【完結】渋谷の中心でマハムドバリオンを唱えた馬鹿者 作:双子座流星群
——警察は来ない。来るはずがない。
仮にネットの特定班が俺の名前と住所を完璧に割り出し、警視庁のホームページにご丁寧にタレ込んだとしても、警察組織は動けない。日本は法治国家なんだ。
逮捕状の請求には、犯罪事実を疎明する資料が必要だ。
「被疑者は『
そんな荒唐無稽な請求書を裁判官に出せば、担当刑事の正気が疑われるだけで終わる。
日本の刑法は罪刑法定主義だ。魔法に関する法律など存在しないし、因果関係を科学的に立証できない以上、俺は法的には潔白なのだ。
完全犯罪? いや、不能犯だ。
俺が自首して「やりました」と泣き叫んだところで、精神鑑定の予約票を渡されて帰されるのがオチだろう。
だが——法が俺を裁かないからといって、世界が俺を許すわけではない。むしろ、法が機能しない領域だからこそ、人々はより原始的で、より残酷な手段に訴える。
——私刑。リンチだ。
画面の中で加速し続けるスレッドを見つめながら、俺はガタガタと震える歯を食いしばった。
彼らには「推定無罪」なんて言葉は通用しない。
「証拠裁判主義」も関係ない。必要なのは真実ではなく、彼らの鬱屈した正義感を満たし、不安を解消するための「生贄」だ。
「こいつが怪しい」「こいつが犯人らしい」
その程度のあやふやな情報で十分なのだ。
一度ネットの海に放流された個人情報は、二度と消えないデジタルタトゥーとなる。
俺の顔写真、住所、経歴、家族構成。
それらが拡散され、まとめサイトに永久保存され、面白おかしく加工され、フリー素材のように消費される。
転職も、結婚も、引越しさえもままならない。
俺という人間は、社会的に殺される。
いや、社会的な死で済めば、まだマシなのかもしれない。
「……っ」
脳裏に、最悪のシミュレーションが浮かび上がり、俺は思わず喉を鳴らした。
遺族だ。あの日、交差点で理不尽に命を奪われた四〇〇人の、その背後にいる数千人の家族、恋人、友人たち。
彼らは今、行き場のない怒りと悲しみを抱え、それをぶつけるべき対象を血眼になって探しているはずだ。
もし、ネットの書き込みを信じた誰かが、このアパートにたどり着いたら?
法律なんて関係ない。証拠なんてどうでもいい。
「お前のせいで娘は死んだんだ!」と思い込んだ父親が、ナイフを隠し持ってドアの前に立ったら?
「返せ、あいつを返せ!」と泣き叫ぶ集団が、窓ガラスを割って火のついた布でも投げ込んできたら?
俺は魔法で対抗するのか?
「
「
「
——それともまた、「ムドバリオン」で呪い殺すのか?
「……できない」
俺は頭を振り、髪を掻きむしった。
そんなことをすれば、俺は本当に人間ではなくなる。
そしてただの化け物として、自衛隊や機動隊に包囲され、射殺される未来しか見えない。
じゃあ、どうする?
殺されるのを待つか?
それともこの部屋から一歩も出ず、餓死するまで震え続ける?
——ピンポーン。
唐突に響いた電子音が、俺の心臓を鷲掴みにした。
ビクリと体が跳ね上がり、呼吸が止まる。
インターホンだ。
誰だ? 被害者への聞き取りをしにきた警察か? あるいは生き残りに取材を申し込みにきたマスコミか?
俺は息を殺し、玄関の方を凝視した。
音を立ててはいけない。
居留守だ。俺はここにいない。誰もいない。
部屋の電気は消してある。カーテンも閉まっている。
外から見れば、ただの空き部屋に見えるはずだ。
——ピンポーン。
——ピンポーン。
執拗だ。相手は諦めない。
そして、ドアの向こうから、くぐもった声が聞こえてきた。
何かを叫んでいるわけではない。怒鳴り声でもない。
ただ、ボソボソと、低い声で何かを言っている。
俺は這うようにして玄関へ近づき、ドアスコープ——覗き穴——に目を押し当てた。
魚眼レンズの向こうに、歪んだ世界が広がっている。
そこに立っていたのは、帽子を目深に被り、マスクをした男だった。手にはスマホを持っている。
画面を見ながら、表札を確認しているようだ。
そして男は再びスマホに視線を落とし、何かを入力し始めた。
その瞬間、俺のポケットに入っていたスマホが震えた。
通知音を切っていたはずなのに、バイブレーションの音がやけに大きく響く。
見ると、Twitterの通知だった。
『@特定班_現地部隊: ターゲットの自宅前なう。表札確認、ビンゴです。電気は消えてるけど、中にいる気配あり』
凸してきそうだと目星をつけていたアカウントの一つだ。
(……うそだろ、いくら何でも早すぎる。まだあの件から一日だぞ!? 一体、何をどうやって——ッ!!)
どれだけ否定しても、現実に目の前には凸目的の男がいる。
全身の血の気が引いた。ドア一枚隔てた向こう側に、俺の人生を終わらせに来た死神がいる。
男はまた顔を上げ、ドアノブに手をかけた。
ガチャ、ガチャガチャ。当然、鍵はかかっている。
だが、その無機質な金属音が、俺の神経をヤスリで削るように逆撫でする。
怖い。死ぬほど怖い。
あれだけの人を一瞬で殺せる恐ろしい魔法が使えるようになったというのに、俺はこんなにも無力だ。むしろ、力を持ってしまったからこそ、この恐怖から逃れられない。
ドアの向こうの男が、もしバールでも持っていたら?
もし、仲間を呼んでいたら?
俺は後退りし、キッチンへと逃げ込んだ。
包丁? いや、そんなものを持ったところで何になる。
俺の武器は言葉だ。
だが言葉こそが、俺をこの状況に追い込んだ元凶なのだ。
「……帰れ、かえれよぉ……!!」
蚊の鳴くような声で呟く。
「かえってくれ、たのむから……っ!」
だが、男は帰らない。
それどころか、ドアの向こうでスマホを構え、写真を撮るようなシャッター音が聞こえた。
「————ッ!!!!」
『証拠写真、アップします』
そんなコメントと共に、俺の自宅のドアが、表札が、全世界に晒される間近の未来がありありと脳裏に浮かぶ。ここが「魔女の家」だと、高らかに宣言されるのだ。
俺は冷蔵庫の横に座り込み、膝を抱えた。
司法は魔法に無力だ。警察は介入できない。
……だからこそ、剥き出しの悪意が、法の手続きを飛び越えて俺の喉元に突きつけられている。
証明なんていらない。彼らにとって俺は、「怪しい」というだけで処刑台に送るに値する存在なのだから。
ガチャガチャ、ガチャガチャ。
ドアノブを回す音は、まだ止まない。
それはまるで、崩壊へのカウントダウンのように、いつまでも俺の耳にこびりついて離れない。
ガチャガチャ、ガチャガチャ。
無機質な金属音が、俺の理性を削り取っていく。
ドア一枚。
たったそれだけの隔たりを挟んで、俺の人生を破壊しようとする「正義の執行者」がいる。
奴は一人だ。仲間を呼んでいる気配はない。
おそらく、手柄を独り占めしたいのか、あるいは単独で動くことで承認欲求を満たそうとしているのか。どちらにせよ、今のところは単独犯だ。
俺は息を殺し、壁に耳を当てるようにしてその気配を探った。
不思議な感覚だった。これまでの俺なら、ドアの向こうの様子など、音でしか判断できなかったはずだ。
だが、今は違う。目をつぶると、暗闇の中にぼんやりとした輪郭が浮かび上がってくるのだ。
まるでサーモグラフィーを見ているかのように、あるいはレーダーが反応するかのように。ドアの向こうで蠢く何かを、手に取るように分かる。……気がした。
(……そこに、いる)
奴はドアノブから手を離し、今はスマホを操作している。
重心は右足。少し前屈みになっている。
心臓の鼓動までは聞こえないが、奴が発する興奮と、獲物を追い詰めたという歪んだ高揚感が、波動となって俺の肌をチリチリと刺した。覚醒しつつある魔力が、俺の知覚を拡張しているのかもしれない。
皮肉な話だ。人を殺してしまった力が、今、俺に生存のための情報を与えている。
どうする。追い返すか? 「警察を呼ぶぞ」と脅すか?
いや、無駄だ。そんなことをすれば「中にいる」と認めることになるし、奴は逆に「呼べるものなら呼んでみろ、お前が犯人なんだろ」と居直るに決まっている。
かといってこのまま放置すれば奴は次なる行動に出るだろう。
窓を割るか、あるいはSNSで仲間を募って、ここを観光地にするか。排除しなければならない。
——だが、殺してはいけない。
もう二度と、あんな感触——命がフツリと消える、あの恐ろしい手応え——は味わいたくない。それに、これ以上死体が増えれば、警察だって本気で動き出す。この部屋の前で男が不審死を遂げれば、いよいよ俺は言い逃れができなくなる。
殺さずに、無力化する。あるいは、俺への敵意を逸らす。
そんな都合のいい魔法が、あるだろうか。
俺の脳内ライブラリが、高速で検索をかける。
攻撃魔法は除外。物理干渉系もリスクが高い。
回復魔法? 奴を元気にしてどうする。
……精神干渉。
バッドステータス付与。そうだ、それがあった。
ゲームによっては、命中率の低さや使い勝手の悪さから敬遠されがちなカテゴリ。だが、現実という名のこの理不尽なフィールドにおいて、それは最強の防衛手段になり得るかもしれない。
混乱魔法?
錯乱して暴れられたら困る。大声を出されても近所迷惑だ。
睡眠魔法?
ドアの前で寝られたら、それはそれで邪魔だし、起きた時にまた騒ぎ出すだろう。
ならば——魅了魔法だ。
相手の思考を書き換え、好意を抱かせ、あるいは洗脳に近い状態で操る禁断の力。敵を味方に変える、あるいは敵意そのものを消滅させる、甘い毒。
俺はゆっくりと立ち上がった。
膝が笑っている。手は相変わらず震えている。
だが、震える手を俺はドアの方角へ向けてゆっくりと掲げた。
狙いは定まっている。
厚さ数センチの鉄板の向こう側。
スマホを覗き込み、ニヤニヤと薄汚い笑みを浮かべているであろう、その男の脳天に向けて。
……届くのか? 物理的な障壁を超えて、精神に干渉できるか?
分からない。だが、やるしかない。
心臓がバクバクとうるさい。
口の中が乾いて張り付く。
俺は深く息を吸い込み、意識を集中させた。
イメージするのは、ピンク色の甘美な霧。
相手の警戒心を溶かし、脳髄を痺れさせ、思考を停止させる、フェロモンのような魔力の波動。
俺は、唇を動かした。
声に出す必要はないのかもしれないが、言霊として形にすることで、イメージがより強固になる気がした。
「……
その言葉は、静寂の中に溶けるような甘ったるい響きを持っていた。唱えた瞬間、指先から何かが抜けていく感覚があった。
「
もっと生暖かく、粘着質で、それでいて陶酔を誘うような奇妙なエネルギーが、掌から放射され、ドアを透過していく。
見えない波動が、空間を歪ませながら直進する。
ターゲットは、ドアのすぐ向こう。
俺の放った精神の毒牙が、男の後頭部に食らいつく様を、俺は幻視した。
——ガチャリ、という音が止んだ。
それは唐突な静止だった。まるで、再生中の動画を一時停止ボタンで無理やり止めたかのような、不自然極まりない「無」がドアの向こう側に広がる。
心臓の鼓動だけが、耳元で警鐘のように鳴り響いている。
俺は息を止め、酸欠で視界がチカチカするのを堪えながら、ドアスコープに押し付けた右目から神経を注ぎ込んだ。
魚眼レンズの向こうで、男は固まっていた。
先ほどまでドアノブを弄り回し、獲物を追い詰める捕食者のような背中の曲がり方をしていた男が、今は糸の切れた操り人形のように直立不動になっている。
スマホを持つ手も、ドアにかけた手も、空中で静止している。
(……効いた、のか?)
確信は持てない。だが、俺の「感覚」——覚醒しつつある魔力が捉えていた、あの刺々しい「悪意」の波動は、潮が引くように急速に消失していた。
代わりにそこへ満ちていくのは、茫洋とした、暖かく、そしてどこか甘ったるいピンク色の気配。
男が、ゆっくりと動いた。
ビクリと身構える俺の眼前で、男はスマホを顔の高さまで持ち上げた。また撮影する気か? それとも、仲間に合図を?
違う。男は、スマホの画面をぼんやりと見つめている。
マスク越しで表情は読み取れないが、目元の険しさが消え、どこか夢見心地な、とろんとした光が宿っているのが見て取れた。
まるで、恋人からの甘いメッセージを読み返している時のような、あるいは美しい風景画に見入っている時のような、穏やかで弛緩した眼差し。
「……あ」
ドア越しに、男の声が聞こえた。
先ほどの、湿った陰湿な独り言ではない。
恍惚を含んだ、ため息のような声だ。
「……だめだなぁ。うん、だめだ」
男は独りごちた。
その口調は優しく、そして奇妙なほどに慈愛に満ちていた。
「こんな、素敵な人が住んでいるところを……汚しちゃ、だめだ」
ゾクリ、と背筋に悪寒が走った。
恐怖とは違う、もっと生理的な嫌悪感に近い震えだった。
言葉の意味が、文脈と乖離している。
数秒前まで俺を社会的に抹殺しようとしていた男が、俺を「素敵な人」と呼び、自宅を聖域か何かのように崇め始めている。
男の指がスマホの画面をタップした。
軽快なリズムで、迷いなく。
「消さなきゃ。うん、消そう。誰にも教えちゃいけない。ここは……僕だけの秘密」
おそらく撮影した写真や書きかけの投稿を削除しているのだ。
本来なら安堵すべき行動のはずだ。
だが、俺の胸中に広がったのは、底知れない戦慄だった。
人格が変わっている。
思考の優先順位そのものが、暴力的に書き換えられている。
——『
ゲームでは単に「攻撃してこなくなる」「こちらに回復や補助を行う」程度の記号的な処理で済まされていたその魔法は、現実世界においては「洗脳」という最もおぞましい形をとって具現化していた。
対象の脳髄に直接干渉し、敵意を好意へ、殺意を愛着へと反転させる精神のレイプ。
男はスマホをポケットにしまうと、愛おしそうにドアの表面を一度だけ撫でた。
その手つきは、壊れ物を扱うように繊細だった。
「……守ってあげないと」
ボソリと、男は呟いた。その瞳には、狂信者に特有の、一点の曇りもない純粋な使命感が宿っていた。
「変な奴らが来ないように……僕が見ててあげないと。あっちの曲がり角なら、全体が見渡せるかな」
男は満足げに頷くと、踵を返した。足取りは軽く、スキップでも踏み出しそうなほどウキウキとしている。
ガチャガチャと鍵を弄る不快な音はもうしない。
男はそのまま廊下を歩き去り、エレベーターホールの方ではなく、階段の方へと消えていった。おそらく、宣言通り「見張り」をするために適当な場所を探しに行ったのだろう。
静寂が戻った。だが、それは以前の静寂よりも、遥かに重苦しく、歪んだ空気を孕んでいた。
ドアスコープから離れ、へなへなと玄関の土間に座り込む。
冷たいタイルの感触が、熱を持った頬に心地よい。
助かった。最悪の事態は回避できた。
特定班の尖兵は去り、俺のプライバシーがこれ以上拡散されるリスクは一時的にせよ減ったはずだ。
——けれど。
自分の掌を見つめる。
震えは止まっていた。だが、その手は先ほどまでとは違う意味で汚れているように見えた。
人を殺した手。そして今度は、人の心を弄んだ手。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
なんて力だ、便利すぎる。そして、邪悪すぎる。
俺の意志一つで、物理法則だけでなく、人間の尊厳すらも蹂躙できる。
あいつは今、自分が何をさせられているのか分かっていない。自分の意志で「守りたい」と思っていると信じ込んでいる。
それが一番恐ろしい。
俺は立ち上がろうとして、足に力が入らず、また崩れ落ちた。
ドアの向こうには、俺が作り出した「狂信的な騎士」が徘徊している。
もはや、このアパートはただの自宅ではない。魔王の居城だ。
近づく者を即死させ、あるいは洗脳して配下に加える、呪われたダンジョンの最奥部。
「俺は……どうすればいいんだ……」
誰も答えない。
ただ、冷蔵庫のモーター音と、遠くの車の走行音だけが、変わらぬ日常を演じ続けていた。
俺は膝を抱え、薄暗い玄関で、自分の魔力の残滓——甘く、吐き気を催すようなピンク色の気配——が、ゆっくりと消えていくのをただ待っていた。
大抵は魅力的な異性に使いそうなものですが、堀田くんは同年代の男に使う事となりました