【朗報】物理、幽霊に効く。 ~最凶の呪いに愛された幼馴染が、最強の転生小学生に物理で救われる話~ 作:匿名
十一月の午後は、まるで冷たい硝子の中に閉じ込められたような、透き通った静けさに満ちていた。
太陽は既に低く傾き、校舎の長い影が校庭を真っ黒に切り裂いている。
秋の風は鋭く、俺の肌を刺すように吹き抜けていった。
俺、相馬蓮は、いつものように校舎の裏にある古いベンチに腰を下ろしていた。
俺の体は、ただそこに居るだけで周囲の地面に計り知れない負荷をかけている。
俺の一歩は、この脆弱な大地にとっては巨大な重機の爪で抉られるような衝撃に近い。
だから俺にとって、この世界はどこまでも薄っぺらく、頼りないものに感じられた。
足元のアスファルトは俺の重みに耐えかねて、目に見えないほどの速さで常に悲鳴を上げている。
「……寒いな。地面が、いつもより薄い気がする」
俺は独り言を吐き捨て、自分の足元に伸びる影を見つめた。
俺の影は、俺自身の肉体と同じように、周囲の景色を塗り潰すほどに深く、濃い。
太陽の光さえも吸い込むようなその漆黒は、まるでもう一人の俺が地面に張り付いているかのようだった。
だが、今日の違和感は俺の重さから来るものではなかった。
「あ……。私の影、どこ……?」
校庭の方から、小さな震える声が聞こえてきた。
顔を上げると、一人の女子生徒が立ち尽くしていた。
彼女は自分の足元を何度も見回し、信じられないものを見るかのように絶望的な表情を浮かべていた。
西日が彼女の体を強く照らしている。
本来なら、彼女の足元には長く伸びた影があるはずだった。
だが、そこには何もない。
アスファルトは虚しく日光を反射しているだけで、彼女の存在を証明する黒い輪郭が、綺麗さっぱり消えていた。
「影が……影が逃げていく!」
誰かの悲鳴が上がった。
見れば、校庭のあちこちで同じことが起きていた。
地面に張り付いていたはずの生徒たちの影が、まるで意思を持った生き物のように、持ち主の足元からズルリと剥がれ出していたのだ。
剥がれた影たちは、地面の上を滑るようにして、校舎の影へと合流しようと猛スピードで駆けていく。
まるで、暗い場所へ帰ろうとする迷子の子供のように。
影を失った生徒たちは、最初は戸惑っていた。
だが、本当の恐怖はその後すぐにやってきた。
「え……何、これ。体が、浮く……?」
影を失った女子生徒の体が、不自然にふわふわと浮き上がり始めた。
彼女が地面を蹴ったわけではない。
まるで、彼女を地面に繋ぎ止めていた見えない鎖が、プツリと切れてしまったかのようだった。
「助けて! 足が、地面につかないの!」
彼女は空中で手足をバタつかせたが、その体は風船のようにゆっくりと空へ昇っていく。
一人だけではない。
影を奪われた生徒たちが次々と、重力を失ったかのように空へと浮かび上がっていった。
「いけませんわ! これ以上、彼らを昇らせてはなりませんわ!」
廊下から神崎雫が飛び出してきた。
彼女はいつものデバイスを構えているが、その顔は真っ青だった。
「影は、人間をこの大地に繋ぎ止めるための『重し』ですの! それを失うということは、この星の引力から切り離されることを意味しますわ!」
雫が叫ぶ中、空を見上げれば、そこには信じられない光景が広がっていた。
十一月の高い空の中央に、巨大な「黒いシミ」が浮かんでいた。
それは雲でもなければ、鳥の群れでもない。
まるで空そのものが腐って穴が開いたような、底知れない暗闇の渦。
「あれが『影を喰らう十一月』……。太陽の力が弱まるこの季節にだけ現れる、古い怪異ですわ」
雫の声は、冷たい風に掻き消されそうだった。
「あの穴は、奪った影を喰らい、その持ち主の肉体を『重さのないゴミ』として空の底へ吸い込もうとしていますの! あそこに入れば、魂ごとバラバラにされて、二度と戻っては来られませんわよ!」
空に浮いた生徒たちは、逃げ場のない空中で泣き叫んでいた。
昇れば昇るほど空気は冷たくなり、彼らの叫び声は小さく、遠くなっていく。
「……空に、穴か。目障りなところに、面倒なものを出しやがって」
俺はゆっくりと立ち上がった。
俺が動いた瞬間、ベンチを支えていた地面がバキリと音を立てて陥没した。
世界がどれほど軽くなろうと、俺の体だけは、依然としてこの世界で最も重い現実としてそこに在った。
その時だった。
「……あ。れんくん……」
すぐ隣から、弱々しい声が聞こえた。
俺の隣にいた琴音。
彼女の足元を見れば、彼女の影が、まるで剥がれかけのシールのように、踵のあたりからめくれ上がっていた。
「……体が、軽いの。ふわふわして、なんだか……眠いよ……」
琴音の瞳から光が消えかけていた。
彼女の足が地面から離れ、浮き上がり始める。
「琴音!」
俺は咄嗟に手を伸ばし、彼女の手首を掴んだ。
ガシッ、という強い感触。
俺の手に伝わってくる彼女の熱。
だが、俺が彼女を掴んだ瞬間、凄まじい「上向きの力」が俺の腕を襲った。
それは物理的な力というよりは、世界そのものが彼女を拒絶し、空へと押し出そうとする理不尽な圧力だった。
「……っ。……重くない、だと?」
俺は驚きを覚えた。
俺の腕に伝わってくるはずの琴音の体重が、一グラムも感じられない。
それどころか、彼女は巨大な風船のように、猛烈な勢いで俺の手を振り払って空へ行こうとしている。
「離してください……相馬くん……。白雪さんは、もうこの世界の住人ではなくなりつつありますのよ……!」
雫が必死に霊符を空中に投げ、琴音を繋ぎ止めるための結界を張ろうとする。
だが、空の穴から放たれる「無重力の呪い」は、雫の魔術を紙屑のように引き裂いていった。
「影が、影が全部食べられてしまいますわ! そうなれば、彼女は存在そのものが空に吸い込まれて消えてしまいます!」
見れば、琴音の影はもう爪先の僅かな部分でしか、彼女の体と繋がっていなかった。
その影は必死に地面を引っ掻くようにして抗っていたが、空の穴から伸びる目に見えない「影の触手」が、それを無理やり引き剥がそうと引き摺っている。
「……俺の、目の前で。……俺の許可なく、俺の物を奪おうとするな」
俺の胸の奥で、静かな怒りが質量を増していった。
それは、自分の大切な居場所を乱されたことへの、絶対的な拒絶。
俺の体の中にある「重み」が、周囲の空気を物理的に圧迫し始めた。
俺が琴音を掴んでいる左手に、全神経を集中させる。
彼女を地面に引き戻すのではない。
俺の持っているこの「圧倒的な質量」を、彼女の体を通じて、地面そのものに叩き込むのだ。
「……おい、空のゴミ。……お前、俺を浮かせられると思っているのか?」
俺は、片手で琴音を抱き寄せながら、もう片方の足をアスファルトに深く踏み込んだ。
ドォォォォォォォォォォォォォォォォォォォン!!
校庭全体を揺らすような、巨大な地鳴りが響き渡った。
俺の足元を中心に、アスファルトが蜘蛛の巣状に砕け散り、巨大なクレーターが陥没した。
世界中の重力を俺一人が引き受けているかのような、強烈な圧力が周囲に吹き荒れる。
俺という一点に、この星の全質量が集中していく。
空へと昇ろうとしていた琴音の体が、俺の腕の中でピタリと止まった。
いや、止まっただけではない。
俺の「重み」に引きずられるようにして、彼女は再び、確かな体重を取り戻し始めていた。
「ガ、ッ……!? ア、アガガガッ……!!」
空の穴から、苦しげな悲鳴のようなノイズが聞こえてきた。
穴は琴音を吸い込もうとしたが、その先にある俺という「無限の質量」を吸い込むことはできなかった。
それは、小さな掃除機で、巨大な山脈を吸い込もうとするのと同じくらい愚かな行為だった。
「……まぶしい。……寒い。……おまけに、腹が減っている」
俺は、空に浮かぶ黒いシミを冷たく見据えた。
「……その、空に空いた穴。……俺が、物理的に塞いでやるよ」
俺の右拳が、ゆっくりと引き絞られた。
それは、空の理不尽を、大地の重みで粉砕するための準備。
十一月の冷たい空気の中で、俺の右腕だけが、高密度の振動によって真っ赤に熱を帯び始めた。
雫は、その圧倒的な光景を前にして、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
これから起きる出来事が、冬の始まりを告げる合図になることを、俺は確信していた。
***
空に開いた真っ黒な穴が、不気味な脈動を繰り返していた。
それはまるで、空が大きな口を開けて、この世界の全てを飲み込もうとしているようだった。
影を奪われた生徒たちが、まるで糸の切れた風船のように、ひらひらと空へ昇っていく。
「助けて……! れんくん、助けて……!」
俺の腕の中で、琴音が泣きそうな声で縋り付いてきた。
彼女の体からは、既に重さという概念が消え失せようとしていた。
俺が強く抱きしめていなければ、彼女もまた、あの空の底へと吸い込まれて消えてしまうだろう。
俺は、自分の足元を強く踏みしめた。
ドォォォォォォォォォン!!
俺が力を込めるたびに、アスファルトの地面が耐えきれずに砕け、巨大なクレーターが広がっていく。
世界がどれほど軽くなろうと、俺の体だけは、決して揺らぐことのない巨大な重しとしてそこに在った。
空の穴――怪異『日隠れ』は、俺という異物をどうにかして取り込もうと必死だった。
穴の中から、黒い霧のような触手が何本も伸びてきて、俺の体に絡みつく。
触手は俺を空へと引き揚げようと、猛烈な力で引っ張り始めた。
だが、それは小さな子供が、巨大な山脈を素手で動かそうとするのと同じくらい、無意味な努力だった。
「……五月蝿い。引っ張るな。服が伸びるだろ」
俺は、自分に絡みつく黒い霧を、空いた右手で無造作に掴み取った。
本来、霧や影といったものに触れることはできないはずだ。
けれど、俺の肉体が持つあまりにも高い密度は、目に見えない怪異の体さえも、物理的な「物」として無理やり固定してしまった。
グチャリ、という、生々しい音が響く。
俺が霧を握り潰すと、空の穴から、この世のものとは思えない悲鳴のようなノイズが降り注いだ。
「ガ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
空が震え、十一月の冷たい空気が、激しい渦となって吹き荒れる。
影を失った生徒たちが、その突風に煽られて、さらに高く舞い上げられた。
「相馬くん! いけませんわ! このままでは、彼らが気圧の差で破裂してしまいますわよ!」
校舎の陰で、神崎雫が必死に叫んでいた。
彼女はデバイスを操作して、空中に浮かぶ生徒たちを繋ぎ止めるための「重力魔法」を放とうとしている。
だが、空の穴が放つ「無重力の呪い」は、雫の魔法を紙屑のように食い散らかしていった。
「影が……影が、あの穴の中に完全に吸い込まれようとしていますわ! そうなれば、もう二度と、彼らは地面を踏むことはできませんのよ!」
見れば、穴の周囲には、奪い取られた何百もの影が、苦しげに蠢きながら渦を巻いていた。
影たちは、自分の持ち主を呼び寄せるための「餌」として利用されているのだ。
「……影がないなら、俺が、新しい影を置いてやるよ」
俺は、腕の中の琴音をそっと地面に下ろした。
彼女の足が地面から離れようとするのを、俺の「気圧」だけで無理やり押さえつける。
俺がそこに居るだけで、周囲の空気は鉄板のように重くなり、彼女を地面に繋ぎ止めるための見えない重石(おもし)となった。
俺は、一歩。
空に向かって、右足を踏み出した。
バキィィィィィィィィィィィン!!
俺が空気を踏みつけた瞬間、そこには目に見えない階段があるかのように、空間が物理的にひび割れた。
俺の質量は、もはや空気さえも足場に変えてしまうほどに、圧倒的だった。
二歩、三歩。
俺は重力を逆行するように、空へと歩みを進めていく。
空の穴は、近づいてくる俺の「重み」に恐怖を感じたのか、その口をさらに大きく広げた。
穴の奥から、今度は影そのもので作られた巨大な槍が、何十本も降り注いでくる。
「……邪魔だ。どけよ」
俺は、迫りくる影の槍を、ただの「風」で吹き飛ばした。
俺が拳を軽く振るだけで、音速を超えた衝撃波が生まれ、影の槍を木っ端微塵に粉砕していく。
そして、俺は空の中央、巨大な黒いシミの目の前に立った。
間近で見るその穴は、どこまでも深く、冷たく、虚無に満ちていた。
「……お前、寒くないのか。こんなところで、人の影なんて食べて」
俺の声は、激しい風の中でも、はっきりと穴の奥へと届いた。
「……お前のせいで、地面がふわふわして、歩きにくいんだよ。おまけに、琴音が怖がっているだろ」
俺の右拳が、ゆっくりと引き絞られた。
俺の体の中にある、全質量を、その一点に集中させる。
それは、地球という惑星の重みを、一つのリンゴの大きさにまで圧縮し、さらにその密度を極限まで高めるような、神にも等しい力。
俺の右腕の周囲で、空気が物理的に歪(ゆが)み、真っ黒な影のようなオーラが噴き出した。
それは、光さえも逃げ出せないほどの、圧倒的な「現実」の輝き。
「……消えろ。十一月のゴミ。……俺が、地面を重くしてやる」
俺は、空の穴に向かって、静かに、けれど絶対的な力を込めて拳を放った。
ドォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォン!!
世界が、真っ白に染まった。
衝撃波なんて言葉では足りない。
それは、空そのものを、物理的な圧力で押し潰すための「終焉の一撃」。
俺の拳が空の穴に触れた瞬間、そこにある「無重力」という概念そのものが、俺の質量によって上書きされ、粉砕された。
バリバリバリバリィィィィッ!!
空にひびが入り、黒いシミが、硝子細工のように粉々に砕け散っていく。
吸い込まれていた何百もの影が、解放され、一斉に地上へと降り注いだ。
それはまるで、黒い雨が降っているような、奇妙で幻想的な光景だった。
俺の一撃によって押し潰された空の穴は、自分の重みに耐えきれず、最後には小さな点となって消滅した。
その瞬間。
「……あ。足が、重い……」
「戻った! 影が戻ってきたよ!」
空に浮いていた生徒たちが、ゆっくりと、綿雪のように地面へと降りていく。
俺が放った圧力の余波が、彼らの体を優しく包み込み、怪我をしないように地面へと導いてくれたのだ。
俺もまた、ゆっくりと校庭の土の上に降り立った。
足の裏に伝わる、確かな土の感触。
俺の足元に、深く、濃い、いつもの俺の影が戻ってきた。
「……ふぅ。……やっと、静かになったな」
俺が溜息を吐くと、周囲の空気がようやく本来の重さを取り戻した。
「相馬くん! あなた、なんてことを……!」
雫が駆け寄ってきて、砕け散ったアスファルトを見つめて絶叫した。
「空の穴を物理的に塞ぐなんて、そんなの、どんな魔術書にも載っていませんわよ! おまけに、解放された影たちが地面に衝突した衝撃で、校庭の強度が以前より上がっていますわ! どうやって報告書を書けばいいんですの!」
「……知らない。適当に『秋の気圧の変化』だとでも書いておけ」
俺は、少しだけ痺れる右手を振りながら、隣にいた琴音を見た。
彼女の足元には、ちゃんと彼女の形をした影が、しっかりと地面に張り付いていた。
「……れんくん。ありがとう。……なんだか、さっきまでふわふわしてたのが、嘘みたいだよ」
琴音が、俺の袖をぎゅっと掴んで微笑んだ。
彼女の体からは、確かな体温と、心地よい重みが伝わってくる。
「……ああ。……腹が減ったな。帰って、お鍋を食べよう」
「うん! お肉、たくさん入れようね!」
俺たちは、夕暮れに染まった校舎を後にした。
校庭では、生徒たちが自分の影を確認しながら、安堵の声を上げている。
十一月の冷たい風は、相変わらず鋭かった。
けれど、俺たちの足元には、決して揺らぐことのない確かな「重み」が、今日も静かに寄り添っていた。
どんなに理不尽な空の怪異も、どんなに恐ろしい無重力の呪いも。
俺の持つ「圧倒的な質量」の前では、ただの壊れやすい硝子細工と同じだった。
俺は、家から漂ってくる香ばしい出汁の匂いを感じながら。
空の穴を殺したばかりのその足で、どこまでも普通に、ゆっくりと夜の道を歩いていった。
明日も、明後日も、この街には「重たい」日常が続いていく。
俺という、あまりにも重すぎる「現実」が、全ての偽りを上書きしてしまったのだから。