聖女と獣人と陰の王 作:実験者
帝都郊外・廃墟となった旧工業区。月が薄雲に隠れ、夜の闇が濃く地面に落ちる廃墟の街。
崩れた工場棟の鉄骨が無骨に空を切り、割れたコンクリートの地面には雑草がまばらに生え、風が吹くたびに埃と古い鉄の匂いが立ち上る。
シャドウガーデンが事前に仕掛けた欺瞞情報に誘き出された異端審問部隊テンプラーの一団は、黒と金の厳粛な装束に身を包み、約70人規模の隊列を組んで慎重に前進していた。先頭の隊長が手を上げて停止を命じると、全員が一斉に魔力を共鳴させ、淡い金色の物理防御障壁を展開する。
障壁は集団全体を覆い、微かな光の膜となって夜気を弾いていた。隠密地点の崩れたビルの影から、ゼータが獣耳をぴくりと動かし、低い声で通信機に呟いた。
「このままだと敵の殲滅は難しいかも。共鳴防御の強度、想定を上回っています。一気に突破するのは、相当な魔力が必要そうです」
黒いコートの裾を夜風になびかせ、仮面の下で静かに佇むシャドウが、抑揚のない、しかし確かな声で応えた。
「分かっている。だからこそ、あの仕掛けが効力を発揮する」
その言葉が終わるか終わらぬかのタイミングで、テンプラーの一団が、事前に精密に計算された「一定の地域」へ足を踏み入れた。瞬間、地面のいたるところから赤黒い炎が猛然と噴き上がった。
それはただの火ではない。生きているかのようにうねり、絡みつき、テンプラーの隊列を瞬時に分断し、統率を完全に乱れさせた。
「なっ……なんだこれは!?」
隊長の驚愕の叫びが響く中、炎の壁は巧みに動き、約30人前後の構成員を内側へ強引に引き込み、残りの40人と完全に隔離した。炎の壁の内側では、すでに待ち構えていたシャドウガーデンの七陰——アルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、イプシロン、エータが、闇の影のように無音で動き、混乱したテンプラー構成員を次々と無力化していく。
剣閃が閃き、魔力が爆ぜ、悲鳴すら上げられぬまま、30人は地面に倒れ伏した。外側に残った40人も、事前に仕掛けられた別方向への誘引装置が次々と発動。
幻惑の仕組みと音響効果で散り散りに引き離され、
あっという間に孤立していく。残ったのは、隊長を含むわずか10人のみ。
ゼータは、金色の獣瞳を輝かせ、感嘆の息を漏らした。
「凄い……こんなにあっさりと。主の計算、完璧だ」
シャドウは、仮面の下で静かに首を振り、低く、冷静に言った。
「世辞は良い。速やかに終わせる。殺すなよ、ゼータ」
ゼータは、獣耳をわずかに伏せ、悪戯っぽく微笑んだ。
「うん、大丈夫です。隊長だけは生かして、情報を抜き取りますから」
シャドウは、短く頷いた。
「なら構わない」
二人は、闇の中からゆっくりと姿を現した。黒いコートのシャドウが、静かに剣を抜き、ゼータが獣人の敏捷さを全身に宿して爪を光らせる。残った10人のテンプラーは、一瞬の驚愕の後、防御障壁を再構築しようとしたが、すでに遅かった。剣が閃き、魔力が爆ぜ、獣人の爪が空を切り、わずか数分のうちに、10人の構成員は全員鎮圧された。
抵抗する間もなく、手足を封じられ、地面に押さえつけられる。ゼータは、隊長——金色の装飾が多い壮年の男——の首を、獣人の鋭い爪で掴み上げ、冷たい笑みを浮かべた。
「おい、お前。テンプラーについて知っていることをすべて話せ」
隊長は、口元から血を滴らせながら、憎悪と信仰のこもった瞳でゼータを睨み返した。
「悪いが、話さない。異端に屈するものか。我らは神の意志を代行する者だ。そこは譲れん」
ゼータの瞳が、獣のように細められ、爪が隊長の首にわずかに食い込む。
「なら、少し苦しんでもらうよ」
隊長は、唇を歪めて、嘲るように笑った。
「やってみろ。異端の獣が。神の裁きが、お前たちに下るまで、決して口を割らぬ」
ゼータの爪が、さらに深く食い込み、隊長の首筋から血が一筋伝う。獣人の金色の瞳が、冷たく、残酷に輝き始めた。
拷問が始まった。
帝都郊外・廃墟となった旧工業区。夜風が冷たく吹き抜ける廃墟の闇の中、鎮圧されたテンプラーの構成員たちが地面に倒れ伏し、わずかにうめき声を漏らしていた。
「なんて頑固な。もう良い、殺して脳から吸い出す」
ゼータは隊長の首を掴んだまま、爪を食い込ませようとしたその瞬間——背後から、眩い光の斬撃が飛来した。
純白の輝きを帯びた剣のような光の刃が、ゼータの背を狙って一直線に迫る。
「——っ!」
ゼータが気づくより早く、シャドウが動いた。黒いコートが翻り、シャドウはゼータの前に割り込み、自らの剣を一閃。
光の斬撃を正確に弾き飛ばし、廃墟の壁に激突させて粉砕した。爆音と光の残滓が、夜空に散る。二人が振り返った先、月光の下に一人の女性が立っていた。
聖女ウィクトーリア。
純白の聖衣に身を包み、長い髪をなびかせ、清らかで神聖な美貌を湛えている。
表の顔では、民衆から崇められる聖女。だが、その手には聖なる光の剣が握られ、裏の顔——鍛え上げられた戦士として、異端審問の暗部を一手に担う存在。ウィクトーリアは、シャドウとゼータを見つめ、恍惚とした表情を浮かべた。
瞳は潤み、頬は紅潮し、両手を胸に当てて、祈るように口を開く。
「……ああ、神よ。この運命に、感謝を捧げます。ついに、友人と出会うことができました。闇に囚われた二人の魂を、この手で救うことができる……これこそが、神の導き。神の意志です。さぁ、救いましょう。贖いましょう。罪を抱いて生きる我らは信じることで救われる」
その声は、甘く、熱く、狂信的な喜びに満ちていた。ゼータの獣耳が、ぴくりと逆立ち、金色の瞳が怒りに燃えた。
「……ふざけんな」
彼女は、隊長を地面に投げ出し、爪を光らせて一歩前へ出る。
「神だ? 運命だ? そんな戯言で、人を操るのか? お前の神は、どこにいるんだよ! お前の運命は、誰を幸せにしたんだ! ただの狂った信仰で、人を裁き、人を殺すだけの偽善者の戯言じゃないか!」
ゼータの声は、怒りに震え、獣人の牙がわずかに覗く。シャドウは、無言だった。
静かな仮面の下の表情は窺えない。ただ、剣を低く構え、静かに、しかし完全に警戒を続けている。魔力が微かに周囲を震わせ、いつでも動ける態勢を保っていた。
ウィクトーリアは、恍惚の表情を崩さず、光の剣を優雅に掲げた。
「異端の中に、友人がいる。神の教えに背く者たちが、
私の大切な友人たちを惑わしている。だから……あなたたちを、無力化します。そして友人を、救うために全力を尽くす。神よ、憐れみたまえ」
その言葉と同時に、聖なる光が爆ぜ、ウィクトーリアが動いた。戦闘が、始まった。
廃墟の闇に、光と影が激しく交錯し、夜空の下で、三人の運命が、静かに、しかし確実に衝突しようとしていた。