【完結】渋谷の中心でマハムドバリオンを唱えた馬鹿者 作:双子座流星群
断腸の思い、という言葉がある。
だが、今の俺が味わっている感覚は、そんな生易しい慣用句で表現できるものではなかった。内臓を雑巾絞りにされ、脳髄をヤスリで削られ、魂を秤にかけられているような、絶対的な倫理的苦痛。
『自分が被りましょうか』
その甘美な誘惑は、地獄への特等席チケットだ。
受け取れば楽になる。
俺はただの「運の悪い生存者」に戻り、彼は「狂った大量殺人犯」として歴史に名を刻み、そして死刑台の露と消える。
俺は一生、誰にもバレることなく、しかし一生、彼を殺したという事実を背負って生きていくことになる。
(……駄目だ)
歯を食いしばる。ギリギリと音が鳴るほどに。
俺は人を殺した。四〇〇人も。
だが、それは事故だった。過失だった。少なくとも、明確な殺意を持って力を振るい、殺害したわけではない。
——けれど、この提案に乗ることは違う。
これは「自殺教唆」だ。明確な意思を持って、一人の人間に全ての罪を被せ、破滅させ、死へと追いやる行為だ。
それをやってしまえば、俺は本当に、取り返しのつかない怪物に成り果てる。
俺は震える指を動かした。
拒絶しなければならない。彼を止めなければならない。
たとえそれが、俺自身の破滅を先送りにするだけの行為だとしても、ここで「イエス」と言うことだけは、人として許されない。
入力フォームに文字を打ち込む。
指が滑る。汗で画面が滲む。
『ひつようない』
変換キーを押す余裕すらなかった。
あるいは、変換候補に並ぶであろう「必要ない」という漢字の冷徹さを直視するのが怖かったのかもしれない。
俺は逃げるように送信ボタンをタップした。
ひらがなだけの、幼く、弱々しい拒絶。
それが今の俺の精一杯の良心だった。
送信完了の表示が出た瞬間、俺はスマホを放り出したくなり、けれど出来ずに画面を凝視し続けた。
彼が怒り狂ったらどうしよう。「せっかく助けてやろうとしたのに!」と逆上し、今度こそ俺の情報をばら撒き始めたら?
だが、返信は即座に来た。それも恐ろしいほどの速度で。
『分かりました。
流石です。貴方様は、やはり気高い。
他人の犠牲の上に成り立つ平穏など、貴方様の美学には反するのですね。
ああ、それでこそ我が主。
その高潔さに、僕はまた心を打たれました。
では、引き続き潜伏し、影から見守ります。
何かあれば、いつでも命じてください。僕の命は、貴方様のものですから』
——吐き気がした。
俺の弱々しい拒絶すらも彼の中では「気高さ」や「美学」として美しく変換され、信仰心を強化する燃料にしかなっていない。
俺が送ったのは、良心の呵責に耐えかねただけの、情けない言葉だ。だというのに、彼はそれを神の慈悲として受け取った。
噛み合わない。永遠に、言葉が通じない。
『
俺は深い溜息をつき、スマホをテーブルに置いた。
とりあえず、一つの最悪のシナリオ——身代わりによる解決——は回避された。
だが、安堵とともに、脳の片隅でずっとチリチリと燻っていた「違和感」が、ここに来て明確な形を持ち始めていた。
(……あいつ、どうやって来たんだ?)
その疑問は、一度頭をもたげると、喉奥に刺さった魚の小骨のように、あるいは靴の中に入り込んだ小石のように、無視できない異物感となって俺の意識を苛み始めた。
冷静になって、時系列を整理してみる。
ネットの特定班が「マハムドバリオンの音声」と「定点カメラの映像」を照合し、俺らしき人物を特定したのが翌日の夕方。
そこから「地味なスーツの男」という特徴にもなっていないそれが広まり、ニュースの映像から俺の姿が掘り起こされた。
そこまではいい。それはネットの集合知のなせる技だ。
だが、そこから「俺の自宅」にたどり着くまでのプロセスが、あまりにもブラックボックスすぎる。
俺の姿がテレビに映っていたのは、救護テントでの数秒間、それも顔もよく見えない程度には遠くでドットにぼやけた画像だけだ。
背景には黄色いテープとパイロン。場所は渋谷の路上。
自宅が映っていたわけではない。
俺の名前がテロップで出ていたわけでもない。
持ち物が映っていたわけでもない。
冷静になって考えれば、ほとんど役立たない情報しかない段階だ。
ネットの特定班は時には優秀だ。それは認める。
だが、彼らとて魔法使いではない。断片的な情報のパズルを組み合わせ、総当りからの消去法で絞り込んでいくには、どうしても物理的な時間がかかるはずだ。
実際、俺が監視していた限り、SNSや掲示板の住人たちはそれらの僅かな情報を頼りに「誰かコイツを見たことある奴はいるか?」とSNS等を洗っていた段階のはずだ。
俺はごく普通の会社員だ。
ネットに自分の個人情報を晒したことはないし、SNSもROM専で、自撮りを上げたこともない。
あの程度の情報から住所と部屋番号まで割り出すなんて、現代の技術でもそう簡単ではないはず。
なのに……彼だけは、来た。
他の「猟犬」たちがまだスタート地点で匂いを嗅ぎ回っている段階で、彼はもうゴールテープを切っていた。迷いなく、最短距離で、このアパートの三階の俺の部屋のドアの前までたどり着いていた。
他の凸者は一人もいなかった。彼だけが、最短ルートで、ピンポイントに俺の部屋にたどり着いた。
なぜだ? なぜ、彼だけが出来た?
俺は爪を噛んだ。彼が特殊な技能を持ったハッカーだったとか?
あるいは警察のデータベースにアクセスできるような職業の人間なのか?
……いや、だとしても早すぎる。まるで、最初から答えを知っていたかのようだ。
あるいは、俺の背中に発信機でもついているかのように。
——もしかして。
彼は、「ネットの情報」を見て来たのではないとしたら?
ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。
もし、彼がもっと前から俺を知っていたとしたら?
あるいは、俺があの交差点で魔法を使う瞬間を、もっと近くで、もっと明確に見ていたとしたら?
居合わせていた被害者の友人が、家族が、俺をつけていたとしたら?
……いや、考えすぎだ。
彼がドアの前でツイートした内容を思い出せ。
『表札確認、ビンゴです』
あれは、探り当てた者の反応だ。最初から知っていたなら、あんな反応はしない。
彼は間違いなく、何らかの手がかりを元に俺を探し当てた。
その「手がかり」が、他の特定班には見えていない、彼にだけに見えた「何か」だったということか。
俺はテーブルに置かれたスマホ——彼と繋がる唯一のホットライン——を睨みつけた。
忠実なる騎士。狂信的な守護者。
俺の言葉一つで社会的に、あるいは本当に死ぬことさえ厭わない、洗脳された操り人形。
だが、その人形の中身は俺よりも遥かに優れた、あるいは遥かに危険な能力を持った「何者か」なのかもしれない。
俺は、猛獣を鎖で繋いだつもりで、実はその猛獣の口の中に頭を突っ込んでいるのではないだろうか。
「ひつようない」というひらがなの羅列が、今更ながらに頼りなく思えてくる。俺は本当に、彼を御せているのか?
それとも、彼という得体の知れない存在に、俺の方が絡め取られているのか?
窓の外では、夕暮れが街を赤く染め始めていた。
その赤色が今の俺には不吉な警告灯の色にしか見えなかった。
俺の周りには、見えない「目」が張り巡らされている。
それが敵意によるものなのか、歪んだ愛によるものなのか、それとももっと別の理由によるものなのか。
その正体不明の視線に怯えながら、俺はスマホのキーボードに親指を置いた。
——確かめなければならない。
もし彼が、ネットの情報網とは全く別の、俺の知らないルート——たとえば魔力探知だとか、独自のオカルト的な手段——を持っていたとしたら?
それを放置することは、目隠しをしたまま地雷原を歩くようなものだ。
彼の忠誠心は『
DMで聞くか?
『どうやってここを特定した?』と。
……いや、駄目だ。指が止まる。
ここはTwitterのプラットフォーム上だ。DMは非公開のやり取りとはいえ、運営会社であるX社のサーバーにはログが残る。
普段なら、こんな吹けば飛ぶような捨て垢のやり取りなど、誰も気にしないだろう。だが、今は状況が違う。
世界中が「魔法」や「マハムドバリオン」というワードに神経を尖らせている。もし運営側が、関連するキーワードを含むアカウントをAIなどで監視していたら?
俺が「特定」という言葉や、犯人しか知り得ない情報を送信した瞬間、何らかのフラグが立ち、IPアドレスを開示されるリスクはゼロではない。
文字に残してはいけない。
デジタルデータにしてはいけない。
聞くなら、直接だ。顔を合わせ、声帯を震わせ、空気の振動として伝え、その場で消え去る「会話」でなければならない。
だが、会う? あの狂信者と?
俺が洗脳し、人生を狂わせた、あの被害者と?
恐怖が胃を締め上げる。
しかし、その恐怖と拮抗するように、俺の胸の奥底から、ドロリとした暗い感情が湧き上がっていた。
孤独だ。身を切り裂くような、絶対的な孤独。
この数日間、俺は誰とも喋っていない。
テレビの中の人間は俺を怪物扱いし、ネットの向こうの人間は俺を死刑台に送りたがっている。
家族に連絡することもできない。友人に相談することもできない。
世界に七十億の人間がいるのに、俺の味方はいないのだ。
……だが一人だけ、例外がいる。俺が作り出した、歪な「騎士」が。
俺の言葉一つで死ぬ覚悟まで見せた、哀れな操り人形。
彼は正常な判断能力を奪われている。彼の好意は偽物だ。魔法によって強制的に植え付けられたバグだ。
……分かっている。それは俺の罪の結晶であり、直視するのもおぞましい「生きた証拠品」だ。
それでも。
今の俺には、その偽物の好意さえもが、砂漠における一滴の水のように思えてならなかった。
たとえ洗脳された結果だとしても、「貴方様をお守りします」という言葉の温かさに、すがりつきたくてたまらない自分がいた。
誰かと話したい。
自分を肯定してくれる誰かの目を見たい。
たとえそれが、俺を神と崇める狂った瞳だとしても。
俺は唇を噛み締め、鉄の味がする口の中で、自分への軽蔑を飲み込んだ。
寂しさに負けて、自分が壊した人間に癒やしを求めようなんて、どこまで落ちれば気が済むんだ。
だが、指は動いた。理性よりも、本能が勝った。
安全確認という名目を盾にして、俺は自身の孤独を埋めるためのボタンを押した。
『会おう』
たった三文字。
場所も時間も指定しない、傲慢な呼び出し。
送信ボタンを押した瞬間、心臓が大きく跳ねた。
ルビコン川を渡った。もう、引きこもりの安全圏には戻れない。
返信は、瞬きする間もなく届いた。
まるで画面の向こうで正座待機していたかのような速度で。
『歓喜に震えております。
我が主が、下僕である僕如きに謁見を許してくださるとは。
場所と時間は、貴方様の御心のままに。
今すぐ飛んで参ります』
画面から滲み出るような、重たく、粘着質な歓喜。
少し前の俺なら、気持ち悪いと恐怖していただろう。
だが今は、その異常なまでの肯定が、冷え切った心に奇妙な安堵をもたらしていた。
肯定されている。必要とされている。
世界中でたった一人、こいつだけは俺を裏切らない。
俺は深く息を吐き、場所を指定するための文字を打ち込んだ。
自宅はまずい。密室で二人きりになるのは流石にリスクが高い。
かといって、人目が多い場所も危険だ。
近所の公園。
駅から少し離れた、住宅街の外れにある小さな公園。
この時間なら子供もいないし、街灯も少ない。
あそこなら、万が一の時に走って逃げられるし、暗がりに紛れることもできる。
『三十分後。
〇〇公園の、時計台の下で。
いけるか?』
送信。
『承知いたしました。
誰にも見られず、誰にも悟られず。
影のように這い、馳せ参じます。
お待ちしております』
会話は終わった。俺はスマホを置き、フラフラと立ち上がる。
外出の準備をしなければならない。
しばらくぶりの外界だ。着替えて、帽子を目深に被り、マスクをする。
鏡に映った自分は、不審者そのものだった。
だが、それが今の俺の正装だ。ポケットにスマホを入れる。
そして玄関のドアノブに手をかけた時、俺は小さく深呼吸をした。
「……
確認するように、小声で魔法の名を呟く。
もし彼が暴走したら。もし洗脳が解けかかっていたら。
その時は、躊躇なく重ねがけをするつもりだった。
俺の精神を守るために。俺の孤独を癒やす「人形」を繋ぎ止めておくために。
——ガチャリ。
鍵を開ける音が、静寂を引き裂く。
重たい鉄の扉を開けると、夏の夜の、生ぬるく湿った空気が顔にまとわりつく。
その不快な湿度は、俺と彼との関係性を象徴しているようでもあった。
俺は夜の闇へと足を踏み出した。
真実を知るために。そして、歪んだ安らぎを得るために。
※※※
夜の公園は、死んだように静まり返っていた。
住宅街の狭間にぽっかりと空いた空洞のようなその場所は、昼間の子供たちの歓声が嘘のように消え失せ、錆びついたブランコが風に揺れる微かな金属音だけが響いている。
湿度を帯びた生ぬるい夜風がマスクから漏れる俺の呼気と混じり合い、不快な窒息感を生んでいた。
俺は公園の入り口にある植え込みの影に身を隠し、呼吸を整えた。
心臓が早鐘を打っている。
ここに来るまでの道中、誰かに尾けられていないか、何度も振り返りながら歩いてきた。すれ違う通行人が全員、俺を捕まえに来た刑事に見えた。
だが、ここには誰もいない。……いや、一人だけいた。
公園の中央。古ぼけた時計台が、頼りない水銀灯の光を浴びて青白く浮かび上がっている。
その光が届くか届かないかの境界線。深い闇が落ちる足元に、その人影はあった。
直立不動ではない。
かといって、スマホを弄って時間を潰しているわけでもない。
彼はベンチにも座らず、時計台の柱の影に同化するように背を預け、彫像のように静止していた。
ただ、その首だけが、フクロウのようにゆっくりと左右に巡り、周囲を警戒し続けている。
あのアパートのドア越しに感じた気配と同じだ。
異様なほどの集中力と、張り詰めた忠誠心。
(……来てる)
当たり前だ。来るように命じたのは俺だ。
だが、実際にその姿を目にすると、背筋に冷たいものが走るのを止められなかった。
彼は本当に、俺の言葉一つでここに立ち、俺を待っていたのだ。俺という得体の知れない存在を「主」と信じ込んで。俺は深呼吸を一つし、覚悟を決めて植え込みから出た。
砂利を踏む音をわざと立てて、彼にこちらの存在を知らせる。
反応は劇的だった。
ザッ、と音が聞こえるほどの速度で彼がこちらを振り向いた。
帽子を目深に被り、黒いマスクをした顔。表情は見えない。
だが、その全身から発せられていた鋭い警戒のオーラが、俺の姿を認めた瞬間に、蕩けるような歓喜の波動へと一変するのが分かった。
「……っ!」
彼は駆け寄ろうとして、寸前で足を止めた。
そして、まるで主君の御前で跪く騎士のようにその場で深く、恭しく頭を下げた。
周囲に人がいないことを確認した上での、過剰なまでの礼節。
「お待ちしておりました……」
夜気に震える声。ドア越しに聞いた時よりも、もっと生々しい、人間の肉声だ。
マスク越しでも分かる。彼は今、感動に打ち震えている。
神に謁見できる信者のように。あるいは、推しのアイドルと対面したファンのように。
俺はゆっくりと彼に近づいた。足が震えないように力を込める。
彼との距離、あと数メートル。
もし彼が魅了をはずしており、ここで懐からナイフを出せば俺は死ぬかもしれない。
だが、俺の「知覚」はぼんやりと告げていた。彼の中に殺意などないことを。あるのは、ドロドロに煮詰まった崇拝と、自己犠牲の精神だけだ。
「……よく来たな」
俺は極力低い声を出し、威厳を保とうとした。
ただのサラリーマンが、精一杯の「支配者」の演技をする。滑稽な茶番だ。
だが、彼にとってはそれが至高の福音だったらしい。
「は、はい……! お呼びいただき、光栄の極みです。貴方様にお会いできるなど、この身には余る幸せ……」
彼は顔を上げないまま、感極まったように声を詰まらせた。
俺は彼を見下ろした。中肉中背。地味な服装。どこにでもいる普通の男。
だが、その「中身」は、俺の魔法によって完全な別物へと書き換えられている。
罪悪感が胸を刺すが、同時に、奇妙な安堵感が湧き上がるのを否定できなかった。
俺の味方だ。
この世界で唯一、俺を害そうとしない人間だ。
「顔を上げてくれ」
俺が言うと、彼は恐る恐る顔を上げた。街灯の薄明かりに照らされたその瞳。
焦点が定まっているようで、どこか彼方を見ているような、熱っぽく潤んだ目。
『マリンカリン』のピンク色の残滓が、その瞳の奥で揺らめいているように見えた。
「……誰にも、見られなかったか?」
「はい。細心の注意を払いました。尾行もありません。ここは安全です」
彼は胸を張って答えた。
その自信に満ちた口調は、彼が元々持っていたであろう「特定班」としての優秀さを物語っていた。
頼もしい。そして、恐ろしい。
俺は周囲を一度見渡し、彼と視線を合わせた。
……聞かなければならない。
彼がなぜ、あんなにも早く俺を見つけられたのか。その「能力」の正体を。
「立ち話もなんだ。……少し、話そうか」
「はい、何なりと。僕の知る全てを、貴方様に捧げます」
彼は夢見るような声で応じた。
その無防備なまでの従順さが、今の俺には救いであり、そして同時に、決して手放してはならない「鎖」のように思えた。
夜風に揺れる木々のざわめきが俺の鼓動と重なって聞こえた。
時計台の下、青白い光の中に佇む男——俺が作り出した「
「……単刀直入に聞く」
俺の声は、意識して低くしようとしても、どうしても微かに震えてしまった。
男は直立不動のまま、マスク越しの熱っぽい瞳で俺を凝視している。
「お前は……どうやって、あんなに早く俺の居場所を突き止めた? ネットの特定班もまだ総当りでネットをさらっていた段階だ。なのに、お前だけが迷わず、俺の部屋のドアの前に立った」
俺は一歩踏み出し、彼に迫った。
もしや、彼もまた「魔法使い」なのか。
あるいは、俺のスマホにスパイウェアでも仕込んでいたのか。
俺の想像する最悪のケース——俺以外の異能の存在——が、彼の口から語られるのを覚悟して身構える。
「魔法か? それとも、何か特殊なハッキングツールでも使ったのか?」
俺の切羽詰まった問いかけに、男はきょとんとしたように目を瞬かせた。
そして、少し申し訳なさそうに頭をかいた。
「いえ……そんな、大層なものではありません。魔法だなんて、僕如きが使えるはずもありませんし、ハッキングなんて専門知識もありません」
「じゃあ、なんだ。探偵でも雇ったのか?」
「まさか。そんな時間もありませんでした」
男は少し照れくさそうに笑い——マスクで口元は見えないが、目が三日月型に細められたことで分かった——そして、事もなげに言った。
「僕は、この近所に住んでいるんです」
「…………は?」
俺の思考が、一瞬停止した。
近所? それだけ?
「あのアパートから、通りを二つ挟んだ向こう側のマンションです。実は歩いて三分もかかりません」
男は俺の背後、闇に沈む住宅街の方角を指差した。
俺は狐につままれたような気分で、彼の顔と、彼が指差す方角を交互に見た。
「え、いや……近所だからって、俺の部屋が分かるわけないだろ。それに俺とお前は面識なんて……」
「ありますよ」
男は即答した。
その言葉に、再び俺の心臓が嫌な音を立てる。
面識? 俺はこいつを知らない。こんな男、記憶にない。
「あ、いえ。貴方様が僕をご存知ないのは当然です。僕が一方的に、貴方様をお見かけていただけですから」
男は恍惚とした声で、その「種明かし」を語り始めた。
「よく、駅前のコンビニを利用されますよね? 深夜に、仕事帰りのお疲れの様子で。僕もあの時間帯によく利用するんです。レジで並んでいる貴方様を、何度もお見かけしていますよ」
コンビニ。深夜の買い物。
俺の日常の、何気ないワンシーン。
まさか、そんなところを見られていた?
「それに、朝の通勤時間も被ることが多くて。いつも同じ車両の、同じドア付近に立っていらっしゃいますよね。スマホでゲームをしながら——ふふ」
背筋に悪寒が走る。ストーカー被害者の気分だった。
俺は全く気づいていなかった。毎日すれ違う無数の他人の中に、俺を認識し、記憶している人間がいたなんて。
「で、あの事件です」
男の声が、少し興奮を帯びる。
「5chのスレッドに、救護テントで座り込んでいる『犯人候補』の画像が貼られましたよね。あの、毛布を被って俯いている小さな画像です」
「ああ……あれか」
「スレの住人たちは『画質が荒くていまいち分からない』とか『特徴がない』とか騒いでいましたけど、僕にはすぐに分かりました。あの輪郭、あの姿勢、そして何より、いつもコンビニで見かける『あの人』と同じスーツ、同じ靴でしたから」
男は、まるで難問を解いた子供のように誇らしげに胸を張った。
「ピンときたんです。『あ、これあの人だ』って。そう気づいたら、もう居ても立っても居られなくて……だって、僕は貴方様がどんな人で、どのアパートに入っていくか知っていましたから」
「……知っていた?」
「ええ。帰宅時間が重なった時に、前を歩いているのをお見かけしますので。……ああ、誤解しないでくださいね? 元々どうこうしてやろう、なんて気持ちは抱いていませんでしたよ。本当に」
偶然。そう、彼は魔法使いでもなければ、天才ハッカーでもなかった。ただの、近隣住民だった。
「現代の匿名性」なんて、所詮はそんなものだったのだ。
都会では隣に住む人の顔も知らないと言うが、それは関心がないだけだ。一度「関心」という名のスポットライトが当たれば、生活圏を共有している人間にとって、個人の特定など赤子の手を捻るよりも容易い。
俺が恐れていた「見えない力」の正体は、あまりにも物理的で、あまりにも単純な「生活圏の重複」という事実だった。
俺は力が抜けて、その場にへたり込みそうになった。
魔法探知なんてなかった。恐るべき組織の影もなかった。
あったのは、俺の不運と、彼の「顔覚えの良さ」と、そして野次馬根性という名の行動力だけ。
「……そうか。そうだったのか」
俺は深い溜息をついた。
安堵すべきなのか、それとも、こんな些細な理由で人生が詰みかけた事実に戦慄すべきなのか。
だが、一つだけ確かなことがある。
彼が「近所の住人」であるという事実は、特定班としての能力以上に、今の俺にとっては重要な意味を持っていた。
「……灯台下暗し、とはこのことですね?」
男は、俺の沈黙をどう受け取ったのか、うっとりとした目で俺を見つめたまま言葉を続けた。
「運命を感じますよ。貴方様のお近くに住んでいたことも、貴方様を見出していた事も、全ては今日この日のために……貴方様をお守りするために仕組まれた、神の配剤だったのです」
ピンク色の狂気が、また彼の思考を都合よく塗り替えていく。
俺のプライバシーを侵害していた「気持ち悪い偶然」が、彼の中では「運命的な必然」へと昇華されている。
俺は複雑な思いで彼を見つめ返す。この男は、俺の生活を見ていた。
コンビニで何を買うか、何時に帰るか、どんな顔をして電車に乗っているか。
本来なら、最も警戒すべき「目撃者」だ。
だが、今はその「目撃者」が、俺の最強の共犯者となって目の前に立っている。
「……そうだな。運命、かもしれないな」
俺は彼の妄想に合わせるように、力なく頷いた。
単純な理由だったからこそ、他に対処のしようがない。
彼の記憶を消す魔法でも見つけ出して使うか、あるいはこのまま彼を飼い慣らすか。
……答えはもう、出ているようなものだった。
夜風が、俺たちの間を吹き抜けていく。
時計台の針は、深夜の静寂を刻み続けていた。
俺たちは、奇妙な共犯関係——いや、主従関係を結んだまま、誰にも聞かれない密談を続けるために、さらに深い闇の方へと身を寄せた。
たまにいますよね、こういう人……