引き継ぎは、完璧だった。
ティーパーティーの長机。白磁のカップ。砂糖は一つも入れていない。味覚がどうこうではなく余計な変数を増やしたくなかった。桐藤ナギサは私の正面に座っていた。姿勢は真っ直ぐで、呼吸の間隔すら良く訓練された人間のそれだった。
これなら問題ないだろう。私はその瞬間に確信していた。フィリウス、ないしトリニティはこの子に任せて問題ない、と。
「これで、正式に引き継ぎは完了しました」
そう言ってナギサは一礼した。私はそれを受け形式通りに返礼する。その所作がきっとこれで最後になる。
私は、トリニティ総合学園三年生。名前はもう出す必要がない。フィリウス派閥の長として、理路整然としていて彬々構成。平等で実利主義で、時に厳しく、時に無関心であること。それが私の役割であり、それ以外を望んだことはなかった。しかし役割を終えた瞬間、人は驚くほど簡単に変われることを私は知った。
「座りなさい、ナギサ」
すると来た、とでもいう様に息を飲む音が伝わってくる。いつもなら三人分の紅茶が並ぶ場所に今日は二人分しかない。それだけで彼女を緊張させてしまうには十分だったらしい。ナギサは一瞬だけ視線を揺らし、それから静かに椅子を引いた。音を立てない。呼吸も乱さない。正しい振る舞いの見本みたいな所作──だからこそ、私は切り込む。脆い部分へ抉る為に丁寧に。
「……今日の議題は?」
「自分で考えなさい。もう私の派閥じゃないんだから」
ほんの僅かにナギサの眉が動く。困惑ではない。単なる計算の遅延だ。私は嬉しくなる。
「引き継ぎの最終確認、ですね」
「違う」
即答した。間を与えない。考える余地を潰す。タイトル自体は間違ってはいないが、それを私に聞いてしまうのが間違いだ。ヒントは与えた筈なんだけど、まるでワザと見ない様にしているみたいだ。
「これは最後の授業。貴女が一番嫌いな舌戦、のようなものだよ」
ナギサは口を閉じた。嫌い、という言葉を否定しない所がこの子の誠実さだ。つくづく彼女を推薦して良かったと思うし、ただそこに居るだけの木偶の坊ではない所が気に入っている。だから私は彼女に私の思う理想や本音を切り分けて置いて行けるのだから。
「質問する。貴女はフィリウス率いる身として、何を最優先する?」
「秩序です」
迷いはない。しかしそれだけでは足りない。
「抽象的。やり直し」
「……学園全体の安定。個人の感情ではなく、合理性に基づいた判断……でしょうか」
「いいね。でも不十分だよ。ではその合理性は誰の為のものだろう?」
私は紅茶に手を伸ばさない。冷めているのが分かっているから。ナギサは沈黙した。その沈黙の質を、私は見逃さない。
「……派閥構成員、ひいてはトリニティ全体の」
「嘘」
ぴしゃり、と言葉を切った。
「合理性や正しさは客観的に存在するものではないし、それは判断する人間が引き受ける主観でしかない。貴女はまだ自分が背負う覚悟を言語化できていない。違う?」
どんなに正しい判断をしても、周囲がそれを肯定しても。責任は必ず個人に帰ってくる。罪や責任はたった一人しか背負えないものだ。人は正義そのものを愛しているから、必ず白と黒を切り分けようとする。
そこでナギサの視線が、初めて私を射抜いた。反論の準備が整った目だ。私はナギサのこの眼差しが好きで堪らなかった。
「組織は個人の意志で動くものではありません。合理的な利益の追求と、継続的な発展こそが求められます」
「うん、貴女は正しい。でもね、正しさを最優先にする人ほど決断の瞬間に遅れが生じる事がある。それが日常なら問題にならないだろう。けれど重大な局面だったなら? その一瞬の遅滞が招く結果を、貴女は想定している?」
ナギサの唇が、僅かに震えた。
「問いを変えよう。もし、フィリウスの存続がトリニティ全体の不利益になると判断された場合、貴女は自らの派閥を切り捨てられる?」
「……切ります」
部屋の窓から差し込む午後の光はやけに白かった。磨き上げられた床に反射して、視界の端で静かに揺れていて、埃一つ存在しない。ここはいつもそうだ。トリニティは、常に正しく、常に清潔で、常に取り繕われている。
ナギサは私の正面に座っていた。背筋は伸び、指先はきちんと組まれている。正しい姿勢。感情を表に出さない顔。全てが完璧。私は紅茶に口をつけず、ただ彼女を見ていた。
「大胆に言い切ったね。昔の貴女ならそんな結論には辿り着けなかった筈だ。合理的で、組織人としては正しい。それなのに浮かない顔だ。貴女は切り捨てる自分をまだ受け入れきれていないのかな?」
言葉を投げ終えた瞬間、空気が止まった。秒針の音すら聞こえない錯覚。ナギサの瞬きが、ほんの一拍遅れて起きる。
沈黙。彼女は視線を落とさなかった。ただ、唇が僅かに引き結ばれる。その変化だけで十分だった。答えはもう出ているようだから。
私は、ほんの少しだけ笑った。自分でも驚くほど柔らかい笑みだったと思う。まだ後輩の成長に一喜一憂するのが老後の楽しみだったからね。
「100点」
「……え?」
間の抜けた声。その気の抜けた声につい笑ってしまう。何処か恨みがましい目で睨み付けてくるが可愛いらしいだけだからやめておけと何度言ったら自覚してくれるのか。優等生が想定外の評価を受け取ったときの反応はいつ見ても飽きないものだ。
「貴女は自分を嫌いになれる。それは、上に立つ者として最も重要な資質だよ」
ナギサは言葉を失っていた。優等生が答えを用意できない瞬間。こういう人間らしさも私は気に入っていた。決して揶揄って遊んでいる訳ではないよ。本当に。
ナギサは完全に言葉を失っていた。反論の準備も、理屈の組み立てもできない。彼女の頭脳が止まった瞬間を私ははっきりと認識していた。
こういう時の顔だ。
正解を探すことすらできず、ただ立ち尽くすしかない表情。優等生が答えを用意できない瞬間。そういう人間らしさが、私は昔から嫌いじゃなかった。誤解しないでほしい。決して揶揄っているわけではない。他人の痛みを弄んで楽しむほど私は軽薄じゃない……筈だ。だから私はようやく紅茶へと手を伸ばし、何事もなかったかのように視線をカップへ落とした。
「貴女は私を尊敬していると、よく言ってくれるけれど……」
言葉を選ぶように、私は一度だけ息を吸った。部屋の静けさが今はやけに重い気がした。さっきまで整然としていた空気が少しずつ歪んでいくのを感じる。
「私みたいになる必要はないよ」
ナギサは微動だにしない。私の一言一句を逃さないように聞いている。その真剣さが、誇らしくもあり心配でもある。
「私はね、自分を嫌いになることすら合理化してきた人間だ。必要だと判断すれば迷わず切り捨てた。数えきれない程のものを。私の脳髄はね、些細だと判断したことから順番に消していくらしい。後悔や躊躇も、意味を持たない。苦楽を共にした人たちの顔すらもう覚えていない。薄情だろう?」
淡々と語る声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。長い時間をかけて何度も繰り返し心の中で整頓してきた言葉だからだろうか。名前も、声も、表情も。一緒に笑った理由や悲しんだ夜も、すべて不要な情報として処理された。覚えていない事を私は正確に把握している。それが一番質が悪い。きっと忘れたのではない。消したのだ。
私はその判断を今も間違いだったとは思わない。
「得たものの方が多い。地位も、平和も、結果も全部ね」
一拍、間が空く。その間に、記憶の底からどうしても掬い上げてしまうものがあった。
かつて切り捨ててしまった不要な者たち。表情にノイズが走り、解像度の合わない映像みたいに目と口の位置が曖昧になって、名前に辿り着く前に崩れていく無意味な存在たち。保持する価値がないと判断した情報を再生しないようにしている。
誰も、罪の記憶なんて覚えていたいわけじゃない。自分が正しかったと信じ続けるためには、忘却は最も合理的な処理だから。だから私は、そこに感情を差し挟まない。そうすることでしかここまで来られなかったから。蓋を開けてみればなんてつまらない人間だろう。
掬い上げてしまった事実だけが、胸の奥に微かに残る。失った事だけを把握している。何を失ったのかまでは分からない。きっと知る必要もない。私がどうしようと、彼女たちが報われる事はないのだから。
「それでもね」
そこで、私は初めて視線を逸らした。
窓の外に広がる白い中庭。整えられた景観。完璧に管理された世界。これにて最後の授業は終わりだ。明確に自分で線を引く。
「切り捨てた少数を取りこぼした事が、どうしようもなく疎ましくなる日もあったよ」
沈黙が落ちる。
ナギサは何も言わない。
「ナギサ」
名前を呼んだだけだった。それでも彼女の肩が僅かに震えた。ほんの一瞬、呼吸が浅くなるのが分かる。背筋は崩れていない。姿勢も、視線も、まだ保たれている。それでも、名前は鎧の隙間を正確に突いたようだった。
「貴女は私よりずっと優秀だ。……でもね、私ほど身勝手にはなれない」
その有り様を誇るべきなんだ。
そこで、ほんの僅かに言葉を溜めた。沈黙を挟むほどではない。けれど意味が逃げないように、敢えて会話の速度を落とす。
会話に逃げ道を用意してはいけない。評価であり、呪いであり、そして──私自身が、彼女に向けてしまった願いでもある。誰かに追い詰められないように、私が育て、私が導いた。地獄を引き受けてくれると君が言ったから。
ナギサは唇を噛んだ。強く、しかし乱暴ではない。血が滲むほどではない。ただ、溢れそうな言葉を内側で噛み殺すための癖だ。私はそれを知っている。彼女が思考を纏めきれない時、必ずそうする。
「……先輩は」
ようやく、声が出た。
呼吸を整えきれないままの発声。
それでも逃げずに問いを続けようとする。
「後悔していますか」
問いは短く、余分な言葉はない。
逃げ場も、修辞もない。
はいか、いいえか。
それだけを要求する問い。
「している」
考える間などない。言葉が口をついて出た、というより──最初から、そこに置かれていた答えを拾い上げただけ。私の中でその問に対する答えはずっと前から決まっていたから
声の調子は変えなかった。感情を乗せないことは、もはや意識的な選択ですらない。
「でもね、再び同じ選択を迫られたとしても、きっと私は同じことをするよ。私という人間が、やり直しを許さないから」
自嘲や誇りは存在しない。ただの私という性質の問題だ。変わらないものを、変わらないと認めるだけの話。それもまた迷いはなかった。ここに至るまでに積み上げてきたものがそのまま答えになっている。ただそれだけの話なのだから。
「それに、後悔に意味はないからね。選択の重さが見せる、ただの気の迷いだよ」
何度も繰り返し、検証し、削り落としてきた結論。
後悔するほど重かった。それだけのものを背負って選んだ。だからこそその選択は本物だったと思う。
私は立ち上がる。椅子の脚が床を擦り、かすかな音を立てた。やけに小さな音なのに、この場には不釣り合いなほどはっきりと響く。
それが、終わりの合図だった。ナギサは、まだ座ったままだ。背筋は伸びたまま、けれど視線は上がらない。私を見上げることも、引き留める言葉を探すことも、そのどちらも選べずにいるようだ。
私はそれを待たない。
振り返らない。
ここで立ち止まれば、恰好が付かない。
授業は終わった。
残ったのは、正解も、救いも用意されていない、答えの出ない問いだけだ。
私はこの可愛い後輩を、呪わずにはいられなかった。磨けば輝く宝石だと知ってしまった時から、きっとこうなる運命だったのだと思う。まだ角も取れていない、あどけなさの残る君にとっては余りにも非道い仕打ちだっただろう。残酷だと罵られても構わない。冷酷だと背を向けられても、それでいい。
私は、知っている。君がどれほど真っ直ぐで、どれほど誠実で、どれほど――折れにくいかを。だからこそ、輝いた君が悪い。壊さずにはいられないほど、正しく眩しかった君が。
これは祝福であり、同時に呪いだ。これから彼女は冷酷な主君にもなれるし、公平な裁判官にもなれる。そのどちらに堕ちても、あるいは至っても、それは彼女の選択。そもそも彼女から純粋さを奪った私には、祝福と呪いをもう別々の言葉で呼ぶ資格がない。
「派閥を率いる時に正しさに溺れそうになったら、その時に改めて考えてみるといい。時間は思ったよりも残されているものだよ」
何を、とは言わない。この部屋で交わされた全てを、という意味はきっと彼女に伝わっている。
私は、そのまま背を向ける。椅子も、テーブルも、彼女の表情も、視界から切り離して。振り返らないと決めた瞬間、背中に空気の重さがのしかかった気がした。
「君は例え自分を嫌いになっても前に進める人だよ。私は素晴らしい後輩を持ったね?」
それは評価であり、餞であり、これ以上は何も与えないという宣言でもあった。それが、私が渡せる最大限の言葉だったし、きっと気に入ってくれると思ったから。
背後で、息を整える気配がする。間を置いて、ようやく声が届いた。
「……ありがとうございました。先輩」
少し掠れた、けれどはっきりした声。敬意も、距離も、きちんと含まれた呼び方。私は答えない。足を止めることもしない。
もう、授業は終わったからさ。これ以上言葉を返せば未練として残る気がした。だから私は、そのまま歩き去る。彼女が何になるのかを、知る資格を手放して。
ティーパーティーを辞めてから、私は授業に出なくなった。
最初は一日だけだった。次は三日、それから一週間。
不思議なことに、誰も咎めたりはしなかった。欠席を咎める声も、理由を尋ねる連絡もない。それまで積み上げてきた実績と信用は、怠慢を「休養」という言葉に変換する力を持っているらしい。
便利だね。本当に。
私は校舎の外に出た。いつもは中から眺めていた白い建物を、今日は外側から見上げる。
トリニティ総合学園の白さは外から見るとひどく冷たい。近寄りがたいほどに整っていて、触れれば拒絶されそうな距離感がある。荘厳で、清潔で、そして――取り返しがつかないほど、綺麗で完璧な城。
欠陥のない構造物は、人を寄せつけない。
本音を言うと私はそれを、少しだけ嫌っていた。
「これからどうしようか」
寿命は、あと一年もない。その事実を、私はすでに何度も反芻している。
医療記録を見たとき、私は妙に冷静だった。致命的な数値。修復不能な欠損。専門用語で丁寧に言い換えられた「もう後がない」という宣告。
どれも、「そうか」としか思えなかった。
納得できる要素も多い。どうやら姉と同じ病で命を落とすらしい、という点も含めて。血縁、体質、経過――すべてが説明可能な範囲に収まっていた。様々な迷いを掻き分けて、必死に進んできた先が案外、拍子抜けするほど空っぽな世界だった事に私は少しだけ笑ってしまった。
ああ、だから。私はこれほど綺麗に片付けたのか。
胸の奥で、点と点が繋がる感覚があった。ようやく、自分の行動に名前がついた気がした。私は自分の人生を後輩に引き渡すためだけの構造物として扱っていた。
自分が生き延びる前提で、未来を考えていなかった。
続きの時間を想定せずににすべてを整えていた。
トリニティの鑑と呼ばれた、私という仮面。
それを取り外した内側にいたのは――自由奔放で、意外なほど我が儘で、役割も、使命も、何ひとつ持たない空っぽでちっぽけな存在だった。それでも、不思議と恐怖はない。失うものがないと分かった瞬間、人はこんなにも静かになれるらしい。
私は白い城に背を向ける。
この学園が私を形作り、そして私がすべてを置いていく場所。
もう、未来はここにない。
けれど――後悔も、ない。
その事実が少しだけ嬉しいんだ。
白い石畳の間を縫うように伸びる花壇の前で彼女は立ち止まっていた。相変わらずだ。感情の振れ幅が大きくて、周囲の空気を無遠慮に揺らす。それが嫌味にならないのは、彼女自身があまりにも自由で純粋だからだろう。
聖園ミカ。ナギサに次ぐ、私の可愛い後輩の一人。……いや、順序をつけるのは少し違うか。ミカはナギサとは別の意味で素晴らしい後輩だ。深く考えない。その場で受け取った情報を、そのまま感情に流す。それが彼女の強さであり、危うさでもある。近いうちに、彼女がパテルの代表になるという話は、私の耳にも入っている。そう考えれば今のこの接触は軽率だ。それでもこの自由さは、きっとナギサの成長に一役買うだろう。
理屈で世界を切り分ける者と、感情で世界を飛び越えてしまう者。二人が並び立つ未来は、私が設計したものではないけれど、だからこそその先の未来につい期待してしまう。
最初の頃、彼女は私を苦手にしていた。あるいは、はっきりと嫌悪していたのかもしれない。理屈を並べる人間が嫌いで、正しさを纏う存在に反射的に噛みつく。そういう子だった。それがいつの間にか、距離を詰めてくるようになった。理由は分からない。分からないままでいい、とも思っている。
「先輩、最近見ないと思ったら……こんなところで何してるの」
屈託のない声。責めるでも探るでもない。ただ見つけたから声をかけた、というだけの調子。
私は思わず笑った。モモトークで連絡すればいいのに、とは言わない。私が端末を持ち歩かないのは、もう周知の事実だったから。
「サボり」
短くそう答えると、ミカは一瞬だけ目を丸くした。
それから、すぐに笑う。
「え、珍し。……でも、先輩でもサボるんだ」
声に含まれるのは驚きだけで咎める気配はない。そういうところが、彼女らしい。
「私も人間だからさ、たまには休まないとね。ナギサも最近ずっと忙しそうだし」
さらりと名前が出る。重みを持たせることなく、自然に。
「そうだねー」
それ以上、私は何も言わなかった。ナギサの話題を広げることも、否定することも、どちらも選ばない。ミカは気にしない。
「ねえ、先輩」
少しだけ声のトーンが変わる。
「どっか行く予定とか、あるの?」
問いは軽い。
けれど、ほんの少しだけ――引き留める様な響きを感じて少し躊躇う。私は庭園の奥に咲く花に視線をやる。名前も知らない、手入れの行き届いた花壇。
「さあ」
嘘ではない。まだ何処へ行くかなんて考えてもいないからね。
「ふーん……」
ミカはそれ以上、踏み込まなかった。踏み込めないのではない。踏み込まない、という選択をしたのだろう。彼女のそういう責任を伴った行動が好きだ。
「ま、先輩がサボってるなら安心かも」
「安心?」
「だってさ、先輩がちゃんと休んでるなら、トリニティはまだ大丈夫ってことでしょ?」
あまりにもミカらしい理屈だった。感覚と経験則のみで裏打ちされた結論。それを拙い、とは言わない。彼女なりにちゃんと見て、感じて信じてきた時間がそのまま言葉になっているから。
もしも、ここで「私はもう舞台から降りた。これからは君たちが、どうにかしなければならない」。そう告げたら、どうなっただろう。ミカは縋ってきただろうか。それとも、怒って否定しただろうか。あるいは、何も分からないまま笑って、「大丈夫だよ」と言ってしまっただろうか。
私の沈黙を、ミカは特に気に留めなかった。それが彼女の強さだ。
「じゃ、私は行くね」
あっさりとした別れの言葉。名残惜しさは、ほんの少しだけ。それ以上は、引きずらない。
ミカは軽く手を振る。
いつもの調子で、いつもの距離感で。
「またね、先輩っ☆」
私は返事をしなかった。
代わりに、ほんの少しだけ笑った。
ミカは振り返らない。迷いなく庭園を抜けていく。
白い石畳の向こうに彼女の背中が溶けていく。彼女の背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、ただその背中を見守っていた。
その姿を見送って、私は静かに思う。
――この子は、きっと大丈夫だ。
それだけを胸に残して私はまた、歩き出した。
トリニティの礼拝堂は、今日も現実と夢の境界が曖昧だった。時間の流れが、論文の余白のように伸びている。長椅子に腰掛けた彼女は、私を見る前から私を知っていた。幼い姿に反して、その佇まいは、長年研究室に籠もり続けた教授のそれだ。昔それを指摘した時に怒らせた事があって、その時は本当に可愛いかった。
「……来訪の確率は、三割未満だった」
開口一番、疲れたような声音で彼女、百合園セイアは呟いた。
「しかし現実というものは、常に最も摩耗した仮説を採択するらしい。統計学的に、まったく美しくない」
彼女は悪態を吐き、ようやくこちらへ振り返る。真っすぐ見返してくる彼女は、相変わらず未だ夢から覚めきれない様子だった。
「先輩、貴女は相変わらず何も言わないんだな」
「言う必要が見当たらないからね。君の前では特に」
そう言うと、セイアは拗ねた様に少しだけ目を伏せる。
「私の観測によれば、貴女がここを発つ未来は全てが終わってからだった。文字通り、章が閉じる瞬間」
声に感情はない。感情を挟む余地が、もう残っていないからだ。
「だから、端的に述べさせてもらう。その短い生を、もう少し伸ばす選択肢の提示を」
相変わらず淡々としていて率直な言葉だ。
いかにも彼女らしい――そう思う一方で、珍しく感情が声に滲んだ、らしくない響きにも聞こえた。
「私に寿命を無理やり数ミリ引き延ばす程度の処置をしろと?」
「それでも、その数ミリの引き延ばしの先で、貴女の未来が切り開けるかもしれない」
指を一本、とん、と机に立てる。セイアはそれを目で追いながら、乱れた呼吸を整える。
「貴女が生き延びる未来は、確かに希望的観測の域を出ないかもしれない。しかしそれでも私は、貴女に自分自身を切り捨ててほしくないんだ」
最後だけ、声が僅かに擦れた。
それでも私は首を横に振る。
「それでも君は視たんだろう? フィリウスの代表として輝かしい功績を遺す桐藤ナギサと、自由奔放にパテルを率いる聖園ミカの、彼女たちのいるトリニティ総合学園の姿を。その未来に、私は居たかい?」
セイアは小さく言葉を飲み込んで、ゆっくりと吐き出した。
「無論、居なかった。……ああ、わかっている」
疲れ切ったセイアは、静かに目を閉じる。まるで、これ以上の未来を視ないために、あるいは――既に見尽くしてしまったかのように。未来を視る事の出来る彼女だからこそ、見送ることの重さを誰よりも知っている。
静寂が、礼拝堂を満たす。
この沈黙は、結論だ。これ以上の言葉は、どんな理論でも蛇足になる。
私は踵を返す。
セイアは、目を閉じたまま、沈黙を続けている。
――それでいい。
それが、知ってしまった者同士の最も誠実な別れだからね。