私は夢を見ている。
最近よく見る、あの時の夢だ。
◇
潮騒。寄せては返す波の音が、どこか遠い世界のように感じる。
瞼に焼け付く曙光。
塩辛い風が頬をなぶる。
足裏を刺す砂粒と貝殻の感触が生々しい。
戦いは敗北した。敗れた私はチェンソーの少年の気まぐれで蘇生され、無様に生き恥を晒している。
つまり、チェンソーの心臓の奪取は失敗したということだ。
そして、ここは、あの魔女の支配する国だ。無能な工作員に果たしてどんな処遇が待っているかは分からないが、死にたくなければ、それとも死ぬより酷い目に遭いたくなければ速やかに母国へと帰らなければならない。まぁ、母国での扱いも似たり寄ったりには違いないのだろうが。
いずれにせよ、少年の戯言など聞き流して、さっさと逃げるべきだ。理性はそう理解している。
だから、私の足を止めたのは、理性ではなく願望だったのだろう。
「私はたくさん人を殺したよ。私を逃がすって事はデンジ君、人殺しに加担するって事になるけどわかってる?」
差し出された手を振り払うような問いに、少年は少し困惑したように頭をかき、しかし、陰のない笑顔をこちらに向けた。
「仕方なくねえけど仕方ねえな、まだ俺ぁ好きだし」
何気なく紡ぎ出されたその言葉が、チクリと、心臓を突き刺す。
罪悪感と高揚感の入り混じったような不思議な感覚に戸惑う。これは、果たして何と呼ぶべき感情なのか。
私は哀しんでいるのか。それとも、私は歓んでいるのか。
「それに、全部嘘だっつーけど俺に泳ぎ方教えてくれたのはホントだろ?」
不敵な微笑みを浮かべた少年の言葉が、私の中に残った、何か、最後の自制心とでも呼ぶべきものにとどめを刺す。
振り返り、走った。
それは私の意思ではなく、身体が求めたのだと思う。
──駄目だ。
足の裏に、鋭い痛みが走る。割れた貝殻か、ガラス片でも踏んだのだろうか。
血が出ていたら……少し嫌だな。大量虐殺者が何を言っているのだろうかと、内心で自嘲する。
──お前は、たくさんの人間を傷つけ、殺した。
少年が、少し驚いたように、そして嬉しそうにこちらを見ている。
駆け寄る私は、一体どんな顔で少年の瞳に写し出されているのか。
──お前は、この少年の人生を台無しにしようとしている。この少年を、不幸にする。
分かっている。全て、分かっている。
これは、ただのエゴだ。私は、私の弱さをこの幼い少年に預けようとしている。
恥知らずめ。私は、卑怯で、惰弱で、おぞましい人間だ。
──今ならまだ引き返せる。全てを諦めろ。そして、元の実験動物に戻るのだ。それがお前に一番相応しい。
それでも。
もしも、私に、モルモットでもレゼでもボムでもない、それ以外の人生があるなら。
この少年と、二人で歩いていけるなら。
その可能性に、夢を見てしまっただけのこと。
──お前に、その資格はない。お前は幸福を追い求めてはいけない。
だから、きっとただの勘違いだ。
私は、そのあり得ない未来に、心を奪われてしまったのだ。
気がつけば、両腕で少年を抱き締めていた。その二本は、何度も少年を傷つけたというのに。
少年の未成熟の肢体から、エンジンの駆動音ではなく、温かな鼓動が伝わる。
抗いがたい衝動が、身体を突き動かす。両の掌で少年の頬に触れる。その二本は、血にまみれていたのに。
少年は、熱に浮かされたような表情で、私の目を見つめていた。
掌から伝わる、少年の頬の柔らかい感触。その衝動に突き動かされて、唇を寄せる。
──お前は、お前が恋する少年を、地獄の道連れにしたいのか。
恐怖に身体が硬直する。
駄目だ。それだけはいけない。
『仕事の目標みてぇなモンも見つけてさ。だんだん楽しくなってきてんだ、いま』
そうだ。この少年には、この少年の人生がある。それがどれほど歪なものであったとしても、私に奪う権利はない。
心の重さが後頭部に伸し掛かる。その重さに負けて、私は俯き、曙光に照らされた二人分の爪先を見つめる。
刹那の苦悩。
そして私は、私の初めての恋を、終わらせる覚悟を決めた。少年の手を振り払い、これからの人生を一人で、モルモットとして、ボムとして、誰かの道具として生きることを決めた。
それなのに──。
「……えっ?」
唇に触れる柔らかな感触に戸惑う。
視界いっぱいに映る、少し緊張して少し赤らんだ少年の顔。
舌を絡めることもない、唇を触れるだけのキス。
任務ではなく、訓練でもなく交わした初めての口づけは、鉄の味ではなく、微かな海の味がした。
呆然とした私に、緊張で顔を真っ赤にした少年が、硬い口調で言う。
「美女とキスしたのはこれが三回目だけどよ、ゲロ味でも血の味でもねえキスはこれが初めてだぜ」
少年は、少し無理したような不敵な表情を浮かべていた。そんな彼を呆然と眺めながら、心の片隅でふと思う。
もしかすると、これが青春というやつなのだろうか。
拙いキスを交わして、これから愛の逃避行に旅立とうという年頃の男女。これを、青い春と呼ばずに何と呼ぶか。
つまり、私と彼の置かれた状況を俯瞰して観察するならば、きっとそういうことなのだろう。
何とも歪で、何とも幼く、そして神の呪いを信じたくなるほどに似通った境遇の二人。
私は、込み上げる衝動に抗えず、お腹を抱えて笑った。
そんな私を、少年は少しばかり不満げに、何とも可愛いらしい上目遣いで睨みつけている。
「んだよ、そんなに笑うこたあねえだろ。これでも、俺から女にキスしたのは初めてなんだからよ」
ああ、本当に可愛いらしい。
私は目尻に浮いた涙を拭いながら、初めて私の笑顔を浮かべた。
「ねえ、デンジくん。君は、私と一緒に地獄に落ちてくれるのかな?」
一瞬唖然とした少年は、しかし不敵な微笑みを浮かべ、
「へっ、何を今更だな。俺達は半分悪魔なんだぜ?悪魔はふつー地獄にいるもんなんだろ?なら、この世は半分地獄だってことじゃねえか。それに──」
「それに?」
少年は、再び顔を真っ赤にしながら、恥ずかしげに顔を明後日の方向に背けて呟いた。
「俺、本物の地獄に落ちても、レゼと一緒なら、なんか……楽しいような気がするからよ」
嘘が下手な少年の、きっと心からの告白が、凍てついた爆弾の心臓を鋳溶かしていく。
ああ、これが、愛しいという感情なのだ。
私は破顔し、もう一度少年を抱き締めた。力いっぱいに、もう二度と離したくないというふうに抱き締めた。
「正解だよ、デンジくん!やっぱり君は天才だね!」