まずい、皆の好感度を上げ過ぎた   作:ヘルタ様万歳

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始まった、終わった

 

 

それから私は、各地を回った。特に何も考えず、ただ歩いた。

 

トリニティの端。

他学園との境界線。

名前すら聞いた事もないような、廃墟の街。

 

白い校舎の影が途切れた先には、生活の匂いがあった。制服を着崩した生徒。補修用の資材が積まれた裏道。規則の外側で息をしている、曖昧な空間。

 

そこで見たものを、私は全て覚えている。忘れないと決めた訳ではない。今回はたまたま消されなかっただけ。派閥の文書は整理した。役職ごとの権限、引き継ぎの順序、曖昧だった慣例。人事のしがらみも可能な限り断ち切った。

 

ナギサが選択を迫られる場面を、ふと思い浮かべながら、その場に居合わせたいとは思わなかった。きっと、彼女は自分でどうにかする。そう信じている。

 

それでも後悔は減らなかった。むしろ増えたように思う。夜になると時々思い出す。自分に残された時間が、想像していたよりもずっと短いことを。

 

――もっと、身勝手になれたかもしれない。

――もっと、誰かに甘えても良かったのかもしれない。

 

そういう「かもしれない」は、死を前にすると急に増えるものだと今さら気付く。もう戻れやしないのに。

 

口から垂れる赤黒い病は、私の後悔や未練を確実に断ち切るために必要なパーツのように思えた。

 

私がいなくなった後も、トリニティは続くだろう。

派閥は争い、誰かが成長し、誰かが傷付く。

 

それは私が居なくなっても変わらない。むしろ私が居ないからこそ、より正確に回り続けるだろう。

 

歯車は、感情を持たない。

だから噛み合う。だから壊れる。

 

成長した誰かは、自分が何を踏み越えたのかを忘れる。

傷付いた誰かは、なぜ自分だけが選ばれたのかを理解できない。

 

そしてその両方を生み出した判断は「正しかった」という一行に纏められて、議事録の隅に沈む。

 

私は、それを何度も書いた。

何度も見て、何度も黙認した。

誰も悪くない、という結論が一番多くの血を流すことを知りながら。

 

それでもティーパーティーを存続させなくてはならない。止めてしまえばもっと多くが傷付き、壊れるからだ。

 

だから私は、そこから降りた。役目を終えた部品は取り替えられなくてはならない。

これからの全てに、私は関与しない。

 

それが正しい。それが、私の選んだ確かな結末。

 

 

 

 

「そろそろ出てきたらどうだ」

 

独り言のつもりだった。それでも、返事が返ってくる確信だけはあった。

 

「こんにちは。良い天気ですね」

 

振り返るより先に、背中を撫でるような冷たい違和感が走る。危険というより、異物に触れたはっきりとした不快感だ。

 

黒いスーツ。その輪郭を縁取るように、燃える黒い炎。

 

――黒服。

そう呼ばれる存在が、そこに立っていた。

 

ああ、と遅れて思い出す。他でもない。姉を、あんな結末へと追いやった側の人間だ。世界の都合を代弁し、必要とあらば人を消費する大人と名乗る怪物。

 

今さら、何の用だというのか。

もう、片付けるべきものはすべて片付けた筈なのに。

 

「お前の所為で影が差した」

 

「つれないですねぇ」

 

黒服の声は穏やかだった。責める調子でも、怒りでもない。結果だけを淡々と述べる、いつもの言い方。続く言葉は、軽い。まるで雑談の延長のような気安さ。虫唾が走るね。

 

黒い表面は、相変わらず感情を映さない。

笑っているのか、泣いているのか。

それとも、最初からどちらでもないのか。

 

分からない。

分かるように作られていないのだ、こいつの顔は。

 

 

「このまま消えるには惜しいと思いませんか?」

 

「お前の主観をまるで私の意見みたいに扱わないでよ。もっと本音で話したらどう?」

 

私の言葉に黒服は肩をすくめる。

 

 

黒服は一瞬、動きを止めた。炎の揺らぎが、ほんの僅かに遅れる。

 

「これはこれは」

 

 楽しげな声音。

 

「手厳しいですね。ですが、本音という概念を、私どもに期待されても困るのですよ」

 

「それで、じゃあ何だっていうのさ。いたいけな女子高生の後を付けるのは相応の理由があってもきもいよ」

 

黒服は、ほんの一瞬だけ首を傾げた。

 

「いたいけ?」

 

「なんだ? 喧嘩なら買うけども」

 

「まさか」

 

黒服は大仰に肩を竦めた。人を苛立たせるのが、本当に上手い。相手の感情の地雷を正確に踏み抜いて、それを偶然として処理する術を彼は熟知している。

 

まぁ、ある意味彼は私のロールモデルでもあった。計画の為に感情を排し、責任を引き受け世界の都合を個人の顔をして語る。そうやって物事を前に進める方法を、私は確かに彼から学んだ。だからこそ、分かる。この男は、私を怒らせたいわけでも試したいわけでもない。

 

 

「最初は姉で……次は私の番、って訳?」

 

黒服は少しだけ首を傾げる。

 

「次という表現は正確ではありませんね。貴女は、ご自身が既にそこへ向かっているのに気付いている筈だ」

 

炎が、微かに強まる。

 

「我々はそれを止める権限も、促す必要もありません」

 

嫌な言い方だった。まるで、最初から観測対象でしかなかったような。

 

「はぁ……だったら何をしに来たのさ」

 

私は即座に返す。黒服は珍しく少しだけ押し黙った。

 

「忠告です」

 

ようやく落ちた言葉。

 

「あなたは、自分が思っているよりも世界へ影響を及ぼしている」

 

黒い炎が、地面に影を落とす。

 

「そのまま消えると、貴女が守ろうとしたものに、別の形の歪みが生じるでしょう」

 

私は鼻で笑う。

 

「お前にも親切心ってあったんだ?」

 

「いいえ」

 

きっぱりと否定。

 

「これは単に、後処理を簡単にするための助言です」

 

あまりに正直で、逆に信用できた。

 

「あぁ、そう」

 

私は息を吐く。

 

「やっと、本音が聞けた気がするよ」

 

黒服は、また笑った。

今度は、はっきりと。

 

「お気に召しましたか?」

 

「まあね」

 

返ってきたのは、軽い声音。場違いなほど柔らかく、冗談めいた響き。黒い表面は相変わらず何も映さない。笑っているのか、泣いているのか。それとも、どちらでもないのか。

 

姉の顔を思い出そうとする。けれど、いつものように輪郭が曖昧になる。それでも、この黒だけははっきりと記憶に残っているのが皮肉だった。まぁ君、パーツ少ないしね。どうでも良い事象として思考の片隅にしつこくこびり付いていたのだろう。カビのようなものだ。

 

私は息を吐いた。今さら怒りも、悲しみも大して沸いてこない。ただ、もう一度“外側”と向き合わなければならないことへの面倒さにくだらない笑いがこみ上げてくる。

 

「少なくとも、奇妙な代弁よりは好きになれそう」

 

黒服はそれ以上、言い返さなかった。

代わりに、炎が静かに収束する。

 

均衡が戻る。

 

ここから先は、交渉でも説得でもない、条件提示の段階だ。

 

私は理解していた。世界の裏側がようやく私個人を見始めたのだと。故にこの存在は敵ではない。味方でも決してないけど。

 

まぁ、今はそれだけでも十分かな。

 

 

――幸いまだ少しだけ時間がある。

 

その時間を私はまた無駄に使う。誰にも迷惑をかけない形で、それでも取り返しのつかない選択を1つずつ重ねながら、それが最後まで「私」という存在の恥を上塗りすると知っていながら。

 

 

「それで、今回は何を企んでいるのさ」

 

そう言った私の声は、思ったよりも平坦だった。それに対し黒服は答えない。肩をすくめることも、首を振ることもせず、ただそこに立っている。

 

それでも、にっこりと笑った……ような、気がした。

 

口元が動いたわけではないし、目が細められたわけでもない。なのに、確かに「笑み」を感じた。こちらの言葉を理解し、それを面白がり、それでも何も明かさないという意思だけが、輪郭を持って伝わってくる。相変わらず気持ちの悪い奴め。

 

そうして沈黙が続く。風が木々を揺らし、葉擦れの音が間を埋める。それでも、この沈黙だけは自然な音とは混ざらない。私は一歩、距離を詰めた。それが脅しにも、接触にもならないことを、互いに分かっている。

 

「……何も言わない、か」

 

「今はまだその段階ではありませんので」

 

「あっそ」

 

黒服は、僅かに首を傾げた。仕草としては曖昧で、意味を確定させないための動き。胸の奥で嫌な予感が形を取り始める。きっと既に状況は整っていて、後は実行に移すだけなのかもしれない。

 

私は、思い出す。姉のときも、そうだった。説明はいつも最後で、選択肢は提示されず拒否権は最初から存在しなかった。だからこそ、私は悟る。

 

今回も「何をするか」ではない。「何を受け取るか」の話なのだ。

 

 

「貴女は私の提案を断れないでしょう。梔子ウツツ」

 

「その名前は嫌いなんだ。言い難いから」

 

――ウツツちゃん。

 

ウツツという音に、意味が宿ってしまうのが嫌なんだ。呼ばれる度に誰かの声が重なってしまうから。

 

けれど否定はしない。呼ばないで、とも言わない。その名をいくら嫌っても、その名でしかここに立てないと私は知っているから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だからこそ最初に失われたのは、名前だった。

 

それがどれほど大切なものだったのかを、私は正確に理解していた筈。理解しているからこそ、わざわざ声に出して呼ぶことはしなかった。

 

白い部屋。窓はなく、時計もない。時間という概念だけが、取り残されたような空虚で何もない空間で、私は椅子に座って何もない天井を見上げていた。

 

足が床に届かないことに、少し遅れて気づいた。

 

視線を落とす。

小さな手。

細い指。

覚えのある輪郭なのに、記憶の中よりもずっと幼い。

 

――ああ。

 

思考は思っていたよりもずっと落ち着いていた。

取り乱す程の感情はもう残っていない。

 

「戻った」のだと、すぐに理解する。それが後退なのか、前進なのか、あるいはそのどちらでもないのか、まだ判断が付かない。

 

ただ、確かなのは私はまだ何も知らなかった、幼い頃の姿をしている、という事実だけ。おい、なんだこの……これは。

 

 

すると誰かが部屋の外、壁の奥で動く気配がした。

暫くして黒い影が扉をくぐってやって来る。炎のような揺らぎ。

 

記憶に虫食いはない。後悔も呪いも、祝福(神秘)も――すべて、そのままだ。喪われたのは、名前だけ。名を持たないということは誰の過去にも属さないということだ。

 

まぁ、残しておきたい過去なんて私にはないから、それでも構わない。立ち上がり、椅子から降りる、という動作に、僅かな時間がかかった。

 

 

 白い部屋には、まだ薬品の匂いが残っていた。

 私は椅子から降り、床に立つ。足が短い。視界が低い。それでも思考は、いつも通り澄んでいる。

 

 

「おい、……どうして子供なんだ」

 

思ったよりも高い声が出た。身体は小さくなっているのに、口調だけが取り残されているようで、あまりセイアを揶揄う事が出来なくなってしまった。

 

私というリソースは、すでに使い果たされていた。だからこそ新たな存在として創造する方がいい――そう言ったのは、他でもない。目の前の存在だった筈だ。

 

これでは、どう考えても退化じゃないか。黒服は壁にもたれ、燃えるような黒い炎を揺らした。沈黙は短い。考えているというより、言い回しを選んでいるだけだ。

 

 

「……ええ。仰る通りです」

 

あっさり認める。

 

「これは退化に見えます。少なくとも、外形的には」

 

炎が、ゆらりと揺れる。

 

「しかし事実、あなたは劣化していない。機能を削いだ訳でも、記憶を消した訳でもない」

 

一拍。

 

「器を、替えただけです」

 

「器?」

 

「ええ」

 

黒服は指を一本立てる。

 

「あなたの身体は、すでに限界でした。修復も延命も、どれも継ぎ足しにしかならない状態」

 

炎が、淡く明滅する。

 

「そこで発想を逆にしました。壊れた器を直すのではなく、壊れる前の器に中身を戻す」

 

私は自分の手を見る。

小さく、何も知らなかった頃の弱々しい影。

 

「……随分乱暴じゃないか?」

 

「褒め言葉として受け取っておきましょう」

 

黒服は肩を竦めた。

 

「記憶と人格は保持。身体だけをまだ可能性が残っている段階へ。理論上は、非常に合理的です」

 

「理論上、ね」

 

「はい。倫理的には最悪です」

 

即答だった。

私は小さく笑う。お前がそれを言うか。

 

「で? 私はこれから、どうすればいい」

 

その問いに、黒服は少しだけ真面目な顔をした。

――ような、気がした。

 

「簡単ですよ」

 

あっさりと言う。

 

「名を変えて、生き直す」

 

それだけ。

 

「当然ですが、過去の肩書きは使えません。関係も、責任も、影響力もない。貴女が築いたものには、もう触れられない」

 

 

黒服は淡々と続ける。

 

「貴女はもう観測対象ではない。ただの力のない無力な生徒だ」

 

それは、宣告だった。

同時に、解放でもある。

 

「選択は自由。学ぶもよし、何もせずに過ごすもよし。誰かに縋ってもいいし、誰にも縋らなくてもいい」

 

 

「……ずっと解せなかった。利益を追求するお前にしては、親切過ぎると思わない?」

 

自分でも意外なほど、素直な問いだった。

 

黒服は、少しだけ首を傾げる。人を値踏みするときの仕草だ。

 

「“親切”ですか」

 

燃えるような黒い炎が、静かに揺れる。

 

「その言い方は、あまり正確ではありませんねぇ」

 

私は黙って続きを促す。

 

「これは単なる清算です」

 

黒服は淡々と言った。

 

「これらは全ては貴女の姉、彼女との取引によるものですよ」

 

胸の奥で、何かが音を立てて落ちた。

予感はあった。だからこそ、聞きたくなかった。

 

「……姉さんが」

 

「ええ」

 

躊躇も、言い淀みもない。きっと事実なんだろう。こいつは嘘だけは吐かないから。

 

「彼女は、非常に素晴らしい方でした」

 

その評価が、妙に腹立たしい。

 

「自分が迎える結末を理解した上で、その先を交渉材料にした」

 

黒服は壁から背を離し、私の正面に立つ。

 

「彼女は言いました。――私の命は、もう十分に使い切ったから」

 

 喉の奥が、ひりつく。

 

「――だから、次は妹に回してほしい」

 

言葉が、遅れて理解に追いつく。意味が、頭の中で形になるまでに、少し時間がかかった。

 

 

「……それで、どうして子供の身体なのさ」

 

「最も長く、最も可能性を残せる形です。しかし忘れないでいただきたい。私は貴女の病を治した訳ではありません」

 

「だろうね」

 

私は視線を落とす。小さな手。姉が最後に見たであろう、私の姿よりも、ずっと幼い。

 

「姉さんは……私が、こうなることを知っていたのか」

 

黒服は、ほんの一瞬だけ黙った。

 

「いいえ」

 

珍しく、歯切れが悪い。

 

「ですが――貴女に終わらない未来がある事は確信していました」

 

胸の奥が、鈍く痛む。

 

「取引条件は以上です」

 

黒服は、事務的に告げる。

私は、思わず笑ってしまった。

 

「……勝手だな」

 

「そうですね」

 

黒服は否定しない。

 

私は、何も言えなかった。

怒りも、感謝も、後悔も、全てが同時に胸の中で絡まって上手く言葉にならない。

 

私は目を閉じる。

深く、息を吸って、吐く。

次に見た黒服は、どこか楽しげだった。

 

「……分かった。だったら無駄にはしないよ」

 

「そうしていただけると私も苦労した甲斐があったというものです」

 

黒服は、満足そうに炎を揺らした。

 

「姉さんは本当に、最後まで……身勝手な人だなぁ」

 

 

そう言ってから、少し考える。

 

「そういえば、名前は? お前の事だから。肩書きも、これからの全部も整えたんだろう?」

 

 

黒服は笑った。今度は、はっきりと。

 

「そのうち、誰かが呼ぶでしょう」

 

「いい加減だね。なに? 名前が決まったらお前にでも言えばいい訳?」

 

「えぇ、私の連絡先はお渡ししたでしょう?」

 

「……私は端末なんて持ってないぞ」

 

「お渡しした荷物の中に入っていたでしょう?」

 

「はいはい……分かったよ」

 

あんまり持ちたくないんだけどな……まぁ、仕方ないか。

 

私は、白い部屋の出口を見る。この先にあるのは、私の知らない人生だ。

 

「名は、与えられるものです。貴女が自分で決めるものではない」

 

「へぇ、ずいぶん都合がいいね」

 

黒服は否定しない。

私は一歩、踏み出す。

 

「……じゃあ、行くよ」

 

「えぇ」

 

そう言って黒服は道を譲る。

 

「どうか、今度は」

 

一拍。

 

「誰にも迷惑をかけない、なんて考えずに」

 

私は振り返らない。

 

また、少しだけ時間が余ってしまった。

今度は、それを無駄になんてしない。

 

その言葉が、忠告なのか皮肉なのかを、確かめるつもりはなかった。私は子供の身体で、それでも確かな足取りで別人の人生へと歩き出す。

 

 

私は知らなかった。

彼女たちの私に対する感情を見誤っていたんだ。役割に還元できないものを、重要度の低い変数として処理してしまった。

 

いずれ手放すものだと決めつけていたから、振り返らなかったのに。それがまさか、あんな結末を生むとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初に変だと思ったのは、その場の空気だった。

 

ティーパーティーの席はいつも、多少なりとも緊張感がある。でも今日は、そういうのとは違う。重いとか、怖いとか、そういう言葉とも違って――ぽっかり穴が開いてる、そんな感じ。

 

ナギちゃんが、先に口を開いた。

 

「梔子ウツツさんが、行方不明になりました」

 

淡々とした声で、いつも通りの言い方。なのにどこか変だった。

 

「直ぐに部屋を調べました。本人の私物は愚か、個人を特定できるものは何一つ残されていませんでした」

 

私は、思わず眉をひそめた。

 

「え? それって……」

 

「代わりに退学届だけが、机の上に置かれていました」

 

ナギサは、視線を落としたまま続ける。

 

「部屋には何の痕跡もありませんでした。本も、衣類も、記録も……彼女がそこに住んでいたという裏付けが、何一つ……」

 

私は、ぞわっとした。

 

「……それ、さ」

 

言葉を選ぼうとして、やめた。

 

「それって、最初から誰も居なかったみたい」

 

私の言葉にナギちゃんの肩が、僅かに震えた。泣くわけでも怒るわけでもない。ただ崩れていかないようにしている人の顔。

 

「そうですね」

 

必死に絞り出すみたいな声。私は、何も言えなくなっちゃった。さっと横を見ると、セイアちゃんが、黙って座っていた。

 

いつもなら、何か言う。回りくどくて、難しくて、正直よく分からないけど、それでも“言葉”にはするのに、でも、今回は違う。視線を伏せて、指を組んだまま、ただ、黙っている。

 

――ああ。

嫌な予感が、胸の奥で形になる。

 

先輩は、どんな顔で退学届を書いたんだろう。

どんな気持ちで、何も残さず去ったのか。

 

私は、唇を噛んだ。

 

「先輩って、そんな人だったっけ」

 

沈黙が、重なる。

私は、その沈黙が、やけに腹立たしかった。だって、先輩は、何も言わずに消えるような人じゃ、なかったでしょ。

 

少なくとも、私の前では。

胸の奥が、ぎゅっと締まる。

 

「……勝手だよ」

 

小さく、こぼす。

 

「ほんと、勝手」

 

ナギちゃんが、ゆっくりと顔を上げた。

目が赤い。でも、涙は落ちていない。

 

「……ミカさん」

 

名前を呼ばれただけで、胸が痛くなった。

 

「……残された方の気持ち、全然、考えてないじゃん」

 

セイアちゃんが、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

それを、私は見逃さなかった。

 

やっぱりだ。

セイアちゃんは、知ってる。

知ってて、それでも黙ってる。

 

私は、立ち上がる。

 

「……探すから」

 

二人が、こちらを見る。

 

「居なくなったって決めつけるの、私やだよ」

 

声が、強くなる。

 

「だってさ、あんな人が、何も言わずに何処かへ消えるなんて絶対におかしいもん!」

 

ナギちゃんはもう何も言わなかった。

止めもしなかった。それが少し悲しい。

 

セイアちゃんは、相変わらず黙ったままだ。

 

その沈黙が肯定なのか、諦めなのか、私には分からない。

でも、一つだけ分かる。

 

この部屋には、決定的に何かが欠けている。欠けた穴の形を、私たちは全員、覚えてしまっている。だから簡単には、忘れられない。

 

だって、先輩が言ったんだから。

何もかもが終わったら、全て私の望み通りにしてくれるって。

 

だから、逃がさないよ。

 

 

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