【完結】渋谷の中心でマハムドバリオンを唱えた馬鹿者 作:双子座流星群
部屋の明かりを落とし、テレビ画面に映し出されたワーナー・ブラザースのロゴが青白く部屋を照らす。
俺の膝の上には、ドン・キホーテの袋に入った安っぽいポリエステル製のローブ。
そしてテーブルを挟んだ床には、体育座りで画面を食い入るように見つめる相田の姿があった。
「……なぁ、相田」
「シッ。今、ダンブルドア先生が灯りを消すシーンですよ。ここ重要です」
「いや、ストーリーは知ってるんだよ、子供の頃読んだから。それより聞きたいことがある」
俺はため息をつきつつ、ローブを畳んでソファの脇に置いた。
こいつ、本当に楽しみにしてやがったな。持参したブルーレイディスクをセットする手つきの軽やかさといったらなかった。
「聞きたいこと、ですか? 魔法のコツについてなら、映画の後でみっちり考察会を……」
「違う。お前のことだ」
俺が少し声を低めると、相田はようやく視線をテレビから外し、首だけをこちらに向けた。
薄暗い部屋の中で、彼の瞳だけが妙に爛々と輝いている。
「お前、言ってたよな。事件の前から、コンビニや電車で俺を見ていたって」
「ええ、はい。堀田さんの『素晴らしい凡人性』を観測していました」
「……俺は、あの上司を殺してしまうその瞬間まで、魔法なんて使えなかった。ただの疲れたサラリーマンだったはずだ。なのに、お前はどうして俺に目をつけた? 何がそんなに
俺の疑問はそこにあった。
俺の悪癖——嫌なことがあるたびに『
それ以前の俺は魔力も覇気もない、ただの社畜だったはずだ。
単なる偶然で、近所の変人のターゲットになってしまっただけなのか。それとも、俺の中に眠っていた『異界への接続』の予兆を、こいつは感じ取っていたのか。
相田は「ふむ」と一つ唸り、リモコンで映画を一時停止した。
静止画になったダンブルドアに見守られながら、彼はニヤリと笑った。
「違和感、ですかね」
「違和感?」
「はい。堀田さん、ご自分では
ドキリとした。
声に出ていたということか?
「いえ、声じゃありません。……
「ノイズ?」
「満員電車の中で、みんな死んだ魚のような目をしてスマホを見ている。貴方も同じように死んだ目をしている。でも、貴方の周りだけ、なんとなく空気が
相田は手振りで空間を撫でるような仕草をした。
「テレビのアナログ放送が終わった直後の砂嵐みたいな……あるいは、静電気のような。例えば座る直前に座席を取られた貴方が唇を動かして『ムド』の形を取った時などに、世界との接続が一瞬だけズレるような、そんな奇妙な不快感がありました」
彼はうっとりと目を細めた。
「最初は気のせいかと思いました。でも、毎日毎日、貴方を見るたびにそのザラつきは強くなっていった。まるで、見えないひび割れが広がっていくように。……だから僕は確信したんです。この人は、いつか
「……割れる」
「ええ。そしてあの日、貴方は本当に世界を割って、向こう側のナニカを引きずり出した。僕の長年の観察は報われたわけです」
背筋に冷たいものが走る。
こいつは、俺が開通する前の、ダムにひびが入っていく過程をずっと楽しんでいたのだ。
俺が『
やはり、普通じゃない。ただのストーカーではない。
こいつもまた、何らかの形で
「……そういえば、相田」
俺はもう一つの疑問をぶつけた。
「アナライズの結果なんだが……お前、MPが45もあったぞ」
「えっ!」
相田が素っ頓狂な声を上げた。
「えむぴー? マジックポイントのMPですか? 僕に?」
「ああ。俺は『ERROR』だったが、お前には数値が表示されていた。……一般人にMPがあるのが普通なのかどうかは、比較対象がいないから分からんが」
ゲームの設定で言えば、魔法を使えない一般人のMPは0であることが多い。あるいは、潜在能力として持っていても、覚醒しなければ使えない数値だ。
だが、45というのは初期レベルの魔法使いにしてはそこそこの数値だ。『アギ』なら十発以上撃てる。
……消費がゲームと同じなら、という但し書きはつくが。
「よんじゅうご……45ですか! それはすごい!」
相田はガバッと立ち上がり、自分の体を見回して興奮し始めた。
「つまり僕にも魔法の才能があるということですか!? 堀田さんのように、僕も『アギ』とか出せちゃうんですか!?」
「いや、多分無理だろ」
俺は冷水を浴びせた。
「俺の場合は異常体質になったから、魔法が使えちゃってるだけだ。お前のそのMPは、あくまでお前自身の生命力というか、精神力のタンクの容量みたいなもんだろう、たぶん。いくらMPがあったって、それの出口がなきゃ使いようがない」
「出口……」
相田は悔しそうに唸ったが、すぐにまたニヤニヤと笑い出す。
「でも、0じゃない。それだけで十分なロマンです。もしかしたら、僕のこの他人より鋭敏な感覚も、無意識にMPを消費して発動しているパッシブスキルなのかもしれませんね」
……あり得る。
アナライズのスキル欄にあった『特定解析』や『執着心EX』。
あれがもし、単なる性格や技術ではなく、微弱な魔力によって強化された異能の一種だとしたら。
こいつが俺の
俺という「巨大な穴」と、相田という「微弱な感応者」。
磁石が引き合うように、俺たちが出会ったのは必然だったのかもしれない。
「ま、お前が魔法を使えたら、それこそ収拾がつかなくなる。お前はせいぜい、ネット工作とストーキングのスキルでも磨け」
「人聞きが悪いですねぇ。崇高なる守護活動とでも言ってください」
相田は悪びれもせず、再びテレビに向き直った。
再生ボタンを押す。
ジョン・ウィリアムズのあの有名なテーマ曲が流れ始める。
俺はソファに深く沈み込み、ローブの裾を握りしめた。
MP45の変人ストーカーと、MP無限の大量殺人犯。
この奇妙なコンビで、俺はこれから「穏当な魔法使いになる」ための自己催眠トレーニングを始めなければならない。
「……ウィンガーディアム・レビオーサ」
画面の中の少年たちに合わせて、ボソリと呟いてみる。
まだ、何も起きない。だが、隣で相田が「発音が甘いですね、もっと『ガー』を強調して」と真顔でダメ出しをしてくるのを聞いて、俺は少しだけ力が抜けた。
少なくとも、このふざけた空間にいる間だけは、四〇〇人の亡霊も遠慮してくれているような気がした。
※※※
ホグワーツの食堂に何百本もの蝋燭が浮かび上がる幻想的なシーンに見入っていた時だった。
無粋な電子音が、魔法の世界の空気を切り裂いた。
ピンポーン。
「あ、来ましたね」
相田が素早くリモコンを操作し、画面を一時停止させる。
俺はソファから重い腰を上げた。Amazonの配達員だ。普段なら置き配を頼むところだが、こればかりは確実に受け取らなければならない。俺の運命がかかっているのだから。
玄関で受け取った二つの段ボール箱は、ずしりと重かった。
リビングに戻り、相田の熱っぽい視線を浴びながら、ガムテープを乱暴に剥がす。
小さい方の箱からは、黒い化粧箱に入った「魔法の杖」が出てきた。映画のハリーが使っていた、ヒイラギの木の杖を模したレプリカだ。手に取ってみると、意外としっかりとした重みがあり、安っぽいプラスチック感はそこまでない。
だが、所詮はコスプレグッズだ。これで人を殺すことはできないし、本来なら魔法を出すこともできない。
そして、大きい方の箱。
中には、カラフルな表紙の文庫本がぎっしりと詰まっていた。『ハリー・ポッター』シリーズ全巻セット。
「懐かしいな……」
一番上の『賢者の石』を手に取り、パラパラとめくる。
児童書特有の、少し大きめの活字と、挿絵。
「子供の頃、実家にはハードカバー版が全巻揃ってたんだよ。親が発売日に買ってきてくれてな。夢中で読んだもんだ」
「ほう。では、基礎教養はバッチリということですね!」
相田が目を輝かせる。
「いや、それがな……」
俺は苦笑しながら本を箱に戻した。
「大学進学で一人暮らしを始める時の引っ越しで、全部処分しちまったんだよ。ハードカバーは重いし、場所も取るからって。ブックオフで二束三文だったな」
あの時、もし捨てずに繰り返し読み返していれば。
俺の脳内の「魔法の定義」は、メガテン一色に染まらずに済んだのだろうか。
悪癖で唱える魔法も、『
そんなたらればを考えても栓無きことだが、あの時の俺が「重い」と切り捨てた物語の重量を、今になって痛感させられるとは皮肉な話だ。
「過ぎたことを悔やんでも仕方ありません。さあ、堀田さん。装備を」
相田に促され、俺はドン・キホーテで買った安っぽいポリエステルのローブを羽織った。
フードを目深に被り、右手には杖を持つ。
姿見の前に立ってみる。
「…………」
そこに映っていたのは、ハロウィンで浮かれている痛いアラサー男の姿だった。
しかも、その中身は四〇〇人を殺した大量殺人犯だ。
ホグワーツ生の学生服めいたコスプレローブより、死喰い人のように邪悪そうなローブを纏うべきだろう。
滑稽という言葉すら生ぬるい。これほど質の悪いブラックジョークがあるだろうか。
「ここはユニバかよ……」
乾いた笑いが漏れる。大阪のテーマパークで、バタービールを片手にはしゃいでいる観光客の方がよほど魔法使いらしいだろう。
「素晴らしいです、我が君!」
だが、俺の共犯者は、感動に打ち震えていた。
彼は床に座ったまま、俺を見上げてうっとりと溜息をつく。
ていうか我が君いうな、闇の帝王にはならねえって。
「そのチープなローブと、オモチャの杖。それらが、貴方という
「お前の感性の方が倒錯してるよ」
俺は溜息をつき、テレビの前に立った。
相田がテーブルの上を片付け、即席の訓練場を作る。
「では、始めましょう。狙いは
相田は真剣な顔で、まるで魔法学校の教授のように杖に見立てたリモコンを振ってみせた。
「まずは基本中の基本。『ルーモス』から。イメージしてください。その杖の先端に、小さな光が灯る様子を」
「……ああ」
俺は杖を構えた。
グリップの感触は悪くない。
深く息を吸い込む、俺は魔法使いだ。
俺はデビルサマナーじゃない。魔法の世界のウィザードだ。
俺の魔法は、人を焼き殺すためのものじゃない。暗闇を照らすためのものだ。
自己催眠。
『認識漏洩』というバグを逆手にとった、脳のハッキング。
「……ルーモス」
杖の先を見つめ、静かに唱える。
——シーン。
何も起きない。薄暗い部屋の闇は、そのままそこに在る。
「……やっぱり、駄目か?」
俺が杖を下ろそうとすると、相田が「いえ!」と鋭く声を上げた。
「今、一瞬! 本当に一瞬ですが、空気が
「えっ?」
「恐らくは方向性は間違っていません。貴方様の魔力は、新しい出口を探して彷徨っています。あとは、そのイメージを強固にするだけです!」
相田は床をバンと叩き、熱っぽく語る。
「もう一度! 今度はもっと強く念じて! 貴方はハリー・ポッターだ! ここはホグワーツだ! ダンブルドア校長が見守っていますよ!」
「うるせえ!!」
……三十路の男二人が、狭いアパートで何をやっているんだろう。だが、この滑稽極まりないごっこ遊びに、俺の未来がかかっている。
俺は再び杖を構えた。
羞恥心を捨てろ。なりきれ。
俺は、選ばれし魔法少年だ。
「……
深夜のアパートに、痛々しい叫び声と、映画のサントラだけが響き渡っている——その瞬間、世界がカチリと音を立てて噛み合ったような感覚があった。
俺の手の中にあるのはAmazonで二千円ちょっとで買った、プラスチックと樹脂でできた安物のレプリカだ。電池ボックスもなければ、LED電球も埋め込まれていない。ただの塗装された棒切れ。
——だが今、その樹脂製のヒイラギの杖の先端に、小さく、しかし確かな光が灯っていた。
それは懐中電灯のような鋭い直進光ではない。
蝋燭の炎のような、あるいは蛍の光のような、柔らかく、乳白色に揺らめく光だ。
薄暗いリビングの壁に、俺と相田の影がぼんやりと伸びる。
「……できた」
俺は震える声で呟いた。
成功だ。俺の脳が、魔法の法則を上書きしたのだ。
『俺はホグワーツの魔法使いだ』という自己暗示が、俺というバグだらけの出力装置に新たなフィルターを被せ、殺意の塊のような魔力を、無害な照明へと変換することに成功したのだ。
……あたたかい。
杖のグリップを通して、俺の指先に温かな脈動が伝わってくる。これが、殺さない魔法の手触りか。
『
「……
試しに、消灯の呪文を唱える。
フッ、と光が吸い込まれるように消滅し、部屋は再びテレビの青白い明かりだけに支配された。
——俺は深く、安堵の息を吐き出した。
扉が開いた。
破壊と死しかない『女神転生』のシステムから、多様性と生活魔法に満ちた『ハリー・ポッター』のシステムへの逃走経路が、確かに開通したのだ。
「す……素晴らしいッ!!」
床でその様子を固唾を呑んで見守っていた相田が、バネ仕掛けのように跳ね起きた。
その顔は紅潮し、目は涙で潤み、まるで奇跡を目撃した狂信者のそれだった。
「見ましたか、今の光! LEDじゃない、本物の魔力の輝き! ああ、貴方様はついに『理』すらもねじ伏せたのですね! メガテンの魔王でありながらホグワーツの生徒でもある……これはもう、ハイブリッド・ウィザードの誕生ですよ!」
相田は興奮のあまり、俺の周りをぐるぐると回り始めた。
「さあ、次は何を試しましょうか! 『ルーモス』ができたなら、攻撃魔法もいけるはずです! どうせなら派手なやつを! 『プロテゴ・ディアボリカ』なんてどうです!? あの青い炎で敵対者を焼き尽くす、グリンデルバルドの最強魔法! 最強の魔法使いたる我が君にはピッタリだ!」
「……は?」
俺は呆気にとられた。
俺が必死に「平和的な魔法」にシフトしようとしているのに、こいつはどこまでも俺を「魔王」の枠に押し込めようとしてくる。呼び方もさり気なく我が君になっているし。
思考が物騒なのか、あるいは単純に派手な超常現象が見たくて仕方ないのか。
……そういえばコイツ、河川敷でも『
「アホかお前は。俺は殺傷能力を下げたいって言ってるだろ。なんでわざわざ闇の魔術に手を出さなきゃいけないんだ」
「ええーっ、でも似合いますよ? 絶対カッコいいですって! ほら、やりましょうよ! 僕が忠誠を誓ってるかどうか、その炎で試してくださいよ!」
相田が詰め寄ってくる。
その無邪気な狂気が今は少しだけ鬱陶しく、俺はこめかみをピキりと引きつらせながら杖を彼に向けた。
……いい機会だ。望みどおり人体実験してやろう。
殺さず、傷つけず、しかし相手を無力化する。
そのための呪文が、この体系にはいくらでも存在する。
俺は手首を鋭く返した。
「……
杖の先から、銀色の光の筋が迸った。
それは一直線に相田のみぞおちに吸い込まれる。
「え、あ……ぶっ!?」
相田の言葉が止まった。
直後、彼は自分の腹を抱え、床に崩れ落ちた。
「あっ、ははははは! え、な、なにこれ! くすぐっ、あはははははは! やめ、とまら、あひゃひゃひゃひゃ!」
相田は床の上をのたうち回り始めた。
呼吸困難になりそうなほどの激しい爆笑。
見えない手で脇腹や足の裏を猛烈にくすぐられているかのように、手足をバタつかせ、涙を流して笑い転げている。
「す、すずきさっ、これ、あははは! ゆるっ、ゆるしてっ、ひぃぃぃぃ!」
「……ふう」
俺は杖を下ろし、その無様な姿を見下ろしながら、深い安堵のため息をついた。
成功だ。これがもし『
『
——『
だが、今の彼はただ
苦しそうではあるが、命に別状はない。部屋も汚れていない。
「……成功だ」
俺は杖を握りしめた。
これで、俺の生存戦略の選択肢は劇的に広がった。
刃物を持った暴漢に襲われたら、武装解除すればいい。
逃げたければ、姿くらましすればいい。
そして、この狂信者が暴走しそうになったら、こうして笑いの地獄に落としてやればいい。
俺は、床で「あひゃひゃ」と奇声を上げ続ける相田を放置し、ソファに座り直した。
まだ心臓は高鳴っている。
だが、それは恐怖による動悸だけではない。
ようやくこの理不尽な運命に対抗するための「武器」を手に入れたという、微かな希望の鼓動でもあった。
俺は手元の原作本を開いた。
まだまだ覚えるべき呪文は山ほどある。
この安っぽい杖と、古臭い児童書が、俺の平穏な日々を守る最強の盾になるのだ。
俺はページをめくりながら、久しぶりにコーヒーでも淹れようかという気分になっていた。
いい感じの棒を持って「エクスペクト・パトローナーム!」はみんな通ってるはず……しかし楽しそうだなこいつら
次回、本編最終回