【完結】渋谷の中心でマハムドバリオンを唱えた馬鹿者 作:双子座流星群
キキーッ、というブレーキ音。重たいドアが開閉する音。
そしてアスファルトを力強く踏みしめる無数のブーツの足音。
「救急班、こっちだ!」
「トリアージを行う! 動ける者は誘導してくれ!」
「現場保存! 規制線を張れ、野次馬を入れるな!」
現実と非現実の境界線が曖昧になったその空間に、ついに「
遠巻きに響いていたサイレンの音が、すぐ耳元で唸りを上げる轟音へと変わっている。
怒号のような指示が飛び交い、プロフェッショナルたちが雪崩れ込んでくる。それは、地獄に対する強制介入だった。
俺は膝を抱え、小さくなったまま、その嵐が通り過ぎるのを待つつもりでいた。だが、嵐は俺を見逃してはくれなかった。
「おい、君! 大丈夫か!」
肩を強く揺さぶられた。
ビクリと体が跳ねる。演技ではない。心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出す。
警察官だ。ぼやけた視界でも分かる。紺色の制服、威圧感のある輪郭、そして腰に携えた装備品の重み。
法の番人が、俺に触れている。
その事実に反射的な拒絶反応と、すがりつきたいという矛盾した衝動が同時に湧き上がる。
「聞こえるか? 怪我はないか!」
耳元で叫ばれ、俺は震えながら顔を上げた。
視界が悪いことが、ここでも俺を助けた。相手の表情が見えないのだ。もし、疑いの眼差しを向けられていたら、あるいは射抜くような鋭い視線で見られていたら、俺は挙動不審でボロを出していたかもしれない。
だが、今の俺に見えるのは、ぼんやりとした紺色の塊だけ。
だから俺は、怯える小動物のように、ただ弱々しく首を振ることができた。
「あ……あ……」
「言葉は話せるな? どこか痛むところは?」
「め、眼鏡が……割れて……何も、見えなくて……」
喉が張り付いて掠れた声しか出ない。それが逆に、極限状態のパニックを演出する最高のアリバイとなる。
警察官の手が、俺の背中をさすった。その掌の温かさに安心感を覚え——俺は戦慄した。
この手は、市民を守るための手だ。
数分前に大量殺戮を行った男の背中を、そうとは知らずに案じているのだ。
「そうか、怖かったな。もう大丈夫だ」
警察官の声色が、少しだけ柔らかくなった。
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で張り詰めていた糸が、プツリと切れたような感覚があった。
——大丈夫。そうだ、大丈夫なんだ……!
彼らは俺を疑っていない。俺を「捕獲」しに来たのではなく、「保護」しに来たのだ。
俺は、この惨劇における加害者ではなく、運良く生き残った哀れな被害者の一人として認定されたのだ。
……いや、事実俺は被害者だ、魔法なんてあるわけが無いんだから。きっと、ガスか何かが噴出したに違いない。そうじゃなきゃ、おかしいだろ——!
「立てるか? こっちへ」
脇を抱えられ、俺は立ち上がらせられた。
足に力が入らずよろめく俺を、警察官は屈強な腕で支えてくれる。一歩、足を踏み出す。
ジャリ、と何かが靴底で鳴った。
砕けた俺の眼鏡がそこにあった。それを咄嗟に拾い上げる。
壊れた眼鏡を安心毛布のように俺は下を見ないようにした。
……ろくに見えないけれど、見ないようにした。
誘導されるままに歩き出すと、周囲の空気が少しずつ変わっていくのが分かった。
血と死臭が漂う中心部から、消毒液と排気ガスの匂いがする外縁部へ。
途中、何度か担架とすれ違った。
白い布がかけられたものと、そうでないもの。
その横を通り過ぎるたびに、俺の心臓は締め付けられるような痛みを訴えたが、俺はそれを「恐怖による動悸」というラベルに貼り替えて処理した。
「生存者、一名保護! テントへ誘導します!」
警察官が無線に向かって叫ぶ。
その報告が、俺の無実を公的に確定させる認可証のように響いた。交差点の端、歩道の広くなった場所に、即席の救護テントのようなものが設営され始めていた。
パイロンと黄色いテープで区切られたそのエリアは、地獄と日常を隔てる聖域だった。
「ここに座って。すぐに毛布を持ってくるから」
パイプ椅子に座らされ、俺は脱力した。
周囲には、俺と同じように「選別」を生き残った人々が数人、青白い顔で座り込んでいる。
彼らは一様に虚空を見つめ、あるいは顔を覆って泣き、あるいは携帯電話で家族に震える声で連絡を取っている。
俺もまた、その風景の一部として同化していた。
すぐに、オレンジ色の服を着た救急隊員がやってきて、俺の肩に灰色の毛布をかけた。
真夏の炎天下だ。じっとりとした湿気と熱気が充満しているはずなのに、毛布をかけられた瞬間、俺は自分が激しく悪寒を感じていたことに気づいた。
歯の根が合わない震えは、演技ではなくなっていた。
毛布の感触に包まれながら、俺は両手で水の入ったペットボトルを受け取った。
「落ち着いて、少しずつ飲んでくださいね」
優しげな女性の声。
俺は「あ、ありがとうございます」と蚊の鳴くような声で礼を言い、ペットボトルのキャップを開けようとした。
だが、指が震えてうまく力が入らない。
もどかしさと情けなさで、視界がまた滲む。
俺は守られている。
警察に、消防に、そして社会というシステムに。
俺が破壊したはずのシステムが、今、全力で俺をケアしようとしている。この皮肉。この滑稽さ。
喉元まで出かかった乾いた笑いを、俺はペットボトルの冷たい水と一緒に無理やり流し込んだ。
水は、味がしなかった。
ただ、冷たさだけが食道を通って胃に落ちていく。
その冷覚だけが俺がまだ生きているという唯一の実感だった。
ふと、テントの隙間から、黄色い規制線の向こう側が見えた。
ぼやけた視界の中で、無数の赤色灯が、まるでディスコの照明のように狂ったリズムで明滅している。
——その光の渦の向こうには、まだ数百の物言わぬ「物体」が転がっているはずだ。
俺が言葉一つで作り出してまった、静寂の世界。
俺は毛布を頭からかぶり、視界を遮断した。
暗闇の中で、俺は自分自身に言い聞かせる。
——俺は被害者だ。
突然の災害に巻き込まれた、不運な市民だ。
何も知らない。何もしていない……ッ!
ただ、眼鏡を壊されて、怖くて震えているだけの、善良な一般人だ!
そう思わなければ、この先、一秒たりとも息をしていられない気がした。俺はただ……いや、違う、ちがうんだ……!
毛布の中で膝を抱え、俺は幼子のように丸まり、外部からの情報をすべてシャットアウトして、「保護された被害者」という殻に閉じこもった。
——
————
————————
警察での事情聴取と、病院での簡易検査——と称した精神状態のチェック——を終え、俺が解放されたのは日付が変わる頃だった。
タクシーで自宅のアパートに帰り着き、鍵を閉め、チェーンロックをかけ、さらにドアノブが回らないことを二度確認して、ようやく俺は靴を脱いだ。
そのまま服も着替えず、泥のように眠った。
夢は見なかった。あるいは、見ていたとしても脳が記憶することを拒否したのかもしれない。
翌日目が覚めると、世界は一変していた。
テレビをつければ、どこのチャンネルもあのスクランブル交差点の空撮映像を流している。
ネットを開けば、TLは憶測と恐怖と、被害者への哀悼、そして犯人探しで埋め尽くされている。
「未曾有のテロ」「謎の集団突然死」「未知のウイルスの可能性」
踊る見出しはどれもセンセーショナルで現実感を欠いていた。
——事実はもっと現実味がない厄災だと、俺だけが知っている。
……いやちがう、あれはぐうぜんだ。俺はただ叫んだだけで、なにか、なにか災害でも起きて……それで……!
俺はすぐにテレビを消し、スマホの電源も落とした。
外部からの情報を遮断し、カーテンを閉め切った薄暗い部屋に引き籠る。それが、今の俺に許された唯一の防衛手段だった。
俺は「あの事件の、奇跡的な生存者の一人」として処理されていた。眼鏡を壊され、パニックで座り込んでいた、可哀想なサラリーマン。それが世間における俺の役回りだ。
職場には心身の不調を理由に休暇を申し入れた。直属の上司——あの課長の後任——との電話は、過剰なほどに慎重で、気遣いに満ちていた。
『そうか……堀田くん、あのニュースは私も見たよ……大変だったね。本当に、無事でよかった』
『はい……どうも』
『会社の方は気にしなくていいから。心身ともに落ち着くまで、しばらく休んでくれ。特別休暇扱いにするように上に掛け合っておいたから』
その声色は、まるで重篤な病人を労るような、あるいは腫れ物に触れるような響きを含んでいた。
「生き残った」というだけで、俺は聖域に置かれたのだ。
通話を終え、俺はスマホを放り投げると、ソファに深く沈み込んだ。天井を見上げ、小さく息を吐く。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
もしも、だ。
もしも、あの理不尽の塊のような前任の課長が生きていたら、こんな対応はありえなかっただろう。
『生きてるならさっさと出社しろ』
『事件? 関係ないだろ、お前が死んだわけじゃないんだから』
『甘えるな、これだからゆとりは!』
そんな罵倒と共に、翌日からの出社を強制されたに違いない。
だが、彼はもういない。不摂生が祟った急性心不全によって、この世を去ったのだから。
そこまで思考が至り、俺の背筋に冷たいものが走った。
自嘲の笑みは一瞬で凍りつき、代わりにどす黒い不安が胃の腑で暴れ始める。
す
——課長の死。
そして、交差点での大量死。
二つの死には、共通点がある。
どちらも俺が、ゲームの呪文を唱えた直後に起きたということだ。どちらか一つなら偶然でも……いや。
「……ありえない。ありえないありえない……!」
薄暗い部屋で、俺は独りごちた。
そんな馬鹿な話があるものか。
ただの偶然だ。確率の悪戯だ。
俺が「
因果関係が逆なのだ。
そうに決まっている。そうでなくてはならない。
もしそうでなければ、俺は……俺という人間は……。
指先が震え始めた。
膝の上に置いた手が、勝手に痙攣している。
俺はリビングのテーブルに目を向けた。
そこには、先ほど水を飲むために使ったガラスのコップが置かれている。中には半分ほど、生ぬるくなった水が残っていた。
透明な液体——何の変哲もない、ただの水だ。
俺はおもむろに立ち上がり、ふらつく足取りでテーブルの前まで歩いた。
椅子を引き、座る。目の前にはコップ。
水面が、俺の動悸に合わせて微かに揺れている。
試さなければならない。
この恐怖を払拭するために。
「自分は魔法使いなどではない」「あれは単なる不幸な事故だった」という確信を得るために。
俺は何の力も持たない、ただの無力なサラリーマンであることを証明しなければならない。
実験だ。俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
もし、何も起きなければ——それが一番のハッピーエンドだ。俺は晴れて「ただの偶然」という免罪符を手に入れ、心安らかに引き籠もり生活を送れる。
逆に、もし何かが起きてしまったら?
……考えるな。起きるわけがない。
物理法則が、そんな非科学的な現象を許すはずがないのだから。俺は深呼吸をした。
選ぶべき言葉は、慎重に吟味しなければならない。
「
かといって、「
もっと、静かで、変化が分かりやすく、かつ殺傷能力が低いもの。物質的な変化を目視できるもの。
……氷。そうだ、氷結魔法だ。
下級呪文なら、精々が「少し冷える」とか「霜が降りる」程度だろう。コップの水が少し冷たくなるくらいなら、被害はない。
何より、水が凍れば、視覚的にすぐに分かる。
俺はコップの水面を凝視した。
心臓の音がうるさい。冷や汗が頬を伝う。
馬鹿げている。いい大人が、コップに向かってゲームの呪文を唱えようとしているなんて。
だが、俺の目は笑っていなかった。
これは、俺の正気を保つための儀式だ。
俺が無罪であることを、世界に対してではなく、俺自身に対して証明するための裁判だ。
「……ふぅ」
息を整える。何も起きるな。
頼むから、何も起きないでくれ。
俺の言葉はただの音波として拡散し、水面を僅かに揺らすだけで終わってくれ。
俺は祈るような気持ちで、唇を開いた。
声が震えないように、腹に力を入れる。
そして、コップの中の水に向かって、短く、しかし明瞭に、その言葉を放った。
「——
風が吹いた気がした。窓でも空いていたかな。
白い物が舞った。埃か何かだろう。
——パキ、パキ、ピキッ。
静まり返った部屋に、硬質で、それでいてどこか繊細な音が響き渡った。
それは、冬の朝に氷が張った水たまりを踏みしめた時の音に似ていた。あるいは、限界まで張り詰めた何かが、内側からの圧力に耐えきれず悲鳴を上げているような音。
俺の目の前で、信じがたい物理現象が完結していた。
コップの中の水が、ない。
いや、正確には「液体」としての水が消滅していた。
そこにあるのは、白く濁り、不透明な輝きを放つ固形物——氷だ。それも、冷蔵庫で時間をかけて作ったような透明な氷ではない。
瞬時に熱を奪われ、分子運動を強制的に停止させられたかのような、荒々しく尖った結晶の塊。
水が凍る際に体積が増えるという物理法則に則り、逃げ場を失った膨張エネルギーは、外殻であるガラスのコップへと牙を剥いた。
薄いガラスの表面には、蜘蛛の巣のような亀裂が無数に走り、今にも崩壊しそうな危うい均衡を保っている。
「…………あ」
俺の喉から、空気の抜けたような音が漏れた。
瞬きをする。一度、二度。幻覚ではない。
目の前のコップからは、目に見えるほどの白い冷気が立ち上り、真夏の室温と触れ合って陽炎のように揺らいでいる。
手が、勝手に動いた。
恐る恐る指先を伸ばし、亀裂の入ったガラスの表面に触れる。
——冷たい。指先が焼き切れるような、痛烈な冷たさ。
それは紛れもなく、現実の「氷」だった。
「う、そだ……」
椅子から転げ落ちるようにして、俺は後退った。
背中がソファにぶつかり、そのまま床にへたり込む。
ガタガタと、全身の震えが再始動した。今度の震えは、交差点での演技でもなければ、単なる恐怖でもない。
絶望だ。逃げ場のない、確定的な事実としての絶望が、俺の全身を蝕んでいく。
魔法だ。
本当に、魔法だったんだ。
俺が口にした「
手品でもトリックでもない。超常現象だ。
俺は、魔法使いになってしまったのだ。
その事実が証明された瞬間に、今まで必死に目を背けてきた「仮説」が、揺るぎない「真実」へと昇華されてしまった。
——じゃあ、あれは? あの課長は?
俺が「
偶然なんかじゃなかった。
俺が殺したんだ。
——じゃあ、あの交差点は?
俺が「
テロでも、ガスでも、ウイルスでもない。
俺が……俺が、殺したんだ。
「あ……ああ……!!」
自分の両手を見る。
震える、何の変哲もない、サラリーマンの手。
だが、今の俺には、その手が鮮血で真っ赤に染まっているように見えた。
数百人分の命を奪った、大量殺人鬼の手。
歴史上のどんな独裁者や凶悪犯よりももっと手軽に、もっと理不尽に、言葉一つで人の命を消し飛ばすことができる歩く災厄。
それが、俺だ。
胃液がせり上がり、俺は床に手をついてえずいた。
何も出ない。ただ、酸っぱい味が口の中に広がるだけだ。
吐き気と目眩の中で、俺の脳裏には、あの交差点の光景がフラッシュバックしていた。
物言わぬ死体。
踏み潰されたメガネ。
そして、生き残った人々の悲痛な叫び声。
あれら全てを引き起こした元凶が、ここにいる。この安アパートの一室で、のうのうと水を飲もうとしていた。
(自首……しなきゃ)
真っ先に浮かんだのは、人として当たり前の倫理観だった。
警察に行くんだ。全てを話すんだ。
「私がやりました。魔法で殺しました」と。
……だが、誰が信じる?
誰が、「はいそうですか」と納得して手錠をかける?
精神鑑定に回されて終わりだ。あるいは、この力を証明してみせろと言われるか。
署内で「
殺処分か、あるいはモルモットとして一生どこかの研究施設に閉じ込められるか。あるいは、その場で射殺か。
「嫌だ……」
本音が漏れた。怖い。
死ぬのも、捕まるのも、実験台にされるのも怖い。
俺はただの、平凡な生活を望む小市民でいたかっただけなのに、なんでこんなことになった。
神様がいるなら教えてくれ。俺が何をした。
ただ、ゲームが好きで、ちょっとストレス解消に呪文を呟く癖があっただけじゃないか。
——パキッ。
再び音がして、俺はビクリと肩を跳ねさせた。
テーブルの上で、ついに限界を迎えたコップが砕け散っていた。
氷塊はその形を保ったまま、ガラスの破片を巻き込んでテーブルの上に鎮座している。
その白く冷たい塊は、まるで俺への宣告のように見えた。
——お前の日常は、もう砕け散ったんだよ、と。
俺は膝を抱え、部屋の隅へと這っていった。
コップから、テーブルから、そして自分自身から逃げるように壁に背中を預け、ガタガタと震えながら俺は口を堅く閉ざした。
喋ってはいけない。
言葉を発してはいけない。
俺の口は、もはやコミュニケーションのための器官ではない。
核ミサイルの発射スイッチそのものだ。
うっかり「死ね」なんて呟けば、本当に誰かが死ぬ。
「消えろ」と言えば、消滅するかもしれない。
「燃えろ」と言えば、火事になるかもしれない。
俺は、自分の口を手で覆った。
強く、強く押し付ける。呼吸ができなくなるほどに。
涙が溢れてくる。孤独だった。
世界中に七十億の人間がいる中で、たった一人、異質の存在になってしまった孤独。
誰にも相談できない。誰にも分かってもらえない。
この恐怖と罪悪感を、一人で抱え込んで生きていくしかない。
部屋の空調が、ブーンと低い音を立てている。
外からは、遠く車の走る音が聞こえる。
世界はいつも通り回っている。
俺というバグを抱え込んだまま、何事もなかったかのように。
私なら『お、俺は悪くねぇ!俺は悪くねぇ!』ってなります