こうふくなねずみたち   作:shellfish

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第3話

 ふと目を覚ますと、朝も遠い夜中だった。

 月明かりが曇った窓ガラスを通って狭い部屋を照らしている。時計に目をやると、短針はまだ午前2時であることを教えてくれた。

 向かい合って眠っている私の夫は──デンジくんは、未だ夢の世界にいるらしい。すうすうと、安らかな寝息を立てている。

 微笑んだ私は、彼を起こさないよう、そっとその頬に触れた。あの浜辺で触れたときは、まだ柔らかな少年の頬だったが、今は少しだけ固い感触になっている。

 私は布団から抜け出し、キッチンへと向かう。年季の入った冷蔵庫から水を取り出し、直接煽った。

 よく冷された水が、食道を通り、胃の腑に収まる。得も言われぬ爽快感に、私は思わずため息をついた。

 静かな夜だった。普段なら遠く聞こえる不夜城の喧騒も、何故だか今日は届かない。

 私は、足音を極力殺して窓まで歩き、そこを開け放った。

 季節は冬だ。しかし、南国に分類されるこの国の冬はまるでぬるま湯で、今だって息を白く色づかせない程度のそよ風が吹き込むくらい。これが私の故郷なら、骨まで凍らせる寒風がたちまちに部屋を侵略し、さっさと窓を閉めなければあっという間に凍えてしまうところだ。

 

「ずいぶん遠くに来ちゃったな……」

 

 ふいに出たつぶやきが、思ったよりも大きく響いて少し驚く。それだけ、今日の夜の静けさが深いということだろう。

 なんだか無性にお酒が飲みたくなった。故郷では、水よりも酒の消費量が多いのではないかという有様だったから、ご多聞にもれず私も結構な酒好きで、デンジくんにも何度か付き合ってもらった。もっともデンジくんはお酒に弱い体質らしく、最後はへべれけになった彼をさんざんからかって終わるのが、私のささやかな楽しみの一つだったのだ。

 しかしそれも、私の中にもう一つの命が宿る前の話である。ということは、半年以上禁酒が続いているということか。これは中々大したことなのではないだろうかと自分を褒めてやりたくなる。

 

「う……ん……」

 

 デンジくんの寝言に、ふと我に返る。

 彼の方に目を遣ると、寝返りを打った拍子に、大きく布団をはだけさせていた。

 苦笑した私は、彼の枕元まで歩み寄り、布団を直してやる。

 

「レゼ……どこ……」

 

 自分の名前を呼ばれて少し驚く。起こしてしまったのかとも思ったが、デンジくんの両目は閉じたままだ。

 どうやら寝言だったらしい。

 そして、何故だか嬉しくなる。彼が私を愛してくれているのは知っているが、夢の世界でも自分を想っていてくれるというのは、彼を独り占めできているようで胸が熱くなってしまう。

 

「はいはい、きみの愛しのレゼちゃんはここにいますよ」

 

 小声で話しかけてやると、今度こそ彼は薄く目を開けた。

 眠たげに目をこすり、ぼんやりとした声で訊いてくる。

 

「ん……レゼ……?なにしてんの……?」

 

 少年の問いかけに、微笑みで答える。

 

「ずっときみを見てたんだよ」

「ふぁ……ずっと俺を……?それって、なんか楽しいのか?」

「うん、すっごく楽しい。だって、デンジくんは、私のダーリンだからね」

「へっ、それを言うならレゼは俺のベイビーだぜ。俺も、今度はレゼの寝顔をたっぷり見てやるから覚悟しとけ」

「ははっ、なんじゃそら」

 

 デンジくんは布団から体を起こし、私の隣に腰かけた。

 二人で、月を見上げる。月は、おあつらえ向きの満月だった。

 私は、出会った頃より少し逞しくなったデンジくんの肩に、頭を乗せる。

 静かな、静かな夜。遠くどこかで、船の警笛がかすかに聞こえる。港町でもないこの街、いったいどこから聞こえてきたのかと、どうでもいいことを考える。

 

「まるで、この世界に二人だけみたいだね」

 

 乙女のような呟きが、思わず口をついて出る。

 普段なら赤面確定のセリフだったが、満月に照らし出された狭いアパートの一室に閉じ込められた男女には、相応しい言葉だった。

 

「そっかぁ……?そうかな……そうかも……」

「朴念仁だな、きみは。こういうときに、もっと気の利いたレディキラーなセリフを言えないのかい?」

 

 私が、微笑みながらそう言うと、彼はしばし考えこみ、そして言った。

 

「月が綺麗ですね」

 

 私は、当たり前の事実を口にした彼に対して、首を傾げる。

 

「こんな綺麗な満月なんだもの、そんなの当たり前じゃない。あらためてどうしたの?」

「いや、俺の国の昔の人がさ、英語でアイラブユーってのをそういうふうに訳したらしいんだよね。つまりそういうこと」

 

 はにかんだ彼の笑顔に、私もつられて笑顔になる。

 

「中々にエキセントリックな意訳だね。それ、考えた人、少し頭のねじが緩んでたんじゃないの?」

「それなら、そいつの頭がぶっ飛んでくれていてよかったぜ。おかげでレゼを笑わせられたからな」

「なんじゃ、そら」

 

 甘えた声でそう言って、この世で一番贅沢な静寂を味わう。

 モルモットとして扱われた日々。過酷な訓練。こんな穏やかな日常が訪れるなんて、夢に見ることもなかった。自分は、使いつぶされて捨てられるだけの道具だと思っていた。

 明日の訪れが待ち遠しいというのが、これほど幸せなのだとは知らなかった。

 

「ねぇ、デンジくん。明日は仕事、なかったよね?」

「ああ、そのはずだけど、どうかしたか?」

「じゃあ、一緒に映画を見に行こうよ。竜巻に乗って鮫と戦う、面白い映画があるらしいよ」

「えー、それって糞映画ってやつじゃねぇの?」

「デンジくんはそういうの、嫌い?」

「超好き」

「だと思った」

「それなら、花屋にも行こうぜ。レゼ、花好きだろ?」

「超好きだよ」

「じゃあ、そろそろ寝るか」

「そうだね、映画の途中で寝ちゃったらもったいもんね」

 

 二人で一緒の布団に潜り込む。

 鼻先が触れ合うような距離に、この世で一番愛しい人の顔がある。

 神様に祈りをささげる。

 明日目を覚ました時、この人より先に目覚めることができますように。そして、この人の寝顔を見ることができますように。

 

「おやすみ、デンジくん」

「ああ、おやすみ。それとレゼ、さっきの言葉、少し間違えてたぜ」

「えっ?」

「俺たちは世界に二人だけ、じゃねぇだろ?」

 

 彼の言いたいことを理解して、私は微笑んだ。

 最近とみに膨らみつつあるお腹を、優しく摩る。

 

「そうだね。もうすぐ、世界に二人だけじゃなくなるんだね、私たち」

「俺さ、最近新しい夢を見つけたんだ」

「いったいどんな?」

「レゼと百人くらい子供を作ってさ、世界征服するんだ。きっと面白いぜ」

 

 なんとも無茶な、そして彼らしい夢が微笑ましくて、彼の首に手を回してキスをした。

 

「百人かぁ。先は長いけど、一緒に頑張ろっか、デンジくん」

「ああ、レゼとならラクショーだぜラクショー」

「うん、そうだね。きっと、楽勝だ」

 

 ほどなくして、彼は再び眠りに落ちた。

 私は、彼の鼻先にキスをしてから、同じように目をつぶった。

 ああ、こんな毎日が続けばいいのにな。

 なんて、少しだけ、夢を見てしまっただけ。

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