【朗報】物理、幽霊に効く。 ~最凶の呪いに愛された幼馴染が、最強の転生小学生に物理で救われる話~ 作:匿名
突き抜けるような青い空から、暴力的なまでの太陽光が降り注いでいた。
「……暑い。溶ける」
俺は、プールサイドの熱せられたコンクリートの上で、力なく呟いた。
今日は今年初めてのプール開き。
周囲の一年生たちは、水しぶきを上げてはしゃぎ回っているが、俺にとっては苦行以外の何物でもない。
着替えは面倒だし、水に濡れれば体が重くなる(物理的に密度の高い俺の筋肉は、水中でさらに沈みやすくなるのだ)。
ずしり、ずしり。
俺が歩くたびに、コンクリートの表面に微かな亀裂が走り、周囲の子供たちが「なんだ今の音?」と首を傾げている。
「あ、あの……れんくん。……変、かな?」
隣から、消え入りそうな声がした。
振り返ると、そこには紺色のスクール水着に身を包んだ琴音が立っていた。
いつもは隠れている細い肩や、白く柔らかな四肢が露わになっている。
彼女は顔を真っ赤に染め、両腕で自分を抱くようにして胸元を隠していた。
少し大きめの赤い丸眼鏡が、気温差のせいか、あるいは彼女の体温が上がっているせいか、白く曇っている。
「……なにがだ」
「な、なにがって……その、水着だよぉ。なんだか、恥ずかしくて……」
琴音はモジモジと足を動かす。
彼女が動くたびに、日焼け止めの爽やかな香りと、少女特有の甘い匂いが鼻を掠めた。
「……普通だろ。というか、眼鏡拭けよ。前が見えないぞ」
「もー、れんくんは相変わらずだねっ」
琴音は少しだけ安心したように、眼鏡をクイッと直して笑った。
「お二人さん、浮ついている暇はありませんわよ」
その背後から、凛とした涼やかな声が響く。
神崎雫だった。
彼女もまた指定のスクール水着を着用していたが、その佇まいはまるで高級リゾートのモデルのようだった。
長い青みがかった黒髪を高い位置でポニーテールにまとめ、防水仕様の霊子演算デバイスを腕に装着している。
「神崎さん! すごぉい、モデルさんみたい……!」
「……当然ですわ。わたくし、神崎家の人間として、どのような装いであっても品格を失うことはありません。……それより、相馬くん」
雫は鋭い視線で、真っ青なプールの水面を見つめた。
「……気づいていまして? このプールの霊子的数値、異常ですわ。……まるで、この底に『巨大な穴』が開いているかのような不気味な吸入反応が出ていますの」
「……穴? 栓でも抜けてるんじゃないか」
「そういう物理的な話ではありませんわ! ……わたくしの予測では、この水の中に、かなりの怨念が混じっています。……本来なら、授業は中止すべきですのに……!」
雫の懸念を余所に、体育の教師が笛を鳴らした。
「よし、全員プールに入れ! まずは腰まで浸かって慣らせよー!」
「わーいっ!」
「冷たくて気持ちいいー!」
歓声と共に、子供たちが次々とプールへ飛び込んでいく。
「……行こう、れんくん。入っちゃえば、きっと大丈夫だよぉ」
琴音が俺の手を引き、階段からゆっくりと水に足を浸した。
その瞬間。
ピチャッ。
静かだったはずの水面が、琴音の足首に触れた途端、まるで「油」のように不自然に粘り気を帯びた。
「……ひゃっ!? つめたっ……!?」
「どうしたの、白雪さん」
「な、なにか……今、足首を、冷たい指でギュッてされた気が……」
琴音の顔から、一気に血の気が引いていく。
俺もまた、水の中に足を踏み入れた。
(……あー。……これは、面倒だな)
水温は三〇度近い夏日のはずなのに、足の先から伝わってくるのは、凍てつくような「死の冷たさ」だった。
そして。
プールの底、排水口のフィルターの奥から。
真っ黒な、長い長い「髪の毛」が、意志を持っているかのようにユラリと這い出してきた。
それは一本や二本ではない。
数百、数千という黒髪が、水流に逆らって琴音の足に絡みつこうと伸びてくる。
「……ギギ……ギギギギギ……」
子供たちの歓声に紛れて、プールの底から、女の啜り泣くような音が響き始めた。
「れんくん! れんくん、怖いっ! なにか、なにかいるよぉぉ!!」
琴音が俺の腕に飛びつき、必死にしがみついてくる。
水面には、いつの間にか無数の「人の顔」のような波紋が浮かび上がり。
透き通っていたはずのプールの水は、急速に淀んだ「泥水」のような黒へと変色し始めていた。
「くっ……! やはり現れましたわね! 『淵の這い寄り(ウォーター・デッド)』……!」
雫がデバイスを構えるが、彼女の顔には隠しきれない戦慄が浮かんでいた。
「相馬くん、注意なさい! 今回の敵は『液体』そのもの……! あなたの物理攻撃は、水に波紋を立てるだけで、何の意味も持ちませんわよ!!」
***
「――総員、プールから上がりなさい! これは通常の霊障ではありませんわ!」
雫の鋭い叫びが響くのと同時に、平和だった水面が「爆発」した。
いや、それは爆発というより、水そのものが「意志」を持って跳ね上がったかのようだった。
プールの四方から、半透明の「腕」が何十本も生え、逃げ惑う生徒たちの足首を掴もうと蠢く。
透き通っていた水は、今や底が見えないほどに濁り、無数の水死体の顔が浮かび上がっては消える、地獄の釜と化していた。
「きゃあぁぁぁぁっ!!」
琴音が短い悲鳴を上げる。
彼女の膝下まで浸かっていた水が、まるで生き物のように彼女の体に絡みつき、底へと引き摺り込もうとしていた。
「……っ、神崎家秘伝――『氷月陣(ひょうげつじん)』!」
雫が瞬時に符を放ち、琴音の周囲の水を凍らせようと試みる。
だが、青白い魔力の光が水面に触れた瞬間、それは霧散するように掻き消された。
「嘘……!? 術式が、水そのものに飲み込まれましたわ……!?」
雫の顔に、戦慄が走る。
彼女は狂ったようにデバイスを操作し、その解析結果に目を見開いた。
「……そんな。これ、ただの怪異ではありませんわ。……このプールに溜まった数百トンの水、その『全分子』が怨念と完全に同化していますの! つまり、このプールの水すべてが一つの巨大な個体……!」
ゴボォォォォォォン!!
プールの中心部が大きく盛り上がり、巨大な「女」の形をした水塊が姿を現した。
顔はない。ただ、水流の中に無数の黒髪が渦巻き、虚ろな「穴」のような場所から、絶え間なく呪詛を吐き出している。
「……アア……ツメ、タイ……苦シイ……オマエモ……コッチヘ……」
「いけませんわ、相馬くん! これには手出しできません!」
雫が、俺の前に立ちはだかるようにして叫んだ。
「いいですか!? 相手は液体ですわ! 質量はあっても、形状を持たない不定形! あなたのどんなに強力なパンチも、水面を叩くだけで威力が分散し、素通りしてしまいますの! 物理的な衝撃では、水を『殺す』ことは不可能ですわ!!」
それは、この世の物理法則に則った、完璧に正しい解説だった。
鋼鉄を砕く拳も、液体という「極限の柔軟性」の前では無力。
叩けば叩くほど、その衝撃は水流となって逃げ、一瞬で修復される。
「……そうか。面倒だな」
俺は、腰まで水に浸かったまま、気だるげに言った。
水中にうごめく無数の「手」が、俺の腹や腕に触れ、呪いの冷気を流し込もうとしてくる。
だが、俺の異常な細胞密度は、そんな霊的な侵食すら「冷たいシャワー」程度の刺激としてしか認識しない。
「……れん、くん……苦しいよぉ……っ」
琴音の声が弱まっていく。
彼女に絡みつく水の腕は、徐々に彼女の体温を奪い、その意識を闇へと引き摺り込もうとしていた。
「相馬くん! わたくしが最大出力の封印陣を組みますわ! それまで、白雪さんを連れて何とか耐えて――」
「……神崎。一分かかるだろ、それ」
「なっ……最速でも、それくらいは……!」
「……一分も待ってたら、琴音が風邪を引く。……それに、この水、なんか生臭くて嫌だ」
俺は、眠そうな目をさらに細めた。
水着が濡れて、重い。
髪から滴る水が、鬱陶しい。
「……物理が効かないって、お前は言うけど」
俺は、おもむろに水面に右手を差し入れた。
「……液体だろうがなんだろうが、この世にある以上、ただの『物質』だろ」
「何を……何を言っていますの!? まさか、その手を振るうだけで、数百トンの水をどうにかできるとでも――」
雫の言葉が終わる前に。
俺は、水中に突っ込んだ右手を、静かに、しかし「絶対的な意志」を持って握りしめた。
その瞬間。
ドクン!!
プール全体の水が、まるで心臓のように一度だけ、大きく拍動した。
***
「相馬くん、何をするつもりですの!? 手を離しなさい、引き摺り込まれますわよ!」
雫の悲鳴に近い制止を無視し、俺は水中に突っ込んだ右手に「力」を込めた。
殴るのではない。
ただ、水中で指先を、目にも止まらぬ速度で微振動させる。
俺の肉体という超高密度の質量が、一秒間に数万回という超高周波で駆動を開始する。
キィィィィィィィィィィィィィィィン!!
鼓膜を突き刺すような、不快な高音がプールサイドに反響した。
「な、何ですの、この音……!? 霊子的数値が……計測不能な熱量へと変換されて……!?」
雫が持っていた演算デバイスが、あまりの異常事態に真っ赤な火花を吹いて沈黙した。
俺の指先が引き起こす振動は、水の分子同士を強制的に衝突させ、極限の「摩擦熱」を発生させる。
液体が衝撃を逃がす暇すら与えない。
物理が効かないというのなら、その構成物質そのものを、別の「状態」へ書き換えてやればいいだけの話だ。
「……よいしょ」
俺が、水中で拳を固く握りしめた、その瞬間。
ドォォォォォォォォォォォォォォン!!
プールの中心から、目も眩むような真っ白な「爆煙」が立ち昇った。
数百トンの水が、一瞬で沸点を超え――いや、臨界点すら超えて、爆発的な『相転移(そうてんい)』を起こしたのだ。
「ア……ガ……、アアアアアアアアアア!!」
水の怪異が、断末魔の叫びを上げる。
依り代としていた水そのものが「気体」へと強制的に変えられたことで、霊体を繋ぎ止める媒体が消失したのだ。
数秒後。
猛烈な水蒸気が風に流され、視界が開けた時。
「…………は?」
雫は、目の前の光景を信じられず、その場にへたり込んだ。
そこにあったのは、満々と水を湛えていたはずのプールではない。
一滴の水分も残らず、カラカラに乾ききった、巨大な「コンクリートの箱」だった。
排水口の奥まで完全に乾燥し、数分前まで蠢いていた黒髪も、水死体の腕も、すべてが「焼失」して塵一つ残っていない。
「水が……消えましたわ……。数百トンの水が……一瞬の運動エネルギーだけで、すべて蒸発した……?」
雫の呟きは、乾いた風に虚しく消えた。
「……ふぅ。……お、終わったよぉ、れんくん……?」
プールの底、水が消えたことで床に尻餅をついた琴音が、恐る恐る目を開けた。
彼女のスクール水着は、先ほどの熱波であっという間に乾き、むしろ「アイロンをかけたて」のようにパリッとしている。
「……ああ。……あー、やっぱり耳がキーンとする」
俺は小指で耳を掃除しながら、空っぽのプールの底から梯子へと歩き出した。
「相馬くんっ!!」
雫が、膝をガクガクと震わせながら駆け寄ってくる。
「あなたっ! 物理が無効だと言ったのを、力技で『物理法則そのものを書き換える』なんて、反則にも程がありますわよ! これ、どう説明すればいいんですの!? 水道代だって馬鹿になりませんわよ!?」
「……説明? 神崎が上手くやってくれよ。……俺はもう帰る。髪を乾かす手間が省けたのだけは、助かったけど」
俺は、パサパサに乾いた自分の髪を無造作に掻き回した。
「もー、れんくんってば極端なんだから! でも、ありがとう。……おかげで、お化けさんに捕まらなくて済んだよ」
琴音が、少しだけズレた眼鏡を直しながら、満面の笑みで俺の隣に並ぶ。
「……それより琴音。……腹減った。アイス食べたい」
「ふふ、そうだね! 今日は私のおごりで、ソーダ味のアイス買おうか!」
「……二本」
「はいはい、わかったよぉ」
二人の小学生が、空っぽになったプールを背に、のんびりと更衣室へ向かう。
その後ろで、雫は。
「プールの水が消失した理由」という、絶望的な報告書の内容を考えて、再び天を仰いでいた。
『原因:相馬蓮くんが、水を面倒くさがったため』
そんな真実を提出したところで、国家陰陽局の誰が信じるというのか。
夏休みはまだ、始まったばかりだった。