【朗報】物理、幽霊に効く。 ~最凶の呪いに愛された幼馴染が、最強の転生小学生に物理で救われる話~   作:匿名

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第1話 朝のコロッケパンと、背後に這い寄る指先

 世界が、あまりにも軽い。

 

 アスファルトを蹴るたびに、足の裏から伝わる反動が心地よいというよりは、むしろ脆すぎて不安になる。

 

 普通の人間が歩く速度で、普通に足を踏み出す。

 それだけの動作に、俺は細心の注意を払っていた。

 

 うっかり少しでも力を込めれば、足下の舗装は容易く砕け、俺の足首まで地面に埋まってしまうだろう。

 この世界における物理法則は、俺の肉体という「高密度すぎる塊」にとって、まるで出来の悪い積み木細工のようなものだった。

 

 転生。

 そんなふざけた現象が起きてから、六年が経つ。

 

 前世の俺が何者だったか、なんてことはもうどうでもいい。

 ただ、今の俺――相馬蓮(そうま れん)として得たこの肉体は、明らかに「やりすぎ」だった。

 

 魔力はない。霊力もない。

 だが、俺の細胞の一つ一つは中性子星にも匹敵する密度で凝縮され、血管を流れる血液は高圧洗浄機を遥かに凌駕する圧力で循環している。

 

 「……ふわぁ」

 

 大きく欠伸を一つ。

 眠い。

 

 この有り余るエネルギーを維持するためには、とにかくカロリーが必要だ。

 今朝の朝食は食パン四枚と目玉焼き三個だったが、既に胃袋は次の燃料を求めている。

 

 今日の給食、カレーだったっけ。

 それだけが、俺がこの小さな体で「一年一組」という退屈な檻に向かう唯一のモチベーションだった。

 

 「――れーんーくーんっ!」

 

 背後から、鈴を転がすような高音の振動が届く。

 

 振り返る動作も、ゆっくりと。

 急激な旋回は、俺の首の筋肉が空気を切り裂き、周囲に不必要な衝撃波を撒き散らしてしまうからだ。

 

 視線の先。

 坂道を、真っ赤なランドセルを揺らしながら走ってくる少女がいた。

 

 白雪琴音(しらゆき ことね)。

 

 俺の隣の家に住んでいる、幼馴染。

 腰まで届く艶やかな黒髪を低い位置で二つに結び、顔の半分くらいあるんじゃないかと思える大きな赤い丸眼鏡をかけている。

 

 「れんくん、おっはよー! 待ってって言ったのにぃ!」

 

 琴音が俺の目の前で急ブレーキをかける。

 その拍子に、彼女の小さな鼻の上で眼鏡がずるりと滑り落ちた。

 

 「……おはよ」

 

 俺はぼそりと、最低限の音量で応える。

 

 琴音は「もー!」と膨れっ面をしながら、人差し指の付け根で眼鏡をクイッと押し上げた。

 彼女が近づくと、朝の冷たい空気の中に、ふわりと甘い桃の石鹸の香りが混じる。

 

 それが、彼女の家庭の平和さを象徴しているようで、俺は嫌いじゃなかった。

 

 「もう、れんくんは歩くのが早すぎるんだよ。足が短いのに、不思議だよねぇ」

 

 「……一歩の歩幅を、最大限にしてるだけだ」

 

 実際は、地面を蹴り飛ばさないように「滑るように移動」している結果なのだが、説明するのも面倒だ。

 

 琴音は俺の隣に並ぶと、当然のように俺の体操服の袖を指先でちょんと掴んだ。

 これは彼女の癖だ。

 こうして何かに触れていないと、彼女は不安なのだろう。

 

 「ねえ、れんくん。知ってる? 今日、学校の裏門の掲示板、新しい『お札』に張り替えられてたんだよ」

 

 琴音の声が、少しだけ震える。

 彼女は俺の袖を掴む力を、無意識に強めた。

 

 「……へぇ」

 

 「国家陰陽局の人がね、すっごく怖い顔して貼ってたの。……最近、このあたりでも『出る』って噂だからかなぁ」

 

 琴音の言う「出る」が何を指すのか、俺は知っている。

 

 この世界は、前世の常識とは決定的に違う。

 

 怪異、幽霊、呪い。

 そう呼ばれる「理不尽な悪意」が、まるで害虫のようにそこら中に蔓延している世界だ。

 

 特に、俺の隣で怯えるこの少女――白雪琴音は、それらを引き寄せる『特級避雷針』としての性質を持っていた。

 

 彼女が歩けば、影が伸びる。

 彼女が笑えば、死者の声が混じる。

 

 今だってそうだ。

 

 琴音が俺の腕に寄り添った瞬間。

 

 道路の脇にある、古びた街灯の影から。

 ベチャリ、という、濡れた生肉を地面に叩きつけたような音が聞こえた。

 

 「ひっ……!」

 

 琴音が肩を跳ねさせ、俺の背中に隠れるようにして震え出す。

 

 俺の視界の端。

 朝の光が届かない電柱の影に、それはいた。

 

 長い、あまりにも長すぎる髪。

 そこから覗くのは、目鼻立ちのない、ただのっぺりと白い肉の塊。

 それが「ウチ、ノ、コ、ドコ……」と、ハウリングを起こしたような不快な声を引き摺りながら、こちらを伺っている。

 

 一般人なら、これを見ただけで失神するか、呪いによる精神汚染で廃人になるレベルの怪異だ。

 

 「れ、れんくん……なにか、いる。……あそこに、なにか……!」

 

 琴音の指先が、俺の服を通じてガタガタと震えているのが伝わる。

 彼女の髪から漂っていた桃の香りが、一瞬で恐怖の汗の匂いにかき消された。

 

 俺は、視線をその「影」に向けた。

 

 (……うるさいな)

 

 率直な感想は、それだけだ。

 

 腹が減っている時に、耳元で蚊の羽音を聞かされているような不快感。

 

 怪異は、獲物を見つけた喜びに震え、その異常なまでに長い指先をこちらへ伸ばしてくる。

 影の中から染み出してきたその指が、琴音の足首に触れようとした、その瞬間。

 

 俺は一歩、踏み出した。

 

 ドォォォォォン!!

 

 地響きがした。

 

 俺がただ一歩、その「影」の方へ足を踏み出しただけで。

 

 アスファルトが同心円状に波打ち、怪異が潜んでいた空間の空気が、急激な圧力によって圧縮される。

 「物理」という暴力が、霊的な存在であるはずの怪異に、逃げ場のない質量として襲いかかる。

 

 「……あ、が……?」

 

 怪異の声が止まった。

 

 俺は、ただそこに「立っている」だけだ。

 だが、俺の肉体が放つ圧倒的な存在感――生物としての「質量」の差が、怪異を物理的に押し潰していた。

 

 俺は眠そうな目をさらに細め、影に向かってボソリと呟く。

 

 「……おい。そこ、通行の邪魔」

 

 「ギ、ィ……ャアアアアアアアア!!」

 

 怪異は、悲鳴ともつかない音を上げて霧散した。

 俺の放った微かな殺気と、踏み込みによって生じた真空に近い気圧の変動に、その霊体が耐えきれなかったのだ。

 

 後に残ったのは、少しだけ凹んだアスファルトと、再び静まり返った朝の通学路だけ。

 

 「……あ、れ?」

 

 琴音が、恐る恐る俺の背中から顔を出す。

 丸眼鏡の奥の大きな瞳をパチクリとさせて、誰もいない空間を見渡した。

 

 「いなくなっちゃった……?」

 

 「……気のせいだろ。ただの、野良猫か何かだ」

 

 俺はそう言って、再び歩き出す。

 

 「そ、そうなのかなぁ。でも、今のすごい音……れんくん、足踏みしただけで地面、ちょっと割れてない?」

 

 「……工事の手抜きだろ」

 

 「ええええ、そんなぁ。……あ、待ってよれんくん! 置いてかないで!」

 

 再び琴音が、俺の袖を掴んで駆け寄ってくる。

 

 彼女はまだ、自分がどれほどの絶望に囲まれているかを知らない。

 そして、自分の隣にいる男の子が、その絶望を「デコピン一つ」で粉砕できる異常者であることも。

 

 「……あ、そうだ。れんくん! 今日、学校の売店で限定のコロッケパンが出るんだよ。一緒に行こうね?」

 

 琴音が、満面の笑みで俺の顔を覗き込んできた。

 

 「……コロッケパン」

 

 その単語に、俺の脳細胞が活性化する。

 

 「……ああ。行く。絶対、買う」

 

 「ふふ、やっぱり食べ物の話になると元気になるんだから。……約束だよ?」

 

 琴音の細い小指が、俺の小指に絡まる。

 

 幽霊よりも、呪いよりも、今はサクサクの衣とソースの味が重要だ。

 

 俺たちは、再びゆっくりと歩き出す。

 

 だが。

 

 校門の影。

 電柱の裏。

 

 琴音が歩くたびに、粘りつくような「視線」が次々と増えていくのを、俺は確かに感じていた。

 

 どうやら、今日の学校は、かなり「うるさく」なりそうだ。

 

***

 

 校舎の北側、旧体育館へと続く渡り廊下の陰。

 そこは日当たりが悪く、夏場でもどこか肌寒さを感じる場所だった。

 

 「――くっ、誤差が大きすぎますわ! これでは術式の収束が間に合いません!」

 

 凛とした、だが明らかな焦りを含んだ少女の声が響く。

 

 神崎雫(かんざき しずく)は、最新鋭の「霊子演算デバイス」を握りしめ、眉根を寄せていた。

 彼女の周囲には、青白く光る幾何学模様の結界が展開されている。

 だが、その美しい紋様は、目の前の「闇」によって内側から侵食され、今にも砕け散りそうだった。

 

 「霊子圧、なおも上昇中……! この規模、ただの怨霊ではありませんわ。まさか、登校初日から『特級』に近い個体に遭遇するなんて……!」

 

 雫の視線の先。

 古びた清掃用具入れの扉が、内側から「ベコッ、ベコッ」と異常な形に盛り上がっている。

 隙間からは、真っ黒な粘液が溢れ出し、コンクリートの床を腐食させていた。

 

 それは、ただの幽霊ではない。

 この土地に積もり積もった負の感情が、一人の少女――白雪琴音という「避雷針」に引き寄せられ、実体化しようとしている災厄そのものだった。

 

 「……ん。なんか、ここ臭くないか?」

 

 その、絶望的な沈黙を切り裂いたのは。

 緊張感の欠片もない、気の抜けた少年の声だった。

 

 「なっ……!? だ、誰ですの! ここは今、国家陰陽局によって封鎖――」

 

 雫が驚愕して振り返る。

 そこには、眠そうな目で耳を掻いている少年と、その袖を必死に掴んで震えている少女の姿があった。

 

 「れ、れんくん……ここ、やっぱり嫌だよぉ。帰ろう? ねえ、帰ろうよぉ……」

 

 琴音は今にも泣き出しそうな声で、蓮の腕にしがみついている。

 彼女の眼鏡は、極度の緊張と恐怖による吐息で真っ白に曇っていた。

 

 「白雪さん!? それに、相馬くん!? いけませんわ、早くそこを離れなさい! 今のあなたたちは、ガソリンを持って火の中に飛び込むようなものですわ!」

 

 雫が絶叫する。

 だが、遅すぎた。

 

 ギィィィィィィィィィィィ!!

 

 清掃用具入れの扉が、内側から弾け飛んだ。

 

 現れたのは、無数の人間の「顔」が、一つの巨大な球体状に癒着した、悍ましい肉の塊だった。

 それぞれの顔が、異なる悲鳴を上げ、異なる呪詛を吐き散らす。

 

 「アアア……ア、アツ、イ……」「ドウシテ……」「コロス……」「ミンナ、コロス……」

 

 生理的な嫌悪感を煽る湿った音が、廊下中に反響する。

 

 「……っ、神崎家秘伝――『蒼雷鎖(そうらいさ)』!」

 

 雫が瞬時に印を結び、デバイスから青い雷の鎖を放つ。

 それは本来、中級程度の怪異なら一瞬で焼き切る強力な捕縛術だ。

 

 しかし。

 

 パリン、と。

 電球が割れるような軽い音と共に、雷の鎖は怪異の表面に触れただけで霧散した。

 

 「嘘……、わたくしの術が、干渉すらできない……!?」

 

 雫の顔から血の気が引く。

 

 怪異が、その巨大な肉塊を震わせ、琴音を目掛けて突進してきた。

 何十もの「口」が、彼女を喰らおうと、だらりと黒い涎を垂らしながら開かれる。

 

 「いやぁぁぁぁぁ!!」

 

 琴音が悲鳴を上げ、蓮の胸に顔を埋める。

 

 死。

 それも、ただの死ではない。

 この怪異に取り込まれれば、魂は永遠にこの肉塊の一部として、苦悶し続けることになる。

 

 雫は絶望に目を見開き、動けなくなった。

 演算デバイスは「ERROR」の文字を点滅させ、過負荷で煙を上げている。

 

 (終わりましたわ……。わたくしも、この子たちも……!)

 

 だが。

 

 「……おい」

 

 その、地獄の底のような空間に。

 不機嫌そうな、低い声が響いた。

 

 相馬蓮が、一歩、前に出る。

 

 「お前、さっきからうるさいんだよ。……朝から、耳鳴りがするんだけど」

 

 「相馬くん、何を!? 逃げなさい、それは物理的な干渉が不可能な幽霊の――」

 

 雫の制止は、最後まで続かなかった。

 

 蓮が、ただ「右手を軽く振るった」からだ。

 

 それは、殴るというよりも、目の前の煙を払うような。

 あるいは、飛んでいる蝿を叩き落とすような、無造作な動作。

 

 だが。

 

 ドゴォォォォォォォォォォォン!!

 

 鼓膜を破壊せんばかりの、凄まじい「衝撃」が廊下を突き抜けた。

 

 蓮の拳が空気を叩いた瞬間、その周囲の分子が異常な密度で圧縮され、目に見えるほどの「空気の壁」――極超音速の衝撃波となって放たれたのだ。

 

 「――ギ、ェ……?」

 

 怪異が、驚愕の声を漏らす暇すらなかった。

 

 物理干渉を受けないはずの霊体が、圧倒的な「質量の暴力」によって、文字通り木っ端微塵に粉砕される。

 無数の顔は拉げ、肉の塊は細胞レベルでバラバラになり、廊下の壁ごと後方の校舎裏まで吹き飛んでいった。

 

 後には、ただ「更地」になった廊下の残骸と。

 衝撃波で窓ガラスが全て割れ、沈黙に包まれた校舎だけが残った。

 

 「…………は?」

 

 雫は、腰を抜かしたまま、口を半開きにしていた。

 

 今、何が起きた?

 

 術式? いいえ、霊的な波長は一切感知できなかった。

 結界? いいえ、ただの腕の動きだった。

 

 「物理……? ただの、物理攻撃で、特級相当の霊体を……消滅させた……?」

 

 ありえない。

 そんなことは、現代魔術の理論上、絶対にありえない。

 

 「……ふぅ。……よいしょ」

 

 蓮は、軽く肩を回すと、何事もなかったかのように袖を払った。

 

 「……おい、琴音。もういないぞ。鼻水出てるぞ」

 

 「ふぇ……? あ、あれ……? お化けさんは……?」

 

 琴音が恐る恐る顔を上げる。

 彼女の丸眼鏡は、衝撃波で少し曲がっていた。

 

 「……どっか行った。……それより、予鈴鳴ったぞ。一時間目、始まる」

 

 「ええっ!? 大変! 遅刻しちゃうよぉ、れんくん!」

 

 琴音は慌てて蓮の手を引き、走り出す。

 

 「……ああ。……お腹空いたな」

 

 二人は、呆然と立ち尽くす雫の横を、さっさと通り過ぎていった。

 

 静寂が戻った廊下で、雫は震える手で、壊れた演算デバイスを拾い上げる。

 

 画面には、最後に計測された数値が表示されていた。

 

 【測定不能:対象の質量密度が計算限界を超えています】

 

 「ありえませんわ……。あんなの、人間じゃありません……。……バケモノですわ……!」

 

 雫の呟きは、秋の風に溶けて消えた。

 

 彼女が信じてきた「世界の理」が、今、一人の小学生のパンチによって、無残にも打ち砕かれた瞬間だった。

 

***

 

 昼休み。小学校の購買部は、一種の戦場と化していた。

 

 「ちょっと! そこ、押さないでくださいまし!」

 

 神崎雫は、人混みの中で揉まれながら、必死に気品を保とうとしていた。

 だが、その視線は一点――人混みの先を悠然と歩く、一人の少年に固定されている。

 

 相馬蓮。

 

 彼は周囲の狂乱などどこ吹く風で、まるで海を割るモーセのように、生徒たちの間をすり抜けていく。

 いや、すり抜けているのではない。

 彼の体が放つ見えない「質量」が、無意識に周囲の人間を物理的に押し退けているのだ。

 

 (信じられませんわ……。彼の周囲だけ、重力の分布が歪んでいますの?)

 

 雫は手元のデバイスで測定を試みるが、相変わらず針は振り切れたままだ。

 

 「れんくん、あそこ! まだあるよぉ!」

 

 琴音が指差す先。

 購買の棚には、残り二つとなった『幻の特製厚切りコロッケパン』が鎮座していた。

 

 だが。

 

 そのパンに伸びようとするのは、生徒たちの手だけではなかった。

 

 棚の裏側、次元の隙間から這い出してきた、数本の「灰色の腕」。

 それは、空腹のまま行き倒れた霊たちが、現世の食物を求めて具現化した『餓鬼(がき)』の群れだった。

 

 「ギ……ギギ……」「クワセロ……」「ソレハ、オレノ……」

 

 一般生徒には見えないその腕が、パンに触れようとした瞬間、食べ物は腐敗し、呪いの塊へと変じる。

 

 「いけませんわ! あんな低級霊の集団でも、この数では……!」

 

 雫が懐から符を取り出そうとした、その時。

 

 「……邪魔」

 

 蓮が、ボソリと呟いた。

 

 彼はパンの棚の前に立つと、親指と中指を交差させ――。

 

 パァン!!

 

 ただの、デコピン。

 小学生が遊びでやるような、その動作。

 

 しかし、蓮の指が弾かれた瞬間、その先端で「断熱圧縮」が発生した。

 

 圧縮された空気は超高温のプラズマと化し、指向性を持った衝撃波となって放たれる。

 

 「ギ、ギャアアアアアアア!?」

 

 実体を持たないはずの『餓鬼』たちが、まるで巨大なプレス機に叩き潰されたかのように、一瞬で平面状に引き伸ばされ、そのまま分子構造を維持できずに霧散した。

 

 衝撃はそれだけに留まらない。

 パンの袋を揺らすことすらなく、その「背後」の空間だけが抉り取られ、校舎の壁に小さな、しかし深すぎる穴が穿たれた。

 

 「……よいしょ」

 

 蓮は無造作に、生き残った(?)二つのコロッケパンを手に取る。

 

 「はい、琴音」

 

 「わぁ、ありがとう! やっぱりれんくんは、パン取り競争でも最強だね!」

 

 琴音は、足元で消滅していった異界の存在など微塵も気づかず、満面の笑みでパンを受け取った。

 

 その光景を、雫は震えながら見守るしかなかった。

 

 「デコピン……。デコピンだけで、空間の因果を書き換えましたわ……。あの方は……あの方は、物理法則そのものを武器にしているというのですの……?」

 

 雫の背後に、黒いスーツを着た数人の男女が音もなく現れた。

 国家陰陽局、調査班。

 

 「神崎一級陰陽師。……報告を」

 

 リーダー格の男が、無機質な声で問いかける。

 その目は、パンを頬張る蓮を、まるで「未知の危険生物」を観察するかのように射抜いていた。

 

 「……報告、ですか。ええ、報告いたしますわ」

 

 雫は、自分の手が止まらないことを自覚しながら、震える声で答えた。

 

 「対象名、相馬蓮。……彼は、既存の呪術体系では測定不可能です。……彼は、幽霊を『殴って』消します。……それも、朝食の献立を考えるような気だるさで」

 

 「物理、だと? 霊体相手にか。馬鹿げている」

 

 「馬鹿げているのは、彼の存在そのものですわ! ……局の上層部に伝えてください。白雪琴音という『避雷針』を監視する計画は、根本的な修正が必要です。……わたくしたちは今、核兵器をランドセルに詰めて歩いているような少年と、同じ教室にいるのですから……!」

 

 雫の叫びをよそに。

 

 中庭のベンチでは、蓮が幸せそうにコロッケパンを口に運んでいた。

 

 「……ん。ソース、濃いめでいいな」

 

 「でしょー? れんくん、お口にソースついてるよ?」

 

 琴音がハンカチで、蓮の口元を甲斐甲斐しく拭く。

 その平和な光景の裏で。

 

 彼らを囲む「影」は、さらに深く、さらに濃くなっていく。

 

 蓮のパンチ一発で更地になった校舎裏。

 そこに残された「残留物理量」を測定していた陰陽局の職員が、戦慄した声を上げた。

 

 「班長……! これを見てください! 彼が叩いた場所……霊的な汚染だけでなく、その場所の『因果律』そのものが、物理圧力で平坦化されています!」

 

 「何だと……?」

 

 「つまり……彼は幽霊を倒したのではない。幽霊が存在していたという『事実』ごと、この世界から押し潰したんです……!」

 

 その事実に、国家の守護者たちは沈黙した。

 

 最強の肉体を持った転生者。

 最凶の呪いに愛された少女。

 

 二人の小学生が織りなす、理不尽を力技でねじ伏せる日々。

 

 それはまだ、始まったばかりだった。

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