【完結】渋谷の中心でマハムドバリオンを唱えた馬鹿者   作:双子座流星群

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たとえ赦されなくとも、贖罪を続けられますか?


凡夫:呼吸を続けていい理由

 日曜日の昼下がり。

 平和な食卓に流れるテレビ番組『情報ライブ・サンデー・プライム』の画面には、およそ現実とは思えない映像が4K画質でリピートされていた。

 

 テムズ川の濁流の中に屹立する、三体の白い巨神。

 その巨大な腕が、傾いたロンドン・アイを「抱擁」するように支えている。ヘリからの空撮映像は、巨人の背後に浮かぶ黄金の法陣が、曇天のロンドンで不気味に、かつ神々しく輝く様を克明に捉えていた。

 

『——はい、もう一度ご覧ください。これが先日、ロンドンを壊滅の危機から救った、通称「テムズ川の巨神」の姿です』

 

 司会のベテラン男性アナウンサーが、指示棒でフリップを指しながら、興奮を抑えきれない様子で声を張る。

 

『目撃者の証言、そして複数の解析結果により、この巨神は贖罪の魔法使いが召喚した「式神」であると断定されました。そして今回、番組ではその驚きの元ネタについても徹底調査しました!』

 

 画面が切り替わり、人気漫画『呪術廻戦』の表紙と、そこに描かれた式神のイラストが表示される。

 

『専門家によりますと、これは作中に登場する最強の式神「八握剣異戒神将魔虚羅(やつかのつるぎいかいしんしょうまこら)」そのものであるとのことです。原作では「あらゆる事象に適応する」という無敵の能力を持っていますが、まさかこれが現実に出現し、観覧車の倒壊を止めるために「巨大化」し、「分裂」までして見せるとは、世界中のファンも度肝を抜かれた形です』

 

 スタジオでは、二十代の女性タレントが「信じられない……」と口に手を当てて驚き、隣に座るベテラン芸人が「これもう、俺らの知ってる物理法則、有給休暇取ってますよね?」と冗談を飛ばして笑いを誘う。

 

 だが、司会者がコメンテーターの席へと視線を振ると、空気は一変して重いものになった。

 

「さて、この件について。まず芸能界きってのサブカル通である大竹さん、いかがですか?」

 

 振られた中堅お笑い芸人の大竹が、真面目な顔で頷く。

 

「いや、映像のインパクトは凄いですけどね。でも、冷静に考えるとゾッとするんですよ。原作での魔虚羅って、基本的には『制御不能の暴君』なんです。それをあの魔法使いは、ロンドンのど真ん中で三体も同時に操って、しかも精密な修復作業までやってのけた。これはもう、ハリー・ポッターがどうとか言ってるレベルを超えて、一つの国家が保有する軍事力を一個人が凌駕しちゃってるってことですから」

 

「確かに、軍事的脅威という側面は否定できません。……この点、元閣僚の山際先生はどうご覧になりますか?」

 

 司会者が、硬い表情で座る初老の政治家に問いかける。

 

「極めて危ういバランスの上に成り立つ()()だと言わざるを得ませんな」

 

 山際が重々しく口を開く。

 

「現在、彼——魔法使いは世界各地で救済活動を行っており、国際社会の一部では『現代の聖者』として神格化され始めています。しかし、彼はどこにも所属していない。国家のコントロールも受けず、独自の倫理観で動いている。今回、ロンドンの象徴を守ったのは確かに素晴らしい功績ですが、もし彼の機嫌を損ねたら? もし彼が『適応能力を持つ巨神』をテロに使ったら? 既存の兵器では防げないのです。このまま英雄扱いして野放しにすることを、各国の情報機関は間違いなく恐怖していますよ」

 

「管理不可能な善意、ということですね……。一方で法律の専門家としてはどうでしょうか。佐々木弁護士」

 

 眼鏡をかけた鋭い知性そうな女性弁護士が、資料を手元に置いたまま答える。

 

「法的には、彼は依然として()()です。渋谷の事件以来、彼は一度も法の裁きの場に現れていない。彼が救った何千人の裏には、あの日、彼がマハムドバリオンを唱えた直後に亡くなった四〇〇人の遺族がいます。法治国家において、『人助けをしたから過去の殺人が免罪される』というロジックは成立しません。ですが、彼を逮捕しようにも、手錠をかける前に『姿くらまし』で逃げられ、抵抗すれば巨神が現れる。そもそも現行法には魔法や超能力による殺害を裁く法律がない。……実質的に、彼は地球上のあらゆる法律の『外側』に立ってしまっています」

 

「免罪符としての英雄活動……。そこに対する疑問も根強いですね」

 

 司会者がスタジオを見渡す。すると、これまで黙って映像を見つめていた大学教授のコメンテーターが、静かにマイクを手に取った。

 

「私が懸念しているのは、私たちの側の()()()です」

 

 その言葉に、スタジオが静まり返る。

 

「私たちは今、彼が起こす奇跡に慣れ始めています。南米の火災、雪山の救助、そして今回のロンドン。何かあれば魔法使いが助けてくれると、心のどこかで期待してしまっている。これは、人間が本来持っているはずの『自ら困難を解決する力』『法による統治の信頼』を、一人の超常的な存在に明け渡していることに他なりません。もしも、民衆が彼を『神』として崇め、司法よりも彼の意思を優先し始めた時……それは文明の退化を意味するのではないかと。魔虚羅という式神の見た目が禍々しいのも、ある種の警鐘のように私には思えるのです」

 

 テレビ画面の中では、三体の魔虚羅が霧のようにテムズ川へ消えていくシーンが再び流される。

 

 スタジオの議論は平行線のまま、次のニュース——「アトラス社の株価、ついに過去最高値を更新」「集英社の株価がストップ高」という、皮肉なほど現実的な話題へと移っていった。

 

 番組の最後に、司会者が視聴者からのメッセージを読み上げる。

 

『石川県、二十代女性。魔法使いさん、いつもありがとう。でも、たまには休んでくださいね。あんな大きな怪物を出すなんて、きっと体も心もボロボロなはず。私は貴方を信じて——』

 

 ——プツン。

 

 液晶画面が黒い沈黙に支配される。

 三体の巨神も、したり顔で語る専門家も、一瞬で消え失せた。

 

「あ……奈緒」

 

 リビングのソファで、食い入るようにワイドショーを見ていた父親が、リモコンを握る娘の姿を見て、気まずそうに声を漏らした。隣に座る母親も、持っていたお茶の湯呑みをテーブルに置き、視線を泳がせる。

 

 奈緒は、黒い画面に反射する自分の無表情な顔を見つめたまま、小さく、誰にも聞こえないほどのため息をついた。

 

「……お昼、もう食べた? まだなら何か作ろうか」

 

「あ、ああ、いや、いいんだ。お母さんと適当に済ませるから。……ごめんな、つい見てしまって」

 

 父親の言葉に、奈緒は首を横に振った。

 彼らには悪気がないことを知っている。世界中がこの()()に熱狂し、議論しているのだ。テレビをつければ流れてくる。避けようのない潮流だ。ただ、今の奈緒にとって、あの黒いローブの男が「英雄」として語られる一分一秒は、肺に冷たい砂を流し込まれるような苦痛でしかなかった。

 

「……いいよ。私、ちょっと部屋で休むね」

 

 奈緒は努めて平淡な声を出し、リビングを後にした。背後で両親が「……まだ、あの子には早かったかな」「そうね……」と囁き合う声が聞こえたが、振り返ることはしなかった。

 

 自室に入り、ドアを閉める。

 静寂が、重たい毛布のように奈緒を包み込んだ。

 彼女は着ていたパーカーも脱がず、ベッドに倒れ込むように寝そべった。枕の柔らかさが、強張っていた心をわずかに解かす。

 

 しばらく天井を見つめていたが、やがて彼女は手を伸ばし、ベッドサイドのサイドテーブルに置いてある写真立てを指先で引き寄せた。

 

 フォトフレームの中で、二人の女子高生が、夏の眩しい日差しを浴びて笑っている。

 一人は、今よりも少し幼い奈緒。

 そしてもう一人は、彼女の親友だった「結衣」だ。

 

 あの日。

 二人は、何ヶ月も前から計画を立てていた。

 田舎の退屈な夏休みを飛び出して、一度でいいから「テレビで見るあの交差点」に行ってみたい。慣れない手つきでスマホを使い、格安高速バスを予約し、お揃いのワンピースを買って。

 原宿でパンケーキを食べて、渋谷で写真を撮って。そんな、どこにでもある、けれど二人にとっては世界で一番輝いていたはずの夏休みの計画。

 

 ——渋谷のスクランブル交差点は、想像よりもずっと暑くて、人が多かった。

 

「すごいね、奈緒! 人がゴミみたいだよ!」

 

 結衣が笑いながら、カメラを構えた。

 青信号が灯り、人の波が動き出す。

 喧騒。熱気。広告の音楽。

 その全てが、ある一点で、プツリと途絶えた。

 

 誰かの、怒鳴るような声が聞こえた気がした。

 

 ——次の瞬間。

 結衣の顔から、全ての感情が抜け落ちた。

 

 糸が切れた、という表現すら生ぬるい。

 まるで、燃え盛っていたろうそくの火を、目に見えない巨大な指で不意に摘み取られたかのように。

 結衣の身体は、崩れ落ちるというより、そのまま「物」になって、アスファルトの上に横たわった。

 

「結衣……? ねえ、結衣……?」

 

 周りの人々も、次々と倒れていく。

 奈緒だけが、なぜか立っていた。

 震える手で結衣の肩を揺すっても、温かかったはずの肌は、信じられないほどの速さで生気を失っていく。返事はない。瞬きもしない。さっきまで「次はどこに行く?」と話していた結衣の未来が、その瞬間、一ミリの余韻もなく断ち切られた。

 

 パトカーのサイレン。救急隊の怒号。

 その中心で、蹲って震えていた、一人の男の後ろ姿を、奈緒は今でも覚えている。

 

 テレビの中では。

 あの男は今、ロンドンで巨神を呼び出し、何千人もの命を救った「聖者」として称賛されている。

 何万回「ありがとう」と言われ、何百万回「素晴らしい」と書き込まれ。

 

 でも。

 

「……返してよ」

 

 奈緒の指先が、写真の中の結衣の笑顔をなぞる。

 涙は出なかった。ただ、どろりとした暗い塊が、喉の奥に張り付いて離れない。

 

「どれだけ人を助けたって……あんたが殺した結衣は、もうどこにもいないんだよ……」

 

 世界を救う救世主。贖罪の魔法使い。

 人々は、彼が「過去の罪を乗り越えて戦っている」と感動的に語る。

 けれど、奈緒にとっての現実は、あの日、渋谷の交差点で止まったままだ。

 

 魔法なんていらなかった。

 奇跡なんて見たくなかった。

 ただ、結衣と一緒に、予定通りパンケーキを食べて、笑いながらバスで帰りたかった。

 

 奈緒は写真立てを胸に抱き、丸くなった。

 西日が差し込む部屋で、一人の少女の止まった時間が、冷たく静かに刻まれていた。

 

 

※※※

 

 

 ——運命は、どこまで彼女を追い詰めれば気が済むのだろうか。

 

 豪雨という名の暴力が、屋根を叩きつけていた。

 深夜、突然の地響きと共に訪れたのは、日常の完全な崩壊だった。近くの川が決壊し、泥を孕んだ濁流が住宅街を飲み込んだ。奈緒の一家が異変に気づいた時には、すでに玄関まで水が迫っていた。

 

——ゴシャアアアンッ!

 

 凄まじい衝撃音が階下で響く。どこからか流されてきた乗用車が、ベランダのガラスを粉砕してリビングに突っ込んだのだ。家全体が「嫌な音」を立てて震え、一階は瞬時に水没した。それどころか、土台を削られた家屋そのものが斜めにひしゃげ、二階部分すらも物理的に沈み始めていた。

 

「お父さん! これ、沈んでる! 家が壊れる!」

 

 奈緒は、泣き叫ぶ小学生の弟を抱きかかえ、両親と共に天窓から屋根へと這い出した。

 そこは、荒れ狂う水の中に取り残された孤島だった。

 視界を遮る豪雨。体温を奪う強風。暗闇の中で、隣の家が濁流に呑まれて崩れていく音が聞こえる。

 

「ヘリは……救助は!?」

 

 父が震える指でスマホを操作するが、返ってくる情報は冷酷だった。

 

『——周辺地域で猛烈な乱気流が発生。視界不良のため、自衛隊および警察のヘリは全機離陸を見合わせ。地上部隊も冠水により接近不能——』

 

「……嘘」

 

 奈緒は膝をついた。

 あの日。渋谷の交差点。

 結衣の命の火が不自然に消えた、あの日。

 なぜ自分だけが生き残ってしまったのか。なぜ自分だけが今も息をしているのか。

 その「答え」が、今、目の前にある地獄なのだと、奈緒の絶望した脳がささやいた。

 

(罰なんだ……。あの日私だけ生き残った罰がお父さんもお母さんも、陽太まで巻き込もうとしてるんだ)

 

 泥水に洗われる屋根の上で、奈緒は弟を強く抱きしめた。

 ごめんね。私のせいで、みんな死んじゃう。

 死の気配が、冷たい飛沫となって奈緒の頬を打つ。

 

 ——その時だった。

 

「……え?」

 

 弟の陽太が、豪雨の向こうを指差して声を上げた。

 奈緒が顔を上げると、そこには不気味なほど美しい光があった。

 

 荒れ狂う嵐の中、空を滑るように「それ」が駆けてくる。

 雨粒を弾き、銀色の光を放ちながら空中を疾走する、巨大な獣のシルエット。

 

 それは、一匹の犬だった。

 分厚い毛並み。垂れ下がった大きな耳。

 青白く輝くその姿は、この世のものとは思えないほど幻想的で。

 

「……()()()()()()()()?」

 

 父が呆然と呟く。

 銀色の巨犬は濁流の上を軽やかに跳ね、奈緒たちのいる今にも崩れそうな屋根の上に音もなく着地した。

 

 不思議なことが起きた。

 その犬がそこに立った瞬間、奈緒たちの周囲だけが暖かさに包まれた気がした。

 銀色の獣は怯える奈緒たちを威嚇するでもなく、ただ眠たげで愛嬌のある瞳でじっと奈緒を見つめ返した。

 その瞳は、まるで「見つけたぞ」と言っているかのようで。

 

 奈緒の胸に、かつてない温かな震えが走った。

 その銀色の光は、どうしてか狂おしく暖かく——それが何を由来しているのか、胸を貫く氷柱のように彼女に雄弁に語っていた。

 

「……どうして」

 

 奈緒が手を伸ばそうとした瞬間。

 銀色のセントバーナードは、天に向かって大きく首を逸らし、朗々と吠えた。

 

ウォォォォォォォォォォォンッ!!

 

 その遠吠えは、嵐の轟音を切り裂き、奈緒たちの内臓まで響き渡る。

 すると同時に、犬の姿はパッと銀色の霧となって霧散した。

 

 後に残されたのは、降りしきる雨と、死を待つ絶望——ではなかった。

 

「……姉ちゃん、あれ!!」

 

 陽太が指差す。

 霧が晴れた直後、奈緒たちの目の前の空間がバチバチと音を立てて()()()()

 漆黒の煙が渦を巻き、激しい雨を押し除けるようにして一人の男がそこに現れる。

 

 黒いローブ。

 濡れていない不思議な装束。

 フードを目深に被り、右手には先端の光る一本の杖。

 そして。フードの奥で、杖の光を浴びた眼鏡のレンズが鋭く、白く光っていた。

 

 奈緒は息を呑み、金縛りにあったようにその姿を凝視する。

 

 あの日。

 結衣が死んだ、あの日の中心にいたスーツの男。

 自分が最も憎み、最も拒絶し、そして今、最もこの場に似つかわしくない「救世主」。

 

 贖罪の魔法使いが、そこに降り立った。

 

 ――ズテンッ!!

 

うごっ!?

 

 漆黒の煙の中から現れた「英雄」は、あろうことか着地と同時に派手に足を滑らせた。

 瓦礫と泥に濡れた屋根の上で、彼は無様に四つん這いになり、必死の形相で雨樋に指をかけ、ずり落ちるのを食い止める。テレビで見せる神々しい姿とは程遠い、あまりに人間臭い、無様な醜態だった。

 

「ひっ、あ、あぶな……」

 

 情けない声を漏らしながら、彼はなんとか立ち上がる。雨を弾く漆黒のローブの隙間から覗く首筋には、冷たい雨とは明らかに質の違う、脂ぎった冷や汗が流れていた。

 彼は重心を低くし、強風に煽られながら、へっぴり腰で奈緒たちの元へと一歩ずつ近づいてくる。

 

「……はぁ、はぁ、……お待たせ、しました。……大丈夫、ですよ」

 

 男の声は、激しく震えていた。

 彼は四人の目の前までたどり着くと、膝に手をついて荒い息を吐く。眼鏡のレンズが激しい呼気で曇り、彼はそれを何度も拭おうとして、諦めたように杖を握り直した。

 

「今から、……山の上にある避難所へ……()()ます。……私が確認した限り、……取り残されているのは、あなたたちが、最後です」

 

 彼はそう告げるとまず奈緒の父親に、次に母親に自らの片腕を掴ませた。そして空いたもう一方の手を、奈緒に向かって震えながら差し出す。

 

「さあ、……私の腕を。……しっかり、掴まって……」

 

 ——パシィィンッ!!

 

 鋭い音が、豪雨の轟音を切り裂いた。

 奈緒は、差し出されたその手を、全力で叩き伏せた。

 

……え?

 

 男の口から、間抜けな声が漏れる。両親も「奈緒、何をして……」と絶句した。

 奈緒は男の目を見なかった。いや、見るのが怖かった。憎しみと、恐怖と、名前のない激痛が、心臓を直接握りつぶしているようだった。

 

 彼女は代わりに、腕の中に抱いていた幼い弟、陽太を男の胸へと押し付けた。

 

「……この子を、先に連れて行ってください。お父さんも、お母さんも。……私は、後でいい」

 

な、奈緒!? 何を言ってるの! 一緒に……」

 

「先に行って!!」

 

 奈緒は母親の叫びを裂帛の拒絶で遮った。彼女の肩は激しく震え、目からは雨よりも熱い雫が溢れ出していた。

 奈緒は男のローブの裾を掴み、その曇った眼鏡の奥にある瞳を、初めて真正面から射抜いた。

 

「あんたと……。二人きりで、話したいことがあるの」

 

 その瞬間、男の身体が目に見えて強張った。

 

 先ほどまでのへっぴり腰とは違う。彼は、自分が今まで犯してきたすべての過ちを、この豪雨の中で一気に突きつけられたかのように、血の気を失った顔で硬直した。

 

 そこには、世界を救う『贖罪の魔法使い』の姿などなかった。

 救いも、希望も、光もない。

 

 ただ、自分が築き上げた処刑台の階段を、被害者の目の前で、震えながら自ら登らされている――そんな逃げ場のない、哀れな罪人の姿だった。

 

「……な、……何を……」

 

「いいから、行って。……お願いだから」

 

 奈緒の声は、最後には掠れた懇願に変わっていた。

 男は陽太を抱きしめたまま、何度も口をパクパクと動かした。けれど、何一つとしてまともな言葉は紡げなかった。

 

 彼は、深い奈落に堕ちるかのような絶望的な視線を一度だけ奈緒に向け、それから、無理やり声を絞り出した。

 

「……わかり、ました。……すぐ、戻ります。……絶対に、戻りますから……」

 

 パシッ――。

 

 乾いた破裂音とともに、両親と陽太、そして男の姿が消えた。

 

 後に残されたのは、今にも崩落しそうな屋根の上。

 一人の少女。

 そして、彼女の周囲で荒れ狂う、音のない真っ黒な『過去』だけだった。

 

 ――ガガ、ギギィ……。

 

 足元の屋根が不吉な悲鳴を上げ、一段と深く沈み込む。

 奈緒は泥水に洗われる瓦の上で、思わず自嘲の笑みを漏らした。

 

(馬鹿みたい。本当に、私って馬鹿だ……)

 

 もし、あの男が怖気づいて逃げ出したら。

 彼唯一の汚点への怒りに耐えきれずこのまま避難所から戻ってこなかったら。

 奈緒はあと数分、早ければ数秒のうちに、家ごと濁流に呑まれて死ぬことになる。

 

 無駄死にだ。誰の役にも立たない、無意味で滑稽な、犬死に。

 でも、それでいい。もしそうなったら、奈緒は最期の瞬間に、思いきり叫んでやるつもりだった。

 

『ざまあみろ』

 

 あんたはやっぱり救世主なんかじゃない。ただの卑怯者だ。

 あの時、結衣を見殺しにしたのと同じように、今度は私を見殺しにしたんだ。

 

 ……そう罵倒しながら、結衣のもとへ行ける。

 二人で並んで、あの魔法使いがいかに偽物で、いかに情けない男かを、死ぬまで――いや、死んだ後もずっと語り合って笑ってやる。

 

 たった、それだけのため。

 彼に永遠に消えない『呪い』を上書きするためだけに、自分の命をチップにして賭けに出た。なんと愚かしく、なんと歪んだ復讐だろうか。

 

 

 ――だが、その「期待」は、空間の軋む音とともに裏切られた。

 

 バチバチ、と火花が散るような音がし、視界の端に漆黒の煙が沸き立つ。

 豪雨を割って、あの男が再び、奈緒の目の前に姿を現した。

 

「……はぁ、……はぁ、……戻り、ました……」

 

 男は、膝から崩れ落ちるように屋根に着地した。

 もはや、立っていることすら限界のようだった。杖を持つ手はガタガタと震え、雨に濡れたマスクの下で、歯の根が合わない音が聞こえてくる。

 

 男はゆっくりと顔を上げた。

 フードの奥、曇った眼鏡のさらに奥にある瞳が、奈緒を捉える。

 

 その瞳に宿っていたのは、恐怖でもなければ、英雄としての覚悟でもなかった。

 それは、自ら断頭台へと歩みを進め、処刑人に首を差し出す囚人のような、静かで、救いようのない絶望の色だった。

 

 逃げればよかったのに。

 戻ってこなければ、あんたは『素晴らしい救世主』のまま、どこか遠くで賞賛され続けていられたのに。

 

 男は奈緒の前に這い寄り、震える声で、絞り出すように言った。

 

「……お待たせ、しました。……さあ、……話しましょう。……何でも、聞きます。……私が……俺がやってしまったことを……全部……」

 

 その言葉は、濁流の音にかき消されそうなほど弱々しかったが、奈緒の鼓動を止めるには十分なほどの重みを持っていた。

 

 世界を救う魔法使い。

 その仮面を自ら剥ぎ取り、ただ一人の少女の裁きを受けるために。

 男は自ら地獄へと戻ってきたのだ。

 

 奈緒は少し驚いたように男をじっと見つめると。

 濡れて冷えきったはずの身体の奥から、沸々と沸騰するような怒りが噴き上がる。

 燃え上がる怒りが、憎悪に歪んだ彼女の口から堰を切ったように溢れだす。

 

「……なんで、あんなことしたのよ!

 

 濁流の咆哮さえも、奈緒の叫びをかき消すことはできなかった。

 

 奈緒は、目の前でうずくまる男を言葉の刃で切り裂いた。

 あの日。なぜ、あんな理不尽な死が振りまかれたのか。なぜ、結衣の未来は奪われ、自分の未来は残されたのか。そして――なぜ、今さらこんな『正義の味方』の真似事をしているのか。

 

「ねえ、答えてよ! 魔法を振りかざして! 漫画のキャラを顎でつかって! 世界中でちやほやされて……どんな気分!? いいご身分ね! 人殺しのくせに、救世主ぶって、それで罪が消えるとでも思ってるの!? あんたがやってるのは贖罪なんかじゃない、ただの自己満足よ!」

 

 もし、この言葉で彼が憤慨したら。逆上して自分を見捨て、この場から消え失せたら。

 あるいはまた「マハムドバリオン」や攻撃魔法が飛んでくるかもしれない。

 奈緒の命は目の前の男に握られている。それでも、言わなければならなかった。泥水を啜り、結衣の遺影に問いかけ続けてきた日々のすべてを、この男に叩きつけなければ気が済まなかった。

 

 男は反論しなかった。否定もしなかった。

 降りしきる雨の中、歯を食いしばり、奈緒の呪詛をすべて正面から受け止めていた。

 テレビで見る彼は、瓦礫を浮かせ、巨神を操る万能の存在だった。けれど、今そこにいるのは、言葉を浴びるたびに肩を震わせ、今にも泣き出しそうな、あまりにも矮小で、情けない、ただの()鹿()()だった。

 

 その時だった。

 バキィッ! という破壊音とともに、突風に煽られた巨大な家屋の木板が凶器となって奈緒に襲いかかった。

 避ける間もない。奈緒が目をつぶった瞬間――。

 

「……マハ(全体)ガル(疾風)ーラ(中級)ッ!!

 

 男が、それまでとは別人のような鋭い叫びとともに杖を振るった。

 爆発的な緑の暴風が巻き起こり、奈緒に激突するはずだった木板を紙屑のように一瞬で粉砕し、彼方へと吹き飛ばした。

 

 空を裂く圧倒的な破壊力。人智を超えたその力を見せつけながら、男は――けれど、どこまでも弱々しく、絶望的な表情で奈緒を見つめた。

 

「……分かって、います。……こんなことをしたって、俺が死なせた……殺してしまった命の代わりになんて、一ミリもならないことは」

 

 男の声が、雨音に混じって震える。

 

「でも、……こうでも、していなきゃ……誰かを助けていなきゃ、俺は……呼吸を続けられる自信がないんです。……俺は、自分が生きていてもいい理由を、……汚い方法で、必死に探しているだけの……卑怯者なんです……」

 

 だから、と男は言葉を繋いだ。

 

「俺に感謝なんて、……欠片も、しないでください。憎まれても、恨まれても、許されなくても構いません」

 

 男の手が、奈緒の冷え切った手を、壊れ物を扱うようにぎゅっと握った。

 

「……でも今は。どうか、生きてください」

 

 パチンッ――。

 

 乾いた音がした。

 一瞬、平衡感覚が消失する。

 

 次の瞬間、奈緒の肌を叩いていた冷たい雨が消えた。

 代わりに肺を満たしたのは、埃っぽく、湿った、大勢の人間が呼吸する空気。

 

 ――眩しい光に、思わず目を細めた。

 

 そこは、奈緒が幼い頃から何度も通った、町にある何の変哲もない公民館だった。板張りの床に敷かれたブルーシートの上で、近所の人たちや、共に避難してきた人々が肩を寄せ合っている。

 けれど、その光景は奈緒の知る「避難所」とは、決定的に何かが違っていた。

 

「……()()()?」

 

 陽太が不思議そうに声を漏らす。

 公民館にいるすべての人々が、その腕に真っ白な、ふわふわとしたウサギを抱いていた。何百、何千と溢れ出したその「脱兎」たちは、被災した人々の冷え切った身体にポムポムと寄り添い、生き物特有のじんわりとした熱を分け与えている。

 奈緒の足元にも、一匹のウサギがちょこんと座り、鼻をひくつかせながら彼女を見上げていた。

 

「奈緒! 奈緒!!」「お姉ちゃんっ!!」

 

 両親が、弟が駆け寄り、彼女の身体を抱きしめる。生きている。無事だ。家族の温もりに包まれながら、奈緒の視線は、ふらふらとした足取りで公民館の中央へと歩き出す黒い背中を追っていた。

 

 いつの間にか、男は奈緒の手を離していた。

 

「……あの、皆さん」

 

 男は、大勢の視線が集まる中、居心地が悪そうに少し身を縮めながら言った。

 

「もしかすると、……自分でも気づかない怪我をされている方や、……汚泥を飲んで、お腹を壊してしまう方がいるかもしれません。……だから、念のために」

 

 彼はそう言って、ボロボロになったハリー・ポッターのレプリカの杖を、高く、震える手で掲げた。

 先ほど奈緒を殺そうとした木板を粉砕した時のような、鋭い殺気はない。

 そこにあるのは、ただ、祈りにも似た切実な響き。

 

メシアライザー(全体完全快癒)ッ!!!

 

 ——カッ、と。

 公民館の古びた天井を突き抜けるような、プラチナ色の眩い光が溢れ出した。

 

 それは温かな春の陽光のようで、それでいて、不純なものをすべて洗い流す清流のような光だった。

 光が人々を通り抜けるたびに、あちこちから驚きの声が上がる。

 

「あ……腰の痛みが消えた……」

「擦り傷が、治ってる……?」

「身体が……すごく、軽い……」

 

 奈緒の全身からも、じっとりとまとわりついていた寒気が消え、代わりに身体の奥底から力が湧き上がってくるのを感じた。心臓の重苦しい動悸が鎮まり、恐怖で強張っていた筋肉が解けていく。

 

 奇跡だった。テレビで何度も流されていた、あの救世主(メシア)の奇跡。

 

 けれど、奈緒は見た。

 まばゆい光の中心で、誰からも感謝される資格などないと呟いたあの男が、さらに憔悴した顔で、今にも倒れそうになりながら、それでも必死に杖を握りしめている姿を。

 

 彼は英雄などではない。

 あの日、自分が奪ってしまった四〇〇人の幻影に追いかけられ、死ぬことすら許されずに、ただ狂ったように「善行」という名の刑罰を自分に課し続けている――。

 

 光が収まると同時に、男の姿は黒い霧となって、パッと掻き消えた。

 後には、真っ白なウサギたちと、命を拾った人々の安堵の声だけが残された。

 

 奈緒は、自分の足元で眠るように丸まったウサギを、そっと抱き上げた。

 ……温かい。あの情けない魔法使いが残した温もりが、冷え切った手のひらに、痛いほど伝わってきた。

 

 

 

 

 

 ――嵐が、嘘のように引いていく。

 

 雲の切れ間から差し込んだ朝焼けが、泥にまみれた町を照らし出した。遠くから聞こえるヘリのローター音と、公民館の前に到着した救助隊の怒号。現実が戻ってくると同時に、あれほど大勢いた真っ白なウサギたちは、朝日を避けるようにスッと影の中に溶けて消えていった。

 

「……よかった、本当に」

 

 周囲では、命を拾った喜びと安堵の声が爆発している。けれど、奈緒の両親は手放しで喜ぶ人々の中に混じることはなかった。二人は、じっと黙り込んだままの奈緒を――その心の中に渦巻く、言葉にならない葛藤を、複雑な面持ちで見守っていた。

 

 奈緒は、泥で汚れたパーカーの懐から、あの日からずっと手放さずにいた写真立てをそっと取り出した。

 

 フレームの中で笑う結衣。

 あの日、奪われた結衣。

 

 奈緒は、今さっき目の当たりにした光景を反芻する。

 巨大な木板を一瞬で粉砕した、あの恐ろしいまでの破壊の風。

 人々の傷と凍えた心を一瞬で包み込んだ、あの圧倒的に暖かな光。

 そして、空を駆けて自分たちを見つけ出し、無機質な魔法の世界で唯一、彼の心の一部を映し出したという、あの眠たげで優しい銀色のセントバーナード。

 

 テレビの中の「救世主」でも、ネットの中の「人殺し」でもない。

 目の前で震え、冷や汗を流し、Amazonで買った安物の杖を握りしめて、「自分が呼吸をしていい理由が、見つからない」と泣きそうに笑った、あの一人の情けない男の姿。

 

「……結衣」

 

 奈緒は、写真の中の親友に語りかける。

 

 ――やっぱり、許せないよ。

 

 家族を助けられたからって、自分の命を救われたからって、あの日あんたの命を奪った罪が消えるわけじゃない。あんたがいなくなった世界で、あの人がどれだけ奇跡を起こして回っても、私の時間は止まったままだから。

 

 でも。

 

「……あんな顔、()()()よ」

 

 奈緒の指先が、ガラス越しに結衣の頬をなぞる。

 

 あの日からずっと、彼女はあの男を「絶対的な悪」として憎むことで、自分の心を保ってきた。

 けれど、死神が自らの首に鎌を当てているかのようなあの男の絶望的な瞳を見てしまった今、もう純粋な憎しみだけを抱き続けることはできなかった。

 

 許すことは、決してないだろう。

 けれど、あの男が背負っている十字架の重さだけは。

 世界中の誰も知らない、あの男の()()という名の地獄の深さだけは、知れてしまった気がした。

 

 救助隊に促され、奈緒は両親と共に立ち上がった。

 足元にはもうウサギはいない。けれど、あの柔らかい熱の感触だけが、まだ掌に残っている。

 

 奈緒はもう一度だけ、男が消えた公民館の中央を見つめた。

 

 朝日が差し込む窓の外では、また新しい一日が始まろうとしている。

 彼女は写真立てをぎゅっと胸に抱きしめ、重い一歩を、現実の世界へと踏み出した。




本編が堀田くんの日常が壊れ、歩き出すまでの物語だとすれば
後日談は現実を突き付けられても歯を食いしばって耐えられるくらい立ち直るまでの物語です
この“渋谷事件被害者の親友と救助現場で遭遇する”というのは、後日談を作り始めた頃には決まってました
初期の償いに歩き出した頃の堀田くんなら、多分耐えられなかったと思います
逃げ出すか、あるいは自らにムドでも放つかはわかりませんが

渋谷で四〇〇人余りを殺してしまった堀田くんは相田によって贖罪へ歩き出すきっかけを貰い、英雄的活躍を経て賛否はあれど世間から認められる存在となり、そして一番向き合うべき存在の一人と向き合いました
これで私のやりたかった“本筋”は全て終わりですね、蛇足と言いつつ実質的に第二部と言える内容でしたが、ここからは本当に蛇足になってしまうでしょう、なので本筋は終わりです

……しかし、現代でただ一人の魔法使い、しかも魔虚羅つき、あまりにも美味しいネタです
なのでうまく仕上げられればIFかあるいは夢オチか、そんな感じで「VSシリーズ」をやっていきたいですね!
うまく仕上げられれば! お蔵入りしたらごめんなさい!

それまでは一旦さようならです、ここまでお付き合いいただいた読者の皆様、お手数でなければ完結の記念、あるいはご褒美としてお気に入り(作者を) & 感想(喜ばせる) & 評価(魔法)をかけて頂ければ幸いです!
もちろん、“ここすき”も大好物にございます!

さて、それではもしうまいことプロットを仕上げられたらまたお会いしましょう!

両方やるかもしれないし、どっちも完成せずお蔵入りになるかもしれないという前提で……

  • 深海から来る背ビレを持った圧倒的な“個”
  • 空の果てから来る巨大円盤や三脚の何か
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