【朗報】物理、幽霊に効く。 ~最凶の呪いに愛された幼馴染が、最強の転生小学生に物理で救われる話~ 作:匿名
オレンジ色の陽光が、長い廊下に影を引き延ばしている。
放課後の小学校というのは、どうしてこうも「不機嫌」なのだろう。
さっきまでの子供たちの喧騒が嘘のように、建物全体が湿った沈黙に沈んでいる。
「……ねえ、れんくん。やっぱり、今日の掃除当番、明日にしてもらわない?」
背後から、衣擦れの音と共に不安げな声がした。
振り返らなくてもわかる。
琴音が俺の甚平の裾を、今にも引きちぎらんばかりの力で握りしめているのが。
「……だめだ。明日は給食がカレーだからな。掃除なんて面倒なことは、今日のうちに済ませる」
俺は、ずっしりと重い水が入ったバケツを小指一本で提げながら、気だるげに答えた。
普通の小学一年生なら、両手で抱えてもふらつく重量。
だが、俺にとっては、羽毛よりも軽い。
むしろ、振り回しすぎて遠心力でバケツの取っ手が引きちぎれないよう、指先の力を加減する方が神経を使う。
「でもぉ……。今日の理科室、なんだか変だよ? さっきから、誰かにジロジロ見られてる気がするの」
「……自意識過剰だろ。あるいは、壁に飾ってある偉い学者の肖像画でも睨んでるんじゃないか」
「そんなんじゃないもん……! もっと、こう……ネチャネチャした感じなのっ!」
琴音は眼鏡のフレームをクイッと押し上げ、涙目で周囲を警戒している。
彼女の『避雷針』としての直感は、今日も絶好調らしい。
理科室の扉の前に立つ。
ガラガラ、と。
乾いた音を立てて引き戸を開けると、そこに溜まっていた「空気」が、重苦しく廊下へ溢れ出してきた。
埃の匂い。
古いワックスの匂い。
そして――。
鼻の奥を刺すような、薬品と、何かが腐りかけたような生臭い臭気。
「……う。れんくん、これ……」
「……古い薬品でも漏れてるんだろ。さっさと終わらせるぞ」
俺はため息をつき、理科室に足を踏み入れた。
ドォン、と。
ただ一歩歩くだけで、床のコンクリートから重厚な振動が伝わる。
俺の肉体の「密度」は、こうした閉鎖空間では特に強調される。
周囲の空気が俺の存在に押し退けられ、微かな気圧の変動を引き起こしているのだ。
理科室の中は、異様に寒かった。
窓から差し込む夕日は、棚に並んだビーカーやフラスコを不気味な琥珀色に染めている。
琴音はバケツに雑巾を浸し、ジャブジャブと音を立てながら、震える手で机を拭き始めた。
「……ねえ、れんくん。……あそこ」
琴音が、流し台の奥を指差す。
そこには、理科室の定番ともいえる「人体模型」が立っていた。
半分が皮膚に覆われ、もう半分が筋肉と内臓を剥き出しにした、あの不気味な造形物。
普段なら、ただの古い備品だ。
だが、今は違った。
夕日に照らされたその模型の「眼球」が、こちらの動きに合わせて、ゆっくりと、粘つくような音を立てて動いているように見える。
(……ああ、やっぱりか)
俺は、モップをバケツに突っ込みながら、内心で舌打ちした。
琴音の『特級避雷針』としての体質が、校舎に漂う微細な悪意を吸い上げ、あのプラスチックの塊に流し込んでいる。
怪異というのは、常に効率を求める。
実体を持たない自分たちがこの世に干渉するために、ちょうどいい「容れ物」を探す。
そして今、あの模型は、数十年分の「死への恐怖」と「解剖される痛み」という呪いを飲み込み、新たな命を得ようとしていた。
「ポタ……ポタ……」
誰もいないはずの蛇口から、水が滴り落ちる。
その色は、透明ではなく、赤黒い錆を含んだような濁った液体だった。
「きゃっ……!?」
琴音が、拭いていた机から飛び退く。
見れば、彼女が拭いていた机の表面に、べったりと「子供の手形」が浮かび上がっていた。
それも、一つではない。
ベチャッ。ベチャッ。
何もない空間から、濡れた手の音が響き、次々と机や床に血のような手形が増えていく。
それはまるで、目に見えない無数の子供たちが、琴音の周囲を囲んで踊っているかのようだった。
「れんくん! れんくんっ! やっぱり、なにかいるよぉ!」
琴音が叫び、俺の腕にしがみついてくる。
彼女の体温が、恐怖で急激に下がっているのが伝わる。
俺は、欠伸を噛み殺しながら、足元の床を見下ろした。
這い寄ってくる「手形」が、俺の靴の先に触れようとした、その瞬間。
ドォン!!
俺は、軽く地面を「踏んだ」。
ただの足踏みだ。
だが、俺の体重――その超高密度な質量が一点に集中し、床を媒介にして全方位に「衝撃波」として伝播する。
バキバキバキッ! と。
理科室の床板が悲鳴を上げ、見えない子供たちの「手形」が、その振動だけで消し飛ばされた。
「……掃除の邪魔だ。あっち行け」
俺は低く呟く。
霊的な現象だろうが、呪いだろうが、この世に存在している以上、それは「エネルギー」の形態の一つに過ぎない。
ならば、それを上回る圧倒的な「運動エネルギー」を叩き込めば、物理的に霧散するのは当然の理屈だ。
周囲の温度が、一瞬だけ戻る。
「……れんくん?」
「……気のせいだって言ったろ。ほら、そこ、まだ汚れが残ってるぞ」
俺は、琴音の頭をポンと叩き、掃除を促す。
だが。
部屋の隅。
カタ、カタカタカタカタ……。
人体模型の顎が、不自然な角度で震え始めた。
それは、怯えているのではない。
今、この理科室に充満した俺の「質量」を糧にして、その存在を急速に肥大化させているのだ。
本来なら数年かけて育つはずの怪異が、俺という規格外の存在に触発され、今、この瞬間に「完成」しようとしていた。
薬品の臭いが、一気に濃くなる。
古い血と、防腐剤の混じった、吐き気を催すような死の臭いだ。
「……おい、琴音。ちょっと下がってろ」
俺は、バケツに手を伸ばした。
雑巾を絞る、その動作一つで。
俺はこの場の「うるさいノイズ」を、全て纏めて処理することに決めた。
***
「ギチ……ギチギチ……ッ!」
理科室の隅に鎮座していた人体模型が、生き物のようにのたうち回る。
プラスチック製の皮膚が内側から膨れ上がり、収まりきらなくなった「内臓」が、どろりと床に溢れ出した。
だが、それはただの模型のパーツではない。
溢れ出した腸や胃は、まるで飢えた大蛇のようにのたうち回り、周囲の実験器具を次々と取り込んでいく。
「ア……ア……ガッ……!」
模型の口から、何十人もの子供たちが同時に叫ぶような、不快な声が漏れ出す。
「な、何これ……!? 模型が、大きくなって……!」
琴音が悲鳴を上げ、俺の甚平を千切れんばかりに握りしめる。
数秒前まで等身大だった模型は、今や理科室の天井に届かんばかりの巨躯へと変貌していた。
ビーカーを牙にし、試験管を爪にし、無数の「解剖された記憶」を筋肉として繋ぎ合わせた、肉とガラスの合成獣。
「下がりなさい! これ以上、その怪異に近づいてはなりませんわ!」
理科室の扉が勢いよく開き、神崎雫が飛び込んできた。
彼女の手に握られた演算デバイスは、火花を散らしながら狂ったように警告音を鳴らしている。
「神崎さん……!?」
「白雪さん、無事ですの!? ……くっ、何という霊子密度! 理科室に蓄積された数十年の思念が、あなたの体質に反応して完全に実体化していますわ!」
雫は瞬時に数枚の符を空中に放ち、青白い幾何学模様の結界を展開する。
「『四門封絶・改(しもんふうぜつ・かい)』! ……相馬くん! あなたもぼーっとしていないで、早く白雪さんを連れて逃げなさい! これはもう、わたくし一人で抑えられる規模ではありませんわ!」
雫の顔は、極度の緊張で青白く引き攣っている。
グチャリ、と。
巨大化した模型の「足」が、コンクリートの床を踏み抜いた。
「ギ、ギェ……アアアアアア!!」
怪異が咆哮を上げる。
その衝撃波だけで、理科室の窓ガラスが内側から一斉に粉砕された。
雫が張った結界が、激しく火花を散らす。
「う、嘘……!? わたくしの最高位結界が、ただの咆哮だけで……!?」
「……おい。これ、まずいぞ」
俺は、手に持った雑巾を見つめながら、独り言のように呟いた。
「わかっていますわ、相馬くん! 今の衝撃で、この校舎の霊的防壁が――」
「いや、そうじゃなくて。……このままだと、さっき絞ったばかりの雑巾に、あいつの汚い汁がかかる」
「…………は?」
雫が、戦場に似つかわしくないマ抜けな声を上げた。
「あなた、この状況で何を言っていますの!? 目の前にいるのは、一級以上の指定怪異『解剖される亡霊たちの王(ディセクテッド・ロード)』ですわよ!? 物理的な攻撃など一切通用しない、霊的質量のみで構築された――」
「ドクン!!」
怪異の心臓が、大きく脈打った。
その瞬間、理科室の空間が歪み、床や壁から無数の「メス」が、植物のように生えてくる。
解剖の痛みを再現する呪い。
それに触れれば、生きたまま肉体をスライスされ、怪異の一部として取り込まれるだろう。
「きゃあぁぁぁぁっ!!」
琴音の足元から、銀色の刃が這い上がってくる。
「いけませんわ! 『護法、障壁――』」
雫が叫びながら術を唱えようとしたが、怪異の「腕」が、音を置き去りにする速度で彼女の結界を叩き割った。
「――っ!?」
雫の体が、吹き飛ばされる。
防波堤を失った理科室に、地獄の蓋が開いた。
無数の刃が、獲物である琴音に向かって一斉に収束していく。
「れんくんっ、助けてぇぇぇ!!」
琴音が目を閉じ、俺の背中にしがみつく。
俺は、小さくため息をついた。
「……やれやれ。よいしょ」
俺は一歩、前に踏み出した。
その瞬間。
ズゥゥゥゥゥゥゥン!!
理科室の「重力」が、書き換えられた。
***
「……うるさいな。さっきから、ガチャガチャと」
蓮の呟きは、怪異の咆哮にかき消されるほど小さかった。
だが、その言葉が放たれた瞬間、理科室を支配していた「死の重圧」が、まるで巨大な壁にぶつかったかのように霧散した。
蓮は、右手に持った濡れた雑巾を、ごく自然な動作で構える。
「相馬くん、何をするつもりですの!? 下がって……死にたいのですか!?」
床に這いつくばったまま、雫が悲鳴を上げる。
彼女の視線の先では、数メートルを超す肉とガラスの巨像が、今まさに蓮と琴音を押し潰そうと巨大な腕を振り下ろしていた。
その腕は、霊的な質量だけで数十トンに達する。物理的な装甲車ですら紙屑のように丸められる一撃だ。
「……雑巾、汚れるだろ」
蓮は、迫りくる巨腕を見上げることすらせず、右手に持った雑巾を「ギュッ」と絞った。
ただ、それだけの動作。
ギィィィィィィィィィィィィン!!
金属が悲鳴を上げるような、聴覚を破壊する異音が理科室に響き渡った。
「……な、何ですの、今の音……!?」
雫は目撃した。
蓮が握った雑巾の周囲で、光が歪んでいるのを。
彼の握力があまりにも「高密度」すぎて、握り込まれた空間の分子が逃げ場を失い、原子レベルで衝突を開始したのだ。
雑巾から絞り出された水滴は、重力加速度を無視した超高圧の弾丸となり、周囲の空気をプラズマ化させながら放たれる。
「よい、しょ」
蓮が、絞った雑巾をそのまま怪異の巨躯に向かって、無造作に「振った」。
ドォォォォォォォォォォォン!!
理科室全体が、巨大な鉄槌に叩かれたかのように跳ね上がった。
「ギ、ェ……ッ!?」
怪異『解剖される亡霊たちの王』の動きが、完全に止まった。
いや、止まったのではない。
蓮が雑巾を振ったことで生じた「超高密度の真空波」が、怪異の存在そのものを、文字通り「磨り潰して」いたのだ。
霊体? 概念? そんなものは関係ない。
蓮の腕が動いたことで生じた圧倒的な「物理的仕事量」は、怪異を構成する霊子を、分子、さらには素粒子レベルまで分解し、強制的にこの世界の理(ことわり)に再構成していく。
「メキ、メキメキメキメキッ!!」
巨大な人体模型が、内側に向かって折り畳まれていく。
目に見えない巨大な万力に挟まれたかのように、巨躯は瞬く間に圧縮され、野球ボールほどの大きさの「プラスチックの塊」へと成り果てた。
カラン、カラン……。
乾いた音を立てて、床に転がる小さな塊。
それは、さっきまで理科室を地獄に変えていた怪異の無残な末路だった。
「…………は?」
雫は、呼吸を忘れていた。
演算デバイスの画面には、信じられない文字列が踊っている。
【事象の再定義を確認。対象範囲内の全霊的質量の物理的圧壊。……推定必要エネルギー:戦術核兵器に相当。……術式:無し。魔力反応:無し。結論:ただの筋力】
「ただの……筋力? 筋肉で……幽霊を……圧縮して、捨てたんですの……?」
「……ふぅ。お、終わったよぉ、れんくん……?」
琴音が、恐る恐る蓮の背中から顔を出す。
彼女の丸眼鏡は、衝撃波で少しだけ曇っていた。
蓮は無愛想に、その眼鏡のレンズを指先でチョイと拭いてやる。
「……ああ。掃除、終わったぞ」
「うん……! あ、でも、あの模型さん、あんなに小さくなっちゃって。先生に怒られないかな?」
「……ゴミ箱に入れておけば、明日には回収されるだろ」
蓮は、足元に転がっている「元・怪異の王」を、つま先でポイとゴミ箱の方へ蹴った。
「相馬くんっ!!」
雫が、膝をついたまま叫ぶ。
「あなた、自分が何をしたか分かっていますの!? あれは一級指定怪異ですわよ!? 国家陰陽局の部隊が数日がかりで封印するような、この世のバグなんですのよ!?」
「……一級? よく知らないけど、掃除の邪魔だったからどかしただけだ。……それより、神崎さん」
蓮が、半開きの目で雫を見下ろす。
「……早く帰らないと、スーパーの特売、終わるんだけど。お前、いつまでそこに座ってるんだ?」
「…………」
雫は、反論する気力すら失った。
国家の危機だの、世界の理だの、そんな高尚な理屈は、この小学生の前では「夕飯の買い物」以下の価値しかない。
「……ありえませんわ。本当に、ありえませんわ……」
雫は、ガックリと項垂れた。
「あ、そうだ! れんくん、今日の夕飯、コロッケだよね? 私、お醤油派なんだけど、れんくんは?」
「……俺は、ソース一択」
「ええーっ、ソースなのぉ? 邪道だよぉ」
そんな他愛もない会話を交わしながら、二人の小学生は、窓ガラスの割れた理科室を後にする。
夕日に染まる校庭に、二人の影が長く伸びていた。
その背後で。
理科室に残された雫は、静かに自分の長い髪を掻き毟り、絶叫を堪えていた。
国家陰陽局が恐れる「避雷針」の少女。
そして、その傍らで、世界の法則(ルール)を筋肉一つで踏みにじる少年。
日本の安寧が、この二人の小学生の「献立の相談」に委ねられているという事実に、彼女はただ、遠い目をして震え続けるしかなかった。