聖女と獣人と陰の王   作:実験者

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一話:聖教

 

 静かな夜の拠点に、墓地はあった。

 月は雲に隠れ、淡い銀色の光だけが石碑の列をぼんやりと浮かび上がらせている。冷たい風が枯葉を転がし、かすかな音を立てて闇を渡っていく。ゼータは一人、墓標の間を歩いていた。

 

 黒いスライムスーツが月光を吸い込み、彼女の姿をほとんど輪郭だけに溶かしている。足音は一切立てず、まるで影が影を踏んでいるかのようだった。金色の瞳を伏せ、彼女はゆっくりと、一つ一つの墓に刻まれた名を追う。

 

 かつて自分の指揮下にあった者たち。自分の判断ミスで、取り返しのつかない犠牲を出してしまった者たち。彼女の表情は変わらない。無口で無感情な仮面のまま。

 

 それでも、指先がわずかに震えているのは、誰にも気づかれまいと願うほどの小さな裏切りだった。

 墓地の出入り口、朽ちかけた石のアーチの下に、黒いロングコートを纏った人影が立っていた。シャドウ。漆黒のフードが顔を覆い、月明かりすら反射しないその姿は、まるで闇そのものが形を取ったかのようだった。ゼータは足を止め、静かに息を吐いた。金色の瞳が、わずかに揺れる。

 

「……主」

 

 低い、掠れた声。普段は必要最低限の言葉しか吐かない彼女が、珍しく先に口を開いた。シャドウは微動だにせず、静かに応じた。

 

「意外だな。死んだ者を悼む習慣があったとは」

 

 ゼータは軽く肩をすくめ、視線を墓標に戻した。

 

「ちょっとね。自分のミスで死なせた子を……思い出すために、見て回る時間を作ってるんだ」

 

 声は淡々としている。感情を封印した、いつもの調子。でも、言葉の端にわずかな重みが宿っているのを、シャドウは聞き逃さない。

 

「そうか。どうだった」

 

 ゼータは一度、深く息を吸ってから答えた。

 

「うん。自分の無能さを、骨身に染みて思い出した。だからこそ……過信せず、慢心せず、確実に行動する。次は、同じ過ちを繰り返さない」

 

 シャドウはわずかに頷いた。フードの下の表情は見えないが、声には静かな敬意が込められている。

 

「傷は深いようだな。だが、それすらも前へ進む原動力にしているのは流石だ。過去の未練を背負いながら、それでも今と未来のために全力を尽くす。尊敬するよ、ゼータ」

 

その言葉に、ゼータの動きが止まった。金色の瞳が、ゆっくりとシャドウに向く。普段は鋭く冷たいその瞳が、ほんの一瞬、幼い日の温もりを思い出すように揺れた。

 

「……はは、主に褒められるとはね」

 

 照れ隠しに、彼女は人差し指で頬をかいた。頬がほんのりと上気しているのは、闇に紛れてほとんどわからない。それでも、彼女自身は熱を強く感じていた。

 

「本当は恥ずかしいところを見られたと思うんだけど。でも……主になら、良いかも」

 

 小さな、ほとんど聞こえないほどの笑みが零れる。普段の無口な仮面が、ほんの少しだけ剥がれた瞬間だった。シャドウはそれ以上追及せず、静かに話題を移した。

 

「次の任務の話だ」

 

 ゼータの表情が瞬時に引き締まる。金色の瞳に、再び鋭い光が宿る。

 

「おっけー。何でもやるよ」

「貿易都市グラズヘイムの中にある宗教国家オルムだ。大聖堂と関連施設が神殿特区として、一つの小さな国として扱われている。そこで国是とする教えは、聖教と呼ばれるものだ」

 

 ゼータが小さく鼻を鳴らした。嘲るような、冷たい音。

 

「そこの調査か。ということは……神の有難いお話を聞くことになるのかな」

「神は嫌いか?」

 

 シャドウの問いかけは、静かで、しかし核心を突いていた。ゼータは一度、遠くを見つめるように視線を逸らした。過去の痛みが、胸の奥で疼く。

 

「少なくとも……一番苦しい時に、助けてくれなかった。それってつまりさ、私達は救われる必要のない存在ってことになるじゃないか」

 

 声は低く、抑えられている。それでも、言葉の端に燃えるような憎悪が滲む。

 

「そういうのは、嫌だね」

 

 シャドウは静かに頷いた。

 

「ああ。そうだな。神は信じたい者が信じれば良い。心の支えにするのも自由だ。しかし我々とは関係ない。やつらの異端狩りは、私たちも対象だ。敵として処理する」

 

 ゼータの唇が、冷たく、鋭く弧を描く。豹が獲物を見つめたような笑み。

 

「そうだね。どんな道を選ぶか。選ぶしかないとしても、自らの行動には責任が伴う。神を信じて殺すならば、神を信じない者による逆襲を受けることも……運命だ」

 

 その言葉に、シャドウは満足げに頷いた。

 

「その通りだ。まずは聖教の裏を知る。その後、ディアボロス教団との関連情報がないか探る。準備は入念にしておけ」

 

 ゼータは深く、静かに頭を下げた。黒髪が月光を受けて、わずかに金色に煌めく。

 

「主の仰せのままに」

 

 二人の影は、墓地の闇に溶けていく。やがて月が雲から顔を出し、冷たい光が再び石碑を照らした。そこには、誰もいなかった。ただ、静寂だけが残り、風が枯葉を優しく転がしていく。闇の中で、二人の意志はすでに次の戦場へと向かっていた。

 

 貿易都市グラズヘイムは、昼下がりの陽光に満ち溢れていた。石畳の通りは人波で埋め尽くされ、商人たちの威勢のいい呼び声が飛び交い、馬車の車輪が石を軋ませる音が絶え間なく響き合う。

 

 空気には焼きたてのパンや香辛料、露店で煮込まれるシチューの匂いが混じり、遠くから聞こえる鐘の音が街全体に穏やかなリズムを与えていた。

 

 建物はすべて重厚な石造りで、年代を感じさせる風化と、新しく磨かれた部分が混在している。尖塔やアーチが空を切り裂くように立ち並び、どこか古い帝国の遺産を思わせる荘厳さを湛えていた。

 

 露店の軒先には色とりどりの布、異国から運ばれた香辛料や宝石、そして聖教のシンボルである翼を広げた女神の紋章が入った護符、小さな祈りの書、女神ベアトリクスのミニチュア像までがずらりと並び、巡礼者や観光客が次々と手を伸ばしている。

 

 その喧騒の真ん中を、二人の若者が並んで歩いていた。

 一人は下級貴族らしい、質素だが上質な生地の服を着た黒髪の少年──シド・カゲノー。

 表情は穏やかで、どこか退屈そうに周囲を見回しているが、その瞳の奥には常に冷静な観察の光が宿っている。

 

 もう一人は、黒い旅装に身を包み、フードを深く被った少女──ゼータ。獣人の耳と尻尾はスライムの変形によって巧妙に隠され、通りすがりの人々にはただの従者か、年下の妹のようにしか映らない。

 

 金色の瞳は鋭く、常に周囲の気配を捉え続けている。シドが、感嘆したように周囲を見回しながら呟いた。

 

「凄いね。流石に」

 

 声は小さく、通りを歩く人波に紛れる程度の音量だ。ゼータは無表情のまま、鋭い視線で人波を観察しながら、短く答える。

 

「聖教を素直に信じてるわけじゃなく、その知名度や権威を借りた人たちも多い」

 

 シドが苦笑いを浮かべ、近くの露店に目をやる。そこには公式認定アドバイザーの腕章をつけた者たちが、巡礼者に熱心に護符を勧めていた。

 

「オフィシャルアドバイザー多すぎるね」

「30人はいたね」

 

 二人は自然に視線を前方へ移す。通りを少し外れた高台に、巨大な白い石の建造物がそびえ立っていた。長方形の平面に、中央の高い身廊と両脇の側廊。側壁には高窓が連なり、内部から差し込む柔らかな光が、建物全体を神聖なオーラで包んでいる。

 

 典型的なバシリカ式の大聖堂──古代ローマの公共建築を起源とする形式で、荘厳さと実用性を兼ね備えた教会堂だった。

 

「噂の大神殿は……あれかな。バシリカか」

 

 シドが呟いたその時、街のあちこちに設置された拡声魔道具から、荘厳な鐘の音とともにアナウンスが流れた。

 

『これより聖女様の説話がございます。静粛にご清聴、どうぞよろしくお願いします』

 

 人々が自然と足を止め、大聖堂前の広場へと集まり始める。家族連れ、巡礼者、観光客、商人までが、ざわめきを抑えて壇上の方へ視線を向けた。ゼータが、心の中で冷ややかに呟く。

 

(聖女様、ね)

 

シドは興味深そうに、軽く口元を緩めた。

 

「へぇ」

 

広場の中央に設けられた壇上へ、ゆっくりと一人の少女が現れた。黒い目隠しで両目を覆われ、純白と金の荘厳な装飾衣を纏った少女──聖女ウィクトーリア。

 

 年齢は十六、七歳ほど。長い銀髪が風に優しく揺れ、目隠し越しでも分かるほどに整った顔立ちをしている。衣装は重厚で、肩から垂れる金の刺繍が陽光を反射して輝き、まるで彼女自身が光を纏っているかのようだった。

 

 彼女が一歩踏み出すたび、集まった信者たちの間に歓喜の吐息が漏れ、涙を流しながら跪く者、両手を合わせて祈る者、感極まって声を上げて讚美する者まで現れる。広場全体が、静かな熱狂に包まれた。ゼータが、シドにだけ聞こえる小さな声で囁いた。

 

「どう思う? 純粋な魔力の発現にしか感じないけど」

 

 シドは人波に紛れながら、冷静に周囲の魔力の流れを分析する。

 

「本質よりも空間演出が上手い。光の角度、香の匂い、信者たちの配置、すべてが神聖な加護だと感じ取るような状況を整えている」

「なるほど。何も知らない人が見ればそう思うか」

 

 その瞬間──ウィクトーリアの顔が、わずかにこちらを向いた。目隠しをされているはずなのに、確かに二人の方向を見据えているような、鋭い視線を感じた。

 

 ゼータの肩が、ほんの一瞬、強張る。金色の瞳に警戒の色が走り、指先が無意識にスライムスーツの内側へ伸びかける。だが、隣にいるシドが、さりげなく手を伸ばし、ゼータの手を軽く握った。温かく、静かな圧力。安心と信頼を伝える、わずかな触れ合い。

 

 それだけで、ゼータの動揺は最低限に抑えられた。彼女は小さく息を吐き、表情を元に戻す。ウィクトーリアが、澄んだ、どこまでも透き通った声で語り始めた。

 

「それではこれより、女神ベアトリクスのお話をさせていただきます」

 

 彼女の話は、聖教の教義そのものだった。かつてこの世界に混沌と闇をもたらした魔人ディアボロス。女神ベアトリクスの加護を受けた三人の英雄が、魔人の左手を奪い、深き闇へと封印したこと。長い年月が流れ、やがて魔人は復活の兆しを見せ、再び世界を脅かすだろうこと。だからこそ、信徒たちは女神の教えを守り、純粋な心を持って生き、互いに支え合い、異端を排除しなければならないこと。

 

 荘厳で、情感豊かで、長い説話だった。話が終わり、信者たちが感極まった様子で散っていく頃、二人はすでに広場を離れ、石畳の通りを再び歩き始めていた。夕陽が街をオレンジ色に染め、影が長く伸びる中、ゼータが静かに切り出した。

 

「どう思った?」

 

 シドは肩をすくめて、軽く笑う。

 

「愉快な話だったね。実際はどうあれ、アレを信じる人がいるならば、そういう形で動くのが賢明かな。裏に色々にいるとしても、騒ぐと面倒だ」

「そうだね。確かに」

 

 だが、ゼータの声にはどこか納得しきれない、かすかな棘があった。シドがそれに気づき、足を少し緩めて彼女を見た。

 

「不満そうだね。何か引っかかる?」

 

ゼータは一度、口を閉ざし、視線を地面に落とした。

 

「……いや、別に。主に言うべきことじゃないし」

 

 シドは静かに、しかしはっきりと告げた。

 

「そうかな。不満であれ好意であれ、共有しておいてほしいな。神に対するスタンスとかも」

 

 その言葉に、ゼータは大きく息を吐いた。そして、困ったように──ほんの少しだけ幼い表情を浮かべて、小さく笑った。

 

「参ったね」

 

 少しの間を置いて、彼女は続けた。

 

「確かに私は……神を認められない」

 

 声は低く、静かだった。それでも、言葉の奥に宿る古い痛みと、抑えきれない憎悪が、確かに滲み出ていた。

 

「あんなのがいるなら、私たちが救われないのはおかしい。何も悪いことしてないのに」

 

 シドは黙ってそれを聞き、ただ隣を歩き続ける。二人の影が、夕陽に長く伸びながら、グラズヘイムの石畳の上をゆっくりと進んでいった。

 

 大聖堂の尖塔が、遠くで静かに空を指し続けている。街の喧騒は変わらず続いていたが、二人の間には、ほんのわずかな、しかし確かな重みが残っていた。

 

 

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