【朗報】物理、幽霊に効く。 ~最凶の呪いに愛された幼馴染が、最強の転生小学生に物理で救われる話~ 作:匿名
窓の外は、燃えるような夕焼けに染まっていた。
秋の日は短く、校舎の影が地面を這うように長く伸びている。
放課後の静かな教室。
俺、相馬蓮は、忘れ物を取りに戻った。
誰もいないはずの自分の席。
そこに手を置いた瞬間、奇妙な違和感が指先を襲った。
「……なんだ、これ」
木製のはずの机の表面が、ぐにゃりと柔らかく沈み込んだのだ。
まるで、濡れた生ゴムか、あるいは巨大な生き物の舌の上に触れたような感触。
俺は眉をひそめて、机の脚を見つめた。
そこから、薄いピンク色の膜のようなものが、じわじわと床を這い上がっている。
それは呼吸をするように細かく脈打っていた。
ドクン。
耳の奥で、不気味な重低音が響く。
それと同時に、鼻を突くような生臭い匂いが立ち込めた。
鉄の匂いと、脂の匂い。
それは、夏の盛りの肉屋の裏口で嗅ぐような、命が腐りかけている不快な臭気だった。
俺は無言で教室の外に出た。
廊下の景色は、既に俺の知っている学校ではなくなっていた。
壁一面が、湿った赤黒い皮膚に覆われている。
天井からは、無数の赤い血管が、まるで垂れ下がる蔦のようにぶら下がっていた。
床を踏みしめるたびに、グチャリ、という嫌な音が足裏から伝わってくる。
まるで、巨大な生き物の喉の奥を歩いているような錯覚。
「相馬くん! 来ないで! そっちへ行ってはダメですわ!」
廊下の向こうから、悲鳴にも似た叫び声が聞こえてきた。
神崎雫だ。
彼女は階段の踊り場で、腰を抜かしたように座り込んでいた。
その周囲の壁からは、無数の「人間の指」が生え出している。
指たちは意志を持っているかのように、雫の服を掴もうと必死に蠢いていた。
「……神崎。これは何の冗談だ。掃除が大変そうだぞ」
俺が平然と声をかけると、雫は顔を真っ白にして俺を見上げた。
「掃除なんてレベルではありませんわ! この校舎……いえ、この街の土地そのものが、古い神様の『内臓』に作り変えられていますの!」
雫は震える手で、液晶の割れたデバイスを俺に向けた。
「産土の神……。この土地に深く眠っていた、形のない命の塊ですわ。それが長い眠りから目を覚まし、自分を維持するために、中にいる人間を取り込んで食べようとしていますのよ!」
雫の言葉を裏付けるように、上の階からドロドロとした「何か」が階段を流れてきた。
それは、かつては生徒だったものたちの、成れの果てだった。
顔と顔が溶け合い、手と足がデタラメに繋がった肉の塊。
彼らは一つの巨大な葡萄のような塊となって、天井からぶら下がっていた。
肉の隙間からは、うつろな目玉がいくつも覗き、意味をなさない言葉をブツブツと呟いている。
「一つになろう……蓮くん……。痛くないよ……重くないよ……」
肉塊の中から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
それは琴音の声だった。
俺の胸の奥で、冷たい火が灯った。
それは恐怖ではない。
自分の大切な居場所を、こんな不衛生で気味の悪いもので汚されたことへの、底知れない不快感だった。
前を見れば、廊下の奥にある教室の壁に、半分だけ埋まった琴音の姿があった。
彼女の瞳に光はなく、頬には血管のような細い筋が何本も浮き出ている。
「……おい。琴音をそんな変な壁に混ぜるな。見ていて不愉快だ」
俺は静かに一歩を踏み出した。
産土の神は、俺という存在をはっきりと認識したらしい。
校舎全体が、激しい痙攣を起こすように震え始めた。
「ギ、ギギィィィィィッ……!!」
壁という壁が大きな口を開き、俺に向かって黄色い粘液を吐き出した。
産土の神は、俺を飲み込もうと必死に肉壁を押し寄せてくる。
普通の人間なら、この光景を見ただけで心が壊れてしまうだろう。
死者の囁き、命が混ざり合う生理的な嫌悪感、そして逃げ場のない閉鎖空間。
だが、俺の心は、俺の肉体と同じくらい「密度」が高すぎた。
どれほど恐ろしい幻覚を見せようと、どれほど不気味な声で囁こうと、それらは全て俺の心の表面で弾き飛ばされる。
「……お前の声は、ノイズにすらならない。ただ、臭いだけだ」
俺は、自分に絡みつこうとする無数の血管を、手で無造作に引きちぎった。
引きちぎられた場所からは、ドス黒い血が噴き出し、床を赤く染めていく。
産土の神は、俺の「重み」に気づいたようだ。
この校舎という胃袋の中に放り込まれた、決して消化できないほどに硬く、重い、未知の異物。
壁から伸びる無数の手が、俺の足を掴み、床の中に引き摺り込もうとする。
俺の足元が、巨大な口のように開き、俺を飲み込もうと牙を剥いた。
「蓮様! その汚らわしい神を、地の底まで叩き返して差し上げなさい!」
いつの間にか背後に現れたエリーナが、血の雨に打たれながら叫んだ。
彼女の放つ光さえも、この肉の迷宮の中では赤く淀んでいる。
「……言われなくても、そうするつもりだ。こんなところで夕食の時間を迎えたくない」
俺は、さらに一歩を踏み出した。
グチャッ、という鈍い音が響き、俺の足が肉の床を突き破って、建物の土台まで沈み込んだ。
産土の神は、俺を飲み込もうと必死に肉壁を押し寄せてくる。
右も、左も、上も、下も。
全ての景色が、脈打つ赤い肉と、白い骨の突起に覆い尽くされた。
俺の体の中にある「質量」が、周囲の肉壁を物理的に圧迫し始めた。
俺がそこに立っているだけで、産土の神の細胞は押し潰され、悲鳴を上げている。
神は焦っていた。
自分よりも遥かに強固な「現実」を飲み込んでしまったことに。
俺は、壁の中に埋もれている琴音のすぐ側まで辿り着いた。
彼女の顔に触れようとする肉の触手を、視線だけで射抜くようにして睨みつける。
「……離せと言っただろ」
俺の声は、低く、地響きのように響いた。
俺の体を取り囲む肉壁が、俺の放つ「圧力」に耐えかねて、ミシミシと音を立てて裂け始める。
産土の神は、俺という異物を消化することを諦め、今度はその力で俺を押し潰そうと、校舎全体の質量を俺に集中させてきた。
天井が低くなり、左右の壁が迫ってくる。
だが、俺の肩には、建物一つ分の重みなど、羽毛ほどの重さも感じられなかった。
逆に、俺が肩を僅かに動かすだけで、迫ってきた壁が逆に粉砕されていく。
「……神様だか何だか知らないが」
俺は、ゆっくりと右拳を引いた。
俺の体の中にある、全質量を右拳の一点に集中させる。
それは、宇宙の始まりの瞬間を、一つの掌の中に閉じ込めるような作業だ。
俺の右腕の周りで、空気が物理的に歪み始めた。
光さえも曲がり、真っ黒な影を作り出していく。
「……お前の胃袋ごと、消してやる」
俺は、目の前の巨大な肉の塊に向かって、静かに、けれど絶対的な力を込めて拳を放った。
衝撃波が生まれる前の、一瞬の静寂。
世界が、俺の拳の先にある一点を見つめているような気がした。
俺の心にあるのは、ただ一つ。
早くこの不気味な景色を消し去って、琴音と一緒に、温かい夕食が待っている家へ帰る。
その純粋な願いが、俺の拳に宿る質量を、さらに一段階上の領域へと引き上げた。
産土の神が、初めて本物の恐怖を感じて絶叫した。
だが、その悲鳴も、俺の拳が放つ破壊の音にかき消されていく。
校舎全体が、激しい光と震動に包まれた。
これから起きる出来事が、この街の歴史を根底から書き換えてしまうことを、俺は確信していた。
俺の拳が肉壁に触れた瞬間、肉の細胞は分子レベルで分解され、蒸発していく。
神という概念そのものが、俺の物理的な「重み」によって、この世界から消去されようとしていた。
俺は目を閉じ、ただその一撃を、神の心臓へと叩き込んだ。
これ以上、俺の日常を汚させはしない。
その思いと共に、俺は全ての力を解放した。
***
俺の右拳が、脈動する真っ赤な肉壁に触れた。
その瞬間、世界から音が消えた。
衝撃波さえも発生する暇がない。俺の拳が放った圧倒的な質量は、産土の神の細胞を「破壊」するのではなく、存在そのものを「圧縮」し、この世から消し去っていった。
メキメキ……、という、硬い氷が割れるような音が、校舎の奥深くから響いてくる。
いや、それは建物の音ではない。この土地に根を張っていた神の、魂の悲鳴だった。
俺の拳から放たれた目に見えない圧力は、血管を伝わり、内臓を通り抜け、校舎の地下に隠されていた神の巨大な心臓を直撃した。
一瞬の静寂。
そして、ドォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォン!!
校舎全体が、激しい痙攣を起こした。
壁を覆っていた赤い肉が、一斉に色を失い、乾いた灰色の砂へと変わっていく。
血管は干からびて千切れ、天井からぶら下がっていた肉の塊は、ただの塵となって床に降り注いだ。
生臭い匂いが消え、代わりに焦げたような、それでいてどこか清々しい風が廊下を吹き抜けていく。
「……あ、アガ、ガ……ッ!? 何だ……何なのですの、この力は……!」
床に倒れ込んでいた神崎雫が、呆然としながら周囲を見渡した。
彼女の瞳には、信じられない光景が映っていたはずだ。
つい数十秒前まで、自分たちを飲み込もうとしていた地獄のような光景。それが、たった一人の小学生の、たった一度の「拳」で、跡形もなく消滅してしまったのだから。
雫が持っていた霊子演算デバイスは、あまりの異常事態に耐えきれず、激しい火花を散らして真っ黒に焦げ付いた。
「物理現象……? いいえ、これはもはや『存在の暴力』ですわ……。神という巨大な概念を、自分という更なる質量の塊で、上書きして消してしまったというのですの……?」
雫の声は、賞賛よりも深い恐怖に震えていた。
魔術や儀式といった、彼女が人生をかけて学んできた理屈が、目の前の少年の一撃によってゴミ屑のように扱われたのだ。
俺は、崩れ落ちた壁の隙間から、琴音の姿を探した。
「……おい、琴音。いつまで寝ているんだ。帰るぞ」
俺は、床に積もった白い砂を足で退けながら、彼女の元へ歩み寄った。
壁から解放された琴音は、まるで深い眠りから覚めたばかりの子供のように、目を擦りながらゆっくりと上体を起こした。
「……れんくん? あれ、私、何してたんだっけ。なんだか、とっても暖かい、お布団の中にいた気がするよ」
彼女の瞳は、いつも通りの無垢な輝きを湛えていた。
俺の拳が放った圧力が、彼女を取り込んでいた怪異の概念を、記憶ごと綺麗に消し去ってくれたらしい。
俺は、彼女の服に付いた白い砂を、大きな手でパッパと払ってやった。
この砂は、かつて神だったものの成れの果てだ。
神が蓄えていた数千年の執念も、人々の命を奪おうとした悪意も、俺の質量の前ではただの「不純物」に過ぎない。
「……夢だ。お前が寝惚けて壁に突っ込んだだけだ」
「ええっ!? そんなわけないでしょぉ! もー、れんくんはいつも私を子供扱いするんだから!」
琴音が頬を膨らませて立ち上がる。
その平和なやり取りを見て、雫は膝から崩れ落ち、力なく壁に背中を預けた。
「……神様をワンパンで消滅させて、それを『寝惚けた』で済ませるなんて……。わたくし、もうこの街の担当を辞めたいですわ……」
雫のデバイスからは、プツリ、と最後のアラートが鳴り、静かに煙が上がった。
当然だ。彼女たちが直面していたのは、この土地の歴史そのものと言ってもいい、古の神の顕現だったのだから。
それを、単なる「邪魔だから」という理由で、物理的にデリートしてしまった少年。
「蓮様! やはりあなたは真の神! いえ、神をも超える物理の権化ですわ! わたくし、感動で胸が張り裂けそうですのぉぉ!」
背後では、血と砂に塗れながらも、エリーナが狂信的な笑顔で俺を拝んでいた。
彼女の瞳には、かつての聖女としての面影はなく、ただ目の前の「絶対的な力」に魅了された信者の熱狂だけが宿っていた。
俺は、そんな外野の騒ぎを無視して、窓の外に目を向けた。
街の明かりが、ポツリポツリと灯り始めている。
肉の膜に覆われていた悪夢のような景色は消え、そこにはいつも通りの、少し寂しい地方都市の夜景が広がっていた。
「……おい、琴音。帰るぞ。腹が減った」
「うん! 今日のご飯、なんだろうね! あ、でもその前に、駅前のパン屋さんに寄ってもいいかな?」
琴音が校門の先を指差して、嬉しそうに声を弾ませた。
「あのね、今日から新しいメロンパンが発売されるんだって! お外はカリカリで、中はふわふわのやつ。れんくんも食べたいでしょ?」
「…………メロンパンか。いいな。それを食べてから帰るか」
俺たちは、砂だらけの校舎を後にした。
俺が一歩歩くたびに、校庭の地面が微かに震え、神の残骸である白い砂が舞い上がる。
産土の神を消し去り、土地の因果律を物理的に上書きしてしまった結果、この街の重力は、以前よりも僅かに「安定」していた。
背後では、雫が「この砂、どうやって説明すれば……! 校内放送で『砂遊びの大会がありました』なんて言えるわけありませんわぁ!」と、泣きながら校庭の砂をかき集めていた。
エリーナはその後ろで、「蓮様の砂……! これは聖なる遺物に違いありませんわ!」と、怪しげな瓶に砂を詰め始めている。
そんな二人を置き去りにして、俺と琴音は、夜の街へと歩き出した。
アスファルトを踏みしめるたびに、俺の足元からは心地よい震動が伝わる。
さっきまでの生理的な嫌悪感や、肉が蠢くグロテスクな光景は、もうどこにもない。
俺の持つ「圧倒的な質量」が、全ての異界を押し潰し、平和な日常という名の現実を、強引にこの場所に繋ぎ止めたのだ。
「れんくん、走ろう! 売り切れちゃうかも!」
「……嫌だ。走ったら、余計にお腹が空くだけだろ」
琴音の楽しげな笑い声が、夜の静寂に溶けていく。
俺は、ポケットの中で小銭の音を鳴らしながら。
甘いメロンパンの味と、家で待っている温かい夕食の匂いを思い浮かべて。
神様を殺したばかりのその足で、どこまでも普通に、ゆっくりと夜の道を歩いていった。
明日も、明後日も、この街には「普通」の朝がやってくる。
俺という、あまりにも重すぎる「現実」が、全ての異界を上書きしてしまったのだから。
俺たちがパン屋の前に着いた時、店主は不思議そうな顔で俺たちを見つめた。
「おや、相馬君じゃないか。こんな遅くにどうしたんだい?」
「……メロンパン、二つ。……それと、おまけのラスクも」
俺は、いつも通りの無愛想な声で注文した。
店主の背後にあるテレビでは、ニュースキャスターが「本日、市内で局地的な地震が発生しましたが、被害は確認されておりません」と伝えていた。
地震。
雫が書く報告書でも、きっとそう分類されるのだろう。
神の死。概念の崩壊。そして、一人の少年の夕食前の散歩。
全ては、その「地震」という言葉の裏側に、永遠に隠されることになる。
俺は、手渡されたばかりの温かいメロンパンを琴音に渡した。
「はい、お前の分」
「わぁ、ありがとう! れんくん、大好き!」
琴音が、満面の笑顔でメロンパンに齧り付く。
その笑顔を守るためなら、俺は何度でも、世界を押し潰してやるつもりだ。
俺の歩む道に、理不尽な怪異の居場所など、一ミリも残されてはいないのだから。
夜風が、俺の甚平を僅かに揺らした。
俺は、メロンパンのサクサクとした食感を楽しみながら、家路を急いだ。
今夜の夕食は、何だっただろうか。
カレーか、それともハンバーグか。
どんな美味しい料理も、琴音の笑顔も、俺がこの地に重く存在し続けているからこそ、味わえる幸せだった。
俺は、一歩ごとに地球を僅かに震わせながら、どこまでも続く真っ直ぐな道を、力強く進んでいった。
この街の「平和」は、俺の足元で、今日も静かに守られている。