対に偶然だ。
俺はそう自分に言い聞かせ、あの瞬間の戦慄を日々の忙しさの中に埋葬した。
新しい上司が来るまでの引き継ぎ業務や、残された案件の処理に追われるうちに、俺の悪癖である「呪文詠唱」と「課長の死」の因果関係は、記憶の彼方へと押し流されていった。
人間とは現金なもので、喉元過ぎれば熱さを忘れる。
俺は再び何の変哲もない、ただ少しだけストレスの溜まりやすい一介のサラリーマンへと戻っていたのだ。
そして、今日。
季節外れの真夏日が続く、週末の午後。
俺は都内でも有数の巨大ターミナル駅前にある、スクランブル交差点に立っていた。
信号待ちをする人の波は、黒い壁のように歩道を埋め尽くしている。アスファルトからの照り返しと、密集した人間が発する熱気、それに車の排気ガスが混じり合い、呼吸をするだけで肺が汚れそうな不快な空気が淀んでいた。
「……暑い」
額に滲む汗を手の甲で拭いながら、俺は信号が変わるのを待っていた。視界の端では、巨大な街頭ビジョンがけたたましい音量でCMを流している。周囲では若者たちが大声で笑い合い、外国人観光客がカメラを掲げている。
誰もが自分の世界に没頭し、他人の存在など歯牙にもかけていない。俺はこの人混みが嫌いだった。
無数の他人が、ただの障害物として目の前を塞ぐ、この感覚がたまらなく不快だった。
信号が青に変わる。
ピヨピヨ、カッコー、と誘導音が鳴り響き、黒い壁が一斉に崩れて交差点へと雪崩れ込む。
俺もまた、その濁流の一滴として歩き出した。
向かう先は駅の改札だ。早く家に帰りたい。冷房の効いた部屋で、冷たいビールを飲みたい。
その一心で、人の波を縫うように足を進めていた。
その時だった。
——ドンッ!
突如、背後からかなりの勢いで何かがぶつかってきた。
スマホの画面を凝視しながら、ふらふらと中央突破を試みていた若い男。イヤホンを耳に突っ込み、周囲の状況など一ミリも気にしていない、典型的な「歩きスマホ」だ。
「あっ、うわっ!?」
俺の体は大きくよろめいた。
そして、その衝撃で顔面にかかっていた重みがふわりと浮いた。世界とのピントを繋ぎ止めていた命綱——丸メガネが、弾き飛ばされたのだ。
スローモーションのように、銀色のフレームが宙を舞うのが見えた気がした。
俺は反射的に手を伸ばしたが、指先は虚しく空を切った。
カラン、という乾いた音が、喧騒にかき消されそうになりながらも耳に届く。
俺のメガネは、無慈悲なアスファルトの上に落ちた。
世界が一気にぼやけ、色彩と光の斑点だけが揺らめく曖昧な空間へと変貌する。
だが、悲劇はそこで終わらなかった。
ここはスクランブル交差点のど真ん中だ。
バキッ。
グシャッ。
耳を塞ぎたくなるような、嫌な音が連続して響いた。
樹脂のレンズが割れる音。
繊細な金属フレームが歪み、折れ曲がる音。
俺の視界を支えていた相棒が、何人もの他人の靴底によって、無残に踏み躙られていく音だ。
「あ……」
俺は呆然と立ち尽くした。
ぶつかってきた男は? ぼやけた視界の中で、何食わぬ顔で歩き去ろうとする背中らしき影が見えた。
謝罪はない。
立ち止まる様子すらない。
自分が他人の所有物を破壊し、多大な損害を与えたことになど気づきもせず、あるいは気づいていても無視を決め込んで、そのままスマホの画面に見入っている。
——プツン。
脳内で、何かが焼き切れる音がした。
それは課長の時とも比べ物にならないほど鋭く、煮え滾るような熱い怒りだった。
日々の鬱憤、暑さによる苛立ち、人混みへの嫌悪、そして理不尽な暴力に対する復讐心。
それらが一瞬にして沸点を超え、臨界点をも突破した。
許せない。
こいつだけは許さない。
いや、こいつだけじゃない。
俺のメガネを踏みつけた奴らも、見て見ぬふりをして通り過ぎるこの群衆も、この不快な熱気も、騒音も、全てが敵だ。
俺の視界は奪われた。
ならば、お前たちの光も奪ってやる。
どす黒い殺意が、喉元まで一気にせり上がってくる。
理性によるブレーキなど、とうの昔に壊れていた。
以前の「
——「唱えれば、スッキリするぞ」と。
単体の「ムド」では足りない。
範囲の「マハムド」でも生ぬるい。
この交差点を埋め尽くすほどの、圧倒的な死の呪いが必要だ。
俺の口は半ば自動的に、かつてゲームの中で使用した事もある最強の呪殺魔法を紡ぎ出していた。
「ああもう……! マハムドバリオン……ッ!」
それは、敵全体を高確率で即死させる、災厄の呪文。
いつものような微かなつぶやきに収まらず、絶叫に近い声で吐き出されたその言葉は、交差点の喧騒を一瞬だけ切り裂き、熱気の中に溶けていった。
——その瞬間、世界から音が吸い出されたようだった。
直前まで鼓膜を震わせていた都会の轟音——車のエンジン音、タイヤがアスファルトを噛む音、無数の会話、笑い声、広告のジングル——その全てが、プツリと断線したスピーカーのように唐突に途絶えた。
残されたのは、信号機が発する「カッコー、カッコー」という、間の抜けた誘導音だけ。
あまりに奇妙で、あまりに完全な静寂。
俺は荒い息を吐いたまま、ぼやけた視界の中で立ち尽くしていた。
——ドサッ。ドサドサドサッ。
静寂を破ったのは、豪雨のような、あるいは重たい荷物が一度に荷台から崩れ落ちたような、鈍く湿った音の連鎖だった。
アスファルトを叩く、肉と骨の音。
俺は、何が起きたのか理解できず、眼鏡がないためにピントの合わない目を凝らした。
色彩の斑点となって揺らめく視界の中で、垂直に立っていた無数の棒状の影が、次々と水平になっていくのが見えた。
まるで、見えない巨大な鎌が地面を薙ぎ払ったかのように。
あるいは、操り人形の糸を一斉に断ち切ったかのように。
交差点を埋め尽くしていた黒い人の波が、崩壊したのだ。
「あ……?」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
目の前を歩いていたはずの、「歩きスマホ」の男の姿もない。
前方のアスファルトへと視線を落とす。
そこには、ジーンズを履いた足が転がっていた。微動だにしない。手にはまだ、光る画面のスマホが握りしめられているのが、ぼんやりと見えた。
——死んでいる。
直感として理解できた。
課長の時と同じだ。苦悶の声も、助けを求める叫びもなく、ただ生命活動のスイッチを強制的に切断された「物体」が、そこに転がっている。
それも、一人や二人ではない。
見渡す限り、交差点という巨大なキャンバスを埋め尽くすように、死屍累々の山が築かれていた。
(嘘だろ……)
膝が震え、カチカチと歯が鳴った。
やったのか?
俺が?
ただのストレス解消のつもりだった。ゲームの必殺技を口にして、少しだけスッキリするはずだった。
それが、これか?
しかし、戦慄する俺の意識の片隅で、奇妙な違和感が首をもたげた。全員ではないのだ。
この地獄絵図の中で、俺と同じように、何が起きたのか分からず立ち尽くしている人影が、まばらに存在していた。
右斜め前方に、呆然と立ち尽くす女性のシルエット。
遠くの方でしゃがみ込んでいる子供のような影。
そして俺のすぐ左隣で、倒れた恋人らしき人物の手を握りながら硬直している男。
なぜ、彼らは立っている?
なぜ、俺は生きている?
俺が放ったのは、全てを無に帰す死の言葉だったはずだ。
混乱する頭の中で、かつて熱中したゲームの攻略wikiの記述が、走馬灯のように浮かび上がっては消えた。
『
——高確率。
そう、「高確率」だ。「確実」ではない。
背筋に、氷柱を突き刺されたような寒気が走った。
俺は理解してしまった。
この現実離れした惨状における、冷酷なルールを。
(判定に……成功した奴と、失敗した奴がいるのか?)
運。ただそれだけの差だ。
俺の言葉が発動したその瞬間、この交差点にいた全ての人間の頭上で、見えないダイスが振られたのだ。
あるいは、耐性判定が行われたのかもしれない。
運のステータスが高かった者、即死耐性を持っていた者、あるいは単に確率の女神が微笑んだ者。彼らだけが「MISS」の判定を受け、死を免れた。
——そして、運に見放された大多数がその場で命を刈り取られた。
なんてふざけた話だ。
俺の身勝手なイライラと、気まぐれな確率計算によって、数百、いや数千かもしれない人生が選別されたというのか。
——いやそんなはずはないよなおれじゃないよなこれは偶然起きた何かの災害だ魔法なんて馬鹿馬鹿しい俺はただのサラリーマンだぞそんなことできるはずがない物理的にありえない科学的にありえないありえないよな?ゲームじゃないんだぞ漫画じゃないんだぞ現実だ現実的にありえないでもこれは現実だ現実か?夢じゃないのか夢に違いないそうだこんなこと起きるはずがない——。
「う、うわあああああああああ!」
静寂を切り裂いて、最初の悲鳴が上がった。
それが合図だった。ハッと顔を上げると同時に凍りついていた時間がパニックという奔流となって動き出す。
「キャアアアアア!」
「誰か! 誰か来て!」
「死んでる……嘘だ、おい、起きろよ!」
生き残った「当選者」たちが、狂乱の叫びを上げ始めた。
倒れた人間に縋り付く者、恐怖に駆られて走り出す者、腰を抜かして泣き叫ぶ者。
阿鼻叫喚の地獄が、急速に音を取り戻していく。
その喧騒の中心で俺だけが、破壊された眼鏡のせいで曖昧になった世界を見つめながら奇妙なほど冷めた思考の中にいた。
俺は生き残った。
術者だから対象外だったのか、それとも俺自身も判定の対象となり、たまたま生き残ったのかは分からない。
だが、事実は一つ。
俺は、大量殺人者になったということだ。
地面に転がった「歩きスマホ」の男を見る。
俺の眼鏡を弾き飛ばし、粉々にした報いは、あまりにも重すぎる形で彼に降りかかった。
罪悪感? いや、それよりも先に、恐怖と混乱、そして現実感の欠如が俺を支配していた。
(逃げなきゃ……)
本能がそう告げていた。
だが、どこへ? どうやって? 死体の山を乗り越えて?
遠くでパトカーのサイレンが微かに聞こえ始めた気がした。
ゲームならリセットボタンがある。
だが、ここにはない。
俺は震える手で、自分の顔を覆った。指の隙間から見える世界は、相変わらずぼやけていて、それが今の俺には唯一の救いのように思えた。
分かるわけがない。
バレるわけがない。
絶対に、ありえない。
俺は心の中で、壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返していた。冷静になれ。考えてもみろ。ここはファンタジー世界のダンジョンでもなければ、異世界転生した先の王国でもない。
ここは日本だ。
二十一世紀の、科学と理性が支配する法治国家だ。
道路交通法があり、刑法があり、警察があり、裁判所がある。すべての事象には物理的な原因が必要で、すべての犯罪には立証可能な凶器と痕跡が必要とされる世界だ。
「ゲームの呪文を叫んだら、交差点の人間が死にました」
そんな供述が、警察の調書に載るわけがないだろう?
検察官がそんな起訴状を読み上げるわけがないし、裁判官がそれを事実として認定するはずもない。
もし誰かが「あの男が変な言葉を叫んだ後にみんな倒れた!」と証言したとして、それが何になる?
それはただの「狂人の戯言」か、あるいは「タイミングの悪い偶然」として処理されるに決まっている。因果関係なんて証明しようがない。言葉は空気の振動だ。
その振動が、数百人の心臓を同時に止める物理的メカニズムなんて、現代科学のどこを探したって存在しないんだ。
(そうだ……俺はただ、叫んだだけだ)
大声を出しただけで逮捕されるなら、甲子園の応援団は全員終身刑だ。
俺は何もしていない。
指一本触れていない。
凶器も持っていない。
ただ、少しばかり運が悪く、ストレスが溜まっていて、変な言葉を叫んでしまっただけの、哀れな通行人の一人。
それだけだ。それだけの存在なんだ。
それに、あの瞬間のカオスを思い出せ。
誰も彼もがスマホを見ていた。あるいは雑踏の騒音に耳を塞いでいた。
俺が「
「何か喚き散らしている変な奴がいた」
精々、その程度の認識だ。
俺の声は、特定の個人に向けられたものではなく、虚空に拡散して消えた。
証拠なんてない。あるはずがない。
そもそも俺が原因とは限らないじゃないか、ゲームの呪文を口ずさんだだけだぞ!
そうだ、そうに決まってる……どうかしてた、俺が人を殺す訳が無いじゃないか、喧嘩すらろくにしたことがないのに!
——ウゥゥゥゥゥゥ……!ウゥゥゥゥゥゥ……!
遠くから、風を切り裂くようなサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。一台や二台ではない。
街中の緊急車両がすべて、この一点を目指して集結しているかのような不穏で重層的な響きだ。
その音が鼓膜を震わせた瞬間、俺の膝がガクリと折れた。
恐怖。
それは、「犯行がバレるかもしれない」という社会的な恐怖と、「自分の言葉が人を殺したかもしれない」というオカルト的な恐怖が入り混じった、得体の知れない感情だった。
立っていられない。
いや、立っていてはいけない。
こんな地獄絵図の中で、五体満足で仁王立ちしている人間なんて、目立ちすぎる。
俺は「被害者」でなくてはならないのだ。
俺はその場に崩れ落ちるようにして蹲った。
アスファルトは焼けるように熱い。
真夏の日差しを吸い込んだ地面の熱気が、ジーンズ越しに皮膚を焦がす。だが、今の俺にはその痛みがありがたかった。現実感が、俺をこの世界に繋ぎ止めてくれる気がしたからだ。
周囲を見渡す——いや、正確には、ぼやけた視界で気配を探る。
運良く生き残った「当選者」たちは、皆一様に錯乱していた。
道路に手をついて嘔吐しているサラリーマン。
動かなくなった友人の体を揺すりながら、名前を呼び続けている女子高生。
呆然と空を見上げ、ブツブツと何かを呟いている老人。
俺は膝を抱え、頭を垂れた。彼らの真似をするのだ。
突然の惨劇に巻き込まれ、恐怖に震える一般市民。
それを演じることは、今の俺にとって難しくなかった。演技をする必要すらなかったからだ。
俺は本当に震えていた。止まらなかった。
歯の根が合わず、カチカチと鳴る音が頭蓋骨に響く。
指先が痙攣し、腕を抱きしめてもその震えを抑え込むことができない。
視界が、さらに白く濁っていく。
踏み潰されたメガネがないせいで、世界はただでさえ光の洪水と化しているのに、そこに生理的な涙が膜を張ったのだ。
悲しいわけではない。
ただ、脳が許容量を超えた情報を処理しきれず、エラー反応として涙腺を決壊させただけだ。
ぼんやりとした視界の端で、赤色灯の回転が見えた気がした。
サイレンの音が、すぐそこまで迫っている。
警察だ。救急だ。法の番人たちがやってくる。
彼らはこの不可解な現場を見て、何を思うだろう。
テロか? 毒ガスか? 未知のウイルスか?
まさか一人の男の「呪文」だなんて、誰が想像するだろうか。
ちがう、じゅもんじゃない。ただ何かが重なっただけだ!
「う、あ……」
俺の口から、掠れた声が漏れた。
これもまた、被害者としての演技の一環なのか、それとも本心からの呻きなのか、自分でも判別がつかなかった。
ただ、俺は蹲り続けるしかなかった。死体の山と、狂乱する生存者たちの間で、ちっぽけな石ころのように身を縮めて。
二重の理由で曖昧になった視界が、凄惨な現実を直視せずに済むフィルターになってくれていることだけを、今は感謝するしかなかった。
ちなみに私はやっています(自白)