【完結】渋谷の中心でマハムドバリオンを唱えた馬鹿者 作:双子座流星群
俺は這うようにしてリビングに戻ると、床に放り投げてあったスマホを拾い上げた。
画面はスリープしていて真っ暗だ。その黒い鏡に映る自分の顔は、青白く、まるで幽霊のように憔悴しきっていた。
指紋認証でロックを解除する。
指先が脂汗で濡れていて、一度エラーになった。
Tシャツの裾で乱暴に指を拭い、再度押し付ける。
ホーム画面が開き、俺は吸い込まれるようにTwitterのアイコンをタップした。
検索履歴の最上段に残っている、あのアカウント。
『@特定班_現地部隊』。
アイコンはアニメキャラクターの切り抜き。フォロワー数は、この数時間で爆発的に増え、数万人に達している。
俺の生殺与奪の権を握っていた、死神のアカウントだ。
最新の投稿を確認する。
更新マークがくるくると回り——新しいツイートが表示された。
特定班_現地部隊 @local_hunter_01 ・ 30秒
ごめんなさい。ガセでした。
表札確認したけど、漢字が違った。
よく見たら似てるけど別人です。
ここには誰もいません。
解散してください。
特定班_現地部隊 @local_hunter_01 ・ 1分
【訂正】
さっきの「ビンゴ」ってツイートは削除します。
テンション上がって見間違えました。
ただの空き家っぽい。
近隣の迷惑になるんで、もう誰も来ないでください。
マジで、誰も来るな。
——消えている。
俺の人生を終わらせるはずだった「突撃予告」が、綺麗さっぱり削除されていた。反応からして、一度でも写真が上げられた様子もない。
代わりに並んでいるのは、必死なまでの「否定」と「火消し」の言葉。
リプライ欄は荒れに荒れていた。
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| 返信 @mob_justice
| は? ふざけんなよ。住所特定したって言ったじゃん。
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| 返信 @net_watcher
| 釣りとかなめてんの?通報しました
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| 返信 @shinjitsu_no_me
| お前、金もらったろ? 工作員か?
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| 返信 @kousatu_man
| 漢字が違うって何だよ。というか気配あるんなら空き家じゃないだろ? そもそもなんか根拠あって凸ったんじゃないのか? 説明しろよ。
罵詈雑言の嵐。
だが、今の俺にとってそれは、遠い世界の話だった。
重要なのは、「こいつが嘘をついてくれた」という事実だ。
それも、ただの嘘ではない。「誰も来るな」という、強い排他性を秘めた嘘だ。
俺はスクロールの手を止めた。最後のツイートの文末。
『マジで、誰も来るな。』
文字だけで見れば、ガセ情報を流したことへの反省や、野次馬への警告に見えるかもしれない。
だが、今の俺には分かってしまう。
その言葉の裏に張り付いている、ねっとりとした独占欲が。
「ここは僕だけの秘密だ」
「僕だけの聖域だ」
「他の有象無象に、あの方を汚させてたまるか」
そんな、歪みきった思考回路が透けて見えるようだった。
彼はネットの有象無象を騙してでも、俺を隠匿することを選んだのだ。社会的な正義よりも、真実の暴露よりも、狂信的な「信仰」が上書きされた結果だ。
スマホを持つ手が、カタカタと震えた。
助かった。間違いなく、俺は助かったのだ。
このアカウントが「ガセだった」と宣言したことで、ネット・イナゴたちの興味は急速に失われるだろう。「なんだ、違うのか」「期待させやがって」と文句を言いながら、彼らはまた次のターゲットを探して別の場所へと飛び去っていく。
このアパートへの襲撃リスクは、劇的に下がった。
——けれど。
「……気持ち悪い」
安堵よりも先に、生理的な嫌悪感が胃の腑からせり上がってきた。俺は今、一人の人間を「書き換えて」しまったのだ。
顔も名前も知らない他人を、俺を守るためだけに嘘をつき、孤独な見張り番を続ける「都合のいい人形」に変えてしまった。
外を見る勇気はなかった。だが、想像できてしまう。
このアパートのどこかの暗がりで、スマホを握りしめ、ネット上の批判を一身に浴びながら、それでもニタニタと恍惚の笑みを浮かべている男の姿が。
自分が盾になっているという事実に陶酔し、俺という「神」を守護している喜びに打ち震えている姿が。
それは、即死魔法で命を奪うのとはまた違った、おぞましい罪の味だった。
俺はスマホの画面を伏せ、テーブルに置いた。
もう見たくない。
これ以上、自分の力が引き起こした結果を見たくない。
部屋の静寂が、より一層深くなった気がした。
俺は、安全になったはずの自分の城で、以前よりも深く、逃げ場のない孤独を感じていた。
外には狂信者の騎士。内には大量殺人の記憶。
そして手の中には、世界を狂わせる禁断の力。
「……どうしろって言うんだよ、本当に……ッ!!」
誰に向けたわけでもない問いかけは、ひび割れた氷のように空しく響くだけだった。
※※※
少しだけ気持ちを落ち着けた俺は、震える指先でスマートフォンの画面をタップした。Twitterのアカウント作成画面。
普段なら面倒に感じる手続きも、今は命綱を編むような切迫感があった。
推奨されるユーザーIDの羅列を無視し、俺は独自の文字列を打ち込む。
『@secret_guardian_only』
彼にしか分からない、しかし彼なら確実に反応するであろうキーワード。
彼がドアの前で呟いた「僕だけの秘密」と「守ってあげないと」という言葉から連想した、即席の、しかし今の彼にとっては神の名にも等しいであろうIDだ。
アイコンは設定しない。初期状態の人型のシルエットのまま。その無機質さが、かえって「顔のない支配者」としての神秘性を高めてくれることを期待した。
アカウント作成完了。
フォロワー0、フォロー0の、生まれたばかりの電子の幽霊。
俺は検索窓に、あのアカウント名を打ち込んだ。
『@local_hunter_01』。さっきまで俺を社会的に殺そうとし、今は俺のために嘘をついている男。
DMのアイコンを押す。
白い入力フォームが、俺に言葉を求めて点滅している。
……何を打つ?
どう書けば、彼は素直に従う?
今の彼は、論理で動いているわけではない。「信仰」で動いているのだ。ならば、俺もまた、その信仰に応える「偶像」を演じなければならない。
胃がキリキリと痛んだ。俺はただのサラリーマンだ。教祖でもなければ、詐欺師でもない。だが、やるしかない。
彼があのままアパートの周辺をうろつき、見張りを続ければ、いずれ警察に見咎められるかもしれない。あるいは、彼の異様な様子に気づいた他の特定班が、違和感を覚えて再調査に来るかもしれない。
何より、俺の家の周りに狂信者が潜んでいるという状況そのものが、俺の精神を崩壊させそうだった。
俺は深く息を吸い、指を動かした。
『忠実なる騎士へ。
あなたの働きは見えています。感謝します。
しかし、ここに留まることは最良の策ではありません。
不自然な行動は、かえって敵の目を引くことになります。
家に帰り、普段通りの生活を送ってください。
それが、秘密を守るための最大の防壁となります。
信じていますよ』
送信ボタンの上で、親指が迷った。
こんな芝居がかった文章でいいのか? 引かれないか?
「
だが、彼があのドアの前で見せた陶酔した表情を思い出す限り、今の彼に必要なのは「命令」ではなく「役割」と「承認」のはずだ。
——ええい、ままよ。俺は画面をタップした。
「送信しました」の文字が表示され、メッセージが電子の海へと放たれる。
物理的な距離は数メートル。あるいは数十メートル。
壁の向こう、階段の踊り場か、アパートの裏手か。そこにいるはずの彼の手元で、スマホが通知音を鳴らす様を想像する。
数秒後。画面上の「既読」マークがついた。
早い。あまりにも早すぎる。
まるで、俺からの連絡を待ちわびて、画面に張り付いていたかのような反応速度。
そして、入力中のインジケーターが表示されることもなく、即座に返信が届いた。
『承知いたしました。
我が主。
貴方様の平穏こそが、僕の全てです。
日常に溶け込み、影から貴方様をお守りする「普通」を演じます。
このアカウントは削除し、痕跡は全て消し去ります。
どうか、安らかにお過ごしください』
背筋が粟立つような、完璧な従順さ。
そこには疑いの色も、反論の余地もなかった。
ただひたすらに、俺の言葉を絶対の真理として受け入れている。『我が主』という呼びかけが、画面越しに俺の網膜を焼き、心臓を冷たく掴んだ。
俺は、自分が何をしてしまったのかを再確認させられた。
俺は一人の人間の自由意志を奪い、俺にとって都合のいい「道具」に作り変えてしまったのだ。
殺人よりもタチが悪いかもしれない。
死は終わりだが、これは継続する狂気だ。彼はこれからも、俺のために人生を捧げ続けるつもりなのだ。顔も知らない、ただ偶然ターゲットにしただけの俺のために。
直後、彼のアカウント名が『ユーザーが見つかりません』という表示に変わった。
宣言通り、彼は即座にアカウントを削除したのだ。
一瞬にして数万人というフォロワーがついたアカウントを、一瞬の躊躇もなく。
外の気配を探る。研ぎ澄まされた俺の感覚——魔力による知覚拡張——が、建物の外、裏手の路地に潜んでいた「歪んだ熱源」が動き出すのを捉えた。
その気配は、名残惜しそうに一度だけこちらのアパートを振り返るような揺らぎを見せた後、ゆっくりと、しかし確かな足取りで遠ざかっていく。
駅の方へ。雑踏の中へ。
気配が完全に消えるまで、俺は息を殺して待った。
そして、完全に彼がいなくなったことを確認すると、俺はソファに崩れ落ちた。
緊張の糸が切れ、どっと疲労が押し寄せてくる。
成功した。彼は帰った。
俺は、自らの手で作り出した狂信者を、遠隔操作で排除することに成功したのだ。
だが、心に残ったのは達成感などではなかった。
ただひたすらに、自分が底なしの泥沼へと沈んでいくような感覚。「普段通りの生活」に戻れと言った俺自身が、もう二度と「普段通りの生活」には戻れないことを、痛いほど理解していたからだ。
俺は作成したばかりの捨て垢を削除しようとして、指を止めた。
……もしまた、彼を使う必要が出てきたら?
そんな悪魔の囁きが、脳裏をよぎったからだ。
彼はアカウントを削除したが、このアカウントで発信すれば、おそらくはコンタクトが取れる。
警察の手が迫った時。
他の特定班が現れた時。
あるいは、もっと直接的な暴力に晒された時。
「忠実な騎士」である彼は、俺の最強の盾になり得るのではないか?
「……最低だ、俺」
俺はスマホを放り投げた。アカウントは消さなかった。
それが、俺が完全に「向こう側」——人としての倫理を踏み越えた魔王の側——に堕ちた証拠のように思えて、俺は顔を覆って呻いた。
薄暗い部屋に、俺の浅ましい呼吸音だけが響いていた。
※※※
泥のように眠る、という表現があるが、昨日の俺はまさに泥そのものだった。
精神的な疲弊が限界を超え、脳が強制シャットダウンを選んだのだ。夢も見ず、ただ意識の深淵に沈み込み、そして翌日の昼過ぎ、俺は重たい瞼をこじ開けた。
カーテンの隙間から差し込む光が、網膜を焼くように痛い。
目覚めた瞬間に襲ってきたのは、爽快感ではなく、現実がまだ続いているという絶望感だった。
俺はまだ、魔法使いで、大量殺人者で、逃亡者だ。
寝起き特有の乾いた口のまま、俺は枕元のスマホを手探りで引き寄せた。
見なければいいのに。見てもろくなことがないのに。
指先は中毒者のようにTwitterのアイコンをタップしていた。
タイムラインを確認する。昨日、俺が「マリンカリン」で洗脳し、排除したはずの特定班アカウント『@local_hunter_01』の周辺は、疲れた俺の脳では予想できなかった方向へ炎上していた。
ネットの闇深 @dark_web_watch ・ 2時間
昨日の特定班の奴、消え方不自然すぎないか?
「ビンゴ」からの「ガセでした」までの間隔、わずか数分だぞ。
しかも即座に垢消し。
これ、ガチでヤバいとこ踏んで消されたんじゃね?
陰謀論まとめ @conspiracy_jp ・ 1時間
【悲報】渋谷事件の犯人を特定した勇者、謎の失踪。
現場(犯人の自宅?)に行った直後に通信途絶。
最後の「誰も来るな」って書き込み、本人の意思か?
脅されて書かされたんじゃないのか?
名無しさん @nanashi_774 ・ 30分
@conspiracy_jp
あるいは、もっとオカルトな理由かもな。
今回の件、犯人は「マハムドバリオン」を使ったとされる。
なら、他にも使える魔法があるんじゃねーの?
ゲーマーA @game_brain_hero ・ 15分
@nanashi_774
それなw
凸者が急に掌返しして勘違いでしたって言い出したの、マリンカリンでも食らったんじゃね?
魅了されて「この家は無関係です(大嘘)」って言わされてるとか
誰か現場行ってパトラかけてやれよw
|
| 返信 @reply_acc
| www ありそう
|
| 返信 @reply_acc2
| 笑えないんだよなぁ……事実ならマジでホラー
「…………ッ」
俺は布団の中で、小さく悲鳴を上げそうになった。
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように収縮する。
当たっている。ど真ん中だ。
『ゲーマーA』というアカウントの何気ない冗談が、恐ろしいほどの精度で真実を射抜いている。
『マリンカリンでも食らったんじゃね?』
その通りだ。食らわせたんだ。俺が。
俺は全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。
彼らにとっては、あくまで「ゲーム用語を使った大喜利」の一環だろう。渋谷の惨劇がゲームの魔法によるものだという説がバズっているから、それに乗っかって、面白おかしくネタにしているだけだ。
……だが、そのネタが真実であることを知っている俺にとって、このポストは鋭利な刃物以外の何物でもなかった。
そして、そのリプライ欄にある一言が、さらなる恐怖の種を俺の脳内に植え付けた。
『誰か現場行ってパトラかけてやれよ』
魅了や混乱、睡眠といった精神干渉を打ち消し、正常な状態に戻す浄化の力。
「……いるわけ、ないだろ。ないよ、な?」
俺は震える声で呟いた。魔法を使えるのは俺だけだ。
あの日上司の前でたまたま俺だけがバグって、世界のエラーみたいな存在になったんだ。
そうに決まっている。もし他にも魔法使いがいたら、もっと世の中は大騒ぎになっているはずだ。
……本当にそうか?
俺の中の疑心暗鬼が、鎌首をもたげる。
俺自身、必死に「普通」を装っていたではないか。
魔法が使えることを隠し、社会に溶け込もうとした。
もし、俺と同じような人間が、他にもいたら?
ゲームの呪文を口にしたら発動してしまったことに気づき、その力を隠して生きている「潜伏者」が、この日本のどこかに存在していたら?
もし、この『ゲーマーA』という人物が、単なる冗談ではなく、「知っている側」の人間だとしたら?
「パトラかけてやれよ」という言葉が、ネタではなく、実在する対抗手段の提示だとしたら?
「……はは、考えすぎだ」
俺は乾いた笑いで自分を誤魔化そうとした。
だが、思考の暴走は止まらない。俺という存在がいる限り、「魔法使いは実在しない」という前提は崩れているのだ。
ゴキブリを一匹見かけたら三十匹はいると思え、という言葉がある。
俺という「バグ」が発生したのなら、システムの脆弱性は一箇所だけとは限らない。
もし、俺以外の魔法使いがいるとしたら、そいつはどんな奴だ?
俺と同じように怯えている小市民か?
それとも、力を悪用して愉悦に浸る犯罪者か?
あるいは——『正義』を行使しようとする勇者気取りか?
もし、「回復魔法」や「解呪魔法」のエキスパートがいて、俺の洗脳したあの男に接触したら?
パトラを一発かけられただけで、俺のマリンカリンの効果は霧散する。洗脳が解けた男は、自分が何をさせられていたかを思い出し、恐怖と怒りに震えながら、今度こそ正確な情報を暴露するだろう。「あいつは悪魔だ! 俺の頭をおかしくしたんだ!」と。
「……めろ。……やめてくれ……!」
俺は頭を抱え、布団に顔を埋めた。
敵が増えた。警察、マスコミ、特定班、遺族。
それら「人間」の敵に加えて、顔も見えない「同類」の影までもが、俺の精神を蝕み始めた。
俺はスマホを握りしめたまま、薄暗い部屋を見渡した。
昨日まで自分の城だと思っていたこの空間が、急に頼りなく、隙間だらけの檻に見えてくる。
「騎士」の側で誰かが「
未知への恐怖が、既知の恐怖を上書きしていく。
俺は、自分が開けてしまった「パンドラの箱」の底の深さに、改めて戦慄していた。
いても居なくても、他の例外の影に怯えずにはいられません。