【朗報】物理、幽霊に効く。 ~最凶の呪いに愛された幼馴染が、最強の転生小学生に物理で救われる話~   作:匿名

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第12話 鏡の中の理不尽と、概念を握りつぶす質量

窓の外では、終わりの見えない秋の長雨が降り続いていた。

 

厚い雲に覆われた空は、午後三時だというのに夕暮れ時のような沈んだ灰色に染まり、湿り気を帯びた冷気が旧校舎の薄い窓ガラスを叩いている。

 

ザァァァ……という雨音は、日常の喧騒を遠ざけ、世界をこの古びた木造校舎の中にだけ閉じ込めているような錯覚を抱かせた。

 

「……寒い。眠い。腹が減った。これ、帰ってもいいか」

 

俺、相馬蓮は、埃っぽい廊下を歩きながら、何度目かも分からない溜息を吐き出した。

 

足元の床板が、ミシミシと不吉な軋み声を上げる。

 

俺の肉体を構成する超高密度の細胞は、ただ歩くだけでこの老朽化した建物に過剰な負荷をかけていた。一歩踏み出すたびに、俺の体重――というよりは質量の圧力が、床下の梁を悲鳴に近い震動で揺らしている。

 

「だーめだよぉ、れんくん。図書室に忘れ物しちゃったのは私なんだから、ちゃんと付き合ってくれないと。一人で行くの、なんだか怖いんだもん」

 

前を歩く琴音が、困ったような、それでいてどこかはしゃいだような声を出しながら振り返る。

 

彼女は、俺の甚平の袖を指先でちょんと掴んでいた。

 

彼女の特級避雷針としての体質が、この旧校舎に満ちる湿った霊気を敏感に察知しているのだろう。彼女の指先は僅かに震えていたが、俺の隣にいるという安心感が、その恐怖を辛うじて上回っているようだった。

 

「そうですわ、相馬くん。秋の長雨は現世と隠世の境界を溶かしますの。特にこの旧校舎は、かつて多くの怪異が封じられた場所。わたくしのデバイスも、先ほどから警告のアラートを出しっぱなしですわよ」

 

俺の斜め後ろで、神崎雫が深刻な顔で霊子演算デバイスを操作していた。

 

彼女は京都での一件以来、俺の行動を監視するという名目で、以前にも増して執拗に同行するようになっていた。彼女のデバイスの画面には、校舎全体の霊的濃度を示す真っ赤な等高線が、まるで生き物のようにうごめいている。

 

「ふふっ、雫さんも心配性ですわね。蓮様が隣にいらっしゃるのですから、どんな邪悪な存在も塵一つ残らず粉砕されるに決まっていますわ。むしろ、蓮様の神々しい質量に触れられることを、怪異たちは光栄に思うべきですのよ!」

 

雫の隣では、エリーナが狂信的な輝きを瞳に宿して、俺の背中を拝むように見つめていた。

 

校庭に埋められたショックで、彼女の頭の中の回路はどうやら致命的な方向へ書き換えられてしまったらしい。かつての聖女としての矜持はどこへやら、今の彼女にとって俺は「歩く物理の神」であり、彼女はその後を追う筆頭信者という立ち位置を自称していた。

 

「……お前ら、うるさい。……さっさと図書室に行って、忘れ物を拾って帰るぞ。今夜はカレーだって、母さんが言ってたんだ」

 

「あ、カレー! いいな、私も食べに行っちゃおうかな」

 

琴音が笑う。

 

その穏やかな会話が、旧校舎の突き当たりにある大きな「姿見」の前に差し掛かった瞬間、唐突に断絶した。

 

ピタリ、と。

 

それまで聞こえていた雨音が消えた。

 

いや、消えたのではない。

 

世界の音そのものが、何かに吸い込まれるようにして、不自然なほどの静寂に置き換わったのだ。

 

「……っ!? 反応が消えましたわ!? いいえ、空間の位相が反転しましたのよ! 相馬くん、白雪さんを――」

 

雫の叫びよりも早く、廊下の突き当たりに置かれた巨大な姿見が、ボォォォ……と不気味な蒼い光を放ち始めた。

 

その鏡面は、もはや周囲の景色を映す道具ではなかった。

 

波打つ水面のようにうごめく鏡の奥から、無数の、白く透き通った「手」が伸びてくる。

 

「え……? あ……」

 

琴音が声を漏らす暇もなかった。

 

一瞬。

 

まさに瞬きをするよりも短い刹那の間に、無数の手は琴音の細い腕や腰、そして長い髪に絡みついた。

 

「琴音!」

 

俺は反射的に手を伸ばした。

 

俺の指先が、琴音の白いブラウスの裾を微かに掠める。

 

だが、俺がその圧倒的な「重み」を指先に込めて彼女を引き寄せようとした瞬間、鏡の奥から聞こえてきたのは、この世のものとは思えない、嘲笑うような笑い声だった。

 

ズブッ。

 

泥水に沈むような音と共に、琴音の身体が、鏡の「面」の中へと吸い込まれていく。

 

「きゃあああああああっ!!」

 

短い悲鳴。

 

それが、この旧校舎に残された最後の一音だった。

 

鏡の表面が一度だけ大きく波打ち、その後には、ただ静まり返った廊下と、主を失って虚しく光を反射する古い姿見だけが残された。

 

「……琴音」

 

俺の伸ばした手が、空を切る。

 

俺の肉体が、無意識のうちに激しい殺意を放ち始めた。

 

ギチィッ……!!

 

俺が拳を握りしめただけで、周囲の空気が一気に吸い込まれ、真空状態となった廊下に強烈な衝撃波が走り抜けた。

 

「相馬くん、待って! 鏡を割ってはいけませんわ!!」

 

俺が鏡を粉砕しようと右拳を引き絞った瞬間、雫が必死の形相で俺の腕に縋り付いた。

 

「今、物理的にこの鏡を壊せば、鏡の中にいる白雪さんの存在も数千の破片に分断されてしまいますの! 彼女の魂が、現実世界との繋がりを完全に失い、修復不可能な状態で霧散してしまいますわよ!」

 

「……じゃあ、どうしろって言うんだ。……あいつ、カレーを食べ損ねるだろ」

 

「鏡の向こう側……反転世界へ直接乗り込むしかありませんわ。幸い、扉(ゲート)はまだ閉じていません。……行きましょう。彼女を救い出せるのは、わたくしたちだけですわ!」

 

雫の決死の覚悟を秘めた瞳が、俺を見据える。

 

「……チッ。……面倒な。……後で必ず、倍返しのカレーをご馳走させるからな」

 

俺は不機嫌そうに吐き捨てると、雫、そしてなぜかワクワクした顔で俺の後ろについてくるエリーナと共に、蒼く光る鏡の面へと歩みを進めた。

 

鏡の表面に触れた瞬間、脳を直接冷水で洗われるような、暴力的なまでの寒気が全身を襲った。

 

視界が歪む。

 

上下左右の感覚が消失し、胃の中身が逆流するような不快な浮遊感が数秒間続いた。

 

次の瞬間、俺たちが立っていたのは、見覚えのある、しかし決定的に「違う」廊下だった。

 

「……ここは」

 

俺は、周囲を見渡して呟いた。

 

景色は、先ほどまでいた旧校舎と全く同じだ。

 

だが、全ての文字が裏返しになり、窓の外の景色は、色が欠落したような不気味な灰色の世界へと変わっている。

 

何よりも異様だったのは、色彩の消失だった。

 

俺の着ている甚平の紺色も、雫のデバイスの青いランプも、エリーナのプラチナブロンドの髪も、この世界では全てが「白と黒」のグラデーションに塗り潰されていた。

 

「反転世界……。鏡の中の、概念の領域ですわ」

 

雫が震える声で言った。

 

「見てください。わたくしたちの立ち位置も、左右が逆転していますのよ。ここでは全ての因果律が、鏡の中のルールに従って再定義されているのですわ」

 

俺たちは、琴音の気配を探して廊下を歩き始めた。

 

足音一つしない、死に絶えた世界。

 

俺たちが一歩進むたびに、どこからともなくクスクスという、無数の子供が笑うような声が聞こえてくる。

 

「……見つけましたわ。あそこですわよ!」

 

雫が指差した先。

 

廊下の突き当たりにある音楽室の扉が、ゆっくりと、誘うように開いていた。

 

俺たちは音楽室の中に踏み込む。

 

そこには、巨大な合わせ鏡のように配置された何枚もの鏡に囲まれて、中央で立ち尽くす琴音の姿があった。

 

「琴音!」

 

俺が呼びかける。

 

だが、琴音は答えない。

 

彼女は、自分と全く同じ顔をした「何か」に囲まれて、呆然と立ち尽くしていた。

 

「……ふふっ、待っていたよ。……新しい、獲物たち」

 

琴音の姿をした「それ」が、首を不自然な角度に曲げて笑った。

 

一体ではない。

 

音楽室にある何枚もの鏡の中から、琴音の姿をした影が次々と這い出し、俺たちを包囲していく。

 

「相馬くん、あれは鏡の魔物……『合わせ鏡の主』ですわ! 彼女の記憶と姿を奪い、自分たちの形を安定させているのですのよ!」

 

「……そうか。じゃあ、殴れば終わるな」

 

俺は、最も近くにいた偽物の琴音に向かって、無造作に右手を振るった。

 

俺の拳が、空気を切り裂く。

 

ドォォォォォン!!

 

音速を超えた衝撃波が、偽物の琴音を粉砕しようと突き抜ける。

 

だが。

 

「……何ッ!?」

 

俺の拳が偽物に触れる直前。

 

偽物の琴音の身体の表面が、一瞬だけ鏡のように硬質に発光した。

 

その瞬間。

 

俺が放ったはずの衝撃波が、寸分違わず同じ方向、同じ威力で、俺自身の右拳へと跳ね返ってきたのだ。

 

バキィィィィィィィィン!!

 

俺の拳と、俺自身の衝撃波が激突し、凄まじい爆風が音楽室を揺らした。

 

「相馬くん!? あなた、何をしたんですの!?」

 

雫が叫ぶ。

 

「……反射、か」

 

俺は、痺れる右手を軽く振った。

 

俺の超高密度の肉体は、俺自身の一撃に耐えきったが、普通の人間なら今の反動だけで腕が粉々に砕け散っていただろう。

 

「おっほっほ! 無駄だよ、無駄。ここでは、あらゆる力は自分へと返る。……愛も、魔法も、そしてお前のその醜い暴力も、全ては鏡によって反射される定めなのだから!」

 

偽物の琴音たちが、一斉に笑い声を上げる。

 

「相馬くん、いけませんわ! この空間そのものが、巨大な『反射板(リフレクター)』になっていますの! 物理攻撃を加えれば加えるほど、あなた自身が破壊されてしまいますわよ!」

 

雫が必死にデバイスを操作するが、彼女の放つ解析の光さえも、空中で反射されて彼女自身の視界を奪う。

 

エリーナが放った浄化の光も、万華鏡のように反射を繰り返し、音楽室中を暴走する光の矢となって自分たちに降り注いだ。

 

「きゃああああっ! 自分の光が、痛いですわぁぁぁ!!」

 

エリーナが悲鳴を上げる。

 

暴力も、魔法も、光さえも。

 

この鏡像世界においては、あらゆる「力」は加害の道具ではなく、自分を傷つけるための刃へと変貌していた。

 

「……物理が効かない。……どころか、自分に返ってくるのか」

 

俺は、左右反転した自分の手を見つめた。

 

俺の最も強力な武器である「質量」と「運動エネルギー」が、ここでは最大の敵となっていた。

 

鏡の魔物たちが、勝利を確信したように、じりじりと距離を詰めてくる。

 

「さあ、どうする? お前が力を振るえば振るうほど、お前は自分自身の拳で、肉塊へと変わっていくんだよ……!」

 

数万キロの質量を宿した俺の肉体が、皮肉にも、俺自身を抹殺するための檻へと変わっていた。

 

鏡の中の音楽室に、絶望的な沈黙が流れる。

 

俺たちの背後で、雨の音だけが、不気味な拍動のように響き続けていた。

 

***

 

鏡の中の音楽室には、不気味なほど透明で冷ややかな沈黙が流れていた。

 

左右が反転し、色彩が失われたモノクロームの世界。

 

そこで数人の琴音が、全く同じタイミングで、全く同じ角度に首を傾げて俺たちを嘲笑っている。

 

「どうしたの? 殴ればいいじゃない。鋼鉄をも容易く拉ぐ、その自慢の暴力でさ」

 

偽物の琴音が、俺の顔を覗き込むようにして囁いた。

 

彼女たちの瞳は、硝子細工のように無機質で、それでいて底知れない悪意に満ちている。

 

「お前の拳は重い。重すぎて、反射された衝撃を自分自身でも受け止めきれないはずだよ。……ほら、さっきの痺れが物語っているだろう?」

 

鏡の魔物は、琴音の記憶の断片を弄ぶように、音楽室の壁一面に「今夜の夕食」を映し出した。

 

湯気を立てる温かなカレーライス。だが、それすらも左右が逆転し、色彩のない灰色の幻影としてしか存在していない。

 

「お前はここに閉じ込められ、自分自身の重みに押し潰されて死ぬんだ。出口なんてどこにもない。ここは鏡。お前を映し出し、お前を拒絶する、お前のための墓場なのだから」

 

魔物たちが一斉に笑い声を上げる。

 

ハハハハ、という乾いた笑いが、合わせ鏡によって無限に増幅され、鼓膜を直接削るような不快なノイズとなって室内に充満した。

 

「相馬くん……。ダメですわ。わたくしのデバイスによれば、この空間の『反射定数』は無限大。放たれたエネルギーは一ミリの減衰もなく、そのまま発生源へと回帰しますの」

 

神崎雫が、床に膝をついたまま、震える声で告げた。

 

彼女の霊子演算デバイスは、狂ったようにノイズを走らせ、最後にはプツリと音を立てて完全に沈黙した。

 

魔術的な理屈が、鏡の中の「反射」という絶対的なルールによって完全に無効化されている。

 

「物理が通じず、魔術も返される。……詰み、ですわ。わたくしたちは、この概念の檻から出る術を持っていませんのよ!」

 

雫の瞳から、絶望の涙が零れ落ちる。

 

「いいえ! 雫さん、それは違いますわ! 蓮様が、このような小賢しい硝子の細工に負けるはずがありません!」

 

絶望に沈む雫とは対照的に、エリーナだけが頬を紅潮させ、俺の背中を見つめて熱狂的な声を上げた。

 

「蓮様は物理の神! 神が、自らが生み出した理(ルール)に縛られる道理などありませんわ! さあ、蓮様! この愚かな鏡に、真の『重み』というものを教えて差し上げてくださいまし!」

 

エリーナが、祈るように胸の前で手を組む。

 

俺は、そんな外野の騒ぎを耳の端で聞き流しながら、じっと自分の右拳を見つめていた。

 

……反射、か。

 

確かに、殴れば衝撃は返ってくる。

 

ベクトルの向きが反転し、俺が与えた運動エネルギーは寸分違わず俺の肉体へと叩き込まれる。

 

それは、ボクシングで言うところのカウンターを、自分の全力で自分自身に喰らわせるようなものだ。

 

だが。

 

「……反射するってことは、受け止めて、押し返してるってことだろ」

 

俺は、低く、澱んだ声で呟いた。

 

「なに?」

 

魔物の琴音が、当惑したように眉を寄せた。

 

「……どんなに優れた鏡でも、処理できる限界(キャパシティ)がある。……お前が俺の力を『反射』しようとするなら、俺が、お前の反射速度が追いつかないほどの『存在』を、ここに置けばいいだけだ」

 

「何を言っている……? 存在を置く? 物理攻撃が効かないと言っているのが理解できないのか!」

 

「……殴りはしないよ。疲れるし、手が痺れるからな」

 

俺は、ゆっくりと歩き出した。

 

向かう先は、偽物の琴音ではない。

 

音楽室の壁。そこに嵌め込まれた、巨大な、この異界の中核を成している姿見だ。

 

俺は、その鏡の表面から数センチメートルの距離で、右の手のひらをそっと添えた。

 

触れてはいない。

 

ただ、そこに「置いた」だけだ。

 

「……よいしょ」

 

俺は、心臓の拍動を一つ。

 

自らの肉体を構成する、全原子の振動を停止させ、全質量を一箇所に集中させる。

 

これまで、俺は周囲の環境を壊さないように、常に自分の「重み」を分散させてきた。

 

だが、今はその必要がない。

 

俺は、自分自身の存在密度を、百倍、千倍、万倍へと、一気に加速させていく。

 

ギチィィィィッ……!!

 

音楽室の空気が、悲鳴を上げた。

 

いや、空気だけではない。空間そのものが、俺の右手の周囲でミシミシと軋み始め、光さえも逃げ出せないほどの「重圧」が室内に立ち込めた。

 

「……っ!? な、何ですの、この重力値!? 相馬くんの周囲だけ、空間が『垂直に』陥没していますわ!!」

 

雫が絶叫し、這いつくばるようにして床にしがみついた。

 

彼女たちの身体が、目に見えない巨大な手に押さえつけられたかのように、床へと平伏させられる。

 

「あ、アガ……ガッ……!? ば、馬鹿な……。何もしていないだろう! ただ手をかざしているだけなのに、なぜ……!」

 

鏡の魔物たちが、苦しげに顔を歪めて崩れ落ちた。

 

彼女たちは俺の力を反射しようとした。だが、反射すべき「運動エネルギー(パンチ)」が来ないのだ。

 

そこにあるのは、反射という処理をあざ笑うかのように、ただひたすらに増大し続ける「静止した質量」。

 

鏡の「反射」というルールは、飛んできた矢を跳ね返すことはできても、自らの上に置かれた「一兆トンの鉛」を跳ね返すことはできない。

 

それは、処理能力を遥かに超えた情報(データ)を叩きつけられ、バグを引き起こしたコンピュータに近い状態だった。

 

ビキッ……ビキビキビキィィィィッ!!

 

ついに、姿見の表面にひび割れが走った。

 

それは物理的な衝撃によるものではない。

 

あまりにも高すぎる密度の存在がそこに「在る」ことに、世界の理(ルール)が耐えきれず、因果律のレベルで空間が破綻を始めたのだ。

 

「……反射しきれないだろ。……お前の鏡は、ちょっと薄すぎる」

 

俺の声が、ひび割れた空間に響く。

 

「ま、待て……! やめろ! これ以上、重みを増すな! 空間が、鏡の世界そのものが壊れてしまう!」

 

魔物が、琴音の姿を保てずに、ドロドロとした黒い液体となってのたうち回る。

 

だが、俺は止めない。

 

「……琴音を、返せ。……あと、カレーの幻覚を見せたのは、減点だ。……あれのせいで、余計に腹が減った」

 

俺は、右手にさらに力を込めた。

 

握るのではない。

 

ただ、ひび割れた空間の隙間に、指先を「差し入れる」だけだ。

 

バリバリバリバリィィィィッ!!

 

世界が、硝子細工のように粉々に砕け散る音がした。

 

左右反転した音楽室が、色彩を欠いた校舎が、鏡の魔物の悲鳴と共に、一気に崩壊していく。

 

「相馬くん! 空間の壁が、物理的に引き裂かれていますわ!!」

 

雫の叫び声。

 

俺は、ひび割れた空間の「向こう側」に、震えながら蹲っている本物の琴音の姿を見つけた。

 

「……おい、琴音。……帰るぞ」

 

俺は、次元の裂け目に無理やり右腕を突っ込んだ。

 

鏡の中の「概念的な壁」など、俺の肉体密度からすれば、濡れた半紙を破るよりも容易い抵抗でしかない。

 

俺は琴音のブラウスの襟首を、猫を運ぶようにしてガシッと掴んだ。

 

「ひゃっ……!? れ、れんくん!?」

 

「……大人しくしてろ。……今、引っ張り出す」

 

俺は全身のバネを使い、琴音の身体を「鏡の世界」から「現実の廊下」へと、力任せに引き抜いた。

 

ドォォォォォォォォォォォォォォォォォォン!!

 

猛烈な真空圧が発生し、俺たちがいた鏡の異界が、内側からの重圧に耐えかねて爆発的な四散を遂げた。

 

視界が真っ白に染まり、激しい耳鳴りが周囲を包む。

 

数秒後。

 

俺たちが立っていたのは、秋の雨が窓を叩く、薄暗い旧校舎の廊下だった。

 

「……ハァ、ハァ……っ。……戻って、これましたの?」

 

雫が、埃まみれの床に手をつき、荒い呼吸を繰り返している。

 

彼女の背後では、エリーナが「やはり蓮様ですわ! 概念を物理で踏み倒すなんて、わたくし、一生ついていきますわぁ!」と、恍惚とした表情で俺を拝んでいた。

 

足元を見れば、そこにはかつて巨大な姿見があった場所に、細かな硝子の砂がうず高く積もっていた。

 

鏡の魔物も、反転世界も、概念的な反射の理も。

 

その全ては、俺の放った「質量」に耐えきれず、修復不可能なレベルまで粉砕され、ただのゴミへと成り果てていた。

 

「……うぅ。……れんくん、ありがとう……。すっごく、怖かったよぉ……」

 

琴音が、震える手で俺の甚平の袖を掴み、そのまま俺の胸に顔を押し当てて泣きじゃくった。

 

彼女の体温が、雨で冷え切った廊下に微かな暖かさを運んでくる。

 

「……ああ。……もう大丈夫だ。……それより琴音、忘れ物はどうした」

 

俺が呆れたように尋ねると、琴音は涙を拭いながら、ポケットから小さな、色褪せた図書カードを取り出した。

 

「……これ。これだけは、どうしても失くしたくなかったから……」

 

「……そんな紙切れ一枚のために、俺は世界を一つ壊したのか」

 

俺は深く、深いため息を吐き出した。

 

肉体の疲労は限界に近い。

 

これだけの「密度」を一時的に発揮した代償は大きく、今すぐにでもどこかで横になりたい気分だった。

 

「相馬くん……。あなた、なんてことをしてくれましたの……」

 

雫が、硝子の砂を手に取り、絶望的な表情で呟いた。

 

「『概念的な鏡の世界を、物理的な重圧でオーバーフローさせて圧潰させた』……。こんな報告書、誰が信じますのよ! わたくし、もう魔術師としてのプライドが、この砂みたいに粉々ですわ……!」

 

「……そうか。じゃあ、その砂を片付けてから帰れよ。……俺たちは、カレーが待ってるからな」

 

俺は、まだ俺の腕に縋り付いている琴音の頭を無造作に撫でると、そのまま出口へと歩き出した。

 

外では、雨が少しだけ小降りになっていた。

 

鏡の中の左右反転した、偽物の夕食ではない。

 

家で待っている、俺の母さんが作った、色彩に満ちた本物のカレーの匂いを、俺は鼻腔の奥に感じていた。

 

「あ、待ってよぉ、れんくん! 私も食べるってばぁ!」

 

「……三杯までだぞ。……それ以上は、俺の分がなくなる」

 

「もーっ、ケチなんだから!」

 

二人の小学生の、どこにでもあるような、けれどあまりにも異常な放課後の終わり。

 

旧校舎の廊下に残された、山のような硝子の砂だけが、そこにあった「理不尽」を蓮が物理で上書きした唯一の証拠だった。

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