【完結】渋谷の中心でマハムドバリオンを唱えた馬鹿者 作:双子座流星群
ロンドンの空は、いつものように不機嫌な灰色に覆われていた。
現地時間、午後十二時一五分。
テムズ川の南岸にそびえ立つ巨大な観覧車『ロンドン・アイ』は、ランチタイムの観光客を満載し、ゆっくりと、優雅にその巨大な円を描いていた。
高さ135メートル。32個あるカプセル型のゴンドラからは、ウェストミンスター宮殿やビッグ・ベンを一望できる。
その日も、カプセルの中では世界中から集まったカップルや家族連れが、眼下に広がる歴史ある街並みに感嘆の声を上げていたはずだった。
——その瞬間までは。
ズズズズズ……ッ!!
最初は、地下鉄が通り過ぎるような低い地鳴りだった。
だが、それは瞬く間に暴力的な縦揺れへと変貌し、石畳の地面を突き上げた。
地震だ。
地震の少ないこの国において、それは住民の記憶にないほどの強烈な揺れだった。マグニチュードは不明だが、古いレンガ造りの建物から悲鳴のような音が上がり、街灯が激しくしなった。
「
「
サウス・バンクを歩いていた人々が悲鳴を上げ、地面に蹲る。
だが、本当の悪夢は揺れが収まった直後に訪れた。
——キィィィィィィン……ッ!!!
耳をつんざくような、金属が引き絞られる高音が響き渡った。
それは、巨大な鉄骨が限界を超えた負荷に耐えかねて上げる断末魔だった。
人々が恐る恐る顔を上げ、音の発生源——ロンドン・アイを見上げた時、そこには信じがたい光景があった。
この巨大な観覧車は、A字型の支柱によって片側から支えられる「片持ち式」の構造をしている。
その白い巨大な支柱の片方、地面に近い基部付近に、黒く、不吉な亀裂が走っていたのだ。
バキンッ!!!
乾いた破断音が、対岸の国会議事堂まで届くほど大きく響いた。
支柱の一部が弾け飛び、白い塗装片が雪のように舞い散る。
支えを失ったバランスが崩れる。
何千トンもの鉄とガラスの塊が、ゆっくりと、しかし確実に、テムズ川の方角へ向かって傾き始めた。
「
「
地上はパニックに陥った。
倒壊予想地点にいる人々が、我先にと逃げ惑う。
だが、もっと絶望的なのは、空中に取り残された数百人の乗客たちだ。
傾いたことにより、観覧車の回転は緊急停止。ゴンドラは不安定に揺れ、中では人々が窓に張り付いて絶叫しているのが、地上からでも見て取れた。
——ギギギ、ガガガ……。
残った支柱が、全重量を支えきれずに軋む。
傾斜角度は既に五度、六度と増している。
このまま倒れれば、カプセルは水面に叩きつけられるか、あるいは対岸の遊歩道や建物——
上空には、いち早く事態を察知したニュースヘリが旋回し、その絶望的な光景を生中継し始めていた。
この超重量級の崩壊を止める手立てなど、現代のレスキュー隊は持ち合わせていない。
——物理法則が、無慈悲に死へのカウントダウンを刻んでいた。
※※※
日本時間、午後九時過ぎ。
だが、ここケニア上空は、午後三時の強烈な日差しが降り注ぐ灼熱の世界だった。
眼下には、見渡す限りのサバンナ。
乾いた大地を、無数の黒い点が川のように移動していく。ヌーの大移動だ。その群れを狙って、ライオンやチーターが草陰に潜んでいるのが、俺の
「うわあ……すごい。これ、CGじゃないんですよね?」
「当たり前だろ。本物の大自然だよ」
俺は鵺の背であぐらをかきながら、膝の上に乗せた玉犬・黒の頭を撫でてやった。
本来は勇ましい式神のはずだが、こいつらは召喚されるとすぐに甘えてくる。黒い毛並みは太陽の熱を吸収してポカポカと温かい。
隣の相田もまた、玉犬・白を抱き枕のように抱え込み、そのふかふかの腹に顔を埋めながら眼下を覗き込んでいた。
「いやあ、ナショジオだー。リアル・ナショナルジオグラフィックですよこれ!」
「悠長なこと言ってるな。……まあ、たまにはこういうのも悪くないか」
仕事終わりの疲れた体に、アフリカの雄大な景色とモフモフの感触が沁みる。
今日は未開拓の空港をいくつか「場所覚え」して回る予定だったが、あまりの絶景につい寄り道をしてしまったのだ。
鵺は安定して滑空し、防護魔法のおかげで風も埃も気にならない。まさに空飛ぶリビングだ。
このまま日が沈むまで、ボーッと動物たちを眺めていようか。
そんな平和な思考が脳裏をよぎった、その時だった。
——ビーッ! ビーッ! ビーッ!
相田の懐から、鼓膜を突き刺すような鋭い電子音が鳴り響いた。
それは、ただの通知音ではない。災害レベル「高」、即時対応が必要な事態を知らせる特別なアラートだ。
相田の顔から、観光客の緩みがあっという間に消え失せる。
彼は玉犬・白を膝から下ろし、素早くタブレットを取り出した。
「緊急事態です、堀田さん」
「今度は何事だ、場所は!?」
「ロンドンです、現地時間正午過ぎ、大規模な地震が発生しました、そして……ッ」
相田が息を呑み、画面を俺に向けた。
「イギリスで地震? 珍しいな……っ!?」
そこには、ニュース速報のライブ映像が映し出されていた。
傾いた巨大な観覧車。悲鳴を上げて逃げ惑う人々。そして、今にも千切れそうな支柱のクローズアップ。
「『ロンドン・アイ』の支柱が破損! 傾斜が始まっています! 倒壊まで、おそらく数分も持ちません!」
「……観覧車、だと!?」
俺は背筋が凍りついた。
あれが倒れれば、乗客は全滅だ。それどころか、倒れた先にある建物や人々も巻き込む。被害者数は四〇〇人どころじゃない。千人単位の大惨事になる。
「クソッ、よりによってデカ物かよ……! いくぞ!」
俺は玉犬・黒を抱き下ろし、即座に杖を構えた。
リゾート気分は強制終了だ。
——パシッ!!
空気が弾ける破裂音と共に、サバンナの熱気は一瞬にしてロンドンの冷たく湿った曇り空へと切り替わった。
転移先は、かつて「場所覚え」のために訪れたビッグ・ベンの時計塔上空。
眼下にはテムズ川が濁った水面を晒し、その向こう岸で——白い巨人が、断末魔の悲鳴を上げていた。
「うわ……ッ! これは……!」
鵺の背に残された相田が、眼前の光景に絶句する。
映像で見るのと、生で見るのとでは迫力が違う。
——高さ135メートル、重量数千トン。
その超巨大構造物が、本来あるべき垂直のラインから異様な角度で傾いている。
——ギギギィィィ……ンッ!
鋼鉄がねじ切れるような音が、ここ時計塔の上空まで風に乗って聞こえてきた。
「相田、鵺はお前に預ける! 上空から状況を見ててくれ!」
「了解です! ご武運を!」
俺は即座に杖を振り、自分にかけていた『目くらまし術』を解除した。透明化が解け、黒いローブを纏った姿が灰色の空に浮かび上がる。
俺の体は黒い霧へと変化し、弾丸のような速度でテムズ川を横断した。目指すは、悲鳴を上げているロンドン・アイの基部。
地上では、逃げ惑う群衆の中に、空を見上げて指差す者たちが現れ始めていた。黒い煙の尾を引きながら、一直線に災厄の中心へと突っ込んでいく人影。
それは、世界中で報道されている「あの姿」だ。
「
「
絶望に染まっていた人々の顔に、驚愕と、そして微かな希望の色が灯る。俺はその視線を肌で感じながら、傾きつつある観覧車の支柱へと急降下した。
近くで見ると、事態はさらに深刻だった。
A字型の支柱のうち、川側の脚に巨大な亀裂が走り、一部は完全に破断して中空に浮いている。
残った陸側の脚一本で、全体の重量を支えている状態だ。
だが、その残った脚も限界だ。付け根のコンクリートがひび割れ、ボルトが弾け飛ぶ音が連続して響いている。
——デカすぎる。これを支え切れるのか?
俺は空中で実体化し、杖を構えた。
数千トンの質量。重力という名の絶対的な敵。
ハリー・ポッターの『
いや、生半可な魔法では、俺ごと押し潰されるだけだ。
——ならば、力技だ。
質量には質量を。破壊には再生を。
俺は折れかけた支柱の真横にホバリングし、杖を両手で握りしめた。
イメージするのは、巻き戻しのように元の形に戻っていくロンドン・アイ。
「——
杖先から眩い光が放たれ、破断した鉄骨に絡みつく。
グググ……ッ! バキンッ!!
光の鎖が鉄骨を引き寄せ、無理やり繋ぎ止めようとする。
だが、観覧車本体の重みと傾こうとする慣性エネルギーが強すぎる。
繋いだ端から、またメキメキと音を立てて引き剥がされていく。
「くっ、修復が追いつかないか……!」
物理的な負荷が、魔法による修復速度を上回っている。
このままでは、あと数十秒で完全に折れる。
杖を持つ手が、微かに震えていた。
『
俺はすぐさま戦術を切り替える。時間を稼ぐんだ。
「——
杖先から放たれた波動が、巨大な鉄骨を包み込む。
ギィィィィン……。
金属の軋む音が、一瞬だけ低くなる。落下速度が緩んだ。
だが、止まらない。数千トンの慣性エネルギーは、空気の壁を押し潰すようにして、じわりじわりと傾きを増していく。
「——
さらに重ねがけする。見えない障壁を何層にも展開し、倒壊のベクトルに抵抗する。
それでも、観覧車は止まらない。
まるで巨大な象が、蜘蛛の巣を払いのけるように、俺の魔法を食い破っていく。
クソッ、これが質量の暴力か……!
向こうから汲み上げられるMPは無限だ。魔力切れの心配はない。
だが、俺という「
一度に放出できる魔力量が、この巨大構造物を支えるのに必要な「物理的エネルギー」に追いついていないのだ。
もしこれが『
——ギギギギギッ!!!
悲鳴のような音が大きくなる。
観覧車のゴンドラの中で、人々が泣き叫び、窓を叩いているのが見える。
彼らの恐怖が、俺の肌を突き刺す。
地上では、固唾を呑んで見守っていた群衆の間から、悲痛な叫びが漏れ始めた。
「
「
「
最初は小さな呟きだった。
だが、それは瞬く間に波紋のように広がり、テムズ川の対岸まで響く大合唱となった。
「「「「Wizard! Wizard! Wizard!」」」」」
その声は、風に乗って上空の俺の耳にも届いた。
応援されている。あの四〇〇人を殺した大量殺人鬼が。
自分の保身のために蘇生魔法を使う事すら躊躇った卑怯者が。
今、何千人もの人々から、希望を託されている。
「……ッ!」
胸が熱くなるのと同時に、強烈な自己嫌悪が込み上げてくる。
俺にそんな資格はない。俺はヒーローじゃない。ただの、償いをするためにここにいる罪人だ。
——だが、だからこそ。
ここで諦めるわけにはいかないんだ。
過去の罪は消せない。でも、今、目の前にある命を見殺しにしたら、俺は本当に、救いようのないクズに成り下がる。
……考えろ。方法はあるはずだ。俺は必死に脳を回転させる。
ハリー・ポッター系の魔法では、出力が足りない。物理法則への干渉力が弱すぎる。
ビキッ、ピキピキ……。
俺が握りしめているAmazonで買った二千五百円のレプリカ杖と、俺自身の「魔法使い」としての出力限界だ。
杖の先端に亀裂が走り、焦げ臭い匂いが漂い始める。
無理もない。数千トンの鉄塊が重力に従って崩落しようとするエネルギーを、たかだか三十センチの樹脂の棒切れを通してねじ伏せようとしているのだ。
蛇口全開の水流を、ストローで受け止めようとしているようなものだ。溢れ出した魔力がスパークし、バチバチと空気を焦がす。
「くっ……おおおおおッ!!」
俺は声を張り上げ、必死に『
傾斜角は既に十五度を超えた。ゴンドラは激しく揺れ、悲鳴すら聞こえなくなってきた。恐怖で声も出ないのだろう。
下で支えている一本の脚も、コンクリートの基部から悲鳴を上げている。あと僅かで、あれは限界点を迎える。
——どうする。
——どうすればいい。
脳内データベースを高速検索する。
『
『
『
ハリー・ポッターの魔法は、あまりにも
物理法則をある程度尊重し、その枠組みの中で奇跡を起こす体系だ。だからこそ、圧倒的な質量の暴力の前では、どうしても
地上からの声援が、鼓膜を叩く。
「
「
「
信じている。
その言葉が、熱い鉛のように胸に溶け落ちる。
彼らは信じているのだ。「贖罪の魔法使い」という、メディアとネットが作り上げた虚像の英雄を。
黒いローブを翻し、杖一本でどんな奇跡も起こしてみせる、現代の救世主を。
その中身が、ただの罪悪感に塗れた大量殺人犯の社畜だなんて知らずに。
俺は奥歯を噛み締めた。
……ああ、そうだよ。俺は偽物だ。ハリボテだ。
だが、今この瞬間、そのハリボテの看板だけが、数千人の命を繋ぐ唯一の希望なのだ。
ならば、演じきれ。
化け物だろうが、異端だろうが、結果として彼らを救えるなら、手段など選んでいる場合じゃない。
俺にはあるじゃないか。
理性的でスマートな杖の魔法とは対極にある、理不尽で、暴力的で、そして最強の
だが、それを使うことのリスクは計り知れない。
あれは、見た目からして「正義の味方」ではない。
禍々しく、恐ろしく、神々しくすらある「異界の怪物」だ。
あんなものをロンドンのど真ん中、衆人環視の中で呼び出せば、パニックになるのは火を見るより明らかだ。
「魔法使いが本性を現した」
「悪魔を召喚してロンドンを破壊する気だ」
そう思われても仕方がない。
これまで積み上げてきた「贖罪」のイメージが、一瞬で崩壊するかもしれない。
……それでも。
目の前で観覧車が倒れて、千人が死ぬよりはマシだ。
俺が世界中から石を投げられることになろうとも、ここで見殺しにする罪の重さに比べれば、そんなものは羽根のように軽い。
「……信じるぞ」
俺は小さく呟いた。
自分を、ではない。ここまで俺が積み上げてきた「実績」と、それを見てきた人々の「信頼」を。
俺が怪物を従えたとしても、「あいつなら大丈夫だ」と思ってくれるはずだと、厚かましくも信じるしかない。
俺は杖を握りしめたまま、右手を大きく広げた。
意識のチャンネルを切り替える。
ホグワーツの教室から、呪霊が跋扈する残酷な戦場へ。
スマートな魔法使いから、泥臭い呪術師へ。
黒いローブが、テムズ川から吹き上げる強風にバタバタと煽られる。俺は空中で姿勢を低くし、右腕の内側に左の拳を強く押し当てた。
その独特の構え。
影を触媒に命を懸けて最強を喚び出す、本来なら自爆覚悟の儀式。
——行くぞ。
俺の全身から、魔力が噴き出す。
それは杖先から放たれる整えられた光ではない。
もっとドス黒く、粘着質で、重苦しい「呪力」に近いエネルギーの奔流。
俺の足元——空中であるにも関わらず、俺のローブが作り出した濃い影が、インクをぶちまけたように空間を侵食し始めた。
周囲の空気が、ピリリと凍りつく。
観覧車の軋み音さえも遠のくような、圧倒的なプレッシャー。
俺は、腹の底から、その呪言を紡ぎ出した。
「——
ゴオォォォォォォォ……ッ!!!
大気が振動した。
地震ではない。空間そのものが、異物の侵入に悲鳴を上げているのだ。俺の影が、三次元的に膨れ上がる。
空中に開いた底なしの奈落。そこから、白い巨体がゆっくりと、しかし確かな質量を持ってせり出してくる。
地上で見守っていた群衆の歓声が、ピタリと止んだ。
「
「
希望の眼差しが、恐怖の色に染まっていくのが肌で分かる。
無理もない。影から現れたのは、筋肉質で巨大な人型の怪物。
真っ白な肌。顔の側面から伸びる翼のような突起。目隠しのような意匠。
そして何より、その背後に浮かぶ、黄金に輝く巨大な法陣。
右手には、対魔の剣が握られている。
——
十種影法術、最強の式神。
かつて南米のジャングルで俺が調伏し、雪山で道を切り拓き、俺の目的意識を持った魔力によってサイズ感も威圧感も数倍に膨れ上がった「神将」が、曇天のロンドンに顕現した。
その全長は、優に十メートルを超えているだろうか。
空中に浮かぶその姿は、天使のようでもあり、地獄の処刑人のようでもある。
ザワッ……!
地上の空気が変わる。
警官たちが反射的に銃に手をかけるのが見えた。
逃げ出そうと背を向ける人々もいる。
——やはり、パニックになるか。だが、俺は視線を逸らさない。
俺は「魔法使い」として、堂々と振る舞わなければならない。この怪物が、俺の制御下にある「道具」であることを示さなければならない。
「行けッ!! 魔虚羅ァッ!!!」
俺は裂帛の気合いと共に、杖で——いや、指先で傾きゆくロンドン・アイを指し示した。
「その観覧車を、支えろッ!! 絶対に倒させるな!!」
魔虚羅が動いた。
空気を裂く音とともに、白い巨体がロンドン・アイの基部へと飛翔する。
その背中の法陣が、ガコンッ! と音を立てて回った。
「観覧車の倒壊」という事象への適応。
彼の筋肉が隆起し、退魔の剣を地面——陸側のコンクリート基部——に突き立てて支点とし、その左腕で傾きかけた巨大な鉄骨を受け止める体勢に入る。
——ガギィィィィィィィンッ!!!
凄まじい金属音が響き渡った。
魔虚羅の腕が、鉄骨に食い込む。
だが、止まらない。
魔虚羅自身もまた、その圧倒的な質量の前に、ジリジリと後退させられていく。
足場にしたコンクリートが砕け散り、彼自身が地面にめり込んでいく。
「……ッ、まだ足りないか!」
俺は歯噛みした。俺の過剰魔力によって強化されているとはいえ、今の魔虚羅のサイズは十メートル強。
対してロンドン・アイは高さ135メートル。
アリが巨木を支えようとしているようなものだ。いくら怪力無双でも、物理的なサイズ差がありすぎる。
魔虚羅の重さがどれほどかはわからないが、重量的にも足りないだろう。
支える面積が小さすぎて、鉄骨の方が魔虚羅の腕に負けてへし折れそうになっている。
——もっとデカく。アニメのあのシーンのように。
——もっと巨大な質量で、受け止めなければ。
だが、巨大化の魔法?
そんな都合のいいものが……ある。
ハリー・ポッターの世界には、物体を拡大させる魔法が存在する。通常は蜘蛛を少し大きくする程度だが、俺の無限MPと魔虚羅の異常な適応力が組み合わされば、常識を超えた巨大化が可能かもしれない。
賭けだ。失敗すれば、魔虚羅の肉体が崩壊することになるかもしれない。だが、それでもやるしかない。
俺は杖を魔虚羅に向け、全身全霊の魔力を込めた。
イメージするのは、アニメ版でみせた巨大化。特撮映画の怪獣。神話の巨人。テムズ川を跨ぐほどの圧倒的な巨神。
「——
ドォォォォォォォォンッ!!!
魔力が爆発したような光が、魔虚羅を包み込む。
光の中で、白いシルエットが膨張していく。
倍に。さらに倍に。
20メートル、30メートル……膨張速度が落ちる、まだ足りない!
——ガコンッッッ!!!
法陣が回る音が、雷鳴のように響いた。
魔虚羅は「巨大化魔法」に適応したのだ。肉体の崩壊を防ぎ、質量そのものを増大させるという、物理法則を無視した進化を受け入れた。
ガコンッ! ガコンッ!!
方陣の回る音とともに、光が更に膨れ上がる。
そして光が晴れた時。
そこに立っていたのは、見上げるほどの超巨神だった。
全長、およそ60メートル。ロンドン・アイの半分近くの高さにまで達したその姿は、もはや生物の範疇を超え、神話から抜け出してきた荒ぶる神そのものだった。
アニメ出みせたそれより一回り以上は大きい。
ズゥゥゥゥゥン……!
魔虚羅が足を下ろす。
俺の意図を察したのか、彼は陸地ではなく、隣接するテムズ川の中へとその巨体を沈めた。
高波が上がるかと思われたが、彼は静かに、まるで水面を滑るように着水した。
これも適応能力か、あるいは俺の無意識の制御か。
川の水が腰のあたりまで浸かる中、魔虚羅は川底の泥に足を食い込ませ、仁王立ちになった。
ゴンドラの中の乗客たちが、窓にへばりついてあんぐりと口を開けているのが見えた。
彼らの目の前には、巨大な白い顔がある。
目隠しの奥にあるであろう瞳と視線が合いそうな距離だ。
悲鳴すら上げられない。あまりのスケール感の違いに、脳の処理が追いついていないのだ。
魔虚羅が、ゆっくりと両腕を広げた。
濡れた白い腕が、傾きつつあるロンドン・アイのフレームを抱きかかえるようにして掴む。
——ギシシシシシッ……!
巨大な軋み音が響く。止まった。
六十メートルの巨体が、川底をアンカーにして踏ん張り、数千トンの鉄塊の落下を物理的に受け止めたのだ。
地上から、どよめきが起こる。
だが、まだだ。魔虚羅が支えている一点——その周辺の鉄骨が、悲鳴を上げているのを、俺は気付いていた。
「くっ……力が一点に集中しすぎている!」
支える力は十分だ。だが、ロンドン・アイの構造自体が、その一点での支持に耐えられない。
卵を指一本で支えようとすれば殻が割れるのと同じだ。
全体を包み込むように支えなければ、魔虚羅が掴んでいる部分からバキバキと崩壊していく。
——もう一体。
——いや、もう二体いれば、荷重を分散できる。
だが同じ式神は、魔虚羅は一体しか呼び出せない。
それが『十種影法術』のルールだ。
同じ式神を複数体同時展開することは不可能……なはずだ。
しかし。
俺は今、「魔法使い」でもある。
ハリー・ポッターの世界には、物質を複製する魔法がある。
『
だが、相手は魔虚羅だ。
あらゆる事象への適応能力を持つ、最強の式神。
もし、「複製魔法をかけられる」という事象にすら適応し、自らの術式を分割・複製して安定化させることができたら?
狂気の沙汰だ。失敗すれば、何が起こるかわからない。
首尾よく増やせたとして、コピーが制御不能になって暴れだすかもしれない。
だが……やるしかない。
ここで躊躇えば、観覧車は自重で崩壊する。
俺は杖を、川の中に立つ巨神に向けた。
イメージするのは、分裂する細胞。鏡合わせの虚像が実体化する奇跡。俺の全魔力を、この一言に込める。
「——
杖先から放たれたのは、黄金色の光線だった。
それが魔虚羅の背中に直撃する。途端に、その巨体が軽く痙攣し始め——方陣が回りだす。
——ガコンッ!!!
——ガコンッッ!!!
二度の法陣回転音が重なった。
一度目は「複製魔法」への適応。
二度目は「複数体存在」という矛盾への適応。
ズギュウウウウウウウンッ!!!
空間が歪み、魔虚羅の身体がブレたかと思うと、その左右から「にゅっ」と新たな白い巨体が分裂した。
一体、二体。
オリジナルを含めて、計三体の超大型魔虚羅が、テムズ川の中に並び立ったのだ。
「……ははっ、マジかよ」
俺自身、乾いた笑いが出た。
三体の魔虚羅。それぞれが六十メートル級。
神話の再現、あるいは特撮映画のクライマックスシーン。
ロンドン最後の日、と言うタイトルが付けられそうな光景だ。
三体の魔虚羅は、無言の連携を見せた。
一体目は中央下部を。
二体目は左側のフレームを。
三体目は右側のフレームを。
それぞれが最適なポイントを掴み、同時に力を込める。
——ヌゥゥゥンッ……!
重低音のような唸り声とともに、傾いていたロンドン・アイが、ゆっくりと、しかし確実に元の垂直な角度へと押し戻されていく。三点支持により荷重が分散され、鉄骨のきしみ音も収まっていく。
巨大な白い彫像が観覧車を支える柱になったかのように、三体の魔虚羅が巨大な彫像のようにロンドン・アイを支えている隙に、俺は黒い煙として上空へと舞い上がった。
目指すは、破断した支柱の接合部。
近くで見ると、その損傷は凄まじかった。
直径数メートルはある太い鋼鉄製のパイプが、飴細工のようにねじ切れ、引き千切られている。
だが、今は魔虚羅たちのおかげで、元の位置に無理やり押し戻され、切断面同士が歪みながらも合わさっている状態だ。
今しかない。俺は空中で実体化し、杖を亀裂に向けた。
先ほどは焼け石に水だった『
「——
杖先から放たれた光が、傷口を縫い合わせるように走る。
金属が溶け合い、再び結合していく。
歪んだボルトが元の形に戻り、ひび割れたコンクリートが塞がっていく。
完全な新品同様とはいかないかもしれない。内部の金属疲労までは消せないかもしれない。
だが、少なくとも乗客全員を降ろすまでの数時間は、絶対に崩れない強度を取り戻した。
「よし……!」
俺は額の汗を拭い、大きく息を吐いた。
修復完了。
俺はテムズ川を見下ろした。
三体の魔虚羅たちは、俺の作業が終わったことを察知したかのように、ゆっくりとその手をロンドン・アイから離した。
ギシッ……。わずかな揺れがあったものの、観覧車は自立している。もう傾かない。
魔虚羅たちが、無機質な顔をこちらに向けた。
そして、次の瞬間。彼らの足元の影が渦を巻き、巨大な身体がズルズルと沈んでいく。
水飛沫も立てず、音もなく。
まるで最初からそこには何もなかったかのように、三体の巨神はテムズ川の濁流と影の中へと消え失せた。
「……助かったよ、魔虚羅」
俺は自身の影に向けて礼を言った。
……あいつら、意外と空気が読めるな。
仕事が終わったらさっさと帰る。長居して無駄に恐怖を煽らない。まさにプロの仕事だ。
何か好物でもやりたい気分だがあいつは何を食うんだ?
静寂が戻った。
地上では、人々が呆然と立ち尽くしている。
あまりにも現実離れした光景——巨人の出現と消失、そして観覧車の修復——を目の当たりにして、脳の処理が追いついていないのだろう。
だが、数秒後。
誰かが歓声を上げたのを皮切りに、爆発的な喝采が巻き起こった。
「
「
「
拍手と口笛、そして感謝の言葉が嵐のように俺に向けられる。
嵐のような喝采を背中で受け止めながら、俺は再び黒い霧となって上空へと舞い上がった。
賞賛の声は甘美だ。
だが、それに酔いしれる資格は俺にはない。
これはプラスではない。マイナスをゼロに戻すための、終わりのない穴埋め作業だ。
上空で待機していた鵺の背中に降り立つと、透明化を維持していた相田が迎えてくれた。
「お疲れ様でした、堀田さん! いやあ、痺れましたよ! 超大型魔虚羅の三体分裂! あれはもう伝説級の映像です!」
「映像……?」
「バッチリ撮りましたよ。4K高画質で」
相田は悪びれもせずカメラを掲げてみせた。
こいつ、本当にブレないな。
「……まあいい。とりあえず次だ」
俺は眼下のロンドン市街を見下ろした。
ロンドン・アイの倒壊は防いだが、地震の爪痕は街のあちこちに残っている。
古いレンガ造りの建物が崩落している箇所、道路が陥没して立ち往生している車両、そして怪我をしてうずくまる人々。
「相田、被害状況の把握を頼む。優先順位の高い場所から回るぞ」
「了解です! GPSとニュース速報、SNSの救助要請タグをクロス検索します!」
鵺が翼を広げ、ロンドンの空を滑空する。
ここからは地味だが重要な「後始末」の時間だ。
崩れた壁の下敷きになった人を、玉犬に探させ、脱兎に掘り出させ、俺が『
陥没した道路に落ちた車を、『
火災が発生している建物には、上空から『
派手な巨神の出番はない。
だが、一つ一つの小さな救助活動こそが、この街の日常を取り戻すためのピースとなる。
「
「
助けられた人々の、震えるような感謝の声。
俺はそれに無言で頷き、すぐに次の現場へと飛ぶ。
名前も名乗らず、顔も見せず。
ただ黒いローブの裾だけを残して去っていく。
夕暮れが近づき、ロンドンの街に明かりが灯り始める頃。
主な救助活動を終えた俺たちは、ビッグ・ベンの時計台の上に戻ってきた。
「……終わったな」
俺は時計台の縁に腰掛け、復旧作業が進む街を見下ろした。
疲労はない。MPも減っていない。
だが、心の中に澱のように溜まっていた重たい何かが、少しだけ軽くなったような気がした。
「ええ、お見事でした。今日の活動で、貴方様の『贖罪の魔法使い』としての評価は不動のものになりましたよ」
相田がタブレットを見せながら言った。
画面には、「ロンドンの奇跡」「巨神を使役する魔法使い」といった見出しが躍っている。
「……評価なんてどうでもいいさ。ただ、死なせずに済んでよかった」
俺は杖を懐にしまった。
今日はもう帰ろう。明日はまた、満員電車に乗って会社に行かなければならないのだから。
「さあ、帰るぞ相田。晩飯は何か美味いもんでも食うか」
「賛成です! フィッシュ・アンド・チップスでも買って帰りますか?」
「うーん……ラーメンの気分だな。日本に帰ってもまだやってるかな?」
軽口を叩き合い、俺達はパシッと音を立ててロンドンから姿くらましする。
罪深き魔法使いと、その共犯者の長い一日は、こうして幕を閉じた。
ウルトラまこーら×3! 強い! 絶対に強い!
派手な救助話はこれが究極系となり、これ以上続けても蛇足感が強まって来るでしょう
なので実は綺麗に終わらせられる話エピソードをつくりました、第26話がこのお話の終着点となります
残り付録二つと本筋一つの合計三話、どうかお付き合いいただければ幸いです
……とはいえ、それで完全に終わりかと言われればこのネタは名残惜しく
本筋のストーリーではなく、IFやパラレルのような形で、コンセプトから外れた派手なエピソードをやるのも楽しそうだなとは思っていたり
ただ、やるとしても連続投稿は途絶えて予定は未定となります(具体的な内容がまだ思いついていないので)
両方やるかもしれないし、どっちも完成せずお蔵入りになるかもしれないという前提で……
-
深海から来る背ビレを持った圧倒的な“個”
-
空の果てから来る巨大円盤や三脚の何か