私は、目を覚ました。
ぼんやりと霞がかった意識。一瞬、これが現実なのか、懐かしい夢なのか、分からない。
木枠窓から差し込む、暖かな日差し。木々の葉は紅く色づき、そよ風に揺れている。
──いつの間に、季節は秋になったのだろう。
ついこないだまで、木々の葉は青々と茂り、ギラギラとした日差しが窓ガラスを突き抜ける有様だったはずなのに。
日々が過ぎ去る速度が、どんどん加速している気がする。あの人が逝ってから、それをとみに感じるようになった。
──こうして、どんどん死に近づいていくのだ。
当たり前の事実に、私は苦笑した。
ふと気が付けば、膝の上に掛かったブランケットの柔らかい感触がある。私の記憶が確かならば、寝る前にそんなものはなかった。つまり、優しい孫の誰かが、高齢の私を慮ってそうしてくれたのだろう。
──ああ、これは現実なのだな。
私はいつも通り、夢の中の私が、ただの夢ではなかったことに安堵する。私は確かに、愛しい人と手を取り合い、私の人生を生きたのだ。
少し喉が渇いた。サイドテーブルに手を伸ばす。視界に入る私の指には、愛しい人と過ごしてきた日々と同じだけの皺が刻まれている。
私は、何故だが嬉しくなった。
冷たい水を飲み、軽く息をつく。それだけの動作に、重たい疲労を感じるようになった。
足に少し力を入れ、安楽椅子を動かす。キシリと木が軋む音。
ゆっくりと目を閉じる。
最近は、一日ごと、現実と意識の間に薄いヴェールのようなものが重ねられていくのを感じる。
遠い昔の罪が、そして幸福が、まるで別の世界のことのように思えてしまう。
だが、それ間違いだ。
私は確かに、たくさんの人間を殺して、しかし誰に裁かれるでもなくのうのうと生きた罪人で。
私は確かに、この世で一番、愛しい人を愛し、愛しい人から愛された、幸せなねずみだった。
神様、どうかお願いします。
地獄の底に私の特等席が設えられているのだとしても、どうか、この思い出と共に逝けますように。
目を閉じたまま、そう願った。
冷たい風が頬をなぶる。心地よい、爽やかな風だ。
しかし、どうして冷たい風が吹き込むのか。窓も扉も閉まっているというのに。
不審とともにゆっくり目を開く。すると、そこに、ピンクがかった長髪の、美しい女が立っていた。
女は私を見下ろしながら、薄っすらと、蜜を含むように微笑んでいた。
「はじめまして、ボムちゃん」
懐かしい自分の名前に、思わず私も微笑んだ。
「はじめまして、魔女」
「上手に逃げたね。辿り着くまでに、こんなにも時間がかかっちゃった」
「これでも、一応は大国の元工作員ですから。蛇の道は何とやら、ね」
「どうやってデンジくんの匂いを消したの?」
「企業秘密ということにしておこうかしら」
クスクスと笑う私を、女は、そこだけ時が止まったような微笑みを浮かべて見つめている。
私は魔女に問いかける。
「今のあなたのことは、何とお呼びすればいいのかしら?」
「好きに呼べばいいよ」
「じゃあ、マキマとお呼びしても?」
「ずいぶん懐かしい名前だね。その名前で呼ばれるのはいつ以来だろう」
マキマは、笑窪を少しだけ深めて微笑った。
私も、負けじと微笑みを浮かべてやる。
「あの人は、もう、ずいぶん前に亡くなったわ」
「知ってるよ。デンジくんの墓も暴かせてもらった」
事も無げに言った女は、感情の籠もらない声で私に尋ねる。
「彼の心臓は?」
別に隠すことでもないから、私は正直に答える。
「分からない。遺体を火葬した時には、骨しか残らなかった」
「そう。なら仕方ないね」
「信じるの?」
「あなたには嘘をつく理由がない。それに、デンジくんの子供たちにチェンソーの心臓が受け継がれていないことは確認しているからね。きっと、地獄に帰ってしまったのかな」
つれないね、と呟いた女は、呆気なく踵を返して扉へと向かう。
「マキマ、あなたは私を殺さないの?」
私の問いに、女は足を止めて振り返る。
その美しい顔に、相変わらず、人間の振りをした微笑みを浮かべながら。
「あなたを殺す必要がないからね。それとも、ボムちゃんは私に殺してほしいのかな?」
「さぁ、どうかしら」
とぼけたわけでも、はぐらかしたわけでもない。本当に、分からなかったのだ。
『先に地獄で待ってるぜベイビー』
それがデンジくんの今際の言葉だった。
まるで、映画の敵役が主人公に向けて放つような台詞だ。決して誰も、長年連れ添った妻への最後の言葉に相応しいとは思わないだろう。
だが、私は泣き笑いの表情で、そしてこの上ない喜びとともに、その言葉を受け取った。
私は、たくさんの人を殺した。デンジくんは、たくさんの人を助けた。だから、死んだ後は、彼と私は別々の道を歩くことになるだろう。
若かりし頃、酔いに任せてそう言ったとき、デンジくんは困ったような表情で言った。
『でもさ、俺がたくさん人を助けたんなら、レゼが殺した分と差し引き出来るんじゃねえの?』
彼の優しい言葉に、私は首を横に振った。
『それは流石に虫が良すぎると思いますけどねぇ』
私が微笑みながらそう言うと、デンジくんは、にやりと不敵な笑みを浮かべて、
『そっか。なら、俺もレゼと一緒に地獄に落ちよっと』
『なんで?せっかく天国に行けるのに、勿体ないよ』
『だってよ、天国にいる奴らなんて、お行儀のよろしい良い子ちゃんだけなんだろ?そんな連中といるより、絶対レゼといたほうがハッピーじゃん』
遠い、絵本よりも遠い、昔のことだ。
ああ、私は幸せだったのだなと微笑み、こちらを見つめる女へと問いかける。
「ねぇ、マキマ。あなたに会ったら、一つだけ聞いてみたいことがあったの。質問してもいい?」
魔女は小首を傾げた。
「今更私に質問したいことがあるの?」
「ええ、是非とも答えてほしいわ」
「いいよ。何を知りたいの?」
「──支配の悪魔よ。貴様は、他人の運命も支配できるのか?」
女のかたちをしたソレは、相も変わらぬ美しい微笑みを浮かべながら、
「その運命が、私より劣ったものならば」
「そう……。なら、私達の勝ちね」
私は総身から力を抜き、大きな息を吐き出した。
ソレは、小首を傾げたまま問う。
「なんで?」
「だって、私達は、一度も貴方の影に怯えなかった。貴方の力の及ばないこの場所で、貴方の力の及ばない運命を生き抜いた。だから、私達の勝ち」
「貴方達の運命が、私の支配したものじゃなかったと、どうして言い切れるのかな?」
「だって、私はデンジくんを愛したもの。そして、デンジくんは私を愛してくれたもの。だから、それは私達だけの運命。だから、私達は貴方に勝ったの」
ソレは、微笑みながら視線を少し上に向けた。人ならば、考え込むような様子だった。
そして、微笑みながら言った。
「──そうだね、きっと、貴方達の勝ちなんだろうね。おめでとう」
一抹の敵意も悔しさもこもらない、あっさりとした声だった。
そして、その声のまま、ソレは続ける。
「今度は、私も質問をしてもいいかな?」
「私に答えられることなら何でも」
「どうして、あなたとデンジくんは年をとったのかな。あなた達の仲間は、誰一人として老化しないのに」
心底不思議そうに、そう問うた。
私は、首を横に振った。
「さぁ、どうしてかしら。私にはわからないし、多分誰にもわからないことだと思うわ」
「だろうね」
「ただ一つ言えることがあるなら、私は、そして多分デンジくんも、共に老いることができて幸せだった。その幸せがあり得ないことなら、きっとそれを奇跡と呼ぶのでしょうね」
「なるほど、奇跡か。そう考えるのが、一番きれいなのかもしれないね」
ソレは微笑みを浮かべたまま、深く頷いた。
私は、ソレに向けて最後の問いを投げる。
「貴方はこれからどうするの?」
「私は、彼を探し続ける。時間はいくらでもあるからね。彼が地獄から転生して、再びこの世に生まれるまで、待つ。そして、必ず見つけ出す。今回はあと少しだったけど失敗した。次は、もっと上手くやる。それが、私の生きる意味だから」
「そう……。ならば、あなたの願いが叶うことを、地獄の底で祈っているわ」
そう言った私を、ソレは、興味深そうに覗き込む。
「……どうして泣いているの?歓び?悲しみ?それとも……憐れみ?」
「分からない……でも、涙が溢れてくる……」
「……やっぱり、人間のことは、よく分からないね」
「なら、良かった。私はようやく、人間になれたのね」
涙を袖で拭う。
そこにはもう、誰もいない。扉の音も立てず、ソレはここにはいなかった。最初から、全てが幻だったかのように。
私はくすりと笑みを零す。
あの恐ろしい悪魔を相手に、中々堂々と渡り合ったものじゃないか。我ながらたいしたものだ。
これで新しくデンジくんへの土産話が増えたと、内心で喜ぶ。
タンスの上に置かれた写真立てを見る。
そこに、あの頃の、デンジくんと私がいる。
デンジくんは、いつも通り笑っている。
私は、写真の中の彼に微笑みかけた。
「……そうだね、今度は、地獄の底をハッピーで埋め尽くそうね、デンジくん」
きっとあの人は地獄の底で、今もゲラゲラと笑っている。